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想学談林-管理者の部屋

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カテゴリー「宮田教授@日本宗教学会」の記事一覧

【20161212】久遠実成と久遠元初について

こんにちは(´・ω・`)

今日は月曜日、また一週間が始まります。
まもなく今年も終わりますので、いよいよ本年のラストスパートを迎える中、大事な一週間なんですが、やはり週明けというのは中々憂鬱なものです。

さてそんな中、創価学会の組織内ではあまり話題に上りませんが、昨年に創価大学の宮田教授が日本宗教学会で「学問的研究と教団の教義ー創価学会の場合」として講演を行い、そこで以下の話をした事について、このブログでも過去に取り上げさせてもらいました。

「どこにも日蓮本仏論は無いですね。日本の創価学会のホームページには日蓮本仏論がありますけど。SGIにはありません。」
「えー日蓮本仏論どうするの、というのもあります。それについても、準備してます。」

つまり戒壇の大本尊に対する見解を変え、出世の本懐の考え方も創価学会として変えましたが、未だ創価学会では会則の冒頭で「釈尊に始まる仏教は、大乗仏教の真髄である法華経において、一切衆生を救う教えとして示された。末法の御本仏日蓮大聖人は、法華経の肝心であり、根本の法である南無妙法蓮華経を三大秘法として具現し、未来永遠にわたる人類救済の法を確立するとともに、世界広宣流布を御遺命された。」と明記しています。
しかしこの先、どこかのタイミングでこの「御本仏」という事についても、変更する事を検討している様です。

これがとても悩ましい処で、創価学会として未だ明言していない事から、現創価学会のアンチの中でも、この講演内容から『「釈迦本仏論」を称える宮田教授』と揶揄される状態を生み出しています。

しかし、そもそも「日蓮本仏論」とは如何なる事なのか、今回の記事で少し振り返りをしてみたいと思います。

この「日蓮大聖人は久遠元初の自受用報身如来」という観点ですが、これは日蓮正宗の教義から引き継がれている思想で、その根拠は「三世諸仏総勘文抄廃立」の以下の御文からきています。

「釈迦如来五百塵点劫の当初凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」

ここにある「五百塵点劫の当初」の解釈を「この「五百塵点劫の当初」こそ久遠元初のことで、このときの「釈迦如来」とは凡夫時に即座開悟された法即人の本仏たる自受用報身如来であり、」(日蓮正宗入門)と日蓮正宗の教学では解釈をしていて、そこの延長線で、この御書に述べられている「釈迦如来」とは久遠元初の本仏である日蓮だと解釈をしています。

しかしそもそもですが「当初」という言葉で御書を検索すると、9件該当するところがありました。その検索箇所で代表的な処を以下に紹介してみます。

「昔三千塵点劫の当初大通智勝仏と申す仏います其の仏の凡夫にていましける時十六人の王子をはします、」
(唱法華題目抄)
「三千塵点の当初に悪縁の酒を呑みて五道六道に酔い廻りて今謗法の家に臥したり」
(御義口伝)
「寿量品に云く「然我実成仏已来無量無辺」等云云、大覚世尊久遠実成の当初証得の一念三千なり」
(三大秘法禀承事)

御書のこれらの御文、いずれも時間軸を捉え、その長遠の時間の始まり時期を「当初」という言葉で使っている事が解ります。

そこから読み取るのであれば、先の「総勘文抄」の「釈迦如来五百塵点劫の当初」という言葉は、久遠実成の初めの時の事を指し、そこで言う釈迦如来とは五百塵点劫という大昔に自身の仏を開いた時点の釈迦如来の事であると読み解く事が妥当ではありませんか?

そこをどの様にななめ読みしたら、「五百塵点劫よりはるか以前=久遠元初」という言葉の解釈が為され、ここでいう「釈迦如来」が「日蓮」を読み取る事が出来るのか、僕にはまったく理解できません。

さてここで言葉の綾を云々する以前に、そもそも釈迦の述べた「五百塵点劫」という時間の表現に、どの様な意味合いが込められているのでしょうか?

まずここで「五百塵点劫」という時間の考え方について以下に紐解いてみます。

「然善男子。我実成仏已来。無量無辺。百千万億。那由他劫。譬如五百千万億那由他。阿僧祇。三千大千世界。仮使有人。抹為微塵。過於東方。五百千万億。那由他阿僧祇国。乃下一塵。如是東行。尽是微塵。諸善男子。意於云何。是諸世界。可得思惟校計。知其数不。」
(妙法蓮華経如来寿量品第十六)

ここで釈迦は「私が成仏してから無量無辺百千万億那由他劫も経っているのだ」と宣言しました。そしてその時間の長さはどの位であるのか、比喩を用いてさらに述べました。

「例えば五百×1千×1万×1億×1那由他×1阿僧祇の数の三千大千世界(銀河系ともいわれている)を、例えば人がすりつぶして小さな塵として、その塵を持って東に歩き五百×1千×1万×1億×1那由他×1阿僧祇の数の国(星と言っても良いでしょう)を過ぎて、一粒ずつ落として行くとする。そしてその塵を落とし尽くした時を人々は思惟する事ができるであろうか?」

と述べています。そして釈迦はこの時間についてさらに説明を続けます。

是諸世界。若著微塵。及不著者。尽以為塵。一塵一劫。我成仏已来。復過於此。百千万億。那由他。阿僧祇劫。

「この諸々の世界(塵を落とす尽くした世界)で、塵を落とした国も落とさなかった国も、全て潰して微塵として、一つぶの塵を一劫(諸々の説がありますが、一説には2垓7939京3075兆2000億年と言われている説もあります)として数え、五百塵点劫の長さはそれよりもさらに百×1千×1万×1億×1那由他×1阿僧祇×1劫年なのである」

どうでしょうか・・・これって理解できますか?
実は時間軸という概念を破壊しつくしたものが、実は「五百塵点劫」という説話なのです。

つまり法華経において、既に「一切の声聞・辟支仏、無漏智を以ても思惟して其の限数を知ること能わじ」(同如来寿量品)と言われている様に、世界中の学者がどの様な智慧を持ってしても、推し量る事の出来ない無限ともいえる時間を、「五百塵点劫」と言い、その無限の大昔に釈迦は開悟したというのが「久遠実成」の話なのです。

ここで釈迦は何を言いたかったのでしょう。

僕が思うに、釈迦の教説では長い時間をかけて修行をした結果として「成仏」を常に解き明かしてきました。多くの仏教説話では、どの様な話においても、常に凡夫や菩薩など、仏とは違う時間の間に修行をした事が説かれ、その先に常に「仏」という存在を置いていたのです。

しかしこの法華経において説き示された「五百塵点劫」という概念は、そういった時間の経過という概念を破壊するのに十分な譬えではないでしょうか?

ここから読み取れる事、それは「元来」という言葉が一番理解しやすいものであり、つまるところ「久遠実成」とは「私は元来、仏であった」という宣言だという事でしょう。

しかしこれのみの説明では、人々の中に「嗚呼、、それでは私達はこれからも仏には絶対になれない」という絶望感しか芽生えなくなってしまいます。だから同じ如来寿量品の中で続けて。

「諸所言説。皆実不虚」

と述べ、過去に釈迦が修行をしてきた事は、すべて真実であると宣言しました。これにより釈迦が様々な仏教説話で紹介した苦悩をし、法を求めひたすら修行してきた姿が全てが「成仏した後」の姿だという事になります。

だから法華経の会座で未来の成仏の約束をされた人たちは、全てが「元来」から仏であったという事にもなるのです。

「諸善男子。我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数。」

そして釈迦は、成仏してから本行(本来の修行)として菩薩行をしてきた事を宣言し、これからも人々に対して法を説き、菩薩行に取り組む事を明かすのです。

どうでしょうか?

「久遠実成」とは、単なる時間軸として長遠の事を述べるという意味ではなく、「元来」という事を指し示す言葉だと僕は理解していますが、皆さんはそう思いませんか?

そうであれば、それに対して「より日蓮の方が根源的な仏なのだ」というような「久遠元初」という思想は、本来あるべき「久遠」という言葉の意味とは全然違うものになってきます。

であるならば、久遠の本仏が「釈迦如来」であっても、仏法の法義上、全然問題ないと思うのですが違いますかね?

僕は創価大学の宮田教授が「日蓮本仏論どうするの」という事を述べ、創価学会が真剣にその事を考えるのであれば、それは大いに賛同する処なのですが、そこに宗教的な権威とか、信徒を従属させるという思惑が微塵でも介在して構築されるのであれば、それは用いるものでは無いと考えています。

さてさて創価学会は、こういった教学的な課題についてどの様に向き合うのか、大いに見ものであると考えていますので、これからも注視していきたいと思います。

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【20160106】日本宗教学会の宮田教授の発言について⑯(結び)

こんにちは(´・ω・`)

さて、宮田教授の日本宗教学会での発言について、幾つかの回数を重ねて読み直してみました。
この内容、Youtubeにアップロードされている音声を文字化して、それをもとに見直してみました。

この音声内容を聞くにつけ、いまだ完全に固まっていない内容を発表しているという風に僕は聞き取れましたが、皆さんはどの様に思われたのでしょうか?



この内容について、宮田教授は自身のHPに再掲をしている事は、以前の記事でも紹介していますが、ここでもう一度紹介しておきます。

学問的研究と教団の教義―創価学会の場合

まあこういった議論というのは、これからも起きるであろうし、創価学会の教義自体、今後どの様な変化をしていくのか、僕にも予測は着きません。

以前に僕は安房小湊(千葉県の小湊)にある誕生寺や、幼少の時期の日蓮と道善房が出会ったという西蓮寺や清澄寺を尋ねました。また領家の尼が関係していた東条御厨も訪れ、身延山の草案跡も見てきました。


<安房小湊 西連寺>

<東条御厨>

いずれの地を実際に自分の足で歩き、感じた事ですが、やはり七百年という時間の経過は如何ともしがたいという実感でした。安房小湊の西連寺から少し歩くと、遠くに太平洋が見えますが、その風景を見てつくづく事を実感しました。

日蓮とは鎌倉時代に生まれ活躍した僧であり、その行動や思想というのは多くの人を魅了してきました。だからこそ、その人物を尊敬するあまり、数多の伝説も作りだされ、その日蓮の数多の著述の中にも、「後世の偽書」と言われる書簡も多数紛れ込んでしまったのでしょう。

この七百年以上という時間の経過の中で、こういった事が繰り返され、今では日蓮の実像というのは見えなくなりかけています。

考えてみれば仏教始祖の釈迦という人物についても同様な事が云えます。
こちらの方は二千年以上経過しているので、その実像はいまや遥か時間の彼方へと消え去り、幾重ものプリズムを介してしか伺い知る事が出来ません。

しかしこの先哲たちの思想は、様々な弟子たちが丁々発止の議論の中で、様々な体系化が為され、今の仏教哲学という一大思想体系が築き上げられました。仏教全般もそうですし、日蓮仏法と呼ばれる思想哲学についても同様です。

よく創価学会が宗門や顕正会などと対論の際に「文証を示せ!」という言葉を言いますが、こういった時代背景を知ると、その「文証を示せ」といいながら、自宗派自教団の正統性を誇示するだけの議論に果たしてどれだけの意義があるのでしょうか。

今の世界、人類は未曾有の危機に直面しています。
そしてその危機の根源は、人類の持つ「宗教心」によるものが大きいのではないでしょうか。

そうであれば、新たな思想という事も必要になると思いますし、創価学会として「本音」は脇に置いておいて、「世界宗教」というものを目指したのは、その指導的な思想として「日蓮仏法」を置こうと考えていたのは紛れもない事実です。

そうであれば、今回の教義改正というのは、創価学会の会内において、教義的な議論を巻き起こす絶好の機会であるはずです。

「論争の為の議論」「自身の正統性を誇示する為の議論」
そういったものではなく、日蓮の説き示した仏法というものを、より昇華させ新たな展開をするための議論というのを、このあたりで起こしてみても良いのではないでしょうか?

考えてみれば仏教の中で、いまある哲学体系を構築する過程において、多くの先哲達はそういった行動を取ってきたわけです。そしてその結果、世界三大宗教の一角を為す仏教という宗教も確立されたのだと思います。

本当に日蓮の「志」、そしてその教法というのが、日蓮自身が述べた様に「万年の外未来までも流るべし」というものであれば、そういった議論にも耐えうるものを持ち合わせているはずです。

そういった議論が今後、どの様に始まるのか、始まらないのか。
この宮田教授が日本宗教学会で発表したものは、一つの試金石にならないものかと、僕自身は勝手に考えていたりします。

皆さんはどう考えますか?

【20160105】本仏論という事の考察

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

先の記事で創価大学の宮田教授が日蓮本仏論について視点を変えた内容を発表した事について紹介しました。



僕自身、この日蓮本仏論を初めて目にしたのは未来部の時で、僕の中でも仏教といえば「お釈迦様」であり、仏とはお釈迦様しかないと考えていた処、それよりも根源の仏が日蓮だという本仏論は、当時の僕にとっても大変な驚きを与えました。

しかし青年部になり、御書や様々な教学を学ぶなかで、実は仏と言っても「色相荘厳な仏」とは「仮の姿」であり、法華経の如来寿量品で説き現されている「久遠実成の釈尊」という本仏観に驚き、また戸田会長が述べたと言われる「無量義経の三十四の否定」から導き出された「仏とは生命なり」という話から、この日蓮本仏論と言っても、なにか超絶した存在としての日蓮を定義した訳ではなく、あくまでも根底には「人間・日蓮」という事があっての本仏論だと理解しています。

だから宮田教授が言葉を悩みながら語った本仏論というのは、僕自身、共感できる内容でもあります。

そもそも「仏」とか「如来」とは何なのか?

この宮田教授の発言からネット上で様々な意見が飛び交いましたが、それらの議論のなかでは、この本来考えなければならない根本の義論というのが見えませんよね。

思うに宗教的な権威として語られる「本仏論」は一切不要なのではありませんか?

僕は大聖人を「日蓮」と呼んでいます。
これは何も侮蔑するとか、軽く扱っているという訳ではなく、鎌倉時代にいた大先達として尊敬を以て呼んでいます。

会社などでも上司や社長を、他社との打ち合わせの中では「○○」と名前で呼称しますよね。まさか「○○部長」とか呼びますか?
また名前のみで肩書きを付けていないからと言って、それが礼儀を失した事になるでしょうか。

これと同じ感覚です。

今ある本仏論、これは大石寺から受け継いでしまった思想ですが、これは日蓮という人間を見えなくする思考だと思っています。

以前にも幾度か紹介した逸話ですが、僕が法華講幹部と対論したときの話です。
この時はある御書をもとにした対論を行っていましたが、その時に法華講幹部は言いました。
「運ちゃんは誰の指導で御書を学んでいるのですか?」
僕は御書はそもそも大聖人が信徒に対して贈られた手紙である事を述べ、こう切り返しました。
「お手紙を読むのにだれか人を介在して講義してもらう必要がありますか?」
それに対して法華講幹部は言いました。
「御書は手継の師匠の指導の下で読まなければ我見となってしまう」
僕は反論しました。
「では四条金吾は御書にあるお手紙を頂いた際、必ず誰かの指導の下で読んだのですか?」
この言葉に法華講幹部は、まるでハトが豆鉄砲を食った様な顔をして黙り込んでしまいました。
「貴方は仏様のお心が理解できているのですか?」

師匠の手紙、まあこの場合は日蓮からの手紙を読む際に、誰かの解釈を必要とする。
こういった思考の根本には「日蓮本仏論」というのがあるのではないでしょうか?

はたして仏法の求める「仏」「本仏」とは、そういった権威的なものなのか。

「衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり」(一生成仏抄)

仏と言っても衆生と言っても、そこにあるのは「迷悟」の差でしかありません。
信心という次元から言えば、そこに差はあったとしても、人としての尊厳、立場という事に差があるという事では無いはずです。

今の時代、こういった「本仏論」について、考え直すべき時に来ていると思います。
そういう意味で、宮田教授の本仏論への再考の姿勢というのは、一定の評価を、僕はしています。ただ問題は、現在の様な「師弟不二路線」を取っている創価学会に、そのような本仏論の転換を行う事が出来るのか?

ここについては大いなる疑念を持っています。

おそらくこの「日蓮本仏論」を見直しをかけるという過程で、「永遠の指導者」という会則で定められた三代会長の立場や、それに依存した「師弟不二」という中心の教義自身も、見直しを迫られる事が起こりえます。

何故ならば、大石寺の主張する日蓮本仏論とは、日蓮という凡夫僧を釈迦をも超える「根本仏」へと定義して、その権威の下で自宗派の権威づけを狙ったという論だと考えているからです。
そしてこの思想の形はそっくりそのまま、「永遠の指導者」という概念と、その指導者に対する「師弟不二」という事に連なっていると、僕は考えているからです。

さてさて、果たして創価学会として、この「日蓮本仏論」にどの様な新解釈を与えていくのか。
そこについて、僕自身は注視していく必要があると考えています。

【20160104】日本宗教学会の宮田教授の発言について⑮

こんにちは(´・ω・`)

さて宮田教授の発言について引き続き考えてみたいと思います。
この宮田教授の発言というのは、ネット上で「日蓮本仏論から釈迦本仏論への教義変更だ」という意見がありましたが、今回はその中核の部分についての発言を取り上げます。


司会:「えーと、それでは、えー、時間が押してますので、引き続き***に移りたいと思います。えーとー発表者に対して構いませんのでご質問をお願い致します。えー挙手をお願いします。」
質問者:
「あのー宮田先生にお聞きしますけれど、最後に日蓮本仏論変わるものを、なんか用意しておりますという様な事を仰ったんですけど、もし差し支えなければ、ちょっと教えて頂きたいんですが」
宮田教授:
「いや、基本的には、ですね、まあ、要するに、えー日蓮本仏論ね日蓮正宗は、ですね、まー、その考え方は日蓮自身あったんだ、という前提で、まあ幾つかの怪しげなー、あー御書を引用して、頑張っていたわけですけれども、まあ基本的にそれはもうやめようと、ね、あー、そういうふうに大聖人自身が、日蓮本仏論を持っていた、というような立場は取らない。

ね、しかし、我々がある種の信仰のモデルというか、あーですね、えーまあ、どういう姿でもって信仰するんだ、ね、どういう事をやるのか。というですね、お手本としてですね、まーねえ、日蓮本仏論というのを作り直す事が出来るんではないかと、ね、えーそれはーまあ、ねえ、もう、これはもう大聖人自身の中にですね、凡夫の中にですね、まー本仏は内在している。ていう議論はまあはっきりとあります、ね。

それでーまあ大聖人が亡くなって後で作られたと思われる御書にはですね、えーまあ本仏論みたいな事、平気で言う御書は沢山あります。ね。僕ーっていうかね、要するに大聖人自身の考えと、それ以降発展した考え方、これはまあ、はっきりと分けた方が良いと思いますけれども、うーまあ今までの議論の仕方って大聖人以降の、御書、ね、怪しげな御書を、まあ論拠にして何か議論をすると、お前それ大聖人じゃないじゃん。ていうね、こういう議論だったわけです。

いやあ、別に大聖人じゃ無いからどこが悪いんだと、ね、何で日蓮仏法が全部大聖人の考え通りでなきゃいけないていうね、そういう立場をとらなければいけないんだと、ねえ、それ以降にいろいろその時代に併せて皆苦労してですね、あーまあいろんな教義作っていったわけです。

だから、そのーねえ、その議論の成果だって利用したって良いだろうと、まあそういう事でですね、まあこの御本仏論に関してですね、えー使っているですね、まあそういう、えー御書、まあ諸法実相抄を使ってですね、えーそっからですね、えー大聖人は、でねえ、日蓮が主師親の三徳である。という事をですね、証明した。あー末法の、おー凡夫である、しかも、自分自身も主師親の三徳を、得た。これはーまあねえ、言ってるわけですよ。

ねえ、自分が本仏だと言っているわけでは無いですよ。だけど自身の三徳は得た、言ってるわけです。ですから、要するに末法において、ですね、この御本仏論を実践してですね、えーしかも主師親の三徳を最初に、まあ体現した、人である。ね、そりゃあ我々ー凡夫が、末法の凡夫が、あーまあ手本としてですね、しっかり信仰していく。その意味で、えー日蓮大聖人はですね、末法の御本仏だ。と我々が、まあ尊称する、という事には、まあ理由があるだろうと。まあ当然の事ながら、大聖人自身は、ね、これは久遠実成の釈尊を、まー大聖人自身は本仏という用語は使ってませんけれども、まあ円仏とかね、そういう様な表現使ってますんで、そちらを根本にしていた。これはまあ認めざるを得ません。

ね、えーついでにですね、えーまー教主釈尊を本尊にすべしというね、例の一文ですけれど、どうしたら良いんでしょうねー。(会場笑い)よく僕も考えているんですよ。それで曼荼羅の中に、ねえ、南無釈迦牟尼仏て書いてあったんすよね、あれ、どういう扱いなんですかね。僕なんかはね、まあ曼荼羅の中には中央には確かに南無妙法蓮華経で、右側、人間の中では最高のポストですよねあそこ、ね、そこに南無釈迦牟尼仏と書いている。ねえだから、しかも、ねえーまあねえ、教主釈尊を本尊とすべしといって、いわゆる宝塔の云々て書いてますね。

この記述って、ねえどっかでみたなあっていうと観心の本尊抄の記述だよね。だからそういう意味で教主釈尊を本尊とすべしっていうのは、要するに曼荼羅の中にああいう形で、ねえ書いてあるそのものがあ、教主釈尊を本尊にしているんだ、という風に私は解釈していますけどね。えー、ただですね、その、要するに文字曼荼羅として大聖人はねえ、まあ作りましたけれど、じゃあそれを木像にするとか絵像にするとかね、そういう事については、まあご本人は言及していないと。うん、いやーやっぱり木像の方が寺院としては良いんじゃないの、という人がいるかもしれませんけどね、それはそれでアリだとは思うんですけどね」

これは僕の主観なのですが、宮田教授としてこの日蓮本仏論を語るには、まだ自分自身の中にも戸惑いがあったのではないでしょうか?

実に歯切れの悪い言葉でだと感じました。

日蓮正宗が述べている「日蓮本仏論」というのは、釈迦でさえも日蓮の久遠の弟子であり、その日蓮に教化された「迹仏」という扱いでした。

つまりこんな図式だと思います。

久遠実成の釈迦(本仏・本地)->三世十方の諸仏(迹仏)
久遠元初自受用身の日蓮(本仏・本地)->久遠実成の釈迦(迹仏)

つまり仏法の根源仏として日蓮が存在し、すべての仏(釈迦を含めて)はこの日蓮の所持していた「南無妙法蓮華経」により成仏する事が出来たという事です。

そしてこの考え方により、大石寺の信徒の中では仏教全般について軽んじる雰囲気が醸成されたのではないでしょうか?

「根本仏の日蓮の教えさえ知れば、ほかは何も要らない」

違いますか?

その結果、どうなったのか?

悲しいかな法華講や顕正会も含めてですが、仏教全般に「暗い」信徒を大量生産してしまい、結果として「日蓮仏法」と呼んではいますが、似非仏教まがいの教義しかしらない信徒を大量生産してしまったと思います。

これは創価学会とて同様であり、この本仏論の延長線上に「池田哲学」を置き、さも池田哲学さえ知れば、ほかは何も学ぶ必要が無いという考え方も成り立っている様に、僕は思えてなりません。

今回の宮田教授が唱えようとしている「日蓮本仏観」ですが、実はこの大石寺の述べている「本仏論」とは角度の違う視点からの本仏観を述べています。

自分が本仏だと言っているわけでは無いですよ。だけど自身の三徳は得た、言ってるわけです。ですから、要するに末法において、ですね、この御本仏論を実践してですね、えーしかも主師親の三徳を最初に、まあ体現した、人である。ね、そりゃあ我々ー凡夫が、末法の凡夫が、あーまあ手本としてですね、しっかり信仰していく。その意味で、えー日蓮大聖人はですね、末法の御本仏だ。

つまり根本仏としての「日蓮本仏論」ではなく、凡夫としての自身(日蓮)が、法華経の実践を通して三徳(主・師・親)を具備する仏となりえたという事で、信仰の手本としての「日蓮本仏論」という展開を考えているのです。

でもそうであるなら「本仏」という言葉も無くせば良いのに。

ではこの本仏論に基づいた場合、釈迦の扱いはどうなっていくのでしょう。
この事について、じつはまだ宮田教授は宗教学会において明言をしていませんね。

この本仏論については、もう少し思索を深めてみたいと思います。

【20151228】日本宗教学会の宮田教授の発言について⑭

こんにちは(´・ω・`)

先日ですが、昔からの知人家族と年末に合う機会があり、会ってきました。
この知人とは家族くるみの付き合いをしていて、もうかれこれ二十年以上のお付き合いとなっていますが、子供たちはとてもまっすぐに成長している姿は喜ばしい事でもありました。

この子供たちも創価学会では青年部の世代ですが、話す中でやはり「青年世代が少ない」という事について、彼らなりに危惧をしていました。
僕は彼らに対して「君たちの世代が、創価学会の現状を理解し、そこに潜む問題点を考えていく事が一番いまの時代では大事な事なんだ」という事を話しましたが、このブログで書いている様な際どい話はしてきませんでした。

何故ならば、気づきがあって初めて問題点というのは見えてくるものです。
「気付き」とは自分自身の経験と行動の中で起きる事であり、それがないと今の創価学会の問題というのは理解する事が極めて難しいと考えているからです。

さて、少し間が空いてしまいましたが、宮田教授の発言について記事を書いてみます。



この宮田教授の発言は「日蓮本仏論」の否定という様な形でネット上では捉えられていますが、その内容についての話となります。
ね、資料9、ですね、えーーー、SGI各国の、ホームページにおける教義紹介の差異についてというですね、私のですねホームページの論文ですけれどもね、まあそこにですね、SGIのまあ、あーどういう主張をしているのか、ね、そしてまあ日本の創価学会とどういう風に違うのか、ていうですね、そんな様な話 をー、まあーあれこれ、まあ、ですね、えー、まあ代表的には、まあ英文でえですね、Not SGI Not Homepage No Nichiren、という処にかいてありますけれど、えーまあ翻訳一番下の行ですね、えー日蓮は法華経がブ ッダの悟りの本質をふみ、法華経が人々の苦しみを変え社会の繁栄を可能にする鍵となっている事を確信した。ねえ、もうここでブッダ、釈尊、法華経、そして日蓮。どこにも日蓮本仏論は無いですね。日本の創価 学会のホームページには日蓮本仏論がありますけど。SGIにはありません。 

ここで宮田教授はSGI各国の中には「日蓮本仏論」というのは存在しないという事を述べていますが、これはとても大きな話です。
先日の記事にも書きましたが、日本の創価学会では日蓮を「末法の御本仏」という理解をしています。先日の教義改正でもこのあたりは浅く触れていますし、それに基づいて御祈念文についても微妙に変えられていますが、まだ末端組織の中では、この事についての理解は浸透していません。
現に僕の知人の活動家に対して「日蓮本仏論は撤回している」という話をした時、知人は列火の如くその言葉を否定してきました。

でもこの事については、以下の動画を見れば理解できるのではないでしょうか?



これはティナ・ターナの動画ですが、背景にあるのは釈迦仏ですね。
その前で勤行の事を披露していますが、その内容をみれは「御本仏・日蓮大聖人」とは異なる理解をしているのが解ります。

つまり世界三大宗教の仏教の一つである「日蓮」の教えとしてティナ・ターナは理解し、その仏教を信奉しているという事であり、日本の創価学会の言う「日蓮仏法」ではないと思われます。

創価学会はSGIとして世界には確かに開いています。しかしその教えというのは、日本の創価学会の教えとは異なる教えだと言っても良いでしょう。

しかしこういった世界と日本の教法の違いについて、創価学会では以下の様に教えています。

「外国は無知悪国、日本は邪知謗法の国」
「外国は接受、日本は折伏。だから内容も異なる」

要は外国は仏教には無知なので、そこは本義に違わなければそれを受け入れ、その中で仏法について誘因していく。日本は仏教は邪宗が広がっている邪知の国土だから、日蓮大聖人仏法の事をそのまま説き示し、折伏するのだと言うのです。

しかし世界に開いて今は何年でしょうか。また日本の国の中で既成仏教がどれほどの勢力だというのでしょうか?

要するに外国の人に強引に折伏すれは、世界から「カルト扱い」を受けてしまうという事もあり、そういった展開を許容していたわけで、日本国内では当初から日蓮正宗の信徒団体としての前提があったので、そういった展開をできなかったと考えるのが、実は妥当な事なのではありませんか?

そして時代も変化し、日本でも日蓮正宗の「臭み」から離れる時が来たという事もあって、今回の教義改正では「末法の御本仏」という観点をかなり緩めてきたという事でしょう。

こんな形で。えー、まあ、ですね、それでぇですね三番目、教義改正のロジックーっていう話ーですけれどもね、あそうか、その前に、まあ今回のですね、改正の事情、これはやっぱし池田先生のですね、えー健康問題。やはり、まーまあね、それはやはりみんな何時かは変えなきゃなんないと言う風に思っていたんですけどね。えー池田先生が亡くなった後に変えるのか、生きてる内に変えるのか、ていうこういう選択です。
ねえ。えーまあ生きてるうちに変えた方が、ねえ、まあ何というか、動揺は少ないんじゃないかな、という事でですね、まあ色々、ねえ、やってえ、まあ池田先生のそれなりの了解を取って、えー変えた。という事 だと私は理解しております。 

創価学会として、この日蓮正宗の「臭み」から離れる一番の前提として、やはり池田会長の「カリスマ性」に頼っているという事をここで述べています。

まあ今の創価学会は「師弟不二」という思想で二十年以上にわたり走ってきていますから、こういった教義の本質的な大転換という事を会員に飲み込ませるのも「池田先生」というフレーズが大事だと考えているという事が、この宮田教授の発言から見て取れます。

えー、それで教義改正のロジックーってのは、まー、ね。えーこれは世界広宣流布という話しですけれども、よくかんがえりゃ、まー一応仏教は三大宗教になってますけれども、一番、ねえ、マイナーです。ね、えーそれで、SGIというのはそんな中でももっともっとマイナーです。ね、えーまあそうい訳でですね、そんな時にですね、大聖人の考えを元にしてですね、えー他宗批判やったりですね、しても全然ダメだろうと、ね、それでSGIはまあそういう事をやってません。それで、えーまーSGIとですね日本の、ですね、まーダブルスタンダードがある訳ですけれども、将来的にはやっぱりこのダブルスタンダードもですね、解消しなくちゃなんないんじゃないのと、まーその場合にはハワイレポートの方向で進もうと、それからもう一つはですね、この日蓮正宗あるいは日寛教学をですね、えー日蓮自身の御書に、無い、というですね、そういう学問的研究、を使用したと、ね、えーまー先ほど 花田先生(?) が言いましたけれどもですね、えー創価学会は少しは***、まーねー、うん、それについてはですね、いろいろ準備しています。(チーンチーン)ついでにですね、えー日蓮本仏論どうするの、というのもあります。それについても、準備してます。 という事です。がんばります。(会場笑い、拍手) 

末端組織の会員の理解がいまだ進まない中、創価学会としては大きな教義転換を、こうった「教義改正のロジック~♪」で進めている事を、まずは理解すべきでしょう。

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