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想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   

【20160104】日本宗教学会の宮田教授の発言について⑮

こんにちは(´・ω・`)

さて宮田教授の発言について引き続き考えてみたいと思います。
この宮田教授の発言というのは、ネット上で「日蓮本仏論から釈迦本仏論への教義変更だ」という意見がありましたが、今回はその中核の部分についての発言を取り上げます。


司会:「えーと、それでは、えー、時間が押してますので、引き続き***に移りたいと思います。えーとー発表者に対して構いませんのでご質問をお願い致します。えー挙手をお願いします。」
質問者:
「あのー宮田先生にお聞きしますけれど、最後に日蓮本仏論変わるものを、なんか用意しておりますという様な事を仰ったんですけど、もし差し支えなければ、ちょっと教えて頂きたいんですが」
宮田教授:
「いや、基本的には、ですね、まあ、要するに、えー日蓮本仏論ね日蓮正宗は、ですね、まー、その考え方は日蓮自身あったんだ、という前提で、まあ幾つかの怪しげなー、あー御書を引用して、頑張っていたわけですけれども、まあ基本的にそれはもうやめようと、ね、あー、そういうふうに大聖人自身が、日蓮本仏論を持っていた、というような立場は取らない。

ね、しかし、我々がある種の信仰のモデルというか、あーですね、えーまあ、どういう姿でもって信仰するんだ、ね、どういう事をやるのか。というですね、お手本としてですね、まーねえ、日蓮本仏論というのを作り直す事が出来るんではないかと、ね、えーそれはーまあ、ねえ、もう、これはもう大聖人自身の中にですね、凡夫の中にですね、まー本仏は内在している。ていう議論はまあはっきりとあります、ね。

それでーまあ大聖人が亡くなって後で作られたと思われる御書にはですね、えーまあ本仏論みたいな事、平気で言う御書は沢山あります。ね。僕ーっていうかね、要するに大聖人自身の考えと、それ以降発展した考え方、これはまあ、はっきりと分けた方が良いと思いますけれども、うーまあ今までの議論の仕方って大聖人以降の、御書、ね、怪しげな御書を、まあ論拠にして何か議論をすると、お前それ大聖人じゃないじゃん。ていうね、こういう議論だったわけです。

いやあ、別に大聖人じゃ無いからどこが悪いんだと、ね、何で日蓮仏法が全部大聖人の考え通りでなきゃいけないていうね、そういう立場をとらなければいけないんだと、ねえ、それ以降にいろいろその時代に併せて皆苦労してですね、あーまあいろんな教義作っていったわけです。

だから、そのーねえ、その議論の成果だって利用したって良いだろうと、まあそういう事でですね、まあこの御本仏論に関してですね、えー使っているですね、まあそういう、えー御書、まあ諸法実相抄を使ってですね、えーそっからですね、えー大聖人は、でねえ、日蓮が主師親の三徳である。という事をですね、証明した。あー末法の、おー凡夫である、しかも、自分自身も主師親の三徳を、得た。これはーまあねえ、言ってるわけですよ。

ねえ、自分が本仏だと言っているわけでは無いですよ。だけど自身の三徳は得た、言ってるわけです。ですから、要するに末法において、ですね、この御本仏論を実践してですね、えーしかも主師親の三徳を最初に、まあ体現した、人である。ね、そりゃあ我々ー凡夫が、末法の凡夫が、あーまあ手本としてですね、しっかり信仰していく。その意味で、えー日蓮大聖人はですね、末法の御本仏だ。と我々が、まあ尊称する、という事には、まあ理由があるだろうと。まあ当然の事ながら、大聖人自身は、ね、これは久遠実成の釈尊を、まー大聖人自身は本仏という用語は使ってませんけれども、まあ円仏とかね、そういう様な表現使ってますんで、そちらを根本にしていた。これはまあ認めざるを得ません。

ね、えーついでにですね、えーまー教主釈尊を本尊にすべしというね、例の一文ですけれど、どうしたら良いんでしょうねー。(会場笑い)よく僕も考えているんですよ。それで曼荼羅の中に、ねえ、南無釈迦牟尼仏て書いてあったんすよね、あれ、どういう扱いなんですかね。僕なんかはね、まあ曼荼羅の中には中央には確かに南無妙法蓮華経で、右側、人間の中では最高のポストですよねあそこ、ね、そこに南無釈迦牟尼仏と書いている。ねえだから、しかも、ねえーまあねえ、教主釈尊を本尊とすべしといって、いわゆる宝塔の云々て書いてますね。

この記述って、ねえどっかでみたなあっていうと観心の本尊抄の記述だよね。だからそういう意味で教主釈尊を本尊とすべしっていうのは、要するに曼荼羅の中にああいう形で、ねえ書いてあるそのものがあ、教主釈尊を本尊にしているんだ、という風に私は解釈していますけどね。えー、ただですね、その、要するに文字曼荼羅として大聖人はねえ、まあ作りましたけれど、じゃあそれを木像にするとか絵像にするとかね、そういう事については、まあご本人は言及していないと。うん、いやーやっぱり木像の方が寺院としては良いんじゃないの、という人がいるかもしれませんけどね、それはそれでアリだとは思うんですけどね」

これは僕の主観なのですが、宮田教授としてこの日蓮本仏論を語るには、まだ自分自身の中にも戸惑いがあったのではないでしょうか?

実に歯切れの悪い言葉でだと感じました。

日蓮正宗が述べている「日蓮本仏論」というのは、釈迦でさえも日蓮の久遠の弟子であり、その日蓮に教化された「迹仏」という扱いでした。

つまりこんな図式だと思います。

久遠実成の釈迦(本仏・本地)->三世十方の諸仏(迹仏)
久遠元初自受用身の日蓮(本仏・本地)->久遠実成の釈迦(迹仏)

つまり仏法の根源仏として日蓮が存在し、すべての仏(釈迦を含めて)はこの日蓮の所持していた「南無妙法蓮華経」により成仏する事が出来たという事です。

そしてこの考え方により、大石寺の信徒の中では仏教全般について軽んじる雰囲気が醸成されたのではないでしょうか?

「根本仏の日蓮の教えさえ知れば、ほかは何も要らない」

違いますか?

その結果、どうなったのか?

悲しいかな法華講や顕正会も含めてですが、仏教全般に「暗い」信徒を大量生産してしまい、結果として「日蓮仏法」と呼んではいますが、似非仏教まがいの教義しかしらない信徒を大量生産してしまったと思います。

これは創価学会とて同様であり、この本仏論の延長線上に「池田哲学」を置き、さも池田哲学さえ知れば、ほかは何も学ぶ必要が無いという考え方も成り立っている様に、僕は思えてなりません。

今回の宮田教授が唱えようとしている「日蓮本仏観」ですが、実はこの大石寺の述べている「本仏論」とは角度の違う視点からの本仏観を述べています。

自分が本仏だと言っているわけでは無いですよ。だけど自身の三徳は得た、言ってるわけです。ですから、要するに末法において、ですね、この御本仏論を実践してですね、えーしかも主師親の三徳を最初に、まあ体現した、人である。ね、そりゃあ我々ー凡夫が、末法の凡夫が、あーまあ手本としてですね、しっかり信仰していく。その意味で、えー日蓮大聖人はですね、末法の御本仏だ。

つまり根本仏としての「日蓮本仏論」ではなく、凡夫としての自身(日蓮)が、法華経の実践を通して三徳(主・師・親)を具備する仏となりえたという事で、信仰の手本としての「日蓮本仏論」という展開を考えているのです。

でもそうであるなら「本仏」という言葉も無くせば良いのに。

ではこの本仏論に基づいた場合、釈迦の扱いはどうなっていくのでしょう。
この事について、じつはまだ宮田教授は宗教学会において明言をしていませんね。

この本仏論については、もう少し思索を深めてみたいと思います。
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