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想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   

【20161212】久遠実成と久遠元初について

こんにちは(´・ω・`)

今日は月曜日、また一週間が始まります。
まもなく今年も終わりますので、いよいよ本年のラストスパートを迎える中、大事な一週間なんですが、やはり週明けというのは中々憂鬱なものです。

さてそんな中、創価学会の組織内ではあまり話題に上りませんが、昨年に創価大学の宮田教授が日本宗教学会で「学問的研究と教団の教義ー創価学会の場合」として講演を行い、そこで以下の話をした事について、このブログでも過去に取り上げさせてもらいました。

「どこにも日蓮本仏論は無いですね。日本の創価学会のホームページには日蓮本仏論がありますけど。SGIにはありません。」
「えー日蓮本仏論どうするの、というのもあります。それについても、準備してます。」

つまり戒壇の大本尊に対する見解を変え、出世の本懐の考え方も創価学会として変えましたが、未だ創価学会では会則の冒頭で「釈尊に始まる仏教は、大乗仏教の真髄である法華経において、一切衆生を救う教えとして示された。末法の御本仏日蓮大聖人は、法華経の肝心であり、根本の法である南無妙法蓮華経を三大秘法として具現し、未来永遠にわたる人類救済の法を確立するとともに、世界広宣流布を御遺命された。」と明記しています。
しかしこの先、どこかのタイミングでこの「御本仏」という事についても、変更する事を検討している様です。

これがとても悩ましい処で、創価学会として未だ明言していない事から、現創価学会のアンチの中でも、この講演内容から『「釈迦本仏論」を称える宮田教授』と揶揄される状態を生み出しています。

しかし、そもそも「日蓮本仏論」とは如何なる事なのか、今回の記事で少し振り返りをしてみたいと思います。

この「日蓮大聖人は久遠元初の自受用報身如来」という観点ですが、これは日蓮正宗の教義から引き継がれている思想で、その根拠は「三世諸仏総勘文抄廃立」の以下の御文からきています。

「釈迦如来五百塵点劫の当初凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」

ここにある「五百塵点劫の当初」の解釈を「この「五百塵点劫の当初」こそ久遠元初のことで、このときの「釈迦如来」とは凡夫時に即座開悟された法即人の本仏たる自受用報身如来であり、」(日蓮正宗入門)と日蓮正宗の教学では解釈をしていて、そこの延長線で、この御書に述べられている「釈迦如来」とは久遠元初の本仏である日蓮だと解釈をしています。

しかしそもそもですが「当初」という言葉で御書を検索すると、9件該当するところがありました。その検索箇所で代表的な処を以下に紹介してみます。

「昔三千塵点劫の当初大通智勝仏と申す仏います其の仏の凡夫にていましける時十六人の王子をはします、」
(唱法華題目抄)
「三千塵点の当初に悪縁の酒を呑みて五道六道に酔い廻りて今謗法の家に臥したり」
(御義口伝)
「寿量品に云く「然我実成仏已来無量無辺」等云云、大覚世尊久遠実成の当初証得の一念三千なり」
(三大秘法禀承事)

御書のこれらの御文、いずれも時間軸を捉え、その長遠の時間の始まり時期を「当初」という言葉で使っている事が解ります。

そこから読み取るのであれば、先の「総勘文抄」の「釈迦如来五百塵点劫の当初」という言葉は、久遠実成の初めの時の事を指し、そこで言う釈迦如来とは五百塵点劫という大昔に自身の仏を開いた時点の釈迦如来の事であると読み解く事が妥当ではありませんか?

そこをどの様にななめ読みしたら、「五百塵点劫よりはるか以前=久遠元初」という言葉の解釈が為され、ここでいう「釈迦如来」が「日蓮」を読み取る事が出来るのか、僕にはまったく理解できません。

さてここで言葉の綾を云々する以前に、そもそも釈迦の述べた「五百塵点劫」という時間の表現に、どの様な意味合いが込められているのでしょうか?

まずここで「五百塵点劫」という時間の考え方について以下に紐解いてみます。

「然善男子。我実成仏已来。無量無辺。百千万億。那由他劫。譬如五百千万億那由他。阿僧祇。三千大千世界。仮使有人。抹為微塵。過於東方。五百千万億。那由他阿僧祇国。乃下一塵。如是東行。尽是微塵。諸善男子。意於云何。是諸世界。可得思惟校計。知其数不。」
(妙法蓮華経如来寿量品第十六)

ここで釈迦は「私が成仏してから無量無辺百千万億那由他劫も経っているのだ」と宣言しました。そしてその時間の長さはどの位であるのか、比喩を用いてさらに述べました。

「例えば五百×1千×1万×1億×1那由他×1阿僧祇の数の三千大千世界(銀河系ともいわれている)を、例えば人がすりつぶして小さな塵として、その塵を持って東に歩き五百×1千×1万×1億×1那由他×1阿僧祇の数の国(星と言っても良いでしょう)を過ぎて、一粒ずつ落として行くとする。そしてその塵を落とし尽くした時を人々は思惟する事ができるであろうか?」

と述べています。そして釈迦はこの時間についてさらに説明を続けます。

是諸世界。若著微塵。及不著者。尽以為塵。一塵一劫。我成仏已来。復過於此。百千万億。那由他。阿僧祇劫。

「この諸々の世界(塵を落とす尽くした世界)で、塵を落とした国も落とさなかった国も、全て潰して微塵として、一つぶの塵を一劫(諸々の説がありますが、一説には2垓7939京3075兆2000億年と言われている説もあります)として数え、五百塵点劫の長さはそれよりもさらに百×1千×1万×1億×1那由他×1阿僧祇×1劫年なのである」

どうでしょうか・・・これって理解できますか?
実は時間軸という概念を破壊しつくしたものが、実は「五百塵点劫」という説話なのです。

つまり法華経において、既に「一切の声聞・辟支仏、無漏智を以ても思惟して其の限数を知ること能わじ」(同如来寿量品)と言われている様に、世界中の学者がどの様な智慧を持ってしても、推し量る事の出来ない無限ともいえる時間を、「五百塵点劫」と言い、その無限の大昔に釈迦は開悟したというのが「久遠実成」の話なのです。

ここで釈迦は何を言いたかったのでしょう。

僕が思うに、釈迦の教説では長い時間をかけて修行をした結果として「成仏」を常に解き明かしてきました。多くの仏教説話では、どの様な話においても、常に凡夫や菩薩など、仏とは違う時間の間に修行をした事が説かれ、その先に常に「仏」という存在を置いていたのです。

しかしこの法華経において説き示された「五百塵点劫」という概念は、そういった時間の経過という概念を破壊するのに十分な譬えではないでしょうか?

ここから読み取れる事、それは「元来」という言葉が一番理解しやすいものであり、つまるところ「久遠実成」とは「私は元来、仏であった」という宣言だという事でしょう。

しかしこれのみの説明では、人々の中に「嗚呼、、それでは私達はこれからも仏には絶対になれない」という絶望感しか芽生えなくなってしまいます。だから同じ如来寿量品の中で続けて。

「諸所言説。皆実不虚」

と述べ、過去に釈迦が修行をしてきた事は、すべて真実であると宣言しました。これにより釈迦が様々な仏教説話で紹介した苦悩をし、法を求めひたすら修行してきた姿が全てが「成仏した後」の姿だという事になります。

だから法華経の会座で未来の成仏の約束をされた人たちは、全てが「元来」から仏であったという事にもなるのです。

「諸善男子。我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数。」

そして釈迦は、成仏してから本行(本来の修行)として菩薩行をしてきた事を宣言し、これからも人々に対して法を説き、菩薩行に取り組む事を明かすのです。

どうでしょうか?

「久遠実成」とは、単なる時間軸として長遠の事を述べるという意味ではなく、「元来」という事を指し示す言葉だと僕は理解していますが、皆さんはそう思いませんか?

そうであれば、それに対して「より日蓮の方が根源的な仏なのだ」というような「久遠元初」という思想は、本来あるべき「久遠」という言葉の意味とは全然違うものになってきます。

であるならば、久遠の本仏が「釈迦如来」であっても、仏法の法義上、全然問題ないと思うのですが違いますかね?

僕は創価大学の宮田教授が「日蓮本仏論どうするの」という事を述べ、創価学会が真剣にその事を考えるのであれば、それは大いに賛同する処なのですが、そこに宗教的な権威とか、信徒を従属させるという思惑が微塵でも介在して構築されるのであれば、それは用いるものでは無いと考えています。

さてさて創価学会は、こういった教学的な課題についてどの様に向き合うのか、大いに見ものであると考えていますので、これからも注視していきたいと思います。

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