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想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   
カテゴリー「平和考」の記事一覧

【20171020】思索する、考える

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

選挙もあと三日で終わる。
僕はいまだ投票先を決めてません。悩んでます。

国の安全保障で言えば安倍政権は危険、これはそうだと思います。だってどこまでもアメリカ追従ですよね?
(創価学会の活動家は理解してませんが)
では枝野立憲なら止められるかと言えば、日米安保や地位協定をどうにもできないでしょう、彼らには。

選挙は安保だけではなく、様々な事を考えて、より自分がベターだと時々に思う候補に票を託す行為なんで、未だに何がベターなのか悩んでます。

さて本題。
考えてみたら僕は青年部の頃から、考えるたちで、先輩から幾度も指摘された事があります。
「それはお前の生命の傾向性だ!考えずに戦う事も大事なんだ!」
なんてね。

実は「自分で考える」。この原点ですが、青年部で初めてやった折伏にあります。

当時、僕は創価班大学校生。一年間の間に一世帯やらないと創価班になれず、バッチも貰えない時代でした。

当時の入卒団式なんて、今でいう総々県でやるのですが、僕が入団した時には会合冒頭で、一年前に創価班大学校になった先輩たちに対して「これまで、御本尊流布できて無い奴は会場の後ろに下がれ!」と司会が怒鳴り、未達成だった半分近くは会場の後ろに下がらせて、その前で本流を達成した人達に激励、創価班バッチを授与してました。

そんなんだったら、会合呼ばなければ良いのに。
今ならそう考えますが、当時は二十代前半の時、むしろその厳しさにびっくりもしました。

後ろに下がらされた人たちの中には、悔しくて泣いている人も沢山いました。

だから大学校生の当時、僕は人脈を総当たり、折伏したのは最終的に百名は優に越えてましたが、その最初の時の話です。

僕は高校時代の部活の先輩を、自分のアパートに呼びました。当時の僕は独り暮らし。
創価班の先輩も来ると言いましたが、自分の事なので、初めは僕が一人で話しますと丁重に断り、先輩との久々の対話が始まりました。

最初はとりとめない話から、仏法の話、日蓮の話、そして学会の話へと移っていきました。そして先輩に「学会やりませんか?」と話した時、先輩は暫く思案顔をしてから言いました。

「お前の言うことは解るが、残念なのは自分の言葉になってない事だな。まだ言わされてる感を感じたよ。もう少し自分の中で実感が掴めたなら、話を聞かせてくれ。」

僕自身は必死に考えながら話したのですが、やはりまだまだだったんだなー。それを先輩には指摘されたんだなと思い、先輩との仏法対話は終わりました。

この後、創価班の先輩からは「俺を呼べば一発で相手の生命を叩ききって折伏決められたのに、一人でやるのはけしからん!」と叱られましたが、基本、僕は対話を一人でやってました。

やはり自分の信仰ならば、自分で考え理解して語らないと。そう決めていました。

これは青年部で幹部になった後も変わらずで、例えば池田会長の指導を引用するにも、自分としての解釈をもとに話をしてました。
圏男子部長時代には、会合の前に二時間は話す内容の事を、考えて組み立てたりもしてましたし、その場合は学会の話題だけではなく、時々の時事問題、社会の情勢等も新聞で確認もしてました。

そういった僕の原点のひとつ、それは先の部活の先輩から言われた言葉なんですね。

いま創価学会の中では、オウム返しの様に「池田先生のお言葉」とかを語る人、酷いのになると、その御大の言葉だけ置いてしまう人も居ますよね。 
あー、これはアンチの中もおんなじかもしれませんが。

また御大の言葉だけではなく、御書についても切り文という、一部だけ切り出して、変な事を語る御仁も多くいませんか?

仏法とは以前にも書きましたが「演繹法」の思想です。これはつまり解釈をする人により、語られる内容が異なることを意味します。だから仏法を学ぶとは、即ち世法やその他の事も学んで行かなければならないと思います。

御大の言葉とか経文とか、御書もそうですが、単に丸暗記して投げ掛けるだけで、事足りるものではありません。

少なくとも僕はそう思ってます。
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【20170814】間もなく終戦の日

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

間もなく終戦記念日ですね。

本来の意味で言えば、降伏文書に大日本帝国として調印した日、つまり9月2日がその日に当たるのですが、日本の終戦記念日はポツダム宣言を受諾を日本として決定した日なんですよね。

昨日は朝からネットテレビで「日本の一番長い日」と「終戦のエンペラー」を二本立てで見てました。
映画とは言え日本から見た終戦と、アメリカから見た日本の敗戦。なかなか興味深いものを感じました。

戦後もう七十二年を経過してますが、この間、日本は「平穏なる時代」を過ごして来ました。だから僕の世代もそうですが、その上の世代もリアルな戦争を知りません。

そう言えば映画の「FURY」、ブラッド・ビットが主演していたものや、「プライベートライアン」、これはトムハンクス主演の映画ですね。あとは渡辺謙主演の「硫黄島からの手紙」を見ると、先の大戦の壮絶さや悲惨さは良く表現されています。

しかし最近の戦争というのは、また色合いが少し異なってきてますよね。ただ共通しているのは人が人を殺し会うという、ある意味で不合理な行為ですが、これは止むことは無いのでしょうか。

この戦争と言う行為ですが、国家間の外交活動の延長線上にあるもので、国家というのがそれこそ今のアメリカでいう「州」の違いほどであれば、戦争は無くなるのかもしれませんが、悩ましい事に人類には民族や文化、そして宗教の違いがあり、そこによって価値観や文化の違いが発生、国家として互いに中々融和を図ることが出来てません。

よく「地球人なんだから国は関係ない」という言葉がありますが、私達が常日頃社会の中で様々なサービスを享受してますよね、そのサービス元が国家ですよね。
また今の人類とは国家単位で利害調整をする仕組みにもなっていて、創価学会が大好きな国連も枠組みの単位は国家になってます。

だから個人個人が「国家は関係ない」と言った処で、結果としては国家に振り回されてしまうわけで、これはある意味で「社会的生物」としての人類の「業(宿命かも )」と言っても良いかと僕は思うのです。

これはある「仮定」の話ですが、昔にあった「オウム真理教」によるテロ事件ですが、あれは毒ガスのテロ攻撃により日本の統治機構を麻痺させて、その間隙に北朝鮮が日本を制圧するというシナリオがあったという、あくまでも「俗説」ですが、耳にしたことがあります。
「もし」それが現実となった場合、単なる「地球民族主義」と言った処で、なんら慰めにもなりはしません。

こちらは考えていなくても、相手が国として乗っ取りを考え、もし乗っ取りされたら、その支配の元に隷属を余儀なくされてしまいます。

考えてみれば、人類社会の中のルール。これは国際法と言っても良いでしょうが、そこに「戦争」という行為は容認されているわけで、人類は未だ国家間で殺し合うことを容認している訳なんですよね。

「戦争反対」というのであれば、この現在の国際社会の現実と、人類の「業」に対する直視、そしてその解決法を思索しなければなりません。

最近、法華経を読み進めていますが、仏法を基調として、果たしてこの問題を根本的に解決出来るのでしょうか?
例えば人間には「仏の生命」が普遍的にあるとして、それと同列に「餓鬼」「畜生」「修羅」といった生命も内在している事を述べています。創価学会の三代池田会長はこの思想から「人間主義」を標榜し、その思想を普遍的に広げることで「世界平和」の実現を目指したのでしょう。

しかし結果として、今の日本の社会を見ても解りますが、この思想は何ら役にも立ってません。

果たして人類はこの先、世界平和を実現できるのでしょうか?

日本国内は取り合えず「平穏」を未だ維持していますが、これとて薄氷の上を歩いているようなモノで、いつ大きな穴が開いて落ちてしまうか解りません。

「国を失い家を滅せば何れの所にか世を遁れん汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か」
(立正安国論)

一国の安泰を願うのであれば、その周辺の事、いまで言うなら国際社会の動向を見据えなくてはなりません。残念ながら今の日本の中には、これは僕を含めてですが、国際社会の動向を見極める目が育ってません。

今の「憲法九条」に関する議論においても、日本国内の内向きな眼でしか議論が為されていませんが、これを広く人類に対して見開き、その人類の「業」を見据えながら議論の出来る人々が、日本国内に増えない限り、「何時か来た道」を再度、日本は歩んでしまうのではありませんか?

「広宣流布」というのてあれば、その様な人間に対する啓蒙活動であるべきだと、僕は考えるのです。

【20161207】ホーキング博士の警告

こんにちは(´・ω・`)

僕が生まれた時代の日本はある意味でまだ「穏やかな時代」であったのかもしれません。

世の中には「インターネット」もなく「コンビニエンスストア」もありませんでした。スーパーマーケットに行けば季節ごとに売られているものが違い、不便さはありましたが、季節感がいまよりも鮮明にあったと思います。

また日本は今より経済的には貧しかったかもしれませんが、その一方で「日本社会」というのは未だ健在で子供も多く、近所の公園には子供が溢れ、経済的にも右肩あがりで未来を常に明るく見る事の出来る時代であったと感じます。

一方、今の時代では「インターネット」が解放され、様々な技術革新によりどんな季節でも近所のスーパーへ行けば様々な食材があります。またコンビニエンスストアは24時間休む事なくものを売り、知りたい事ややりたい事はスマートフォンで簡単に探す事も出来ますよね。

僕が子供の時代に描かれていた「未来図」とは大きく違いますが、違った意味で僕がいま生きている時代は「子供時代から見たらSF世界の中」にいる感じがします。

さて昨日、以下の記事を読みました。

「人類はかつてないほど危険な時期を迎えている」とホーキング博士が警告
(Gigazine 2016年12月05日 12時15分00秒)




ここでホーキング博士は「人類は歴史上、かつてないほど危険な時期を迎えている」と警告を出していると書かれていました。

博士がこの危機感を持ったのは「イギリスのEU離脱」と「アメリカのドナルド・トランプ大統領選出」という2つの出来事を通して、世界が危険な方向へと変わっているという象徴的な出来事が起きたと捉えているからだそうです。

そしてこの根底にはどのような事があるのか、ホーキング博士の意見はこうでした。

「これまで十分にはケアされてこなかった中間層の存在があり、指導者たちに忘れ去られたと感じている中間層による「エリート層の否定」があるとのこと。」

「科学技術が進歩してグローバル化が進んだ影響で伝統的な製造業の雇用が減少してきており、今後は人工知能(AI)技術の発展によって中間層の雇用にさらなるダメージが与えられる可能性があり、創造的な仕事や管理する立場の仕事と職を失う人たちとの間で生じる経済的な不平等は世界的に拡大・加速してく」

「インターネットやソーシャルメディアが普及したことで、富を持つものと持たざるものの現実の姿を、誰もが簡単に知ることができるようになりました。例えば、Instagramで公開されているセレブリティの華麗な生活や、戦争のない豊かな世界での日常生活を、苦しい生活を強いられている世界中の誰でも簡単に知ることができるというのが一例です。苦しい生活から脱出して、より幸せな生活を送りたいと考えて、国外に移住する人や難民が増えることは避けられない」

「移り住んできた人たちの生活を支えるために必要となる新たなインフラ整備のコストから、移民を排斥する不寛容な意見が噴出し、政治的なポピュリズムの傾向に拍車がかかることも避けられない」

考えてみれば、僕が子供の時代には、例えば鉄道の駅の改札には「切符切り」の駅員がいましたが、今の時代は全てが「自動改札機」になっています。これは機械に雇用が奪われた例の一つでしょう。

いま最先端の科学では「AI(人工知能)」の研究が進んでいます。

これは予測ですが、これから未来にかけて亡くなる職種の一つが「弁護士」だと言われています。これは過去の判例が巨大なデータベースとなり、そこにアクセス可能な「AI」が出来れば、必然的に人が弁護するよりも、効果的にかつ短時間に弁護士業務をこなす事が出来る様になうという事でした。

技術が進めば進むほど、人が本来「仕事」として事を機械が肩代わりする。
そしてこれは人の雇用を奪う事にも通じていきます。雇用が奪われた人は経済的な価値を社会の中で失うので、現在の資本主義の社会の中で生きていく事は極めて難しくなっていきます。

雇用を少なくできれば、企業の収益は上がります。そしてそれは必然的に企業の経営層の収入向上につながる事から、より貧困格差が拡大する方向に進んでいくでしょう。

そして貧困層の中には、どの様な意識が芽生えてくるのか。
それはけして人類にとって、良い効果をもたらす意識とはなりません。

このホーキング博士の警告は、極めて大きな人類社会の課題を突き付けていると思いませんか?

このブログは仏法を思索するブログです。
何度も言いますが、人は「思考を現実化」する能力を持っています。人が生きる上で大事な事は「よき思考」を生み出す事だと思います。よき思考がよき一人ひとりの人生を作り、その人々がいる事でよき社会の現出へとつながる。それが結果として人類社会の中に波及する事が大事なのではないでしょうか?

仏法とはその「人の心・生命」を探求する哲学であり、八万四千の法蔵とは日蓮も述べている様に「我が身の日記」です。

ただ残念なのは、表面的に語られている言葉や体系は多岐にわたり、非常に難解で、かつ人々を容易に寄せ付けるものではありません。

僕はこういった時代だからこそ、仏法で説かれている内容を、平易に本筋を語れる人材が大事になってきているとも考えるのですが、少なくとも今の創価学会にはそれを期待する事は出来ませんね。

本来、信仰を持つ人であれば、このホーキング博士の警告をもっと真摯に受け止めるべきだと思うのですが、その人材は未だに少ない様に思えます。

ふと思ったんですが。。。
「大地の下の虚空にあって、そこから沸き出る菩薩達」とは、そういう人材群なのかもしれません。ついぞ悲観的にもなってしまいますが、そういう人材群の出現に一縷の望みを持ちながら、これからの人類社会の中を生き抜いていくしかありませんね。

【20160614】牧口会長の獄死から学ぶ事

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

いやー、テレビでどのチャンネル見ても「舛添知事」一色ですね。
彼の氏があれほどセコかったのは、ある意味で笑えますが、空気を読めない事も超一流です。
「リオ五輪」をだして不信任案を猶予してくれなんて、あんな席上で云えばどうなるのか、火を見るより明らかなはずが、それを口に出すのですから。
あの空気の読めなさからすると、不信任を都議会が出したら、議会を解散するかもしれないと、ふと思ったりしました。

しかし民進党も調子こいて舛添追求してますが、そうなら山尾女史をなんとかすべきでしょう。彼の政調会長なんて、全て秘書におっかぶせて幕引きしてますが、やってることは舛添氏と大差ないし、そんな議員を政調会長にしてること自体が問題です。

全く日本の政治の劣化は止まる事を知らないんだなと、日々実感しています。

さて、参議院選挙選挙に向けて、創価学会は着々と動いています。この動きは当に集票マシーンです。
その一方で今の創価学会を憂い嘆き、安保法制や増税など、自民党に追従する姿勢を批難する声も組織内に燻ってます。

そのなかで件の三名もそうですが、牧口会長の獄死という事を取り上げて、日本会議を指弾して、「牧口会長の獄死を忘れたのか?」という言葉も出ていますね。

創価学会の中では、初代牧口会長は日蓮大聖人の教えに殉じ、最後まで人間主義を貫いて獄死したことになってます。要は「反権力」として庶民の側に立ち、崇高なる殉教をしたという事。
だから創価学会は常に権力側を許さないといい、会員や元地方議員などで褒章の話があると、その受章をける事にしています。

でもある故人の会員なんて、地域に貢献し、それが評価され褒章を受けたのですが、その人の体験談を取材に来た聖教新聞の記者は「褒章の事は書けない」と拒絶したそうです。

信仰を元に社会に貢献し、認められた人の事を「褒賞」を受賞した事実をもって、記事にすらしない姿勢は何なんですかね?

「権力側は牧口会長を獄死に追い込んだ。こんな権力は永遠に許さない」

これは創価学会の活動家が褒賞を蹴る理由なのですが、昨今の創価学会・公明党は何かと権力側に尻尾を振りまくってます。まあ信濃町のピロシ君あたりは、官房長官が訪ねてくることに、鼻高々な様子ですしね。

なんちゅー組織なんでしょうか?

さて「牧口会長を獄死に追い込んだ」という事について、今回は一言記事にします。

まず牧口会長が殉教したのは、今の池田思想に代表される創価学会の思想ではありません。これ、特高月報という公式に出された尋問記録を読むと解りますよ。
牧口会長が当時の官憲に滔々と語っている内容は、当時の大石寺教学であり、そこにある「広宣流布」の考えと「立正安国」でした。

つまり今の創価学会の活動家が認識している事実とは異なります。
この事は幾度かこのブログでも書きましたよね。

また牧口会長はこの教えに殉じ、獄死しましたが、ここから本来学ぶべきは殉教の精神とかではなく、権力側に居たとしても、あっという間に捨てられ弾圧される事もあるという事実です。

まず思い返さなければならないのは、牧口会長の創価教育学会では、長野赤化(共産化)教員事件において、当時の内務省や警察庁と共同歩調をとり、それらアカ化した教員達のオルグ(転向と取り込み)に積極的に関わっていました。

この事について牧口会長は当時の学会機関誌である「新教」で持論を展開していました。

「真の愛国者として転向させられるのは日蓮大聖人の教えだけだ」

そしてこれを当時の官憲に語り、説きながら赤化した教員たちを取り込んでいったわけですね。そしてこの取り込まれた人々のなかに、後に創価学会の理事長になり、その後に宗門に移った矢嶋氏も居たわけです。

一時期は内務省や警察庁といった権力側と共同歩調を取っていた牧口会長及び創価教育学会も、軍部政府が推し進めた「思想統制」に逆らった結果、特高警察にマークされ、不敬罪で投獄、そして獄死となってしまいました。

この事実から創価学会は本来ならば、権力側との距離を取らなければならない処、今では政権与党に与して「安倍総理がやりたいんだから」と、下駄の雪に成り果ててしまっています。

もしかしたら創価学会の信濃町界隈や公明党は、過去の自分達の組織の歴史から、この権力側の恐ろしさを認識しているから、こんな行動になっているのかもしれないですね。

「権力側に棄てられたら終わってしまう」

だから敢えて下駄の雪に徹しているのかと思ったりもしますが、このあたりはどうなんでしょうか?

まあ今の公明党や創価学会の同行に、あーだこーだと、やりあってますが、共に理解すべきは、初代・牧口会長の獄死という事実が何を指し示したのか、という事です。

僕なんかはひねくれてますから、この獄死という事実の影に、権力側の怖さを見てしまいますが、特にいま「集票マシーン」として動いている活動家あたりは、その認識は無いでしょう。

彼らは牧口会長は人権の闘志であり、池田先生が継承している創価学会の師弟の精神に脈打った、正義の道で尊い殉教の使命を全うした「自解仏乗の偉人」といったところでしょう。

でもね、、恐らく今のままでは、何れは権力側に潰されるのが落ちではありませんか?

そんな危機感を、票集めに興じるのを止めて、考えて欲しいものですね。

【20160508】広宣流布に必要な事

こんにちは(´・ω・`)

このブログでは様々な事を毎回書かせてもらっています。
「当体義抄」に関しては、ここ最近読み始めていますが、ここで大きな懸案として感じたのは「法華経(実教)を信じる」という事。

日蓮在世の時代では、この設問に大きな問題は無かったと思います。

何故ならば、当時の日本社会は鎮護国家の仏教を根底とした社会であり、経典の法華経を信じる事。また日蓮門下であれば、お題目を唱えるという事が、そのまま法華経を信じる事に直結していました。

これはある意味で牧口会長の生きた時代にも同様な事が云えると思います。

明治維新、そしてその後の日清・日露戦争に勝つことで、日本は近代国家の仲間入りを果たしました。要は「帝国列強」の末席に加わる事が出来たと言う事です。しかし国際社会に門戸を開いたとは云え、いまだ世界の多様性とは縁遠い世界。
鎌倉時代の香りの残る大石寺の日蓮仏法を信じていく事が、即ち「法華経を信じる」という事に直結していた時代でした。

しかし二十一世紀に入った現在において、この「法華経を信じる」という事は、そう容易くない時代になったと僕は感じるようになりました。

何故この様に考えるようになったか、その理由について幾つかまとめてみたいと思います。

1)創価学会の形骸化
戦後の日蓮の仏法の旗頭はやはり創価学会でしょう。
例えば「仏=生命」という観点を提示し、「人間主義」という言葉で仏法を語ろうとしました。

日蓮仏法で戦前に一斉風靡したのは田中智学の国柱会でした。田中智学氏は元日蓮宗の僧侶で還俗したのち国柱会を立ち上げました。先の国会で自民党の三原じゅん子議員が述べた「八絋一宇」という言葉、また「国立戒壇」という言葉を述べたのも田中智学氏です。
宮沢賢治氏や石原莞爾氏といった、戦前の著名人もこの国柱会と関係を持っていたのは歴史的な事実です。
また創価学会の初代会長とされる牧口氏も、この国柱会の会合に参加をしていました。

しかしこの国柱会は戦後、本部行動を焼失し勢力も著しく減退、その変わりという事ではないと思いますが、戦後急速に勃興したのが創価学会でした。

この創価学会は日本社会との様々な摩擦、また宗門との大きな諍いを経て、先の述べた「人間主義」という言葉により新たな展開をするように思えましたが、昨今では減退ムードが著しく、組織も選挙活動に主力を置き、教学研鑽などをおざなりにした事もあり、最近では「池田日蓮仏法」という言葉も出てきているくらい、何か仏法とは縁遠い存在となってしまいました。

法華経の成立という事で言えば、大乗仏教の勃興と同時期であり、今から二千年近く前の事です。また日蓮の生きた時代も鎌倉時代であり、今から七百年前となります。
これだけ時代が経過していたら、原文のままでは法華経や日蓮の広めた「南無妙法蓮華経」に関しても時代即応の解釈が必要となるはずです。

そういう展開を行うのは、創価学会ではないかとも考えたのですが、昨今の創価学会の形骸化を見るにつけ、そういう期待は既に持つことは厳しいでしょう。

2)世界のグローバル化とITの拡充
日蓮の生きた時代や牧口会長の生きた時代では、人々が生きる世界の広さは今の時代から見ると局所的なものであり、情報伝達やその共有などについても、とてもローカルなものでした。

しかし現在ではITインフラの整備も進み、先進国を中心として主要国間では経済的には国境は既に存在しない様な時代となりました。世界中にいる多種多様な文化を持った多くの民族間においても、既に活発な情報交換が行われている時代となっています。

日蓮の生きた時代の仏教の根底には「鎮護国家仏教」でしたが、国家という概念、また世界観という事についても現在では通用しない状況となっています。

また思想的な事で言っても、鎌倉時代当時では日本の仏教界のみを相手にした展開で済んでいましたが、そういったものでは、現在の学問としての心理学、また量子力学で言われているゴースト的な内容。またNDE(Near Deth Experience:臨死体験)を元にした死生観を包含する事は出来ません。

この様な様々な価値観、つまり多様性を持った時代において、教条主義的な解釈は何ら意味を成すものでは無く、新たな解釈を行わない限り、この時代に仏教、いや、日蓮仏法がこの時代で本当に意義のある思想になるという事はないでしょう。

それでは今の時代において「法華経を信じる」とは如何なるものなのか?

「「散心に法華を誦し禅三昧に入らず坐立行・一心に法華の文字を念ぜよ」[已上]此の釈の意趣は末代の愚者を摂せんが為なり散心とは定心に対する語なり誦法華とは八巻一巻一字一句一偈題目一心一念随喜の者五十展転等なり坐立行とは四威儀を嫌わざるなり一心とは定の一心に非ず理の一心に非ず散心の中の一心なり念法華文字とは此の経は諸経の文字に似ず一字を誦すと雖も八万宝蔵の文字を含み一切諸仏の功徳を納むるなり天台大師玄義の八に云く「手に巻を執らざれども常に是の経を読み口に言声無けれども�く衆典を誦し仏・説法せざれども恒に梵音を聞き心に思惟せざれども普く法界を照す」[已上]此の文の意は手に法華経一部八巻を執らざれども是の経を信ずる人は昼夜十二時の持経者なり口に読経の声を出さざれども法華経を信ずる者は日日時時念念に一切経を読む者なり。」(守護国家論)

ここに「口に読経の声をださざれども法華経を信ずる物は日日時時念念に一切経を読む者なり」という言葉がありますが、ここには大事な示唆が含まれていると思われます。

要は形式などではなく、常々法華経を信じ、これを思索するものという事が述べられています。

つまり勤行の有無、組織活動参加の有無により、法華経を信じているとか信じていないという事では無いのでしょう。

日蓮は不軽菩薩の振る舞いを述べていました。かの菩薩は全ての人に対して礼拝を続けていました。
何故ならば、人々の心の奥底に仏が等しく備わっていたからです。

人を手段ではなく、目的とする心。
そこにこそ、法華経を信じるという心があるのではありませんか?

けして形式的な事、また教条的な事では無いし、むしろ現代においてそこに囚われてしまっては、法華経を信じる事にはならないと思うのです。

ちょっと殴り書きでしょうか。
この事は簡単には答えは出せませんね。

しかし広宣流布というのであれは、こう言ったことに真摯に向き合わなくてはいけないのでは?

僕はそう考えています。

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