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想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   

【20160508】広宣流布に必要な事

こんにちは(´・ω・`)

このブログでは様々な事を毎回書かせてもらっています。
「当体義抄」に関しては、ここ最近読み始めていますが、ここで大きな懸案として感じたのは「法華経(実教)を信じる」という事。

日蓮在世の時代では、この設問に大きな問題は無かったと思います。

何故ならば、当時の日本社会は鎮護国家の仏教を根底とした社会であり、経典の法華経を信じる事。また日蓮門下であれば、お題目を唱えるという事が、そのまま法華経を信じる事に直結していました。

これはある意味で牧口会長の生きた時代にも同様な事が云えると思います。

明治維新、そしてその後の日清・日露戦争に勝つことで、日本は近代国家の仲間入りを果たしました。要は「帝国列強」の末席に加わる事が出来たと言う事です。しかし国際社会に門戸を開いたとは云え、いまだ世界の多様性とは縁遠い世界。
鎌倉時代の香りの残る大石寺の日蓮仏法を信じていく事が、即ち「法華経を信じる」という事に直結していた時代でした。

しかし二十一世紀に入った現在において、この「法華経を信じる」という事は、そう容易くない時代になったと僕は感じるようになりました。

何故この様に考えるようになったか、その理由について幾つかまとめてみたいと思います。

1)創価学会の形骸化
戦後の日蓮の仏法の旗頭はやはり創価学会でしょう。
例えば「仏=生命」という観点を提示し、「人間主義」という言葉で仏法を語ろうとしました。

日蓮仏法で戦前に一斉風靡したのは田中智学の国柱会でした。田中智学氏は元日蓮宗の僧侶で還俗したのち国柱会を立ち上げました。先の国会で自民党の三原じゅん子議員が述べた「八絋一宇」という言葉、また「国立戒壇」という言葉を述べたのも田中智学氏です。
宮沢賢治氏や石原莞爾氏といった、戦前の著名人もこの国柱会と関係を持っていたのは歴史的な事実です。
また創価学会の初代会長とされる牧口氏も、この国柱会の会合に参加をしていました。

しかしこの国柱会は戦後、本部行動を焼失し勢力も著しく減退、その変わりという事ではないと思いますが、戦後急速に勃興したのが創価学会でした。

この創価学会は日本社会との様々な摩擦、また宗門との大きな諍いを経て、先の述べた「人間主義」という言葉により新たな展開をするように思えましたが、昨今では減退ムードが著しく、組織も選挙活動に主力を置き、教学研鑽などをおざなりにした事もあり、最近では「池田日蓮仏法」という言葉も出てきているくらい、何か仏法とは縁遠い存在となってしまいました。

法華経の成立という事で言えば、大乗仏教の勃興と同時期であり、今から二千年近く前の事です。また日蓮の生きた時代も鎌倉時代であり、今から七百年前となります。
これだけ時代が経過していたら、原文のままでは法華経や日蓮の広めた「南無妙法蓮華経」に関しても時代即応の解釈が必要となるはずです。

そういう展開を行うのは、創価学会ではないかとも考えたのですが、昨今の創価学会の形骸化を見るにつけ、そういう期待は既に持つことは厳しいでしょう。

2)世界のグローバル化とITの拡充
日蓮の生きた時代や牧口会長の生きた時代では、人々が生きる世界の広さは今の時代から見ると局所的なものであり、情報伝達やその共有などについても、とてもローカルなものでした。

しかし現在ではITインフラの整備も進み、先進国を中心として主要国間では経済的には国境は既に存在しない様な時代となりました。世界中にいる多種多様な文化を持った多くの民族間においても、既に活発な情報交換が行われている時代となっています。

日蓮の生きた時代の仏教の根底には「鎮護国家仏教」でしたが、国家という概念、また世界観という事についても現在では通用しない状況となっています。

また思想的な事で言っても、鎌倉時代当時では日本の仏教界のみを相手にした展開で済んでいましたが、そういったものでは、現在の学問としての心理学、また量子力学で言われているゴースト的な内容。またNDE(Near Deth Experience:臨死体験)を元にした死生観を包含する事は出来ません。

この様な様々な価値観、つまり多様性を持った時代において、教条主義的な解釈は何ら意味を成すものでは無く、新たな解釈を行わない限り、この時代に仏教、いや、日蓮仏法がこの時代で本当に意義のある思想になるという事はないでしょう。

それでは今の時代において「法華経を信じる」とは如何なるものなのか?

「「散心に法華を誦し禅三昧に入らず坐立行・一心に法華の文字を念ぜよ」[已上]此の釈の意趣は末代の愚者を摂せんが為なり散心とは定心に対する語なり誦法華とは八巻一巻一字一句一偈題目一心一念随喜の者五十展転等なり坐立行とは四威儀を嫌わざるなり一心とは定の一心に非ず理の一心に非ず散心の中の一心なり念法華文字とは此の経は諸経の文字に似ず一字を誦すと雖も八万宝蔵の文字を含み一切諸仏の功徳を納むるなり天台大師玄義の八に云く「手に巻を執らざれども常に是の経を読み口に言声無けれども�く衆典を誦し仏・説法せざれども恒に梵音を聞き心に思惟せざれども普く法界を照す」[已上]此の文の意は手に法華経一部八巻を執らざれども是の経を信ずる人は昼夜十二時の持経者なり口に読経の声を出さざれども法華経を信ずる者は日日時時念念に一切経を読む者なり。」(守護国家論)

ここに「口に読経の声をださざれども法華経を信ずる物は日日時時念念に一切経を読む者なり」という言葉がありますが、ここには大事な示唆が含まれていると思われます。

要は形式などではなく、常々法華経を信じ、これを思索するものという事が述べられています。

つまり勤行の有無、組織活動参加の有無により、法華経を信じているとか信じていないという事では無いのでしょう。

日蓮は不軽菩薩の振る舞いを述べていました。かの菩薩は全ての人に対して礼拝を続けていました。
何故ならば、人々の心の奥底に仏が等しく備わっていたからです。

人を手段ではなく、目的とする心。
そこにこそ、法華経を信じるという心があるのではありませんか?

けして形式的な事、また教条的な事では無いし、むしろ現代においてそこに囚われてしまっては、法華経を信じる事にはならないと思うのです。

ちょっと殴り書きでしょうか。
この事は簡単には答えは出せませんね。

しかし広宣流布というのであれは、こう言ったことに真摯に向き合わなくてはいけないのでは?

僕はそう考えています。
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