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想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   
カテゴリー「平和考」の記事一覧

【20160311】平和について考えてみる⑨

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

今日は3.11。あれから丸5年経過しました。
当時の僕は仕事で移動中に震災にあって、七時間かけて歩いて自宅近くにたどり着いた記憶があります。

途中の町並みの停電、混乱して動けなくなった車、交差点で交通整理をする警察官、北風の吹くなかハイヒールで俯いてあるくOL等など。
まるで映画のワンシーンの中に紛れ込んだのかと錯覚を覚えてしまいました。

ある人にこう聞かれました。
「運ちゃんはこの震災をどう考えるのか?」
僕は答えました。
「これは天鼓ではないだろか?諸天撃天鼓と法華経にある天鼓だと考えている」

あの震災については様々な見解があります。それこそダイレクトに言えば総罰だという阿呆もいたり。

しかし人間や生きる全てのもの、そしてその環境が妙法蓮華経の当体というのであれば、そこには善だ悪だというのはなく、人間にとって都合が悪くても、それ自体は働きの一断面でしかありません。
問題はそこにどの様な意義付けを与え、その物事を糧にどの様に振る舞えるのか、そこだと考えています。

僕は当時の日本と云うのはなにか浮かれはじめているなか、それに気付きを与える諸天からの天鼓ではないかと考えたのです。

でも実際にあの震災によっても、基本的に日本が変わることはありませんでした。

そればかりか日本という国は、何かより歪な方向へと進んでしまった感じがします。

さて、前置きが長くなりましたが平和について。

創価学会では中国や韓国、そしてインド等に「民間交流」と言っては青年部代表を送り込んだり、創価ルネサンスバンガードを使節として送り込んだりしています。

恐らく創価学会の活動家の多くが、こういう民間交流自体が平和に寄与すると考え、創価学会のそういう行動に誇りと尊敬を持っていると思います。

過去に池田会長は中国とソ連の中を、一民間人として行動し、デタント(緊張緩和)に貢献した事を通して、「そこに人間がいるから」という言葉を持って、創価学会は平和団体だと胸を張るのでしょう。

でも考えてみてください。

過去に池田会長は「師匠は針、弟子が糸」という例えを話してましたが、いまの創価学会に「糸」となる人材がいますかね?

結果として創価学会が平和団体と言っても、それは単に池田会長の行動のみであり、パフォーマンスとして終わってますよね。

これも残念な事です。

「いや!創価学会は民間交流に力を入れて、世界に平和のネットワークを構築しているのだ!」

そう云うのかも知れませんが、この「民間交流」で平和が維持できますか?

一念三千という法理について、前に書きました。そしてそこには「衆生世間」という観点があります。
個人の事をさす「五陰世間」は理解しても、それらが多重的に重なりあって出来る「衆生世間」は別物です。
これについては心理学で「集団心理」という言葉で語っている事に近いと思いますが、いくら個人が頑張っても、集団心理的な「衆生世間」がどの様に動くのか解りません。

戦争とは国家やそれに準ずる組織が起こす行為であり、そこには個人の存在は埋没し、集団を構成する一人一人の生命の働きが多重的に絡み合うので、個人の行動はある意味で踏みにじられる結果にもなります。

だから僕はパフォーマンスとしての民間交流には、なんら期待するものは無いと考えています。

現に見てください。
例えば創価学会が交流使節団を派遣し、公明党代表が習近平国家首席に「拝謁」し、「師匠、池田先生からのメッセージです」とやった処で、中国の軍事行動が沈静化してますか?

創価ルネサンスバンガードが韓国を訪問、また池田会長が数多く顕彰を受けた韓国が、竹島を返還しましたかね?

結局は「民間交流」とは別次元で国家の動きがあるということを理解すべきです。

ではどうあるべきか。

民間交流というよりも、国家間の外交力と対話力を付ける。これは人材育成の話にもなりますが、そういった外交力を推進できる外交官の育成、また後押しする国民の意識が大事になると思うのです。

そして国民の意識の根底に、どの様な事を働きかけることが出来るのか。

そこに本来の広宣流布の意義があるのではないでしょうか?

少し具体的な例を書いてみます。
今の日本に必要な事は、独自の国家安全保障の概念を持つ事です。
今の日本の安全保障の根底には、アメリカへの依存が強くある事は、誰でも理解できる事でしょう。

ある意味で、安倍自公連立政権が昨年末に強硬した安保法制の法案の根底にも、こういった概念があるのではありませんか?

話題の辺野古への移転も、日本が自立した国家であれば、国内問題で対処可能でしょう。

日本が本当に自立した国家になるならば、こういったアメリカとの付き合いも国家として対等な立ち位置を目指すべきです。

しかしその為には国民が腹を括らなければなりません。
何に腹を括るかといえば、今の生活パターンを含め、劇的に変化をする事を覚悟しなければならないでしょう。

それは景気であり、税金であり、今の日本全体に及びます。
景気は悪化するかもしれません。
アメリカに依存していた軍事的な事も日本独自に行わなければなりませんので、税金もより高くなるでしょう。自衛官が足りなければ、日本人として自衛官を増補する必要もあります。

「自分たちの国は自分たちで守り自立する」

そういう事に腹を括り、すべてに対して覚悟をしなければなりません。

でも今の日本にそれは出来ますか?

この為には「日本人のアイデンティティ」を確立するのではなく、「日本人としてのアイデンティティ」を確立する事に、仏法の考え方は寄与できるはずです。

自主独立しながら、周囲の国や地域との共存を図る。

そのために国民の中に哲学性を醸成する必要があるのです。
しかし間違えてはならないのは、それが単に一宗一派一組織が拡大するという事では無いという事です。

それが今の時代には必要なのではないでしょうか?

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【20160310】平和について考えてみる⑧

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

昨日はガタンと気温が落ちましたねー。
ちょっと喉が痛いのですが、子供たちから風邪を貰ったのかもしれません。

そういえば北朝鮮。
これからどう転がって行くのでしょうか?

核開発によりアメリカと対等に交渉出来る立場を目指したのかもしれませんが、結果としては自分自身の首を金正恩第一書記は絞めたのかもしれませんね。

米韓軍事演習で圧力を掛けられ、後ろ楯だった中国も最近ではイラつきを隠しません。

極東アジアの緊張感は確実に高まっていると思いますが、日本の中は相変わらず平穏なのが不安でもあります。

さて平和について今日は書いてみます。
昨日の記事では当体義抄を読んでみました。そこには生命とその環境が妙法蓮華経の当体であると言うこと、そしてこの生命は「染浄の二法」という法理の元で、迷いの九界の姿を顕すのか、悟りの仏という姿を顕すという話もありました。

つまるところ生命とは妙法蓮華経の当体とは言え、悟りも迷いもどちらの姿を顕す存在であり、そこには単純な尊貴なものという事では表せない事があるわけです。

「仏法とはヒューマニズムだ」

これはよく聞いた話ですが、これとは少し異なるものなんですね。仏法というのは法則であり、そこのみでは善も悪もないのかもしれません。

簡単に言えば宮崎駿監督の「もののけ姫」に出てくる「シシ神様」の様な存在であり、そこには創造や再生と併せて破壊と言うことも存在するのでしょう。

これは生命という本質の話ですが。

だから「生命尊厳」は大事だと思いますが、そういう「染浄の二法」で延べられた内容をしっかりと認識をしなくてはならないのではありませんか?

さて、冒頭に話をした北朝鮮を始めとする極東アジアの現在の状況について。

僕は中国やアメリカ、韓国そして北朝鮮。
これらの国は憲法の冒頭にある精神に合致した国々なのか、考えています。

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」

果たしてこれらの国々の現在の姿は「平和を愛する諸国民」足り得るのでしょうか?

韓国は日本が武装解除と見るや竹島を武力で制圧し、中国は東シナ海ガス田を勝手に掘削するばかりではなく、尖閣諸島周辺に資源があると見るや、様々な動きをしはじめています。

アメリカは同盟国とは言え、日本の首都圏上空を未だに占領し、実態的には日本に様々なチャチャ入れをしてきてます。

こんな状態で日本という国は今後も大丈夫なのですかね?

「帝王は国家を基として天下を治め人臣は田園を領して世上を保つ、而るに他方の賊来つて其の国を侵逼し自界叛逆して其の地を掠領せば豈驚かざらんや豈騒がざらんや、国を失い家を滅せば何れの所にか世を遁れん汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か」
(立正安国論)

ここでは帝王は国家という仕組みを基に国を治め、人々は田畑を耕し生活を立てると述べていて、その国が無くなったならば、いったいどこに逃れたらいいのかと書かれています。

国家がどの様なものなのか。
僕はけして国家主義者でもありませんし、国家と言えども手段だと思っています。

ただ歴史を省みると、例えばユダヤの民は国家が無くなり、民族としてどれだけの苦悩の歴史を歩んできたのか。またそのユダヤ人に国土を逐われたパレスチナ人、国家なき民族と言われるクルド人はどれ程苦悩しているのか。

それを考えるなら、国家というのは大事なことではありませんか?

いまの日本の安保法制反対の人たちのなかに、こういった観点がほぼ見られないところに、とても残念な感じがしています。

僕がここまで書いてきた「平和」とは、主に戦争の対極としての平和を考えて書いてきましたが、やはりこの観点なくして平和というのは語れないと思うのです。

本来であれば国家は不要でしょう。
しかし現段階の人類社会とは、やはり国家抜きに、考えられないのです。

だからこそ、より真剣に考えなくてはならない。

僕はそう考えています。


【20160307】平和について考えてみる⑥

こんにちは(´・ω・`)

さてお休みも終わり今日から仕事です。
平和について様々愚考を進めています。

僕の時代も日本は何とかここまで「平穏な時代」を過ごしてこれました。
これも先達たちの努力の賜物であると思いますが、この「平穏な時代」という遺産は、是非とも僕の子供の世界にも引き渡しをしたいものだと考えています。

 「要するに私の希望は、たかだかこのさき何十年かの平和なんだ。だがそれでも、その十分の一の期間の戦乱に勝ること幾万倍だと思う」
(銀河英雄伝説 ヤン・ウェンリーの名言)

僕はこの言葉が実は大好きです。

僕の親の世代というのは、子供の頃に太平洋戦争を経験していますが、僕も母親から米軍の機銃掃射の話を聞いた事があります。

まあその内容は経験している分、生々しいものでした。

「戦争は絶対悪」という言葉は創価学会の池田名誉会長の言葉です。
どんな理由にせよ、国家が起こす戦争、またいずれの組織が起こす紛争というのは、そこに住む庶民が苦悩にあえぐ事であり「絶対悪」です。

しかし生命の中に「修羅界」という生命があるという事は、戦争という行為を完全に回避する事は難しい事であり、それこそ難儀中の難儀だと僕は考えています。

「お前は戦争反対ではないのか?」

その様な厳しい言葉を投げつけられそうな感じですが、こういった現実に目を見据えながら、いかに人類の英知を結集して防ぐ事が出来るのか、そこを考えなければならないでしょう。

さて少し話は変わり、「仏法とは生命尊厳の哲学である」という言葉。
これについて、僕は少し異論があります。

簡単に言えば仏法は単純な生命尊厳のヒューマニズム哲学では無い。
僕はそう考えています。

日蓮正宗の中でよく「広宣流布」に関連して語られてきた「三大秘法禀承事」(別名:三秘抄)では、広宣流布の姿について語られていますし、そういった時代に「事の戒壇」は建立すべきであるという事を述べた御書です。

少し長めですが、以下に少し引用してみます。

「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり」

日蓮正宗の中にある伝承では、広宣流布の暁に「事の戒壇」として「本門寺」という寺を建立するという事になっていますが、その事の戒壇の建立すべき条件がここで述べられているというのです。

まあこの三大秘法抄という御書も、実は後世の偽作の疑いが濃く、ここで述べられている事も過去から議論百般・賛否両論ある処ですが、そこについてここで説明したいという訳ではありません。

ここでは広宣流布の時代の姿として「有徳王・覚徳比丘」の説話が紹介されていますが、この説話を読んでみると、仏法とはそういったヒューマニズムの思想だけではないという事も理解できるのではないでしょうか?

この仏法故事の話は以下のものを読んでください。

涅槃経にある「有徳王・覚徳比丘の先例」

この有徳王と覚徳比丘の故事は、釈迦の過去世の修行の姿として述べられています。



ここで有徳王は覚徳比丘を守るために戦を行い、結果として満身創痍で死んでいくのですが、その正法を守り抜いたという功徳で、次の人生では仏の一番弟子になったという話です。
また釈迦はこの説話を通して「是の故に法を護らん優婆塞等は応に刀杖を執持して擁護すること是くの如くなるべし」と述べています。

つまり大事なものを守るためには武器を持って戦えと言っている訳です。

また日蓮も「数珠丸」と呼ばれる太刀を常に所持していましたし、元寇の時に「もし」幕府の詮議に日蓮が加わっていた場合には、けして日蓮は単純な「非暴力」という言葉は言わなかったと思います。(まあ歴史に「もし」は厳禁だと言いますけどね)

「夫れ釈迦の以前仏教は其の罪を斬ると雖も能忍の以後経説は則ち其の施を止む」
(立正安国論)

日蓮の場合にはこういった仏教故事の中にある数々の過激な言葉について、「能忍の以後(釈迦出世以降)」には「斬る(殺)」では無いという事は述べていますが、ただ「生命は尊極な存在」と言い、いかなる場合でも「戦=戦争」というものを否定するという単純なものではないと考えています。

生命とは法華経の中に表れる「宝塔」で表現される尊極なものである。
しかしそういった生命は「十界互俱」であり、仏の生命もあれば、三悪道・四悪趣の生命も厳然として備わっている。

その観点では単純なる「ヒューマニズム思想」となる訳はないのです。

この事については、もう少し掘り下げてみる必要があるようですね。
続きます。



【20160306】平和について考えてみる⑤

こんにちは(´・ω・`)

さてさて今日は日曜日。
そう言えば「本部幹部会同時中継」というのを、いまだにやっているんですよね。
僕が以前に参加した時、驚いたのは、矢野絢也元公明党委員長との裁判で、創価学会としては「和解」という事が成立した時に、この本部幹部会同時中継の席上、当時の青年部幹部が「矢野裁判に大勝利する事ができましたー!!」と発表していた事です。

「お前、それは勝利ではなく和解だろ?」

そう思ったのですが、周囲を見ると参加者は満面笑みの大拍手で、その現実を知る由もなくその青年部幹部の言葉を信じ切っている様子。

「こんな組織では、先は長くないなぁ・・」

そう実感した事を覚えています。
だから僕は本部幹部会に、今は参加すらしていません。
もうアホらしくなってしまいましたから・・・・

さてここから本題です。
日蓮大聖人仏法は「生命尊厳の宇宙の法則」と、僕なんかは教わってきました。



確かに法華経では大宝塔が出現し、人間の内面には仏性というものが存在し、それぞれが尊極な存在であるという事を述べています。

でも同時に生命の「実相」として「一念三千」という法理も説かれています。
まあ実際に「一念三千」という理論を構築したのは釈迦ではなく、中国の天台大師だと言われていますが。

まずこの「一念三千」について復習してみましょう。
この「一念」とは「生命の瞬間」の状態は三千の中のどこかに常に包含され、それが瞬間瞬間、切り替わるという事を簡単に言えば述べています。

この三千の内容とはどういったものなのか。
これは・・・

(十界)✕(十界)✕(十如是)✕(三世間)=三千

となっている訳です。
え?これが「平和」と何が関係あるかって?
もう少しお付き合い下さい。

十界とは以下の世界ですね。

 地獄:苦悩の世界
 餓鬼:モノや精神的に飢えた世界
 畜生:本能に支配された世界
 修羅:他に勝ろうと争う世界
 人 :平穏で落ちついた世界
 天 :欲が満たされ、喜びの世界
 声聞:事象の真理を学ぼうという世界
 縁覚:縁に触れて事象の真理を悟る世界
 菩薩:他者に施し、同苦して助ける世界
 仏 :仏の世界

この十界にそれぞれ十界が供わる事を「十界互俱」と言いますが、それは具体的にどのようなものなのか、それを以下に幾つか示します。

例えば泥棒というモノに飢えて人の所有物を奪おうとする人であっても、もしかしたらその泥棒は家族を養う為にその様な行動をしているかもしれません。
これは餓鬼界所俱の菩薩界です。

人を救いたいと願い、あえてその人の苦悩を背負い込み苦しむ姿。
これは菩薩界所俱の地獄界です。

戦争の最中、動物を見つけそれを慈しむ。
これは修羅界所俱の菩薩界です。

苦しみの中でも人生の何かを理解する。
これが地獄界所俱の縁覚界です。

そもそも十界論とは、それぞれ瞬間瞬間の生命の状態を分類したもので、それだけではそれぞれ独立した世界であり、生命の動きの複雑さや多重性を説明する事が出来ません。
人間の心の動きとは何も二次元的な平べったいものではなく、この様な相互構造的な動きをする事を「十界互俱」という事で表現をしています。

そしてこの多重性のある生命の動きは、様々な姿や働きとして目に見える形で出てきています。
これを説明しているのが「十如是」というものです。

この十如是という事については、本サイトの「諸法実相」という説明に記載しているので、そちらを参照してください。

そしてこの十如是という姿は、個人的な世界(五陰世間)だけではなく、衆生世間(社会や国家)、また国土世間(存在する環境)との密接な関係を持つ事になります。

以上が簡単な説明となりますが、「一念三千」という法理です。

人間だけではなく、この世界に生きているすべての生命の奥底には、この法理が厳然と備わっているという事を仏法では述べています。
そして戦争とは「修羅界」の生命であり、そこを因として起こる「地獄界」「餓鬼界」「畜生界」といった生命の状態の上の行動であるとも考えるのであれば、十界互俱という事から言えば、絶対に排除する事が出来ない、「生命の業」ともいうべきものではないでしょうか?

この事から、まず理解をしなければならないのは、生命というのはそういった世界を常に持ち合わせているという現実です。

少し日本の昨今の情勢を元に考えてみると、「非武装中立であれば、日本の平和は維持できる」という幻想があるのではないでしょうか?

『SEALDs抗議に行ったら、福岡の大学生がスピーチ中。「もし本当に中国や韓国が攻めてくるというのなら、僕が九州の玄関口で、とことん話して、酒を飲んで、遊んで、食い止めます。それが本当の抑止力でしょう?」真理だ。』

この言葉は昨年8月(2015年8月)にSEALDsに関係している福岡の大学生の言葉として、ツイッターで取り上げられた言葉ですが、これはそういった思想の代表的なものではないでしょうか。

例えば某国が軍事的な行動を起こし、日本の福岡に軍隊を上陸させてきたとしましょう。
これか某国の国家として決断し、その元で軍隊という組織を動員している状況なのですが、そういった状況であっても「酒を飲んで、遊んで、食い止める」とマジメに答えているというところに、先に述べた「平和維持」に対する安易さが出ていると思うのです。

非武装中立を貫くのであれば、また非暴力を貫くのであれば、そういう状況を作り出してはいけない。作り出す以前に、そういった事を防ぐ手立てを考えなければならないはずです。

人間というのは、またその集団の国家というのは、十界互俱であり、そういった行動を取りうる可能性はあるという事を認識の上で、どの様にそのような状況を生み出さないで進めて行くのか、そういった観点は最低限でも持たねばならないでしょう。

戦争や紛争には必ず相手がいます。
相手のいない戦争や紛争というものはありません。

憲法九条で言う「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。 国の交戦権は、これを認めない。」という言葉。そしてその中にある「永久にこれ(武力の行使)を放棄する」というのは、丸腰でこん棒の飛び交う世界の中で生きていくという事の宣言ですが、そうであればそれなりの事前の策という事について、常に意識をしていない限り、「国際平和を誠実に希求」という事にはなりえないと思います。

人間の生命の法理を学ぶものとしては、そういった事を考える必要があるのではありませんか?


【20160305】平和について考えてみる④

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

前文無く、いきなり本題です。
さて、平和を考える上で大事なこととは何か、それは個々の価値観だと思います。

これは想像なのですが、人類の全ての人たちが、同じ価値観、同じ目的の元で生きていければ恐らく戦争もなく、平和な時代になると思いますが、どうでしょうか。

しかし人類社会というのは、良くも悪くも多様な世界です。
欧米などでは科学を研究し、先日では「重力波を観測した」と喜ぶ人達もいる一方で、未だに石器時代さながらの生活を送っている人達もいます。

民族も多種多様で、世界中に数多な民族がいて、その思考法も様々でしょう。日本では「謙譲の美徳」というのもありますが、中近東では「ベドウィン的思考」もあったりして、日本人からすると「??」となることも当たり前の思考として存在します。

またそればかりではありません。
宗教などがその上にモザイクの様に覆い被さり、もう何が何だか解らない状況とも言えませんか?

「鬼神乱れるがゆえに万民乱れ」は立正安国論にある言葉ですが、これは元々が中国道教の墨家思想を縁源とした言葉で、要は社会の中の善悪の基準が混乱するから、人々は混乱し、社会も混乱するという事を述べたものです。

民族や文化、宗教が異なれば、善悪の基準も違いますので当然混乱します。
こりゃー戦争が世界各地で起きても、ある意味で当たり前という事です。

創価学会では日蓮仏法を普遍化して世界宗教にすると主張し、それを広め、信じる人を増やす事を「世界広宣流布」と呼んでますが、こういった人類のモザイクの中で、思想面から共通化することで平和な社会を作ることを述べているのかと、僕なんかは認識していました。

でも実際に創価学会は日蓮仏法を普遍化出来るのでしょうか?
人類の中に普遍的な価値観や思想を流布出来ますか?

それは無理でしょう。
恐らくその「無理さ加減」を一番理解しているのは、僕は信濃町界隈の人々だと思いますよ。

だから日本国内の選挙に現を抜かし、機関誌啓蒙という営業活動や、折伏と呼んでいる新規会員獲得の事ばかり進めているのだと思います。

今の創価学会に「思想」の「し」の字が残ってますか?
それが何よりの証拠です。

そもそもですが、法華経に書かれていた「広宣流布」とはそんな創価学会の思惑の事だったのか?

僕は違うと考えています。

この広宣流布の語源は、法華経薬王菩薩本事品の以下の言葉です。

「是の故に宿王華、此の薬王菩薩本事品を以って汝に嘱累す。我が滅度の後後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶して悪魔・魔民・諸天・龍・夜叉・鳩槃荼等に其の便りを得せしむることなかれ」

ここでは宿王華菩薩に「後々の五百歳の広宣流布」を託しています。何故、宿王華菩薩なのか、それはさておいて「広く宣べ流布する事」が広宣流布であるならば、それは組織的な拡大などではなく、あくまでも思想的な展開であり、その思想の流布を言うわけです。

であれば創価学会は、もっと思想的な展開について力点を置くべきなのですが、現実的には全くと言って良いほど、それが為されていません。

池田思想を広げることではなく、法華経を中心とした思想を宣べなくてはならないのです。
しかし創価学会の組織の中では、池田名誉会長の過去の実績と言葉を礼賛する事があったとしても、そこに法華経の哲学性というのはありませんよね。

この事については活動家幹部と懇談すると、よく理解できます。
「法華経」は「御本尊」と理解しているだけで、だから「御本尊」の授与を拡大する事が、さも法華経の思想の流布だと勘違いをしています。

だから法華経や日蓮の事を語ったとして、ほぼ話がかみ合いません。

だって「教学研鑽」を軽視しているくらいで、そんな研鑽よりも今の時期だったら公明党の票を獲得する事の方を重要視しているくらいですからね。

そんな組織が「思想の流布」なんてできると思いますか?

とまあ、そんな事を考えていますので、僕は僕独自でこの「平和」という事について、僕が学んでいる範囲ではありますが、「平和」という事について思考を掘り下げてみたいと思っています。

次回からこの考えについて少し書いていきたいと思います。

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