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想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   

【20170615】竹入公明党委員長の池田会長批判の雑感

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

「蓮の落胤-創価学会、話そうか」というブログに興味深い記事がありましたので、少し記事として書いてみます。

(参照ブログ)
池田会長と公明党の不一致(1975年、竹入公明党委員長の池田会長批判)

ここのブログ記事は、毎回興味深く読ませてもらってますが、今回の池田会長と竹入元委員長との不一致という事についても、なかなか興味深い内容でした。

ここ近年の公明党の迷走振りは、昔活動家幹部であった僕の目から見ても酷いものです。

現実の政治に対応するのだから、単純なイデオロギーだけで動けない事は僕も理解はしています。しかしここ最近の「安保法制」や今回の「共謀罪」への対応は特に酷すぎます。

これは何も僕だけではなく、例えば創価学会と関係していたガルトゥング博士も池田会長に公開書簡を送ったりしていましたが、それについては無しの礫です。また活動家幹部の中にも少しずつですが、疑念の波紋が出てきている様にも感じます。

この公明党。立ち上げたのは池田会長であり、その池田会長が健在なりし頃、選挙が近くなる度に公明党を批判しつつも、その支援について組織末端の会員にお願いしていましたし、末端会員はその言葉から「池田先生にお応えしよう!」と支援活動に没頭してもいました。

池田会長が表から消えた昨今では、表向きはたまに創価学会と公明党の意見の相違が見えることもありましたが、実際に様々な情報を見てみると、公明党は創価学会の政治部門として完全に機能し、信濃町界隈としても組織の引き締めにも役立つと選挙活動を利用、まあ完全なまでに創価学会の信仰の中に組み込まれ、結果として創価学会のいう信仰の中軸の一つとして支援(政治)活動が行われています。

つまり昨今の公明党の迷走振りとは、まごうことなく信濃町界隈の現実対応への迷走ぶりを現したものでしょう。

「公明党は創価学会を利用するな!」
「池田先生の原点に帰れ!」

等という意見も多くありますが、昨今の公明党の行動というのは信濃町界隈の指示のもと取られており、そこに関して言えば正に「異体同心」ともいうべきものです。そしてそれは現実を認識していないという現活動家幹部達の姿を的確に示したモノだと思います。

今でこそ信濃町界隈と「異体同心」の公明党の過去はどうだったのか。このブログではアメリカ公文書館のデジタルデータの中から、1975年、竹入公明党委員長(当時)が初めて駐日アメリカ大使と会談した時の公文書を見つけましたとありました。

そこで語られていた事について、和訳要文がありましたので、以下に紹介します。

『要約:公明党委員長の竹入は、大使との初めての会談中、国連大学の支援を要請し、池田‐宮本会談と創共協定を過ちだと表現し、日米関係の重要性を強調し、潜在的な自民連立政権のパートナーとしての公明党の責任を深く認識していると発言した。竹入委員長は心から親米的という印象を与えたが、もしその印象が違わない場合、公明党内には明らかな政策の差が存在する』

当時から公明党が自民党との連立を意識していた事は、特に驚くに値しません。これと似たような話は元参議院議員の平野貞夫氏の手記や、元自民党幹事長の野中広務氏の著書にも同様な事が書いてありました。

また池田会長が行った「創共協定」への批判もアメリカ政府へのリップサービスという事であれば、まああり得る言葉でしょう。

しかし以下の言葉については、様々な事を考えさせられますね。

『竹入委員長は、非学会/公明党系の推測に言及し、池田会長の(創共協定に対する)考えられる動機に言及した。
 (A)池田会長が単純に宮本委員長にしてやられた。
 (B)日本共産党は池田会長の弱みを握っている。
 (C)池田会長の世界の指導者との対談が、池田会長をわがままで傲慢にした。
 (D)池田会長はノーベル平和賞に執心している)』

ここで竹入委員長は池田会長の人物像について率直に言及しています。

彼の元東京都知事であった石原慎太郎氏は池田会長をして「偉大なる俗物」と呼んでいましたが、ここでの竹入委員長の発言からも、彼が池田会長に対して同様な認識であったことが伺えます。そしてその様な認識の人物が、公明党を率いており、その当時から公明党は創価学会の絶大なる支援の下で政党として活動をしていたというのです。

これは単に「創価学会と公明党は異なる意見を持っていた」という以前に、根深い問題がそこに隠れていたという事を顕してませんか?

以下、僕が感じた事についてつらつらと書き連ねていきます。

竹入義勝氏は大正十五年生まれ。戦後、国鉄勤務を経て昭和二十八年(1953年)に創価学会に入会。ここから見えるのは、竹入氏は戸田門下の一人でしょう。昭和三十八年(1963年)に東京都議に当選し、昭和三十九年(1964年)に公明党結成時に副書記長。昭和四十一年(1966年)に創価学会総務となり昭和四十二年(1967年)に国政に出てその後、公明党第三代委員長に抜擢された人物です。

竹入氏は戸田門下ですが、入信歴から見たら池田会長の三年後輩にあたります。彼が入信した時には池田会長は参謀室長として活動をしていた時期であり、「太作」を「大作」と改名するなど組織内では目立つ立場にあったと思います。

しかし戸田会長が亡くなった後に、創価学会総務となったという事は、戸田門下の中でも筆頭の一人であったと思いますし、おそらく信濃町界隈で池田会長の様々な実像を見てきた人物ではないでしょうか。

その人物が池田会長を「偉大なる俗物」という様な見方をする一方で、その池田会長のカリスマ性を利用して自身の政治活動に利用していたという事は明白であり、その竹入氏に対して公明党を預けていた池田会長は、ある意味で竹入氏が自身を利用したと同様に彼を池田氏も利用(重用)していたという事ではないでしょうか?

竹入氏から見たら先輩とは言え、同じく戸田門下の仲。今の創価学会の様に「池田門下」などではなく、あくまでも兄弟弟子という関係です。そこには池田会長への盲信というのは無いと思います。

その後、公明党の委員長を平成二年(1990年)辞任し最高顧問に就任。しかし平成十年(1998年)になり創価学会の池田会長に反旗を翻す事となり最高顧問を辞任、以降に「仏敵・竹入義勝」と組織内では呼称される様になりました。

もしかしたら竹入義勝は晩年になり、長年持っていた池田会長への不信を爆発させ、一方の池田会長は公明党に池田門下が増えた事もあり、竹入氏に組織を挙げての大反撃。その結果の泥仕合だったんではないのかとも思えます。
そして当時、同じ戸田門下であった秋谷会長をはじめ信濃町界隈は、竹入氏と同じ様な不満や不信を池田会長に持ち合わせていたが、未だ反撃の時ではないと雌伏していたという事は考えられませんか?

創価学会の内部で語られる「戸田門下-第三代への継承の物語」とは、あくまでも作り話であって、同門の戸田門下の内部では、池田会長と反池田会長の派閥が当時から存在し、池田会長ともども「呉越同舟」の仲で創価学会にいて、この組織を動かしていた。

実はその一端が先のアメリカ公文書館に保管されていた文書に表れた。
そんな感じに思えた次第です。

でもそうであれば、、、昔からくだらない組織だったという事ですね。
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