忍者ブログ

想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   
カテゴリー「教学随想」の記事一覧

【20170915】七重の相対(五重の相対)考察

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

この連休は台風が日本を縦断するようですが、連休は来ないで欲しかったなー。
でも相手は自然なんで、どうにもならないし、人間社会の都合なんて関係ないですからね。

皆さん、この連休は雨風には十分に気を付けましょう。

さてTwitterでトンチンカンだなと思いつつ、七重の相対なんてのを書きましたが、今の創価学会の中では何気にありそうな事なんで、五重の相対からはじめて少し考え直してみたいと思います。

五重の相対の雛形的な思想は天台の教義の中にもあったようですが、五重となると日蓮の思想だと言っても良いでしょう。この考え方は互いに相対比較して、何れが正しいのかを判別する思考(判釈)なのですが、まずは各相対について考えてみたいと思います。

1、内外相対
内外とは「内道」と「外道」を相対する事で、内道とは仏教で外道とはそれ以外だと言います。
そもそも何故仏教を「内道」と言うかですが、これは物事の因果を自身の内側に見るという事を指し、仏教はそういう思想であるから「内なる道」で内道と呼んでいます。
一方、自分以外の外側に神など何者かを立て、そこに因果を見るのが外道だといい、日蓮のいた当時では道教やバラモン教を外道と呼び、今の創価学会では仏教以外全て外道と教えています。
しかし昨今のキリスト教の神学とかの議論を見ていると、自分の中に神を求め、内省的な思想が見られるので、強ちキリスト教だから外道と言えないと思います。
また創価学会の中でも文字曼荼羅を御本尊様と呼ぶのは良いのですが、あたかも万能の力を文字曼荼羅は持つ存在と捉え、「御本尊ちゃま!お願い!とお祈りすれば叶います」なんて指導がまかり通りますから、これは外道の一分に入ると思いますよ。

2、大小相対
これは仏教の中にある大乗教と小乗教という二大潮流を相対比較する事を述べてます。ここでいう小乗とは、今で言えば南伝仏教を思い起こします。そこでは最高の悟りを阿羅漢果(声聞の悟り)として、主に出家して修行に励む個人の救済に力点を置いている仏教を云います。大乗教とは北伝仏教で、いわゆる中国や日本に伝播した仏教で、人々は菩薩の行いをする事で、万人に成仏の方途があるという教えを云います。
要は一人を救済する教えか、万人を救済する教えかという判定をするわけですが、形として大乗仏教であっても、人々の救済に目を向けないものは小乗仏教にも劣るものであるので、一括りに「大乗仏教」や「小乗仏教」とは言えませんよね。
例えばインドで一億人の人々に仏教を広めたという佐々井秀嶺師は南伝仏教の教えを持って行動してます。一方の創価学会は大乗の教えと云いながらインドのハイ・カーストしか相手にしてません。
一体どちらが仏教の本義に近いのか、考えてみたら判るでしょう。
単に奉じている教えが小乗か大乗かという問題では無いのです。

3、権実相対
こちらは法華経以外の権経と、法華経を相対して判釈するもので、法華経こそ釈迦の本意であり、それ以外は仮の教えであるという事で判釈してますが、最近の研究では法華経の成立は釈迦滅後五百年頃だと言われていて、釈迦直説でないのはほぼ確定しています。また法華経の成立についても、実は詳細な事は解っていないので、単純な判釈は出来ないと思うのです。
しかし多くの弟子たちに成仏の記別を与え、久遠実成を通して仏はけして自身の外に居るわけでもなく、ましてや何かで得られるものではない。人は元来、仏であるという思想はとても魅力的で意味ある内容だと思いますよ。
そういう点では法華経は優れているのでは無いかと思いますが、この判釈では権経を捨て去るというものではありません。
やはり仏教哲学とは、実経と権経ともに必要であり、主軸をどちらに置くのかという事だと思います。

4、本迹相対
これは法華経の本門と迹門の相対判釈ですが、久遠実成が説かれている本門が重要だという事ですよね、詳細は省略します。

5、種脱相対
これは日蓮仏法と釈迦仏法の立て分けを言っていて、久遠下種の釈迦仏法は下種を気づかせ悟らせる事、これを脱益仏法と呼んでますが、それに対して、日蓮仏法とは仏種の無い人々に、下種を施す仏法だと言うのです。
これは日蓮独特というよりも、どちらかと言えば興門流の考え方では無いかと思います。そもそも久遠下種の衆生と下種無しの衆生とは、どの様な違いがあると言うのでしょうか。もし違いがあると言うなら、何時の時代から綺麗に切り替わると言うのでしょう。また「富士一跡門徒存知事」にも日蓮は釈迦久遠の弟子の上首である上行菩薩の再誕としてますが、何をもって日蓮仏法は釈迦仏法と違うのか、そういう疑問点が多くあります。
この下種日蓮仏法という思考、またそこから派生したであろう日蓮本仏論が、結果として門下の中に、仏教軽視を産み出してはいませんか?
確かに日蓮の説いた教えの解釈は、それまでの仏法に対して一重深く立ち入っていると思いますが、それは釈迦の説いた教えと別のものではありません。

僕は個人的にこの立て分けについては、もう少し丁寧な議論が必要だと考えています。

6、創宗相対
ここからは近年の創価学会の動きから、勝手に読み取ってます。あくまでも創価学会という立場からであり、そもそも宗門にはこう言ったものは存在しません。
創価学会と宗門教学。これは共に根っこを辿れば大石寺教学であり、戦前の宗門の説いた教えが基本になってます。
牧口会長は大石寺の教えでも、自身の価値論を用いなければ功徳は得られないと云い、戸田会長は生命論、そして池田会長は人間主義を用いて大石寺の教えを独自に展開したと言っても良いでしょう。
そして第二次宗門問題を境にして、創価学会ではその様な創価学会の教学こそが世界宗教に合い相応しく、宗門の教えは「富士宮の山寺信仰」と切り捨てたわけです。
そして創価学会の展開する日蓮仏法こそが民族や思想を越えて人類を結びつけると自画自賛したわけです。

7、池創相対
そして近年では、従来の創価学会の思想から、池田哲学という名前に切り替え、近年の古今東西の思想のパッチワークを中心に据え、池田会長のカリスマ性を異様に高め、かの御仁を永遠の指導者に祭り上げ、その元に団結して進む創価学会という組織を独自の解釈で「創価学会仏」として祭り上げ、SGIも日本創価学会の一部門とし、御大のカリスマ性を傘にきた会長を最高位に祭り上げる会憲なるものを制定しました。

従来の戒壇大本尊を受持の対象とせずと云い、日寛教学は見直すと語り、日蓮の出世の本懐の解釈も変更。ここに来て本仏論まで消そうとしています。

僕は昨今の創価学会この教義の一連の内容について、教学的な観点や歴史的な観点で解らなくも無いですが、今の創価学会にはそういう地に足の着いた議論で決めた訳ではなく、何か行き当たりばったりの動きにしか見えないんですね。

また活動家幹部連中も、こういう事には一切無関心で、異口同音に「お元気な池田先生」で終わらせている処には異常さを感じます。

創価学会仏とは、実は悩乱した仏ではないのか?

七つをこうして並べてみると、改めて創価学会のおかしさを実感するのは僕だけでしょうか。

もう止めてほしいな、こんな事。
PR

【20170830】師弟論再考

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

残暑お見舞申し上げます。
一日中、事務所にいると分からないのですが、出退勤の時には嫌でも外を歩かねばならず、そこでいつも汗だくになってしまいます。

そう言えば以前に営業に出歩いていた頃、どんなに暑くても背広の上着を着てました。

お客に依っては居るんですよ。
「お前の会社はスーツも着ないで客の処へ来るのか!そんな礼儀知らずな会社なんかとは付き合えん!」と怒り出す爺さん幹部のいる会社。多くは零細企業でしたけどね。

その当時に比べたら、まだまだ楽しているんですよね~。

さて、今の創価学会の教義の中心は「師弟不二」なんですね。

それこそ安保法制で賛成の署名活動を行い、その集めた署名簿を自民党本部に持ってって「是非とも安保法制の成立を!」なんてやる人も「我こそは本門の池田門下!」といい、逆に安保法制に反対で、国会の前で三色旗を降りまくり、「公明党は池田先生を裏切るのか!」という人も「我こそは本門の弟子」を名乗っています。

つまり創価学会の信仰の中軸には、どんな立場の人がいようとも、池田名誉会長が鎮座している。まあかようになってます。

一人の人間が述べた教説が、それぞれに分派して別れていくのは、世の常で、逆に全くもって思想のコピー人間が作られるという事はあり得ないわけで、そこから考えれば今の創価学会の姿も理解出来るというもの。

過去に正木元理事長が「組織の分裂を防ぐには師弟しかない!」と述べていましたが、逆に師弟に凝り固まらせた結果、組織の中に見えない亀裂を多く生ませたというのは何とも皮肉な結果です。

そんな中、「今の創価学会の姿になった責任は弟子の責任であり、師匠(池田会長)に負わせるものではない」という意見もあったりします。しかし今の創価学会の思想の傾向、また組織文化を醸成したのは、間違いなく池田会長であって、弟子たちが自主的に自らの思想で作り上げたものでしょうか?

過去に池田会長は「師匠は針で弟子は糸である」という事を述べていましたが、方向性を指し示したのは池田会長であり、良くも悪くも弟子と自称する人達は、その池田会長の思想を我が身に宛てて進んできたわけで、その結果が今の創価学会という事を理解すべきです。

確かに、日本人的な浪花節の台詞で「池田先生は悪くない」というのは理解出来ますが、なぜこうなったのかを冷静に省みれない限り、結果としてその「師匠」が残した実績というのは歴史に残す事はできないでしょう。

「從籃爾青」は天台大師の言葉であり、青という色は藍色から出るが、藍色よりも鮮烈に青いという事から、弟子は師匠を越えるモノだと例えています。

弟子が師匠を越え、その弟子の実績を発展継承するから、師匠の名前は弟子の上に残るわけで、その師匠を越えない限り、弟子は埋没し師匠の名前は歴史から消え去るというものです。

それでは今の池田門下の中で、池田会長を越えようとする人物がどれだけ要るんでしょうね。

多くはテープレコーダー宜しく各種の綺麗事の箴言を覚えて発言するのが精一杯で、池田会長の思想を更に発展的に展開している人物が居るのであれば教えてほしいものです。

どこにそんな人物が居るのか。

仏教の基本は演繹法であり、それは定理から各種の考え方を産み出すというものですが、これはその思想を自分の中で消化して、自分の言葉で発することが出来なければダメなのです。

今の創価学会の行っているのは「師匠無繆主義」を前提にした、思考の縛りの在る「師弟論」に過ぎず、結果としては新たな思想展開ができません。

まずは師匠という存在を、各自が客観視して、その行動と実績を評価できる様な思考にならない限り「池田哲学」とやらも歴史の中に埋もれ陳腐化の道をたどるでしょう。

「池田先生は悪くない」
「悪いのは弟子たちだ」
「その中心の信濃町界隈は極悪であり、徹底して叩かなくてはいけない」

という考え方や、

「池田先生は悪くない」
「悪いのは弟子たちだ」
「だから私達は信濃町を中心により邁進しなければならない」

ではなく「なぜ、この様な創価学会になったのか、池田先生は何を考え、何を実績として何を失敗したのか」を考えられる師弟関係を構築すべきなのです。

この事、果たして理解出来る「池田門下」はどれだけいるんでしょうね?

【20170827】「成仏観」て実は未定義では?

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

八月も今週で終わり、来週から九月になります。

もう今年も残り四ヶ月、三分の二は過ぎますが、個人的に本年の目標の進捗はまあまあという感じです。

あと四ヶ月の間に、どれだけの事が出来るのか、また来年の課題への準備も進めていきたいと思ってます。

さてここ最近、本サイトの更新も遅々として進まないのですが、これは一重に個人的なモチベーションの問題なんですよね。

うちの嫁は創価学会の中で活動家幹部をしてますが、僕は名前だけお付き合いで幹部していて、ここ最近では一切会合にも出てませんし、そもそも出る気もありません。

何か嫁伝で会合連絡とかありますが、僕自身「会合に出て、何が得られるというのか」と、そんな案内は無視してます。

教義改正もそうだし、ここ最近の時事問題についても語れない人たちを相手にするより、職場の人間と交流したり、子供達と時間を共有するほうが、僕の人生にとって価値あるものと感じてます。

そんなこんな考えていると、モチベーションも下がってくるんですよね。

さて、本日のTwitterで少し反応してしまいましたが、お題目を唱えて亡くなったとして、葬儀を念仏宗で出された事を例にとって、だから信心の継承が大事なんだという話がありました。

葬儀なんてのは残された人達が、ある意味で「気持ちの落とし前」を着ける場だと考えている僕からすれば、そんな事はどうでも良いじゃんと思うのですが、やはりそこまで拘りを捨てられない人達というのが、結構、創価学会の中には多いと思いますが、どうなんでしょう。

長年、創価学会の庭で活動に励み、それこそ創価学会と共に人生を生きてきた人達にとって、自分の葬儀が例えば他の宗派で行われるとしたら、心情として耐えられないという事もあって、先の発言になっていると思いますが、僕からしたらそんな事はどうでも良いことだと思うんですけどね。

日本では「死んだら人は仏様」という文化が形成されてます。これは恐らく日本人の中にある死者への尊崇する心情も後押しして定着した思想かもしれませんが、死ぬ時に仏教でいう成仏が決まるものでも無いし、そもそも仏教の成仏というものはそんな思想ではありません。

原始仏教の仏とは釈迦のみを指し、大乗仏教に於いては三世十方という世界の中には、多くの仏が居ると定義しています。

そして法華経以前の経典において、人は長い間、様々な仏の元で修行する事で、仏に成れる(成仏)という事を示していて、その延長線の一つに「死んだ人に引導を渡す=受戒して仏門に入れる」という事で、葬儀に坊さんが関わり、戒名を授けるという様な今の日本の葬儀が形作られているのかなと。

しかし法華経に於いては釈迦も実は元来から仏であり、この娑婆世界で常に法を求め、菩薩行を行っていたとして、そこで様々な人々を導くために「種々の因縁や種々の譬喩」を用いて「広く言教を述べ」てきた事を明かしました。

そこから見れば、従来の様にある時点で悟りを得て成仏するという事ではなく、あくまでも元来から自身は仏であるという事を、知見出来るか出来ないかという事に、成仏観は変化したのではありませんかね?

そこを考えたら、やはり葬儀なんてのは、通過点の一つに過ぎず、そんな事に拘りを持つ必要なんて無いのかと思うんですが、なぜそこに「創価学会の友人葬」という拘りと、「信心の継承」なんていう事が出てくるのでしょうか。

残された家族が故人をどの様に見送り、そこで気持ち的なけじめを着けるのか、そこだけの話であって、要は亡くなる故人という事、またその成仏という事には、あまり関係しない事だと思うんですけどね。

確かに親から子供への継承という事は大事かもしれませんが、その事と創価学会の信心は別物だと思いますし、残された家族が他の宗派で葬式を出したのであれば、そういう継承をしたというだけの事でしょう。

創価学会では「宿命転換」とか「三世永遠の幸福」とか言ってますが、そんな人生の中のある時点を区切りとして、苦悩が無くなり、そこからひたすら幸福を謳歌できるなんてのも、仏教の成仏観とは違うと思います。

しかしそんな事について、個人としてしっかりと思索をしていないから、そんな葬儀の事や信心の継承なんて言葉が出るのかなと、僕は考えています。

そんな事なんてありゃしないのにね。

人生とは苦楽が常に付き物で、この娑婆世界に生を受けるという事は、そういう苦楽が付きまとうもの。

そういう事なのではありませんか?

【20170815】仏と成仏という事

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

今日は終戦記念日ですね。
何はともあれ戦乱とは縁の無い平穏な生活に感謝する日と考えたいです。

「恒久的な平和なんて人類の歴史にはなかった だが何十年かの平和で豊かな時代は存在した 要するに 私の希望は たかだか この先数十年の平和なんだ」
(銀河英雄伝説、ヤン提督の名言)


さてがらりと変わり本日のお題です。
いま妙法蓮華経を読んでますが、読めば読むほど「成仏」とか「仏」というのが解らなくなってきます。

いや、解らなくなるというのは語弊を産みますね、自分の中で意味合いが変化してくると言った方が適切かもしれません。

思うに釈迦という名前は出地の部族名が由来と云われ、仏陀というのは悟った人、ゴーダマ・シッタールダとは姓が「ゴーダマ氏」の中で悟った人という意味合いがあるそうで、実は釈迦の実名は判っていないそうです。

仏教の始まりは、釈迦が出家して游行し、苦行を行い、それに見切りをつけて菩提樹の下に座して降魔の末に「悟り」を開き、仏となったという事からでした。

しかし初転法輪と言われているバラナシで五人の比丘への説法を終えたとき、釈迦は「これで阿羅漢が六人となった」と語ったという記録もあり、当初から「仏」とか「成仏」という概念があったのかどうか、そこは実は定かではありません。

しかし原始仏教において釈迦は「仏」と呼ばれ、「成仏(悟り)」した存在とされました。そして仏教では釈尊を「仏」という存在として渇昂し、その説き残した教えにより「成仏」を目指すようになったのでは無いでしょうか。

仏教は釈迦滅後に部派仏教となり多く分派して様々な解釈が誕生していきました。しかしその流れの中で、恐らく出家者と在家の関係、また教条的な流れなども起きて、本来仏教とは人々に寄り添う教えであったものが一部の特権階級の占有物となり、また釈迦滅後に釈迦を渇昂し、新たな仏教運動が勃興、これが大乗仏教運動だったわけです。そしてその中心の経典として法華経は成立をしました。

僕は原始仏教にはあまり明るくないので知りませんが、法華経を読む限り、この仏と成仏という概念が大きく変化したのでは無いかと思っています。

法華経の迹門に於いて、釈迦の弟子達は次々と「成仏の記別」を与えられます。この記別ですが、間違えてはいけないのが、あくまでも「遠い未来世に於ける成仏」なんですね。即身成仏という事ではなく、貴方達はこれからも長い期間の修行を重ね、遠い未来に仏となれるのですよと云われたに過ぎません。

しかし他の大乗経典等では、二乗なんて未来永劫仏になんか成れるかい!と云われていた事からすれば、これ自体が革命的な事であったのでしょう。

釈迦の弟子達は喜んだ事も、そこから考えれば理解出来る事かと思うのです。

そして地涌菩薩の出現により、その尊極な姿や無量の人数から釈迦の成仏の歴史に疑問を持つわけですね、法華経に集った人々は。

「お釈迦さんはこの過去世の長い間、修行を重ね、やっとこの娑婆世界で悟りを開いて仏になったんじゃなかったの?」
「何故にこんだけ多量な人々、しかもお釈迦さんより姿も立派で貫禄あるし、これはどういう事なんですか?」

これは当たり前の疑問です。そこで釈迦は久遠実成を明かすんですね。つまりそれこそ宇宙の始まりよりも前から、実は仏であり成仏していました、という事をです。

これを聞いた時に、対告衆だった弥勒菩薩は何をおもったのでしょうか。。。

となる訳ですが、この法華経は作り話なんですね、もしかしたら原型となる思想を釈迦は語ったのかもしれませんが、そこは良く解りません。
この法華経に出てくる舎利弗は、釈迦のこの年齢の時には既に故人であり、目連も舎利弗と同じく故人だったことが解ってます。

この法華経は釈迦滅後、数百年経過して大乗仏教の勃興と同じくして成立しています。

それまでの仏教では仏とは釈迦一人であり、多くの修行者は阿羅漢果という、いわば声聞の悟りを目指していたのかもしれません。

しかし大乗仏教では宇宙の中には多くの仏が存在し、釈迦もその一人だという位置付けと共に、修行者でも釈迦の過去の物語であるジャータカ伝説にある様に仏に成ることが出来ると説いたのです。

その最高峰の経典では、実は釈迦は元から仏であり、遠い過去に成仏していたにも関わらず、常に苦悩を感じながらこの娑婆世界で菩薩の行いをして、法を求めていた存在だとしたのです。

この段階で、既に仏教の中にあった「仏」とか「仏に成る=成仏」という概念が大きく変化したことになります。

そして法華経迹門で、各弟子達に「遠い未来に貴方は成仏する」という約束も、意味が変わるという事になりますよね。

釈迦も元来から仏であり、常に菩薩の道を行じてきた。仏と言っても常に娑婆世界の中で苦悩の中で法を求めて生きてきた訳ですから、釈迦の弟子や、ましてや大乗仏教を信じて修行してきた人達も、それぞれが元来仏だったという事になる。

「但方便を以て衆生を教化して、仏道に入らしめんとして是の如き説を作す。」

また爾前経において、例えば燃橙仏等の諸仏の説話や出家して悟りを開いた、また涅槃に入るという事もすべてが人々を「仏道」に入れる為の方便であったと述べています。

つまるところ「成仏」とか「仏」というのも、いわば方便であり、大乗仏教の本当の目的は一人ひとりが元来から仏であり、その自覚に立った人生を生きること、これを「仏道」と呼び、その自覚に基づいた人生を送らせる事にあったのかもしれません。

大乗仏教の最初の説法者は解りませんが、釈迦の説き起こした仏教から、そこまで思想的に発展させ、仏教にその様に解釈を与えたのが法華経である。

そんな事かもしれませんね。

【20170809】教学試験に関する雑感

こんにちは(´◉◞౪◟◉)

いや~・・・暑いですね。
車で移動していますが、車のコントロールパネルに出てくる外気温が「36℃」でした。こりゃ殺人的な気温ですね。
先ほどから携帯電話にも、地元の地方自治体から「熱中症警報。原則、外での運動は禁止」という様なメールがビンビン届いてきています。台風一過の天気なんでしょうが、こりゃ人間にはきつい天候ではないでしょうか。

さて、創価学会では教学試験の真っ最中。
講師をする人も大変でしょうが、受験させられる人も大変ですね。仕事の都合をつけて勉強会に参加したり、講師する人もそれぞれ都合をつけて駆け付けたり。これはある知人から聞いた事ですが、昔、分県で教学試験の勉強会を行い、そこに全国幹部を招聘した事があったそうです。

受験者は時間になるとほぼ全員揃ったそうですが、肝心の講師である全国幹部が時間になっても連絡一つなく会場には来なかったそうです。そこで業を煮やした当時の県男子部長が講義を開始、三十分以上遅れて当の全国幹部は会館に来たそうですが、何を考えているのか、応接室にまず向かい、接遇の女子部から冷えた麦茶をもらいゆっくりと飲み。そこで十分ほど休憩してから会場に入ってきたそうです。

「あいつらは何を一体考えているんだ!!」

当時の県男子部長は怒り心頭に達していたそうですが、当の全国幹部は謝罪の一つもなく勉強会を終えたらさっさと会館を後にしたそうです。

この話を聞いた知人も、当時は役員で参加していましたが、所謂「信濃町界隈」のこういった行状には呆れ返ったと言っていました。

創価学会の会則改正をして、主要教義まで改正してからの教学試験。果たして創価学会は会員にどの様な事を教えようとしているんでしょうね。本来ならば過去の整合性を考えると、教学試験以前に、この教義改正の内容の事について組織内で周知があっても良さそうなものですが、僕の周囲を見る限り、その様な事を実施した形跡はありません。

まあ僕なんて地元の後輩である幹部が来た時に、この事について良く問い詰めますが、「運ちゃんさん、そんな事を言っても池田先生はしっかりお考えになっていると思います。それに幹部も馬鹿ではありませんから心配ないですよ。そんな事より”一人の人間を大事にする”という真心で、この信心の功徳を教える為に活動に励む事が大事なんです。」で終わりますからね。

本来、宗教団体というのであれば、その教え広げる「教義」はとても大事だと思います。だって宗教とはその「教え」により人々の救済を目指すのではありませんか?

今回の教学試験で「日顕宗を破す」なんてやってますが、その大石寺の教義でも、創価学会の様な適当さなんてありませんよ。善い悪いは別にして。これは富士大石寺顕正会とて同じ事。
創価学会ではこの教義を曖昧にしたまま、今回の教学試験を実施しているんですから、そのテキトウさには僕は辟易しています。教学試験を推進する現場幹部の中にも、そういった意識は一切なく、ひたすら受験生の応募に励んでいるんですからね。

まあ創価学会では「功徳(御利益)信仰」なので、要は「信心の功徳(御利益)」さえ出れば、教義なんて関係ないのかもしれませんが、果たしてそれで良いんですかね?

教材で「立正安国論」なんて取り上げていますが、日蓮がどの様な思いでどういった内容を認めているのか、講師をやっている人でも理解していないのが多くいます。せいぜい大白蓮華を棒読みして、試験対策として「こういう答えは〇(正解)」とか言って暗記させるのが関の山だと思います。

また法華経なんて学ばせていますが、どこまで法華経の事を理解しているのか疑問です。
僕自身、いま「妙法蓮華経並開結」に取り組みながら、法華経に書かれている内容を読んでいますが、はっきり言ってとても難解で、ちょっと読みでは単なる物語で終わってしまいます。問題はその物語の奥に何を語り志向しているのか、そこを読み解く事なのかと思いますが、それにはやはり仏教そのものの成り立ちを最低限知らなければダメでしょう。

しかしそういう事を踏み込んで語れる人の多くが、実際には創価学会の組織から離れてしまっていますので、結果としては単なるイベントとしてしか機能はしていない様です。

まあ「試験」でしかも「マークシート」ですから、そこには「思索」が入り込む余地は無く、あるのは信濃町界隈の考えている「模範解答」を暗記して、選択するときに見つけられる「直観力」を養成するのが関の山という感じだと思いますよ。

できればね、、、講師をやる人に、こういった事情を理解した上で講義を出来る人が居ればいいんですが、それは望むべくもない感じですね。だって、本気でそんな事したら、おそらく受験生も混乱し、試験的には「不合格者」を大量生産してしまいます。そして結果、下手すれば組織の中で睨まれる危険性もありますからね。

僕自身、数年前には講義の要請も地元でありましたが、そういう事情も関連してか、最近ではめっきり話が来なくなりましたよ。

まあその分、自己研鑽が進みますけどね。

講師の中にはそういう事に気づきつつ、少しでも受験生の為になればと取り組んでいる人も居ますが、そういう人はあまり気負いせずに、何か一つでも受験生の中に植え込める様に、よろしくお願いしたいと思います。

プロフィール

HN:
運ちゃん
性別:
非公開

フリーエリア

バーコード

ブログ内検索

P R

忍者アナライズ

カレンダー

08 2017/09 10
S M T W T F S
2
4
10 16
17 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

最新コメント

[05/03 NONAME]

忍者カウンター

Copyright ©  -- 想学談林-管理者の部屋 --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]