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想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   
カテゴリー「教学随想」の記事一覧

【20171123】律国賊論①

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

この前までは「念仏無間」という事について書かせてもらいましたが、今回は「律国賊」という事について少し書いてみます。

日蓮の四箇の格言について、詳細を語れる人は、今の創価学会には皆無でしょう。
実際に布教の場でもそうだし、会合の場に於いても、こんな事を語る機会はないですからね。

僕自身、この四箇の格言が現代に通用する理屈だとは考えてませんし、先の記事でも書きましたが、既に既成宗派は社会的には「過去の遺産」「葬式の執り行い」位しか意味を為さないと考えています。

ただ何故、日蓮が当時にこの言葉を使い、既成宗派を指弾をしたのか。そこについて考えることで、別の事が見えてくるかもしれません。
だからそういう角度から考えてみたいと思います。

「律国賊」の理由については、御書には明確に書かれていません。しかし以下の文書から推察する事が出来ます。

「良観聖人の住処を法華経に説て云く「或は阿練若に有り納衣にして空閑に在り」と、阿練若は無事と翻ず争か日蓮を讒奏するの条住処と相違せり併ながら三学に似たる矯賊の聖人なり、僣聖増上慢にして今生は国賊来世は那落に堕在せんこと必定なり」
(極楽寺良観への御状)


ここでの良観とは、鎌倉にある極楽寺の開山です。良観房忍性といい、当時の鎌倉仏教界の中心人物です。
この良観房は律宗の僧侶でもありましたが、鎌倉の念仏者(浄土教系)の指導者念空道教が、良観房の師匠、叡尊に帰依したことで、忍性が鎌倉の律僧・念仏僧の中心的人物となっていました。

日蓮の伝記などの物語を読むと、良観房はさぞかし権力者に取り入った小狡い狡猾な極悪僧と捉えられてますが、貧民やハンセン病患者など社会的弱者の救済に尽力したことで知られる程の人物です。

しかし日蓮が鎌倉で弘教をはじめ、立正安国論を幕府に上呈してより、日蓮に対して一番敵対した人物と言ってよく、幕府の主要人物や、その身内に取り入り日蓮を潰しにかかった人物だったのです。

「国賊」とは国家を滅ぼす人物の事を言いますので、恐らく日蓮からすれば、この良観房忍性はそういう人物だと見ていたのでしょう。
つまり「律国賊」とは良観房やそれに与する人物などを指して指弾した言葉ではないかと思うのです。

「念仏無間」では法理の上から宗派を指弾してますが、「律国賊」という言葉は良観房及び関係者を指した言葉だとした場合、四箇の格言と言っても、その指弾している対象が異なる事になります。つまり「念仏無間」とは法義の上から指弾して、その法を広めた中心人物を指弾したのに対して、「律国賊」では、法義以前に日蓮の弘教を妨げる人物や関係者に対して指弾をした事になります。日蓮の御書の中では律宗に対して、様々な破折を加えていますが、「国賊」という事で述べている事については、どちらかというと良観やその一派に対して行っています。

良観房忍性は鎌倉仏教界の実力者であり、おそらく今でいう社会福祉関係にも取り組んでいた事から、人望は厚かった事が推測できますが、日蓮から見たら、そういった実力者であり、社会的にも名声があるにも関わらず、法華経を広めようとする事に対して弾圧を行ってくるという事から「国賊」という事で呼ばわったのかもしれません。

一方、良観房忍性から見た日蓮はどの様に映ったのか。
Wikipediaの「忍性」を見ると、この人はそれなりに苦労しながらも地位を確立してきた様に見えます。
日蓮が幕府に立正安国論を提出したのは文応二年(1261年)、忍性が四十四歳の時でした。

彼にしてみればようやく鎌倉で自身の地位を確立し、この翌年には鎌倉の念仏者(浄土教系)の指導者念空道教が叡尊に帰依しようとした時です。当時の日蓮は比叡山修学の僧侶として三十九歳でした。
忍性からすれば年齢も近く、自分は苦労して地固めしたにも関わらず、頭脳明晰で弁舌優れ、しかも幕府に対して鎌倉で地位が固まった忍性に知らぬところで意見書を提出した人物は、さぞ面白くない人物で妬ましくもあったのかもしれません。

そこで潰しにかかったとみても良いのではないでしょうか。
それに対して日蓮は「国賊」という事で指弾をしたのですから、その忍性はさぞかし気に食わない状況にあったと思います。そしてそれが、それ以降の日蓮への弾圧という事を中心となって行った事は容易に推測できるのではないでしょうか。

「律国賊」
こういった言葉の裏には、こういった人間の心模様があったという事を少し考えてみた場合、単純に謗法の輩という言葉以外にも、見える事があると思います。
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【20171121】念仏無間考②

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

今日は厚手のジャンパーを着てます。
冷え込みが12月並みと言いますが、どうも薄手のコートでは辛くて。
歳は取りたくないもんですが、やせ我慢しても仕方ないですからね。

さて、念仏無間という事について、もう少し書いてみたいと思います。

以前に宗門に対して、創価学会は「四箇の格言だけ言っても折伏にはならない」と言いましたが、これはその通りだと当時の僕は思いました。
しかし現代に至り、日蓮の行った他宗派批判は、どの様な本意があったのか、やはり考えてみなければならないと思うのです。

「日蓮直系」を自負するならば、そういう事も必要でしょう。

僕はだからと言って、日蓮の言葉が金科玉条で余人が言葉を挟む余地が無いとは思ってません。言葉の裏には想いが必ずあって、その想いを汲み取る事が、後世の人達に課された責任だと思ってます。

何も表にでた言葉尻、文字面を記憶して、それを頼りにしても意味ありませんよね。

さて念仏無間を考えるとき「他力」と「自力」について考える必要があると思います。

これは小説家の五木寛之氏が「他力」という著書で書いてます。

よく「人事を尽くして天命を待つ」という言葉に代表されるように、人は何者かの力によって生かされているという思想、これが五木寛之氏の云う「他力」です。

良く「他力本願」という言葉がありますが、これは単に自分では何もせず、為すがままに生きる事だと考えられてますが、法然や親鸞に感銘を受けたという五木寛之氏は「他力」については以下の様に述べています。

「「人事をつくして天命を待つ」という言葉を、「人事をつくすは、これ天命なり」と、私は勝手な読み方をしています。<天命>を<他力>の意味に受けとめるのです。死にもの狂いで人事をつくそうと決意し、それをやりとげる。それこそ<他力>の後押しがなければできないことです。そう考えれば、自分が<自力>にこだわるのが滑稽にさえ思えてきたのでした。」

この部分を読んだとき、単に「他力」という言葉を「念仏思想」に被れた内容だとか、所詮は法然の思想なのだと切り捨てる事は出来ないと感じたのです。

僕も半世紀以上、生きてきましたが、そこで感じている事は、五木氏の云う「他力」です。面白いですよね、半世紀のうち半分以上、日蓮の教えをもって生きてきたのに「他力」に共感を感じてしまうなんて。

日蓮の教えは「自力」だと言われてます。要は全てに於いて自分自身の責任なんだという事ですね。
創価学会では依正不二(依報である環境は、正報である自身の心の反映だとする思想)を教え、苦しい事や辛い事は、すべて自身の宿業が原因であり、だから自身が宿命転換しなければならない。

しかし一方で人間は周囲の人達や、社会、またその他の環境に依って支えられているという側面もあります。

「弘決の第八に云く「常に人を護ると雖も必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」」
(道場神守護事)


ここでは人の心の強さに依って、神(諸天)の守りも強くなると述べてますが、これは五木氏の云う他力であり、その他力も自身の心の強さという事では自力の発露とも言えたりします。

少し話が逸れ気味になっているので、少しまとめると、念仏宗では人の成仏は他力(阿弥陀仏)の功徳力に依ると述べており、人々はそれにすがり付く事、そして依存する事ばかりを考え、そこに癒しを求めました。
しかし日蓮はそれが仏教本来の教えとは異なるとし、しかも念仏宗が法華経を捨てよと言っている事を指弾して、念仏無間と言いました。

一方で小説家の五木氏はこの法然や親鸞の説いた教えから「他力」という事を読み取り、世の中全てが自分自身の力で乗り越えられるというのは滑稽であり、人事を尽くした後に他力の後押しで物事は成就するのではないかと言うのです。

そしてこの思想というのは、日蓮の思想と相容れないかと言えば、実は「心の固きに仮りて神の守り則ち強し」とあり、五木氏の考え方に近いものがあったりするのです。

考えてみれば、観無量寿経とて大乗仏教の一つなのであれば、そこには刮目して取りい出すべき思想があるのかもしれません。

「念仏無間」という言葉を以て、単に非難し排斥したら、それはそれで問題があるのではないでしょうか。

法華経は爾前経をも活かす事が出来る思想というのであれば、そんな観点も必要なのではありませんか?

【20171120】念仏無間考①

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

ここ数日でかなり寒さが本格化してきましたね。
この週末は「壬生義士伝」「大河ドラマ・翔ぶか如く」「シン・ゴジラ」などの動画を観て過ごしてました。途中、子供の用事にも付き合いましたけどね。

創価学会では11.18の記念行事等やっていたようですが、詳細は知りません。人事もあったようで、僕の地元組織でも後輩で階位が上がった人が居たようです。

組織の中で「責任職」という事で、それなりの責任を持つのは良いのですが、その思想・哲学性はどうなのでしょうか?

宗教組織の責任者であれば、本来、そんな処の見識も問われるべきですが、そういう事を求めては創価学会として「一枚岩」とはならないので、そんな幹部が登用される事はないでしょう。

さて今日は、「念仏無間」という日蓮の言葉について、少し考えてみたいと思います。

日蓮の生涯の根本は、法華経を中心とした仏教の再構築であり、それを「立正(正を立て)」とし、その上で「安国(国を安寧にする)」を実現するというものでした。

この「立正」を端的に表した言葉が四箇の格言と言われている「念仏無間・律国賊・禅天魔・真言亡国」ではないでしょうか。

その為にその一生は、常に日本の既成宗派との対決でしたし、その既成宗派の策謀による権力弾圧との戦いでした。

特に正嘉の大地震の後、その惨状を憂いて時の幕府に提出した「立正安国論」で最初に取り上げたのは、念仏宗と法然、またその著書と言われる選択集への痛烈な批判です。

何故、日蓮は念仏宗や法然に対して、あれほどまでに痛烈な批判をしたのでしょうか?

僕が思うに一つ目の理由は、法華経を重要だとしながらも、時代に合わないから捨てよ、閉じよ、さしおけ、なげうてとした事でしょう。大乗仏教において、法華経とは中心経典にも関わらず、それを軽んじて蔑ろにするという考え方に対して、日蓮は指弾しています。

次ぎにこの法華経を軽んじる思想が流布した事で、仏教と言えば念仏であり、仏と言えば阿弥陀仏だと人々に誤解をさせてしまった事。そしてそれらが結果として釈迦や仏教、そして釈迦の本意である法華経を、人々に忘れさせてしまったという事です。

法華経の方便品第二には「若し人信じずしてこの経を毀謗せば、命終した後に無間地獄へ入る」とあり、また念仏宗の依経である、観無量寿経に書かれている阿弥陀仏の誓願の中の「五逆誹謗の者は除き、人々を救済する」という事にも背いた教えです。
それに故に「念仏無間」だと日蓮は指摘したのです。

以上が日蓮の述べた「念仏無間」という批判です。

なるほど論理的には、筋が通っていますし、鎌倉時代には念仏宗が仏教の主流でしたので、この批判はとても痛烈なものであったと思います。

しかし現代に於いて、この日蓮の批判とは単に既成宗派である浄土宗や浄土真宗に対してのものとして捉えて良いかと言うと、それは少し違うと思うのです。

今の時代では、既に既成宗派は社会に大きな影響を与えるモノでなく、明治時代の廃仏毀釈運動で仏教各派は形骸化、葬式という儀式を執り行う存在に過ぎないものとなってます。

それでも戦後の創価学会では、各人が所属する宗派に対して批判を展開、それを「折伏」という事で実行しましたが、今の日本社会に於いて、この既成宗派への批判は既に意味の持たない言葉となってませんか?

それではこの念仏無間という言葉は、現代に於いてどの様に捉えたらいいのでしょう。

まず僕が想うに、宗教や宗派によって、そこに属している人達をまとめて切り捨てるという事は、現代に於いて意味が無いことだと思います。

これは四箇の格言や、日蓮が行った他宗教、他宗派への批判全般に共通して考えなければいけません。

そして例えば、宗教として正しい教えがあったとしても、その教えを実践したら、すべからくその実践した人達は間違いなく正しい人生、満足する人生を歩めるとは限らないでしょう。

何故なら教えというのは、受けとる人の心や生活状況、人生経験、また人となりによって変わってしまうからです。

であれば四箇の格言や他宗派等への批判というのは、現代に於いては一人ひとりの信仰という事、そしてその姿勢に対する批判という事になると思うのです。

念仏とは何か。
それはひたすら阿弥陀仏にすがり付き、その威光によって西方極楽浄土へ往生する事を祈る教えです。
この社会を「穢土(汚れた苦悩の世界)」と説き、苦しいことに堪え忍ぶ為に、人にひたすら念仏を唱え、阿弥陀仏にすがり付く事を説いています。

当日の社会は朝廷や公家、そして一部の公家武士達が中心の世界でした。

市井に生きる人達は常に重税に喘ぎ、戦乱や天災に苦しみ続けていたのです。
そういう社会にあって、念仏は人々に僅かでも慰めを与える教えであったからこそ、凌原に広がる火のように、一気に広がったのでしょう。

本来、仏教とは人々に慰めを与える為の教えではありません。人々に自覚を与え、自信の源になる事、自分の存在意義に気付かせる教えであったはず。
法華経の久遠実成とは、その事を説いた教えなのですが、念仏宗を信じることは、それとは真逆な事になっています。

そのために日蓮は念仏宗、そしてそれを広めた法然房源空を徹底して責め立てたのではないでしょうか。

つまり人生の苦しみから現実逃避して、本来、仏教が求める事を知ろうともせず、信仰の世界に閉じ籠り、そこに救いを求めようとする事は、念仏無間に通じるのではありませんか?

この姿勢は念仏宗という訳ではなく、日蓮門下に対しても言える事ですし、創価学会の組織信心についても、けして他宗派教団の事ではないのです。

「祈りの叶わざる事無しの御本尊」
「御本尊ちゃま、お願い!祈りを叶えて!」
「お題目百万遍唱えたら、恐れる事は何もなくなる」
「選挙戦で祈りを断じて叶えましょう!」

こんな指導にほだされて、苦悩が苦悩を呼び「祈りの叶わない」というスパイラルにはまり込み、苦しむ学会活動家の姿はまさに「念仏無間」そのものではありませんか?

この事については、もう少し書いていきます。

【20171114】民衆仏法とは何か

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

朝、自宅を出ると空気がヒンヤリしていて、いよいよ冬になるんだなと実感します。
個人的に冬という季節も好きなのですが、底冷えする様な寒さはとても苦手です。
これから空気が乾燥し、風邪やインフルエンザも流行するのかもしれませんが、体調管理はしっかりとしたいものですね。

さて、Twitterを見ていると、気楽さんの呟き等で「民衆仏法」という単語をよく見ますが、民衆仏法とは如何なるものか、そして日蓮の説いた教えは民衆仏法だったのか、少し個人的に考えたことを、今回は記事にしてみます。

先日の会則改正に伴い、創価学会では日蓮の出世の本懐観を変えました。

「農民信徒たちの不惜身命(仏道修行のためには身命を惜しまないこと)の姿に、大聖人は、民衆が大難に耐える強き信心を確立したことを感じられて、10月1日に著された「聖人御難事」で、立宗以来「二十七年」目にして、大聖人自身の「出世の本懐」を示されました。「出世の本懐」とは、この世に出現した目的という意味です。」
(Sokanet-教学入門 抜粋)


今までは大石寺の教学に基づいて、弘安二年大本尊の図顕こそ出世の本懐と言っていたのを、ここに来て名も無き農民信徒が弾圧に屈しなかった事から「私の説いた教えが人々の中に根付いた」と確信できた事を出世の本懐としたんですね。

これも読んでみたら変な話です。

前にも書きましたが、日蓮の門下に対する幕府の弾圧というのは、この熱原以前にもあったろうし、殺された信徒もいたと想います。これは日蓮の御書の随所に、日蓮自身が語っています。

「日蓮は法華経のゆへに度度所をおはれ戦をし身に手をおひ弟子等を殺され両度まで遠流せられ既に頚に及べり」
(妙法比丘尼御返事)


過去に殺された弟子達と、熱原で殺された三人とで一体何が違うのか、日蓮の御書には書かれていません。

創価学会の教学部として、その辺りの見解を是非とも示して頂きたいものです。
末端組織の幹部に聞いても、この辺りに答えられる人は居ないでしょうからね。

さて、そもそもですが、この熱原の法難に絡めて、創価学会では「民衆仏法」と言いますが、日蓮の時代に果たしてその様な言葉があったんでしょうか?

所謂、平安時代まで、僧侶というのは「官僧」であり、律令制度の元で出家という行為か国家で管理されていました。そして律令制度において僧侶の役割とは、仏教を学び、国家のために修法を執り行い、国の安寧を祈る立場でした。

だから一般の人々、こと平民や農民に僧侶が教えを説き、布教する事は法律で禁止されて居たのです。

そういう歴史の中で、平民にも仏教を広めた僧侶として有名なのは法然房源空であり、平安末期から僧侶の中で、その様な活動が顕著になったと言います。

鎌倉仏教とは、従来、皇族や公家、また武家に限られた仏教が、人々の中に広まり始めたものを指し、念仏などはその先駆けと言っても良いでしょう。

「専修念仏」とは、ある意味で平民であっても念仏を唱えれば極楽浄土に行けるという教えであり、仏教に疎い平民なども、特に学ばずとも仏の功徳に浴する事が出来ると説いたものです。

日蓮の教えもその延長線上にあり、お題目を唱えれば、法華経の功徳力により、仏となることが出来るというもので、僕はその意味から「民衆仏法」の先駆けの一つであると考えています。

「南無妙法蓮華経と一切衆生にすすめたる人一人もなし、此の徳はたれか一天に眼を合せ四海に肩をならぶべきや。」
(撰時抄)


ここで日蓮はお題目を「一切衆生」、つまり人々に勧めたとありますが、日蓮の思いとしては上下選ばず全ての人々にお題目を教え、流布しようと考えており、そこに身分や門地による差別は無かったと想いますし、これは日蓮門下に於いても同様であったと考えられます。

そういう意味では「民衆にも開かれた仏法」であったと想いますが、御書の対告衆、つまり与えられた人々の多くは武家でした。これは布教の足場とした鎌倉という土地柄もあったでしょうが、平民や農民は文字が読めなかったと思うし、そんな彼らには甚遠な教理は理解できなかったでしょう。

「彼のあつわらの愚癡の者どもいゐはげましてをどす事なかれ、彼等にはただ一えんにおもい切れよからんは不思議わるからんは一定とをもへ、ひだるしとをもわば餓鬼道ををしへよ、さむしといわば八かん地獄ををしへよ、をそろししといわばたかにあへるきじねこにあえるねずみを他人とをもう事なかれ」
(聖人御難事)


この御書は熱原の法難の時の有名なものですが、ここで「彼のあつわらの愚痴の者ども」と言うように、農民信徒には難しい理屈はさておいて、生活に身近な事を例にとって教える事が精一杯だったと想います。

創価学会の云う「民衆仏法」とは、人々を覚醒させ、人々が自ら自立する為の教えと言ったニュアンスがあり、それは社会をボトムアップで変えていくという思想です。
(まあ実態はとりあえず置いといて)

しかし鎌倉時代当時の日蓮仏法とは、全ての人達に門戸を開いてはいましたが、現代流の「民衆」という考え方は、社会の中にすらありませんでした。

そこから考えても、今の創価学会が出世の本懐論として、「民衆の中に日蓮仏法が根付いた」なんて解釈はとても難しいと思われます。

この熱原の信徒の行動が「不惜身命」というなら、当時の社会にはそれ以上に法然房の念仏に「不惜身命」の人が居たはずです。

いや「国構えに民の文字を使っているから、大聖人は民衆を考えていたはずだ」なんて言葉もありますが、なら古代中国の貞観政要は既に民衆立を志向していたと云うのでしょうか?

鎌倉時代の社会を理解して、その上で日蓮の教えを理解して、そこから現代にどの様に展開するのか、よくよく考えねばなりません。

これは簡単な事ではありませんよ。

【20171110】法難再考

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

今週もあっという間に週末となった感じがします。
学生の頃の三日くらいの感覚で、一週間が過ぎてしまうからたまりませんね。
一週間を振り替えると、何だかんだとやってたんですが、やはり短いです。

時間は大事にしないと。

さて、今回は「法難」について少し考えてみましょう。ここでいうのは「法難」と言うよりも、人生の中の難という事かもしれません。

よく創価学会で活動してた人は言いますよね。「難に逢ってない人は信用できない」とか「難に逢ってないから云々」という言葉。

確かに牧口会長は獄死して、二代目戸田会長も投獄され、三代目池田会長も大阪事件で拘留されてました。
かつて池田会長は「難に逢ってない人間は信用できない」という様な発言もしてましたよね。

確かに歴史的に事を為した人間の多くは、大なり小なり権力側から迫害されていますので、そういう人は信用に値するというのはあると思います。なにせ自身の信念の為に殉じた行動をとった訳ですから。

でもそうであれば、創価学会としては法然房源空(いわゆる念仏宗開祖の法然です)も尊敬して良いのではありませんか?

立正安国論では、主人は法然を責めています。それに対して客人は、何故そんなに責めるのかと問いただし、法然を責めた人が京都から鎌倉の間の人々にもいなかったではないかと言うと、

「其の上去る元仁年中に延暦興福の両寺より度度奏聞を経勅宣御教書を申し下して、法然の選択の印板を大講堂に取り上げ三世の仏恩を報ぜんが為に之を焼失せしむ、法然の墓所に於ては感神院の犬神人に仰せ付けて破却せしむ其の門弟隆観聖光成覚薩生等は遠国に配流せらる、其の後未だ御勘気を許されず豈未だ勘状を進らせずと云わんや。」(立正安国論)

と、1224年(元仁元年)に延暦寺と興福寺(共に天台宗)からの奏聞(朝廷への意見奏上)により勅宣と御教書(朝廷からの命令)を下され法然の史跡や墓所、また弟子達が島流しにあった事を述べています。

何故この様になったかと言えば、法然の説いた念仏により、従来の既成仏教が衰退したからであり、これは当時の天台宗が「正法が廃れる」という事よりも、いまだ勢いが衰えない念仏宗を権力の力を借りて既成の仏教勢力が潰しにかかったとみても良いでしょう。

また法然自身も晩年の時に讃岐に島流しにもあってますが、これも法然が念仏を広めた行動の故です。

確かに法然の説いた教えというのは、法華経を下げるものであったかもしれませんが、自身の信仰により権力者から迫害にあったという事では、むしろ創価学会の述べる「難にあった人」という事に通じるのではないでしょうか?

だから「難にあった人は正しい」「難にあっていない人は正しくない」「信用できない」という事であれば、法然房源空も信用して良いという事になるのではありませんかね?

「いやいや、、、単なる難ではなく正法を広めた事での難を言うのであって、法然房源空は邪宗を広めたのだから、それは違う」

そんな事を云うのであれば、牧口会長や戸田会長は大石寺の教義が故に難にあったわけであって、いまの創価学会からすれば、それもオカシナ事になりはしませんか?
牧口会長が目指した広宣流布とは、弘安二年大本尊を日本国民が信じ、大石寺の法主の下に天皇陛下が参詣にくる時代を目指したものでした。しかし昨今、創価学会では弘安二年大本尊を受持の対象から外しています。

特高尋問調書を良くみてみましょうよ、、、そこで牧口会長が主張していることを読んでみてください。この尋問調書は公立図書館であれば入手が可能なのですから。

ここで僕が言いたい事。

それは「権力側に迫害されたから正しい」とか「難にあっていない人は信用できない」という事は、安直に言ってはいけないのではないかという事なのです。そしてもしその様に言うのであれば、しっかりとその「難」という事の本質を理解してから、語って欲しいものだと思っています。

池田会長の大阪事件の拘留について、あれば「法難」ではありませんね。
あれは難というよりも、選挙を通じて出てきた新興勢力を毀損の権力側が潰しにかかったという事、そして創価学会側でも基本的に公職選挙法ギリギリの事をやった結果としての犯罪嫌疑があった訳で、責任者の池田会長が拘留される事自体、何らおかしな事ではありません。

要は「脇が甘かったから拘束された」という事であり、しかも法難という割に、池田会長は東京蒲田の自宅まで大阪府警の警察が来て逮捕・拘留されています。人間革命でいう「激流に飛び込むごとく、自ら大阪へ向かった。」なんかではありません。
詳細は日本経済新聞の1957年7月4日の夕刊記事を見てください。

日蓮の法難でも「小松原の法難」は、単純に法華信仰によるものではなく、領家の尼と言われる東条御厨の荘園をめぐる地頭(東条景信)との争いに日蓮が関与した事が発端として起きた事件です。だからこれは「法難」と言っても少し違いますよね。

また松葉が谷の法難においても、日蓮を襲ったのは鎌倉大仏の造立に携わっていた仏師だと言われていますが、その理由も日蓮の念仏批判に対して自分たちの仕事が奪われるという、彼らの不安を煽り立てられたからであり、単純に法華経を広める日蓮の行動憎しというものでは無いようです。

歴史上、「法難」と言われ信仰が故に迫害される。
そういう様に語られている内容についてもしっかりと考察し、その内容については理解する必要があるし、その上で「難にあったから信じれる」「難にあってないから偽物」を語る必要があるでしょう。

人を評価するのは「難にあったか、あわないか」以前に、人間としてどの様な立ち位置で生きているのか、行動してるのか。

まずはそういう視点も忘れないで欲しい無いもんです。

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