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想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   
カテゴリー「教学随想」の記事一覧

【20170809】教学試験に関する雑感

こんにちは(´◉◞౪◟◉)

いや~・・・暑いですね。
車で移動していますが、車のコントロールパネルに出てくる外気温が「36℃」でした。こりゃ殺人的な気温ですね。
先ほどから携帯電話にも、地元の地方自治体から「熱中症警報。原則、外での運動は禁止」という様なメールがビンビン届いてきています。台風一過の天気なんでしょうが、こりゃ人間にはきつい天候ではないでしょうか。

さて、創価学会では教学試験の真っ最中。
講師をする人も大変でしょうが、受験させられる人も大変ですね。仕事の都合をつけて勉強会に参加したり、講師する人もそれぞれ都合をつけて駆け付けたり。これはある知人から聞いた事ですが、昔、分県で教学試験の勉強会を行い、そこに全国幹部を招聘した事があったそうです。

受験者は時間になるとほぼ全員揃ったそうですが、肝心の講師である全国幹部が時間になっても連絡一つなく会場には来なかったそうです。そこで業を煮やした当時の県男子部長が講義を開始、三十分以上遅れて当の全国幹部は会館に来たそうですが、何を考えているのか、応接室にまず向かい、接遇の女子部から冷えた麦茶をもらいゆっくりと飲み。そこで十分ほど休憩してから会場に入ってきたそうです。

「あいつらは何を一体考えているんだ!!」

当時の県男子部長は怒り心頭に達していたそうですが、当の全国幹部は謝罪の一つもなく勉強会を終えたらさっさと会館を後にしたそうです。

この話を聞いた知人も、当時は役員で参加していましたが、所謂「信濃町界隈」のこういった行状には呆れ返ったと言っていました。

創価学会の会則改正をして、主要教義まで改正してからの教学試験。果たして創価学会は会員にどの様な事を教えようとしているんでしょうね。本来ならば過去の整合性を考えると、教学試験以前に、この教義改正の内容の事について組織内で周知があっても良さそうなものですが、僕の周囲を見る限り、その様な事を実施した形跡はありません。

まあ僕なんて地元の後輩である幹部が来た時に、この事について良く問い詰めますが、「運ちゃんさん、そんな事を言っても池田先生はしっかりお考えになっていると思います。それに幹部も馬鹿ではありませんから心配ないですよ。そんな事より”一人の人間を大事にする”という真心で、この信心の功徳を教える為に活動に励む事が大事なんです。」で終わりますからね。

本来、宗教団体というのであれば、その教え広げる「教義」はとても大事だと思います。だって宗教とはその「教え」により人々の救済を目指すのではありませんか?

今回の教学試験で「日顕宗を破す」なんてやってますが、その大石寺の教義でも、創価学会の様な適当さなんてありませんよ。善い悪いは別にして。これは富士大石寺顕正会とて同じ事。
創価学会ではこの教義を曖昧にしたまま、今回の教学試験を実施しているんですから、そのテキトウさには僕は辟易しています。教学試験を推進する現場幹部の中にも、そういった意識は一切なく、ひたすら受験生の応募に励んでいるんですからね。

まあ創価学会では「功徳(御利益)信仰」なので、要は「信心の功徳(御利益)」さえ出れば、教義なんて関係ないのかもしれませんが、果たしてそれで良いんですかね?

教材で「立正安国論」なんて取り上げていますが、日蓮がどの様な思いでどういった内容を認めているのか、講師をやっている人でも理解していないのが多くいます。せいぜい大白蓮華を棒読みして、試験対策として「こういう答えは〇(正解)」とか言って暗記させるのが関の山だと思います。

また法華経なんて学ばせていますが、どこまで法華経の事を理解しているのか疑問です。
僕自身、いま「妙法蓮華経並開結」に取り組みながら、法華経に書かれている内容を読んでいますが、はっきり言ってとても難解で、ちょっと読みでは単なる物語で終わってしまいます。問題はその物語の奥に何を語り志向しているのか、そこを読み解く事なのかと思いますが、それにはやはり仏教そのものの成り立ちを最低限知らなければダメでしょう。

しかしそういう事を踏み込んで語れる人の多くが、実際には創価学会の組織から離れてしまっていますので、結果としては単なるイベントとしてしか機能はしていない様です。

まあ「試験」でしかも「マークシート」ですから、そこには「思索」が入り込む余地は無く、あるのは信濃町界隈の考えている「模範解答」を暗記して、選択するときに見つけられる「直観力」を養成するのが関の山という感じだと思いますよ。

できればね、、、講師をやる人に、こういった事情を理解した上で講義を出来る人が居ればいいんですが、それは望むべくもない感じですね。だって、本気でそんな事したら、おそらく受験生も混乱し、試験的には「不合格者」を大量生産してしまいます。そして結果、下手すれば組織の中で睨まれる危険性もありますからね。

僕自身、数年前には講義の要請も地元でありましたが、そういう事情も関連してか、最近ではめっきり話が来なくなりましたよ。

まあその分、自己研鑽が進みますけどね。

講師の中にはそういう事に気づきつつ、少しでも受験生の為になればと取り組んでいる人も居ますが、そういう人はあまり気負いせずに、何か一つでも受験生の中に植え込める様に、よろしくお願いしたいと思います。
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【20170804】五百塵点劫について

こんにちは(´・ω・`)

創価学会で行う初級・青年三級試験の期間というのは、学会活動の中で教学に触れる絶好の機会です。僕の場合、任用試験は先輩たちに教わりましたが、青年三級からは独学で勉強をしていて誰かに教わったという事はありません。
もちろん当時、この五時八教などについて天台教学であったという事は思いもよらず、天台は語っていたかもしれないが、その内容は日蓮大聖人の言葉であったと思っていました。

まあ誰が語っていても良い、そういった仏法の少しでも深い教義に触れる事が、当寺の僕にはとても新鮮であった事を憶えています。

さて今日も昨日に引き続いて「久遠」という事について考えてみたいと思います。

「久遠」とは如何なる時間なのか。それは如来寿量品に説かれていますが、それは一体どのような時間単位であるのか、具体的に少し書き連ねてみましょう。

 然るに善男子、我実に成仏してより已来無量無辺百千万億那由他劫なり。
 譬えば五百千万億那由他阿僧祇の三千大千世界を、仮使人あって抹して微塵と為して、
 東方五百千万億那由他阿僧祇の国を過ぎて乃ち一塵を下し、是の如く東に行いて是の微塵を尽くさんが如き、
 諸の善男子、意に於て云何、是の諸の世界は思惟し校計して其の数を知ることを得べしや不や。
 弥勒菩薩等倶に仏に白して言さく、世尊、是の諸の世界は無量無辺にして、算数の知る所に非ず、亦心力の及ぶ所に非ず。
 一切の声聞・辟支仏、無漏智を以ても思惟して其の限数を知ること能わじ。
 我等阿惟越致地に住すれども、是の事の中に於ては亦達せざる所なり。
 世尊、是の如き諸の世界無量無辺なり。
 爾の時に仏、大菩薩衆に告げたまわく、 
 諸の善男子、今当に分明に汝等に宣語すべし。
 是の諸の世界の若しは微塵を著き及び著かざる者を尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。
 我成仏してより已来、復此れに過ぎたること百千万億那由他阿僧祇劫なり。

この内容は如来寿量品の長行の冒頭にある「五百塵点劫」という時間について釈尊が述べている箇所です。ここ十年程、勤行では「長行」を読まなくなり自我偈に飛ばして読んでいるので、最近の活動家では知らないかもしれませんね。

長行ではまず初めに釈尊は「私が成仏してから無量無辺百千万億那由他劫である」と語っています。これは簡単に言えば以下の数式になります。

無量無辺×百×千×億×那由他×阿僧祇×劫という時間になります。ここでは時間の単位として「劫」が語られていますが、実は仏教の中でこの「劫」という時間の長さは具体的に決まっていません。一節には一劫は四億三千二百万年という時間だとあります。

もうこの段階で僕なんかは「ギブ・アップ」なのですが、釈尊はここでより具体的に論及していきます。三千大千世界は古代インドの宇宙だと言いますが、まあこれを1つの銀河系としましょう。ここでは以下の数の銀河系を用意すると述べてますが、それはどれほどの数なのか。

「五百×千×万×億×那由他×阿僧祇」となり既に頭がパンクする数です。そのパンクするだけの銀河系を集めて、人の力で細かい塵にして、東に向かって「五百×千×万×億×那由他×阿僧祇」の国を過ぎる毎にその塵を一粒ずつ落として行きます。こうしてこの塵を落として行ったとき、塵を落とした国と落とさなかった国、その過ぎた国の数はどれぐらいであろうかと釈尊は問いかけます。

すると弥勒菩薩は答えます。「釈尊よ、それはもう考えも及ばないし、世の中のどんな智慧を以っても理解する事が出来ません」

当たり前ですよね。

すると釈尊は述べるわけです「その過ぎた国々を更にすべて集めて塵にして、一粒を一劫と数えた時間よりも「百×千×万×億×那由他×阿僧祇」という劫の時間が過ぎたほどなのだ。

もう訳がわかりません。つまり時間の概念では思惟の及ばないほど遠い過去に私は成仏したのだというのが「久遠実成」という事なんですね。

ここまでが法華経の言葉ですが、創価学会ではこの「五百塵点劫=久遠」という時間を以下の様に捉えているんですね。具体的には某掲示板であった言葉を以下に紹介しましょう。

「昔の教学は「五百塵点劫」は永遠の意味で用いられてはいません。過去の一時点でした。昔は「長遠」という表現だったのを記憶している方も多いと思います。無始無終の永遠ではなく、有限の「長遠」の過去として「五百塵点劫」を用いていました。」

この法華経では「算数の知る所に非ず、亦心力の及ぶ所に非ず。一切の声聞・辟支仏、無漏智を以ても思惟して其の限数を知ること能わじ。」と述べる時間であっても、それは「有限」、つまり人智の及ぶ範囲の時間だと創価学会では述べているのです。

創価学会教学、いや、これは大石寺教学と言っても良いかもしれませんが、既にこの段階で「久遠」という理解が法華経とは異なっている事に気付いてませんね。何故、弥勒菩薩をして「算数の知る所に非ず、亦心力の及ぶ所に非ず。」とわざわざ語らせたのか、そこに考えを及ぼさずスルーしている事が問題でしょう。

しかし何故、法華経の中で釈尊はこの様なまどろっこしい表現をして「久遠」を述べていたのでしょうか。それはインドの民族性にも関係するという説があります。インドは「0(ゼロ)」を発見した国であり、その民族が生きた世界です。つまり「数」という事に対して造詣が深い文化を持っていたと言っても良いでしょう。そういう民族文化の中で「永遠=始まりの無い」という事を理解させるためには、この様な表現が必要であったという説があります。

つまり「久遠=永遠=元来」という関係性が成り立つと言ってもいいでしょうし、この事から僕はこの「久遠実成=元来」という理解をしています。

この「久遠」という認識を「有限な数」と誤解している。いや詭弁を使ってその様な理解をさせてしまったのが、そもそも「久遠実成の釈尊」という事に誤解をもたらしていると言っても過言ではありません。

この事については法華経の智慧では以下の様に述べていますね。

斉藤:「我本行菩薩道(我れ本、菩薩の道を行じて)」とありますから、五百塵点劫以前は、菩薩の修行をしていたことになります。
名誉会長:すると、修行をしていたのだから「法」はあった。法はあったが「仏」はいなかった時代があったということになる。これでは「無始無終の宇宙と一体の仏」はいないことになってしまう。
須田:たしかに、途中から出現したのでは「三世常住の仏」とは言えません。
遠藤:始成正覚の釈尊は「本無今有〔本無くして今有り)」と破折されました。“根無し草”のようなものだと。しかし、「途中から仏になった」という点では、寿量品の「久遠実成の釈尊」も、ただ時間をはるかにさかのぼったというだけで、同じです。厳しく言えば「本無今有」であって「本有」ではありません。
斉藤:「本有」でなければ、三世常住の「本仏」とは言えません。

この法華経の智慧の解釈には、僕のいう「久遠」という事の誤解がより具体的に現れています。

そもそも「我本行菩薩道」ですが、ここでは久遠という有限の時間以前の釈尊が菩薩道を行じていたと解釈していますが、九界即仏界・仏界即九界という事で言えば、仏と云っても外向けに現れる姿や行動は菩薩となります。
また如来寿量品で説く「久遠実成」とは「自身が元来から仏であった」という事であり、修行の先に仏となる「成仏観」では無いはずが、名誉会長御大をして「すると、修行をしていたのだから「法」はあった。法はあったが「仏」はいなかった時代があった」という言葉を述べ、その成仏観が既に法華経とは異なっています。

久遠=五百塵点劫という理解の誤解から、「五百塵点劫の当初」の解釈に間違いが入り込み、その理屈の上に確立されたのが、創価学会が今まで大石寺から脈々と受けついできた「末法の御本仏・日蓮大聖人」という存在なのです。

こういう事を少し考え直してみてはいかがですか?
単純に「久遠実成の釈迦=永遠の仏」であり、だからその教学が身延よりになってしまったと言う様な、単純な内容では無いのです。

【20170803】久遠の観点について

こんにちは(´・ω・`)

創価学会の教学の原点、これは大石寺の教学である事は誰人も否定が出来ない事でしょう。初代会長の牧口常三郎が特高警察の逮捕され、そこで尋問を受けた際に答えた内容、これは「特高尋問調書」にありますが、そこで語られているのは大石寺の教学でした。(想学談林 特高尋問調書)https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/blank-92

第二代会長の戸田城聖も大石寺の教義を中心としていた事は誰人も異を唱える人はいないでしょう。「弘安二年十月十二日の大御本尊でなければ仏天の加護は無い」という事の講義を見れば一目瞭然です。
具体的には初級・青年三級試験の教材「大白蓮華2017年・6月号」の内容に少しづつ垣間見えていて、その事について某掲示板では『私は、この教材が「久遠実成までで完結」「永遠の仏は釈尊」「大聖人は上行菩薩」「南無妙法蓮華経は上行たる大聖人が末法に弘めた」との論調だと認識しています。』という論調も出てき始めています。

この大白蓮華では以下の様な記載があります。

「釈尊が今世で初めて成仏した(始成正覚)というこれまでの考え方を打ち破り、釈尊は実は五百塵点劫という、はるか久遠の昔に成仏して以来、この娑婆世界に常住する仏、つまり永遠の仏であることが明かされます」(大白蓮華80ページ)

今までの創価学会では日蓮正宗の教義に基づいていたので、日蓮は久遠元初の自受用報身如来であり、根本仏、永遠の仏であるという事を教えていましたが、今回の大白蓮華では「釈尊は…永遠の仏」と述べているのです。考えてみればこれまでの創価学会では釈尊を無縁の仏と扱い、御本仏日蓮大聖人の迹仏の様に教えてきたのですが、この段に来て、実は釈尊は「永遠の仏」であるという事を云うのですから、少しでも意識のある活動家であれば反論するのは当たり前かと思います。

先の某掲示板においてもこの事について『80頁の説明のタイトルは「永遠の仏―久遠実成」とあります。これは、久遠実成で久遠を完結させて、それより深い「久遠元初」は(文底にあたるので)用いたくないとの意図があるとも受け取れます。』と述べ、過去に池田名誉会長の対談「法華経の智慧」を引用し、その姿勢を糺そうとしていました。

僕はこの糺す言論を拝見した時、その自語相違を否定するという姿勢以前に、何故に法華経や大石寺の述べている「久遠元初」「日蓮本仏論」に立ち返り見直しが出来ないのか、その姿勢がとても残念に思えてなりません。確かに過去に「正論」「正法」と教えられたものが、その教えられた組織から覆される事は容易に受け入れる事が出来ない、それは理解できます。しかし、そこを一歩踏み込んで問題に関する根っこに迫るという姿勢が取れるのか、そこを今問われているのではないでしょうか。

例えば「久遠」という観点について。
創価学会では「久遠実成=釈迦の成仏」「久遠元初=日蓮の成仏」と教えてきました。久遠実成で述べる「五百塵点劫」という事については妙法蓮華経の如来寿量品第十六に述べられていますが、日蓮の御書の中で「五百塵点劫の当初」「久遠元初」はどの様に説明されているのか、まずはそこから確認をしてみたいと思います。

◆「五百塵点劫の当初」

①当体義抄P513
 「答う釈尊五百塵点劫の当初此の妙法の当体蓮華を証得して」
②三世諸仏総勘文教相廃立P568
 「釈迦如来五百塵点劫の当初凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして」
③三大秘法禀承事P1022
 「建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり」

◆「久遠元初」
①百六箇抄P862
 「久遠元初直行の本迹 名字本因妙は本種なれば本門なり」
②百六箇抄P865
 「久遠元初の結要付嘱は日蓮今日寿量の付属と同意なり云云。」
③本因妙抄P875
 「此れは久遠元初の自受用報身無作本有の妙法を直に唱う。」

ここを見ると、「五百塵点劫の当初」とは釈尊の久遠実成の「当初(その時)」を指し示している内容であり、そこでは日蓮自身を指している記述は一切ありません。今までの創価学会では日蓮正宗の教義を踏襲している事から「釈尊」にも幾通りの解釈があって、ここの御書でいう「釈尊」とは「日蓮自身」を指し示しているのだと「忖度」して解釈していたに過ぎないと思われます。

また「久遠元初」について、その論じた箇所は三か所と極めて少なく、しかもその御書が「百六箇抄」「本因妙抄」と言った、昨今では後世に創作された「偽書」の疑いに強い、いわゆる「相伝書」に限られています。

こういった事から考え直してみた場合、「久遠元初」とか「五百塵点劫の当初」といった、従来の「永遠の仏=久遠元初自受用報身如来=日蓮」という主張の論拠は極めて薄弱なものであると思えますが、いかがでしょうか?

むしろ妙法蓮華経を中心として考えるのであれば、「久遠の仏=釈尊」と考えるのが普通であり、日蓮はその妙法蓮華経従地涌出品で登場した釈尊久遠の弟子、上行菩薩の再誕としての自覚であったという事の方が、道理が通るものと思われます。

いくら永遠の御大が、過去に対談集の中で述べた事を取り上げてみても、それは永遠の御大による一つの解釈論であるかもしれませんが、それが即ち日蓮の本意と同じであるとは言えないのではありませんか。

この事については、まだまだ続けていきます。

【20170802】創価学会の身延化とか

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

強い台風だゲリラ豪雨だとか、ここ最近の日本の気象を見ていると、僕が子供の頃の陽気とはかなり変化しているのを感じます。
今でも記憶にあるのは、小学生時代の七月末頃でしょうか、当時はアパートに住んでいて、夏休みに遊ぶのは外と決まっていたのですが、アパート前で夏の抜けるような青空の下、巨大な真っ白の入道雲がもくもくとあって、それを見上げている情景です。

当時は夏とはいえ気温は28℃くらい。30℃なったら「猛暑日」と言われていた時代でした。

それが今や30℃越えは当たり前。しかと突発的な地域限定の集中豪雨や、各地の大雨被害等を見るときに、やはり地球の気候は変化していて、日本とて例外ではないという事を実感します。

さて、創価学会の組織では教学試験に奔走しているようですね。僕の嫁も「地区で何人」と日々啓蒙に走っているようです。
そんな嫁に僕は「教学試験で何を学ばせてんだか」と言うのですが、やはり地区内で対象者の一人でも多く受験させるという目標があるらしく、そこに注力しているようです。

創価学会では一昨年前に会則改正を行い、教義の中軸をも変更しています。これは拙ブログでも幾度が取り上げていますが、ざっと言うと以下の内容です。

 ◆大石寺の大本尊は受持対象ではない
 ◆日蓮直筆の本尊は全て本門の本尊
 ◆創価学会か御本尊を認定する
 ◆日蓮出世の本懐は大本尊ではなく民衆立仏法の確立
 ◆日寛師教学の見直し

よくもまあ、長年にわたり信じてきたことを、だまって易々と変更するものだと驚きもしますが、今回の教学試験では、この変更した教学を元に受験者に教えるわけですよね。
本当ならば現場で混乱も起きる様に思ったりしますが、実際には教える方も、教えられる方も、あまりに認識や興味が無いので、混乱は起きないというのが現実でしょう。

この教学に意識がある人なんかは、とっくに今の組織から距離をおいて離れてしまっているか、アンチになってる方が多いとも思えます。

だからネットで、アンチ創価学会側では今回の試験の教材になる大白蓮華を取り上げて、過去の創価学会の見解、まあ例えば「法華経の知慧」との自語相違を指摘して、それ今の創価学会は身延化しているとか言ってる訳です。

しかしこれも変な議論だと思いますよ。

そもそも日蓮の歴史を独自に学び、宗門史を紐解き、日蓮の遺文や門下の歴史。また仏教一般についても学び治すと、結構簡単に大石寺の教学の杜撰さというか、おかしさは理解できるはずなんですね。
またそれを元にした今までの創価学会教学についても同様で、まったくもって「こりゃおかしい」というのが見えてくる筈です。

しかしアンチ創価学会になった人の中には、こういった哲学性や思想性に対する、いわゆる「根問い」をしないで、さも昔の創価学会は正しく良かったという幻想から抜け出せない人も居るわけで、そこから見たならば、今の創価学会の教学は「身延側の教義になってきている」という事になるのでしょう。

とても変な話ですが、教学的に見たならば、今の創価学会の方がまともな方向に動いていると思いますよ。僕は。

問題なのは、こういう変更にすら気付かない心で教義を学んでも、そもそも意味なさないという事、またそれを良しとしている姿勢なんですけどね。

身延側と創価学会は、数十年前に「小樽問答」でぶつかってましたが、この問答にしても実は創価学会と身延側は教義対論なんてしてませんし、あれは結局、司会をしていた御大の仕切り方で創価学会が「勝った」という形にしただけですからね。

教学的な事だけでみたら、今の創価学会よりも身延側の方に軍配が上がると僕は考えてます。

むしろ「創価学会が身延化した」というのは、日蓮宗身延派に失礼なのではありませんかね?

この事については、今後も少し取り上げていきますよ。

【20170801】お題目について考える

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

八月に入り、間もなく夏休みになります。

仕事はと言えば忙しいのですが、いま居る職場、コストカットの話が止むことがありません。僕が思うに遅刻して居眠りして仕事が出来ない人間に年収一千万を支払う事こそ、無駄な支出と思うのですが、実際に雇用調整として派遣社員が切られます。

先日、違う部署の派遣社員と話をしたのですが、彼は年度末で契約が終わり、派遣元でも有期雇用なので、次はどうしたらよいか途方にくれていました。

下手な社員より仕事をしてるのですが、単価も高い分、コストカットに目をつけられている様です。

恐らく国内の多くの大企業の中には同様な事があるでしょう。そこに居る社員達の多くの意識は「良い大学、良い会社に入るために頑張ったんだから、雇用の安定は当たり前」という意識がありますが、それは本当に良いことなのか、今の職場に居ると考えさせられます。

さて本題です。
「南無妙法蓮華経」というお題目の意義については、本サイトの想学談林にも書いていますが、このお題目には多くの不思議がありますよね。

創価学会としては、過去に世界的なバイオリニストのユーディ・メニューイン氏と永遠の御大が対談し、お題目のリズムの不思議さを語らせてました。要は「意味が解らずとも、兎に角唱えさえすれば功徳(御利益)が得られる」と言うことなのでしょう。

以前にある人に聞いたのですが、日蓮が唱えていたお題目のリズムは、実は現代に伝わっていないと言うのです。もし日蓮が、このお題目の唱えるリズムを大事にしていたと言うのであれば、これは致命的でしょう。しかし実際には伝承されていない。
ここから考えるにお題目を唱えるリズムというのは、それほど重要では無いと言うことを示唆していると思います。

創価学会では先の世界的なバイオリニストとの対談で、お題目に「妙なるリズムがある」と教えていますが、そうであれば永遠の御大のお題目「ナンニョーホーネンネキョー」も治す必要があったのではないでしょうか。

お題目の「南無」とは古代インド語の「ナマス」の音訳です。意味は「帰命」です。簡単に言えば「信じて従います」という事ですね。天台宗の勤行の中には「南無釈迦牟尼仏」「南無多宝如来」「南無妙法蓮華経」と唱える場所があります。
また「南無阿弥陀仏」は阿弥陀如来に帰命する意味がありますが、考えてみたら頭に「南無」を付けて唱えるのは、殆どが仏の宝名であって、経典の名前を付けているのはお題目だけですよね。 

つまりお題目だけ、仏という存在ではなく、経典のお題目(題名)という事に、何か特殊な感じがするのですが、皆さんはどう思いますか?

仏の宝名を使い、「南無ホニャララ」と唱えれば、人は仏の姿を思い浮かべ、そこに恋慕し、その仏の説く教えを連想することでしょう。しかし経典のお題目(題名)を唱える場合には、人は何を連想するのか。

法華経の内容を知らない人は連想しようもなく、恐らく日蓮在世の時代の在家信徒は、そこに日蓮やお釈迦様を思い描いたのではないでしょうか。

日蓮は唱題(お題目)について、どの様に当初は考えていたのか、それを知る手だては「唱法華題目抄」にあると思いますが、そこには以下の記述があります。

「所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし、たへたらん人は一偈一句をも読み奉る可し助縁には南無釈迦牟尼仏多宝仏十方諸仏一切の諸菩薩二乗天人竜神八部等心に随うべし愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし。」

ここでは所行といい、自行ではお題目を唱え、余裕のある人は経典を読みなさいとあります。そしてお題目を唱える時に、助けとして釈迦や多宝、その他の仏菩薩や諸天を心に思い浮かべなさいと述べてます。
また仏法を知らない人が多いのであれば、観心を先にせず、観心をしたいとおもうのであれば、しっかりと学んでから行いなさいとあります。

またこの唱法華題目抄には、これ以降にこのお題目にどの様な意義があるのか、事細かに述べています。

ここから考えるのは、お題目を唱えると言っても、しっかりとその意義的な事は知る必要がありそうですし、本来の「観心の本尊」と相対して行う場合には、その観心の事は先に学んでから行いなさいという事でも述べています。

先日、YouTubeにGUCCIのファッションショーの冒頭にお題目の音声を流していることがありました。創価学会の中ではイタリアの学会員がこのショーの責任者で、その人がこの演出を行ったんだと、喜んで語ってましたが、お題目をそんなカジュアルに扱って良いものなのか、僕は個人的に疑問にも思っています。

また創価学会の中ではお題目を「宇宙のリズム」とか「宇宙の法則」なんて教えてますが、お題目の志向している法華経では、全ての人達は元来から仏であることを述べているのであって、法則だリズムだとかではありません。

お題目を唱える意義。
それは自身が元来から仏であるという事を、自身に言い聞かせるという事もあるのではないでしょうか。元々法華経にはその様な意義があり、それに「南無(帰命)」するというのは、そういう事ではありませんかね。

またお題目を唱えるには、そういう意義を正確に伝えなくては意味がありません。例えば仏法とは何の関係もなく、知識も無い人達に「ナムミョウホウレンゲキョウ」と唱えさせた処で、そこにどんな意味があるのか。また唱えさせるのであれば、しっかりと意義を伝えなくては意味無いと僕は思いますよ。

人の祈りは、その口に唱えさせる事の意義を理解させてこそ有意義な事になるのであって、言葉の発音とかリズムに意義があるわけではないのですからね。

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