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想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   

【20170804】五百塵点劫について

こんにちは(´・ω・`)

創価学会で行う初級・青年三級試験の期間というのは、学会活動の中で教学に触れる絶好の機会です。僕の場合、任用試験は先輩たちに教わりましたが、青年三級からは独学で勉強をしていて誰かに教わったという事はありません。
もちろん当時、この五時八教などについて天台教学であったという事は思いもよらず、天台は語っていたかもしれないが、その内容は日蓮大聖人の言葉であったと思っていました。

まあ誰が語っていても良い、そういった仏法の少しでも深い教義に触れる事が、当寺の僕にはとても新鮮であった事を憶えています。

さて今日も昨日に引き続いて「久遠」という事について考えてみたいと思います。

「久遠」とは如何なる時間なのか。それは如来寿量品に説かれていますが、それは一体どのような時間単位であるのか、具体的に少し書き連ねてみましょう。

 然るに善男子、我実に成仏してより已来無量無辺百千万億那由他劫なり。
 譬えば五百千万億那由他阿僧祇の三千大千世界を、仮使人あって抹して微塵と為して、
 東方五百千万億那由他阿僧祇の国を過ぎて乃ち一塵を下し、是の如く東に行いて是の微塵を尽くさんが如き、
 諸の善男子、意に於て云何、是の諸の世界は思惟し校計して其の数を知ることを得べしや不や。
 弥勒菩薩等倶に仏に白して言さく、世尊、是の諸の世界は無量無辺にして、算数の知る所に非ず、亦心力の及ぶ所に非ず。
 一切の声聞・辟支仏、無漏智を以ても思惟して其の限数を知ること能わじ。
 我等阿惟越致地に住すれども、是の事の中に於ては亦達せざる所なり。
 世尊、是の如き諸の世界無量無辺なり。
 爾の時に仏、大菩薩衆に告げたまわく、 
 諸の善男子、今当に分明に汝等に宣語すべし。
 是の諸の世界の若しは微塵を著き及び著かざる者を尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。
 我成仏してより已来、復此れに過ぎたること百千万億那由他阿僧祇劫なり。

この内容は如来寿量品の長行の冒頭にある「五百塵点劫」という時間について釈尊が述べている箇所です。ここ十年程、勤行では「長行」を読まなくなり自我偈に飛ばして読んでいるので、最近の活動家では知らないかもしれませんね。

長行ではまず初めに釈尊は「私が成仏してから無量無辺百千万億那由他劫である」と語っています。これは簡単に言えば以下の数式になります。

無量無辺×百×千×億×那由他×阿僧祇×劫という時間になります。ここでは時間の単位として「劫」が語られていますが、実は仏教の中でこの「劫」という時間の長さは具体的に決まっていません。一節には一劫は四億三千二百万年という時間だとあります。

もうこの段階で僕なんかは「ギブ・アップ」なのですが、釈尊はここでより具体的に論及していきます。三千大千世界は古代インドの宇宙だと言いますが、まあこれを1つの銀河系としましょう。ここでは以下の数の銀河系を用意すると述べてますが、それはどれほどの数なのか。

「五百×千×万×億×那由他×阿僧祇」となり既に頭がパンクする数です。そのパンクするだけの銀河系を集めて、人の力で細かい塵にして、東に向かって「五百×千×万×億×那由他×阿僧祇」の国を過ぎる毎にその塵を一粒ずつ落として行きます。こうしてこの塵を落として行ったとき、塵を落とした国と落とさなかった国、その過ぎた国の数はどれぐらいであろうかと釈尊は問いかけます。

すると弥勒菩薩は答えます。「釈尊よ、それはもう考えも及ばないし、世の中のどんな智慧を以っても理解する事が出来ません」

当たり前ですよね。

すると釈尊は述べるわけです「その過ぎた国々を更にすべて集めて塵にして、一粒を一劫と数えた時間よりも「百×千×万×億×那由他×阿僧祇」という劫の時間が過ぎたほどなのだ。

もう訳がわかりません。つまり時間の概念では思惟の及ばないほど遠い過去に私は成仏したのだというのが「久遠実成」という事なんですね。

ここまでが法華経の言葉ですが、創価学会ではこの「五百塵点劫=久遠」という時間を以下の様に捉えているんですね。具体的には某掲示板であった言葉を以下に紹介しましょう。

「昔の教学は「五百塵点劫」は永遠の意味で用いられてはいません。過去の一時点でした。昔は「長遠」という表現だったのを記憶している方も多いと思います。無始無終の永遠ではなく、有限の「長遠」の過去として「五百塵点劫」を用いていました。」

この法華経では「算数の知る所に非ず、亦心力の及ぶ所に非ず。一切の声聞・辟支仏、無漏智を以ても思惟して其の限数を知ること能わじ。」と述べる時間であっても、それは「有限」、つまり人智の及ぶ範囲の時間だと創価学会では述べているのです。

創価学会教学、いや、これは大石寺教学と言っても良いかもしれませんが、既にこの段階で「久遠」という理解が法華経とは異なっている事に気付いてませんね。何故、弥勒菩薩をして「算数の知る所に非ず、亦心力の及ぶ所に非ず。」とわざわざ語らせたのか、そこに考えを及ぼさずスルーしている事が問題でしょう。

しかし何故、法華経の中で釈尊はこの様なまどろっこしい表現をして「久遠」を述べていたのでしょうか。それはインドの民族性にも関係するという説があります。インドは「0(ゼロ)」を発見した国であり、その民族が生きた世界です。つまり「数」という事に対して造詣が深い文化を持っていたと言っても良いでしょう。そういう民族文化の中で「永遠=始まりの無い」という事を理解させるためには、この様な表現が必要であったという説があります。

つまり「久遠=永遠=元来」という関係性が成り立つと言ってもいいでしょうし、この事から僕はこの「久遠実成=元来」という理解をしています。

この「久遠」という認識を「有限な数」と誤解している。いや詭弁を使ってその様な理解をさせてしまったのが、そもそも「久遠実成の釈尊」という事に誤解をもたらしていると言っても過言ではありません。

この事については法華経の智慧では以下の様に述べていますね。

斉藤:「我本行菩薩道(我れ本、菩薩の道を行じて)」とありますから、五百塵点劫以前は、菩薩の修行をしていたことになります。
名誉会長:すると、修行をしていたのだから「法」はあった。法はあったが「仏」はいなかった時代があったということになる。これでは「無始無終の宇宙と一体の仏」はいないことになってしまう。
須田:たしかに、途中から出現したのでは「三世常住の仏」とは言えません。
遠藤:始成正覚の釈尊は「本無今有〔本無くして今有り)」と破折されました。“根無し草”のようなものだと。しかし、「途中から仏になった」という点では、寿量品の「久遠実成の釈尊」も、ただ時間をはるかにさかのぼったというだけで、同じです。厳しく言えば「本無今有」であって「本有」ではありません。
斉藤:「本有」でなければ、三世常住の「本仏」とは言えません。

この法華経の智慧の解釈には、僕のいう「久遠」という事の誤解がより具体的に現れています。

そもそも「我本行菩薩道」ですが、ここでは久遠という有限の時間以前の釈尊が菩薩道を行じていたと解釈していますが、九界即仏界・仏界即九界という事で言えば、仏と云っても外向けに現れる姿や行動は菩薩となります。
また如来寿量品で説く「久遠実成」とは「自身が元来から仏であった」という事であり、修行の先に仏となる「成仏観」では無いはずが、名誉会長御大をして「すると、修行をしていたのだから「法」はあった。法はあったが「仏」はいなかった時代があった」という言葉を述べ、その成仏観が既に法華経とは異なっています。

久遠=五百塵点劫という理解の誤解から、「五百塵点劫の当初」の解釈に間違いが入り込み、その理屈の上に確立されたのが、創価学会が今まで大石寺から脈々と受けついできた「末法の御本仏・日蓮大聖人」という存在なのです。

こういう事を少し考え直してみてはいかがですか?
単純に「久遠実成の釈迦=永遠の仏」であり、だからその教学が身延よりになってしまったと言う様な、単純な内容では無いのです。
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