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想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   
カテゴリー「教学随想」の記事一覧

【20170618】教外別伝についての考察

こんにちは(´・ω・`)

この休日、創価学会の中では「東京に友人は居ないのか?」という事が語られ、壮年部でも朝に勤行会を行い、東京への押し出し等に力を入れている様です。

そんな中、僕はと言えば「大乗経典の誕生」(筑摩選書 平岡聡著)を読みながら、さまざま物思いに耽っていたりしています。

「周辺地域の人間が何故、東京都の都民の民意に介入するのか」
「信濃町界隈の指示に従い、何故政治活動(選挙活動)に自分の時間を使わなければならんのか」

そんな無駄な事に心を砕いて時間を使うより、自分自身の事に時間を費やす方が、ナンボも自分自身の人生に有意義だと思うんですけどね。

日蓮は「四箇の格言」というものを残していて、これは「御義口伝」等に書かれていると言われていますが、そこで禅宗の事について「禅天魔」と指弾してます。
何故「禅天魔」と呼ぶのかについては「早勝問答」にも書いていますが、解り易く言えばWikipediaにも書かれていますので、そちらを少し紹介します。

「禅宗は、釈迦が華を拈(ひね)り、大衆の中で大迦葉だけがその意味を悟って破顔微笑(はがんみしょう)した。これを拈華微笑(ねんげみしょう)、以心伝心(いしんでんしん)、見性成仏(けんしょうじょうぶつ)といい、それを以って仏法の未来への附属を大迦葉に与えたとしている。『大梵天王問仏決疑経』の中に「正法眼蔵・涅槃妙心・実相無相の法門があり、文字を立てず教外に別伝して迦葉に付属する」との経文通りに承伝してきた。
 しかし不立文字・教外別伝(ふりゅうもんじ・きょうげべつでん)等と説き、経文を否定している。これは凡夫である自己を過信した仏法を破壊する業(わざ)である。『涅槃経』では「仏の所説に順ぜざる(したがわない)者あれば、当に知るべし、これ魔の眷属なり」と説いている。また偽経である『大梵天王問仏決疑経』等の経典を引用するのは「不立文字」と矛盾相違する行為である。従って禅は天魔の所業である、という。」
(Wikipedia 四箇格言を引用)

簡単に言えば禅宗では経典の指し示す先に「悟り」があるとして、そこから経典を軽視しているから「天魔の仕業」として「禅天魔」としていると言います。

経典とは文字ですが、それは「仏語=仏の言葉」であるとなっていますが、この言葉という事について、先の「大乗経典の誕生」の中では「言葉に対する仏教の基本的態度」として興味深い内容が書かれていました。

キリスト教では「はじめにみことばがあった。みことばは神と共にあった」(ヨハネの福音書)とある様に、言葉とは神と共にあったとても重要なものと捉えられているというのです。しかし仏教においては言葉はキリスト教の述べるほど重要視はされていない様です。

仏教には「所詮」と「能詮」という考え方があります。
例えば「火」という言葉は能詮であり、それは熱くものを燃やす働きのある事象を示す事ですが、その言葉自身で物を熱したり、燃やしたりする事(所詮)は出来ません。

それと同様に仏語というのは、仏の悟りを示す事であったとしても、その言葉自体には悟りの働きは無いのです。

考えてみれば大乗経典は「文字」として成立したのは釈迦滅後、五百年以上経過した時代であり、その経典や以降の様々な論・釈も「能詮」という事になります。

この「教外別伝」という事について、禅宗の中でも種々議論があるようですが「花園大学国際禅研究所」の「教外別伝と教禅一致の批判」の論文を読んでみると、仏の悟りというのは言語の水準で理解すべきものでは無いという事もありながら、一方、禅師の言葉を公案と呼び、それらは文字であらわされている事から、文字との葛藤があると書かれています。

人間が自身の考えを他者に伝達するのは「言葉」であり、それを記録として残す「文字」です。
しかし一方。自分自身が知りえたものをすべて文字で表現する事が出来るかと言えば、それは不可能でしょう。また先にも挙げた「所詮」と「能詮」という事を考えた場合、文字というのはどうしても不確かさがあります。

またもう一つ、仏教の経典で示される説法は「対機説法」という形式が取られています。
これは例えば日本に行く場合、アメリカに住んでいる人には「西へ向かえば日本に着く」と教えますが、韓国に住む人には「東へ向かえば着く」と教えます。あとオーストラリアに住む人には「北へ向かえ」と説明するでしょう。

それと同じ様に、教えを説く対象の人の住む場所(機根)によって説く内容もまちまちとなり、その教えだけを見ると統一性に欠けるものとなります。

そうなった場合、その仏語という経典を絶対視し、そこにのみ「固執する」という事になったら、仏教そのものの目的すらわからなくなってしまうでしょう。

そうなると「拈華微笑、以心伝心、見性成仏」という禅宗の考え方にも一日の長があるという事になりませんか?

そうなると一番大事な事は、本来の目的や意義(いわゆる本義や本質)という事の理解と、それに向かうための一人ひとりの「智慧」がとても重要な事だと思いますが、どうなんでしょうかね。

ちょっと今回は理屈っぽい記事になってしまいました。

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【20170616】死生観について③

こんにちは( *・ω・)ノ

共謀罪でまたまたやらかしてますね、安倍政権。

ネットでは「この日に公明党は死んだ」なんてありましたが、何もこの日に死んだわけではなく、この間の安保法制成立の時に、とっくに死んでるわけですよ。

国というのは法律で動きます。その法律を作るのが国会で、国会にはその為の様々な手続きや関連法案があるわけです。
法律には解釈の幅があり、そこには議員のモラルが問われるのですが、安保法制で自公両党のモラルがどれだけ壊れていたのか、また目先の事ばかりなのかが良く見えましたよね。

とっくに公明党も死んでますが、この国の政治も死んでいることが良く解りますよ。
まあ政治を殺したことに自分も関与してしまったんですけどね、とても慚愧な感情が沸いてきます。

さて本日のお題、先日の続きです。
釈迦は成道の時、菩提樹の下で瞑想をするなかでひとつ前の生、二つ前の生、十前の生、百千万と多くの自身の過去世について思い返し、其々の生でどの様な国に産まれ、名前は誰それであったと思い返したという逸話がありました。

これは所謂「輪廻転生」という話をトレースしていますよね。

この思想は元々インドのバラモン教にあったという話もありますが、実は古代ギリシャにもありましたし、世界中の随所に似たような話は存在します。

現代の科学はモノ(物質)に対する研究であり、物の成り立ちや構成についてはかなり研究されていますが、この様な非物質的な事に対してはめっぽう役に立ちません。
ただ興味深いのが、極微の世界を探究する科学である、量子力学の世界では、それこそ従来の科学には無かったオバケの様な理論が様々出ていることです。

ちょっと話が逸れました。
この輪廻転生については、未だ科学的には解明されていない反面、人の心の病の治療現場では応用されてます。これが「前世療法」というやつです。

以前にも紹介したJ・L・ホイットン著の「現代の神話ー輪廻転生(英題:Between Life to Life)」では、アメリカの臨床精神科医がこの前世療法を施している時、ある手違いから死後から次の生までの間の世界、仏教でいう処の「中有」を発見し、数千例の臨床データから、研究してまとられた内容を紹介しています。

また他にもアメリカの脳外科医であるアレクサンダー・エベン氏が、自身の臨死体験について客観的に診断し、同じく死後の世界について「プルーフ・オブ・ヘブン」という自著に書いています。

これらで興味深いのは、共に思考する先が「チベット仏教」を向いていることであり、そのチベット仏教とは、もともとチベットにあった宗教である「ボン教」と仏教が融合して出来た宗教であるということ。

仏教では始祖の釈迦がどこまで説き起こしたのかは不明ですが、仏教の論師でもある天親(世親)菩薩が唯識派として理論を構築、「阿毘達磨倶舎論」を著し、それが後の九識論等にも影響を与えた様です。

ここまで見てみると、人間は死んだら終わりという存在ではなく、やはり生まれたら死んで、そしてまた再生しという事を繰り返すという事も、強ち否定することは出来ないと思いますし、僕もこの事は有るんだと確信しています。

しかしこれはあくまでも個人的な確信に過ぎず、万人を説得出来るほど実証的な話なのかと言えば、実はそこまでのものでもありません。

では「人は死んでもその先がある」という事から、どの様な事が考えられるのか、そこについては次回から書いて行きたいと思います。

【20170609】死生観について②

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

さてこんなお題の記事でして、どれだけの人が真面目に読んでいただけるのか解りませんが、書き続けていきます。

昨日の記事では唯物的な観点だけでは、この人間の命というのは捉えられないという事で締めていました。

「死後の世界についてあるというなら、その実在性を科学的に説明せよ!」

こんな話もあったりしますが、僕がそこで思うことは、果たして今の人類がたどり着いている科学レベルで全てが回答できるのかという事です。

マクロ的に言えば。
例えば宇宙の始まりとはどうだったのか?
始まる前はどの様な世界があったのか?
本当に宇宙の成立は百三十数億年なのか?

またミクロ的に言うと、トップクォークは何なのか、量子力学で確認された観測が実験結果に影響を与えるとは如何なる事なのか。

これらの事に、今の科学ではサッパリ解答できてません。そんな科学を盾にして、生命の事なんて語れるわけがない。

しかしこの死後の事や生命の姿を証明しようにも、何か手段が何かあるかと言えば、これが全くなく、結論としては「個人の信じる領域」をこの話題が出ることはないでしょう。

という事で、ここで語るのは現段階の僕が信じている死生観であり生命感であることをご理解ください。

◼死とは何か
死生観を語る上で「死」とは何かについて語っておく必要があります。
僕は幾ばくか仏教という思想を学んできましたので、そこを足掛かりとして少し語りたいと思います。

ブログではなく、本サイトの方で今後取り上げたいという話の中に「ミリンダ王の問い」があります。これは紀元前後あたりになるのでしょうか、アレキサンダー大王の東征もあって、現在のアフガニスタンあたりにはギリシャ人国家がありました。
そこの国の王でミリンダ王というのが居まして、これがまた大層頭のよい王であったと言います。

その王と部派仏教のナーガ・セーナ師の対話が「ミリンダ王の問い」です。

ここでは「自身」について語られる箇所があり、それは王から「自分自身とは何か?」という問について、セーナ師が答えていました。

そこでセーナ師が、日常意識している自分とは何をもって云うのか、心臓をもっていうのか、どこか特定の部分に自身が宿っているのかと王に問いながら、結論としては肉体の特定の部位に自分があるという事ではなく、それらが構成された上に縁起に依って自分が存在すると云うような回答をしていました。(詳細が違っていたらごめんなさい)

また仏教の中には「五薀仮和合」という考え方もありましたよね、確か。
ここでいう五薀とは「地大・風大・火大・水大・空大」という特性で、各要素(これはそれぞれ肉体の特性について要素わけしたもの)が仮に和合(調和をもった構成)した状態が生きた肉体だとも云われ、老化や不慮の事故、また病気などでこの和合が保てなくなった状態の時に訪れる事が「死」であると言われています。

先に上げた「宇宙人ユミットからの手紙」の中にも同様な記述があり、その様な肉体に生命は宿り、崩壊すると元の大きな意識体に生命は戻っていくとあります。

つまりイメージ的な話になりますが、アメーバーの触手の先端の様に延びて、条件の整った場所(この世界)に生命の働きとして発現するのが「誕生」であり、その触手が縮み(この世界から手を引く)、もとのアメーバー本体に戻るのが「死」である。

そしてこの現実世界では、生命活動として存在出来るのは、仮に和合した縁起の上での話であって、仮の和合が崩壊した時には、一旦元の場所に戻り、この世界から消えたように認識される。

とても雑多なイメージですが、そういう生命の動きや働き、発現して消滅する現象。
その事がこの世界の中では「生死」と認識されるのではないでしょうか。

法華経にある「若退若出(若しは退き、若しは出る)」という如来の姿もこの事を指し示していると思うのです。

まだまだ続けますよ~(  ̄ー ̄)ノ

【20170608】死生観について①

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

最近、職場の知人と話しているんですよね。「週休三日がいいな~」と。
二十代や三十代の時にはあまり考えもせず、日々がむしゃらに学会活動に仕事にとかけずりまわっても、それほど体が辛いとは感じなかったのですが、五十代になると週半ばで体と心が軋んでくるんですよ。
だから土日休みと共に水曜日も休みだったらどれ程楽か。
一億総活躍社会と云うなら、検討して貰いたいなーと、節に願います。

さて今回のお題です。
「人間は"オギャー"と産まれ落ちたら瞬間から、死へと向かい行く存在で、ある意味、不治の病に掛かっているようなものだ」
過去に読んだ何かの本で、こんな話を読んだことがあります。

まあ幾度かこのブログでも書きましたが、僕が学会活動に取り組みだしたのも、若いときに目にした知人の死でした。

この「死」と向き合うのは中々難しく、やはり二十代から三十代に掛けては未だ遠い話で、まあ何れやって来るんだろうなという位の認識でしたが、親戚のなくなる姿や、自分の親が亡くなることに立合い、また自分の肉体や精神に衰えを感じ始めた昨今、以前よりもかなり身近に感じています。

この事について、日蓮の説き残したモノの中に回答があると思ったのですが、以外と少ないんですよねこれが。

良い悪いは置いといて、この人の「死」という事で言えば、実は念仏宗の方が文献的にも多く語られていて、昨今盛んになってきた「NDE(臨死体験学)」で著名な京都大学のカール・ベッカー教授も、その事について言及している程です。

まあ考えてみれば念仏宗を日本で盛んにした法然房源空も、幼い頃に実父を目の前で亡くしたという体験からか、比叡山延暦寺で仏教を学んだのですが、その修学では何ら得ることが出来なかったそうなので、同じ延暦寺で修学した日蓮の教えの中にそれを求めるのも無理があると思います。

日蓮の教えでは「死」の対極にある「生」に対して力点を置いている事もあり、死生観という事で言えば、鎌倉時代当時に仏教界で語られていた程度の事しか無いのが実情では無いでしょうか。

だから大石寺で代表的な死に向かい合った文献である「臨終用心抄」、これは日寛師が講じたと言われる内容ですが、身延系日蓮宗の講義した内容の焼き直しであるし、そこで引用されている論は禅師や他宗派の師の言葉などが多くありました。

「臨終の事を先に習って云々」と日蓮の言葉にありますが、この習うことは今の日蓮の教えに求めるのは難しく、寧ろこの「全てを手放す死」という事を理解して、日々を活きろという言葉なのでしょう。

さてこの「死」について。
僕も非活になって親を亡くした頃から様々な事を考え続けてきましたが、いまいま考えている「死」とはどの様な事として捉えているのか、その事について少し話をしたいと思います。

先ず大前提として、唯物的に「死」が全ての終わりであると、僕は考えていません。

これは世界中には様々な歴史的な文献が残っており、昨今ではアメリカで話題となったカール・ベッカー医師の著作「プルーフ・オブ・ヘブン」を見ても明らかな様に、死を越えた先でも自我が存在し、そこで体験したリアリティーは現実世界を凌駕しているとありました。

またフランスの学士院会員のジャン・ピエール・プチの著作である「宇宙人ユミットからの手紙」という本があります。
「宇宙人」と表題にあるので、何かとても胡散臭い本に思えますが、この本は「ウンモ星人」という宇宙人との手紙の交流について書かれています。
この本、実はウンモ星人からの手紙の内容が科学的にはとても造詣が深いことから、フランスの学士院会員である著者が、手紙のやり取りのエピソードと共にそこに記載されている内容について思索をまとめています。

この中にウンモ星での死生観が書かれていましたが、それによると脳中枢神経というのは、それが全ての意識機能を取り持つのではなく、いわゆる「あの世」と「この世界」の中継装置として動いているという事で、意識というのはこの世界だけの存在ではないと言うことです。

例えば心理学者のカール・グスタフ・ユング等は、人の心の構造として深層意識について語ってますが、そこで無意識について日常の記憶で意識しないものという事以外に「集合的無意識」に言及、そこではこの集合的無意識は遺伝により伝わるものと定義していました。これはつまり個人の生死を越えた所にこの意識は存在し、それによって個人の活動も影響を受けているという事ですね。

唯物的にいうと、意識とは脳が持つ機能の現れであることから、この脳が死んだら全てが終わるという発想で死を捉えていますが、昨今ではこれは主たる議論にはならなくなってきているのではと思うのです。

今回はここまでとして、もう少し語りを続けていきます。

【20170602】八風に動かされないこと

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

しっかし今の日本は、またお祭り社会になりましたね。

テレビをつければ、報道では北朝鮮がミサイル撃ったとか、加計学園がどうとか、豊洲だオリンピックがどうとかだと。この間までの森友問題なんて、記憶している人がいるのでしょうか?

夜になればバラエティ番組が安い笑いを垂れ流していますが、福島第一原発の事、まだ六年しか経ってないのに二万人の被災者を出した東日本大震災の件は忘れてしまったのでしょうか?

以前にメールで「運ちゃんは今回の大震災はどの様に捉えているのか?」と問われ、僕は「諸天撃天鼓」という言葉にある「天鼓」だと思ったと答えました。

震災以前も日本はお祭り状態で、目先の事にバタバタと躍り来るってましたが、あの震災で日本という国は、もっと大事なことに気づくべきではないかという事で、その様に考えたのですが、あれから数年経って、また同じような状態になっているのではないかと感じています。

また何か起きなければ良いんですけどね。

さて、本題です。
これからの時代、今の五十代前半、つまり僕より下の世代の人達は心して生きていかねばなりません。

小泉自公連立政権で確立された市場原理主義が社会の中にいよいよ根付き、貧富格差は広がるなかで固定化し始めています。

僕も昔はこの日本の社会を少しでも良くするのが公明党の役割で、その社会の下支えをしながら変革する組織が創価学会だと、愚かにも信じていたわけですよ、恥ずかしながら。

しかしその創価学会が発展して、そこで豊かになったのは信濃町界隈に連なる人達で、日本はより貧富格差が固定的になりつつあります。

これを作り上げた要因の一つに、創価学会と公明党の発展、つまり創価学会の求めた広宣流布という思想があったわけです。

こうなるともう一人ひとりが賢く生きていくしか無い時代になったのかと思いますし、各自が自分自身を守るしか無い時代になったと云えるでしょう。

まあ団塊の世代は、逃げきりの世代になると思いますが、僕より下の世代は残念ながら逃げきりの世代とはならないですね。

そこで大事なことは「右往左往しない自分」を作り行くことです。日蓮は門下の四条金吾に対して、以下の言葉を送りました。

「賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利衰毀誉称譏苦楽なり、をを心は利あるによろこばずをとろうるになげかず等の事なり、此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給うなり」
(四条金吾殿御返事)


この四条金吾という人物は、情に厚く義理に固い人物だったと云いますが、その一方で直情型の性格で、何かにつけて怒りを爆発させていたそうです。
その四条金吾に対して日蓮は「をを心は利あるによろこばずをとろうるになげかず等の事なり」と、目の前に出てくる事柄に心を振り回されるなと注意したのがこの御書ですね。

創価学会では「宿命転換」とか「人間革命」とか言って、組織活動への追従とマントラの様に必死に題目を唱えることで、自分の問題を乗り越える事が出きると教え、活動家達をその教えで縛り付けて、今でいうなら東京都議選に駆り出したりしますが、本当の人生にはその様な事では無いと思いますよ。

大事なことは、目の前に出てくる事柄に心を翻弄されるのではなく、泰然自若の心を持って、人生に取り組んでいけば、それぞれの人に取って意味ある人生を送れるのかと思います。

だってその為に産まれてきたのでしょ?

そして右往左往しないためには、しっかりと自分自身を知らねばならない。信仰とはその為のものであって、宗教や信仰の為の人生ではないのです。

これからの日本、様々な荒波が来るとは思いますが、そういう時代になるからこそ、こういう信仰観をしっかりと確立しなければならない、その様に思いますけどね。

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