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想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   
カテゴリー「教学随想」の記事一覧

【20170524】五人所破抄を読んでみた

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

いやまあ気候が暑くなりましたね~。
夜なんてタオルケット一枚でも足りるくらいで、この間までの寒さはどこえやらと思ったりもしましたが、もう間もなく六月なんですね、早いな~。

さて、本六と新六について調べる傍ら、六老僧について考える上で、ここ最近は「五人所破抄」なるものを再読しています。

いえね、活動家時代にも読んではいましたが、それはどちらかというと対宗門や顕正会の破折という目的から読んでまして、素で内容を読んだ事が無かったんですね。

んで今回読み始めて見たのですが、正直「自画自賛気が強い」と思いました。

内容の詳細については、いま本サイト向けにまとめているので、そちらを見てほしいのですが、まず始めにこの書は日興師直筆ではなく、北山重須学頭であった日順師により起草されています。

著述もたしか日興師の再晩年の頃に書かれたものなのですが、当時は六老僧の中で存命していたのは日興師だけ。他の五老僧の方々は既に他界されている状況です。

この五人所破抄と富士一跡門徒存知事から、興門派の中では「五一相対」という事が言われてますが、考えてみたら五老僧とてそれぞれの経歴が違うのですから、単に「正統なる後継者、日興師」と「日蓮を理解できなかった愚鈍の五老僧」というレッテル付けもどうなんでしょうね。

例えば日頂師は北山重須の初代学頭で、日興師の元で晩年を生きていたんですから、それが亡くなった後に「五老僧の日頂」なんてのもオカシイし、その親戚で新六の日澄師も当時は日興門下の新六として居たわけでしょ?

この五人所破抄はどんな意図で作られ、当時、日興門下でどの様に思われていたのか、そこが良くわかりませんよね。

また冒頭で五老僧が日蓮を天台宗の僧侶で天台・伝教大師の後継として生きたと述べたことに対しても、そらがオカシイと指摘してたりしてますが、考えてみたら日興師の写本である「立正安国論」には「天台沙門 日蓮」と書いてあるわけですよ。これはつまり最明寺入道に奏した文書の中でも、日蓮自身が「私は天台沙門(僧侶)」と名乗っていたわけであり、そこから五老僧も師匠を天台沙門で天台・伝教大師の流れを汲んでいると述べることを、殊更責め立てるのもいかがかと。

また各々も「天台沙門」と名乗りをしていることも非難してますが、例えば日昭師は天台宗で「権律師」として受戒を受けていて、日蓮門下になった時には既に天台宗の僧位を持っていたわけです。

また最近になって「日蓮」というのは「阿闍梨号」であると言われ、日蓮も多くの弟子を教化していることから、比叡山延暦寺で阿闍梨を取得していたと思われます。

そうなると日蓮が受戒した僧は、形としては天台沙門になるわけだし、そこから考えると各人が「天台沙門」と名乗りをした事を責めるのもオカシイと思いますよ。

ただ日蓮を「上行菩薩の再誕であり実経の大権」とまで五老僧が理解していたかどうか、そこは解りかねますけどね。

日興師は確かに日蓮を上行菩薩の再誕として理解していました。でもその門下が、この後内輪揉めして分派して、そのうち日蓮を勝手に釈迦をも越える御本仏まで持ち上げてしまい、結果として従来の仏教全般を軽く考える風潮を、この日興師の理解が起こしたことも否めないので、やはりそこから考えるならば「五一相対」なんて事は止めるべきではないでしょうか?

日蓮を理解するには天台、伝教の内容も理解しなければならないし、その縁源である龍樹や天親の思想の理解も必要です。また曼荼羅に関して言えば、こちらは密教系の思想も関係してくるし、唱題については念仏も関係してくるのです。

日蓮が立正安国論で主張したのは「法華経を中心にした仏教」であり、その上で日蓮は法華経を天台や伝教大師より一重深く読み込んだという立ち位置です。別に新たな宗派の祖になろうとかも考えていなかったようなんですから、そろそろこの五人所破抄などから言われる「五一相対」なんてもの、捨てて良いのではありませんか?

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【20170515】功徳論について

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

週明けの朝はとてもダルいです。

人間、働かないとお金を得られません。なぜお金を得る必要があるかと言えば、この社会の中で生きていくには何かとお金がかかるからですね。

独身の時には自分の口を塞ぐ収入さえあれば良かったのですが、家族を持つと、例えば子供の教育費とか、何かあった時のために生命保険とか、先々の積立ての学資保険とか、あと車も何かと必要なんでローンとか、その保険とか。そもそも家族の衣食住の為の生活費とか。

昨今の格差社会と言われるなかで、何とか家族を食わせるためには、やはりトーチャンが頑張るしかないのです。

それはそれとして。
昨日のある場で示唆を富む話が聞けたので、その事について少し今日は書いてみます。

僕の嫁は東京都内に友人が居ないのでそれほどでもないですが、多くの活動家幹部はこの時期、休日になると何としても都内へ出向き、公明党の票を獲得しようとあがいています。

昨日は地元の壮年部幹部が久しぶりに僕を訪問してきたので、探りがてら少し都議選の話を聞きましたが、やはり都議選の票の事は頭にあって苦慮している様子でした。

「考えてみれば都議選は、東京都民が自身の住む地域の事で投票するわけで、それをなんでワザワザ他県の住民がチャチャ入れる必要があるのか?」

この言葉に対して出てくる言葉は「広宣流布の戦いだし、そこには功徳があるじゃないですか。私も戦いの中で多くの功徳に守られてここまで来れたんだし、その為という事もありますよ」でした。

「功徳」。これは何かと創価学会の活動の中で出てくる言葉です。

かの初代会長が「日蓮大聖人仏法で大善生活しよう!」と訴えた事には、この今の学会の中にある「功徳」という言葉がありますし、ある意味で創価学会の「創価=価値を創る」の価値の言葉にこの「功徳」が含まれています。

第二代会長の戸田城聖も、御本尊をして「幸福製造機」に例えたのも、これは「祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざる無い御本尊」という、大石寺第二十六世日寛師の言葉を通しての功徳論でした。

昨日、この創価学会の使う「功徳」という言葉とは、実は「利益」なんだという話を聞き、改めて創価学会は言葉の使い方が間違えている事を感じました。

「功徳」とは何か。それは「六根清浄」と本来は言うわけですね。「六根」とは眼・耳・鼻・舌・肌、そしてそれを統括して認識する意識を言うわけです。それらが浄化されまごうことなく物事を正確に認識できる状態に成ることを、簡単に言えば六根清浄と読んでいます。

世の中には様々な事があり、矢もすると人間の認識とは偏向したものになり、物事に振り回され、そこから様々な苦悩が生まれてくると言いますが、本来の仏教でいう処の功徳とは、自分という存在が本来何者なのかをしっかりと捉え、その自己の周囲で起きる物事の本質を理解できる状態になることを指すわけです。

一方、利益というのはその自身の変化に伴い、自身に価値のある事象が発生した場合の、その価値を指すわけです、創価の価値とは云わばその事を思考した言葉なんですよね。

要は本来の功徳に付随して着いてくる利益の事で、簡単に言えば豆腐を作る際の「おから」の様な物かも知れません。

この「おから議論」、実は第二代戸田会長の指導でも語られていたと記憶してますが、最近の創価学会の中ではあまり耳にしなくなりました。

御本尊の賛文にもこの功徳と罰については書かれています。

「若悩乱者頭破作七分」
「有供養者福過十号」

要は法華経を信じている人を悩ます人は、頭が割れる(精神が壊れる)。これは罰。
法華経を供養する人は仏の十号(仏の特性)を得られる。こちらは功徳。

あれま、考えてみれば御本尊には功徳が書かれていても、利益については書かれてません。これはつまり利益信仰のために文字曼荼羅が顕されたという事ではないという事なのではありませんか?

僕が青年部の時、会合なんかでは様々な利益体験を聞かされました。

それこそ病気が治ったとか、会社を経営していたら、借金抱えて火の車となるなか、毎朝三時間題目唱えたら、お金が不思議と工面が出来た等々。要はお題目を唱えて学会活動すれば、苦しむ原因が無くなり、その利益で幸せになれるという話ですね、多くの事は。

それを聞いた活動家は「じぶんもそうなりたい!」「人に出来て自分に出来ないわけがない!」と学会活動と祈祷師の様な題目を唱え始めるわけです。
こんな事すれば、活動家の幾人かは小さな利益を体験できたりするんですね。まれに大きな利益体験する人も居たりして。
しかし大概は何にも願望を叶えるような利益体験が出来ないわけですよ。

そうなると創価学会の幹部は口を揃えて言うわけですね「祈りが足りない」とか「もっと学会活動に頑張り、広宣流布に貢献しなければならない!」なんて事を言うわけです。

そんなこんなで利益体験をする人も出てきたりするから、人の心は悩ましく、また利益体験出来ない人達は疲弊してくるわけです。

また利益体験出来た~!なんて歓喜する人たちの中には「あれ?これはやっぱり違~う」なんて人も出たりして、そんな人はより利益を求めるために泥沼化した宗教の世界にはまりこんだりします。

以前に僕の処に相談のあった幾人かは、そんな状態に陥って、そりゃーもう身も心もボロボロでしたよ。

仏法では功徳を目指すことはあっても、そこに付随する利益なんて、求める対象ではないんですが、創価学会では功徳と利益をごちゃ混ぜにして語り、人々を馬車馬の様に組織に尽くす人達を大量生産しているだけなんですね。

創価学会の言う「功徳」とは「利益」という事でしかなく、そこをもう一度認識をしていかないとダメなのかもしれません。

今は東京都議選の季節。
「創価学会の人達は選挙に興味があっても、政治には無関心」と言われてますよね。あと何も思考せずに信濃町界隈の言葉を鵜呑みにしているとも言われてます。

その根底にはこの「功徳」と「利益」という言葉の混同も要因の一つにあるのでしょう。

そういう処も整理しないとダメですね。

【20170427】折伏なんて捨ててまえ

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

最近実感すること。
それは若いときには出来ていた事が、出来なくなっている事がちょくちょく有ります。
夜更かし、全力疾走、新たな挑戦、その他諸々あります。精神的にも何かと保守的になり、そういう事を感じる度に「ああ、俺も五十代なんだなー」と染々思います。

でもこの年齢になって思うのは、三十代や四十代の様に、剥きになることがへったと言うことで、そう思うと年齢重ねるのも良いことかとも思ったりします。

何故この様に思うのか。
先日、「我見!謗法!」と言われましたが、それ依頼、結構この事を考えることがありまして、何故に彼ら(師弟原理主義者)は、多様な意見を認めないのか。その事を考えていました。

そこで思ったのは、これには日蓮正宗から連綿と続く「折伏思想」が関係しているのではないかと言うことです。

「折伏」とは何か?
デジタル大辞林によると、以下の意味が出てきます。

1. 仏語。悪人・悪法を打ち砕き、迷いを覚まさせること。摂受 (しょうじゅ) と共に衆生を仏法に導く手段。「邪教の徒を―する」
2 .転じて、執拗に説得して相手を自分の意見・方針に従わせること。「対立する相手を―する」

つまりこちらの考え方に相手を従わせるという事ですね。この前提となるのは「自分の方が正しく相手は間違えている」という考え方なのです。

以前にYouTubeで昔イギリスで大人気だった「モンティパイソン」という番組がありましたが、そこでは「フリーメイソンの見分け方」というコメディがあって「折伏に来る」という訳をされてた事がありますが、創価学会が揶揄され距離を置かれたのも、この「折伏」という事があったからですよね。

確かに日蓮は「法華折伏・破権門理」とあって折伏こそが末法の修行であるという事を述べています。しかしながら、では末法は全て折伏かというと、実はその様に述べている箇所が御書には存在せず、あくまでも折伏と摂受は時によると述べているのです。

「此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す。」
(如来滅後五五百歳始観心本尊抄)


文字曼荼羅を語るこの御書では、地涌菩薩の現れ方として折伏と摂受が述べられていること、これはとても象徴的な事だと思います。

そもそも「法華折伏・破権門理」という言葉は何かと言えば、大乗経典の中で「二乗は仏になれない」と云い、仏と衆生の関係も分断された教えが説かれているなか、法華経の「二乗作仏」や「久遠実成」は到底受け入れられるものではなく、この言葉はそれを乗り越えるための言葉であったと思います。

また折伏という事を行ずるのであれば、本当ならば自分の主張する教えを、しっかりと理解しなければならない処を、その理解も深まらない中で「私の主張が正しいのだ」という事だけをを前面に出したのであれば、それは単なる人の話に耳を貸さない自己主張にしかなりません。

折伏とは自分の考えが正しいと主張する事かもしれませんが、裏を返せばそれなりに自分でその正当性を述べなければならないはず。

昔、婦人部の「凄さ」を称える例えばなしで「何言ってるの!御本尊様は凄いのよ!」という言葉がありました。これは相手がどの様な理論的な反論をしても、婦人部はこの言葉だけで押しきってしまう事の話でした。

まあこれも折伏っちゃー折伏かもしれませんが、相手には大きな禍根を残します。
果たしてそれで良いんですかという事です。

ネットでみる創価学会関係のやり取りでも同じ事が見えますよね。対話をしようの論理だてても噛み合わず、相手が言葉を投げ捨てて一方的に言葉を被せてきて終わりにする。そして相手はそれで「自分は勝った!相手は負けた!」という形で一方的に打ち切る姿。

それが果たして本当に折伏なんですかね?

この時代、むしろこの折伏という姿勢自体が多様性を求められる現代において、相互理解には大きな障害にさえなっているのではありませんか?

とかく折伏なんて考えていては、相手の事を理解する姿勢を持てません。今は多様性の時代であり、一人ひとりの差異を互いに包含仕合い、如何に調和して生きていくのか、そこが問われる世界です。

そろそろ過去の歪な折伏なんて、止めたらどうでしょうか?

それでも、もし折伏をするというのであれば、その前に真摯に学ぶことをするべきですよね。

【20170403】ミリンダ王との対話

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

この土日、子供たちに付き合い車で出掛けてました。子供たちとは現金なもので、父親を財布としか思ってないのかとか、ふと考えたりしますが、それでもこうして一緒に付き合える期間と云うのは、実は人生の中でも極めて短い間なんですよね。

たまに子供の横顔を見て、ふと何故この子達は僕の人生の中に産まれて来たのかとか、自分が子供の時の事を考えてしまいます。

さて本題。
最近、調べているのは仏教伝播に関することです。本サイトには少しづつ更新をしながらですが、そこで「ミリンダ王の問い」というのが出てきます。

紀元前三世紀頃にアショーカ王による「法による支配」という事から、部派仏教として分裂していた仏教の教えは拡散をしました。それが影響しての事かと思いますが、今で云うアフガニスタン近辺を治めていたギリシャ人の王であるミリンダ王が、仏教僧長老のナーガセーナ師と対話をするんですね。

時期的には紀元前一世紀半頃の事です。

どんな対話をしてるのか、とても興味があってネットを検索するのですが、色んな人が色々と解釈をしていたりするので、そんなものではアカンと探した結果、国立国会図書館のアーカイブに資料があったので、いまはそれをチマチマと読み始めています。

このミリンダ王との対話ですが、後に花開くガンダーラ文化とも関係してくるんですよね。

ガンダーラといえば、昔にゴダイゴというバンドが歌ってもいましたが、今の仏教では当たり前にある「仏像」の発祥の元になった文化で、ギリシャのヘレニズム文化と仏教が出会ったことで産まれたと言います。

だから初期の仏像なんかは、結構、ギリシャの色彩が強く出てますよね。

このいわば東洋と西洋のぶつかり合いの最初の記録が、「ミリンダ王の問い」として記録されているものだと思います。

内容についてはチマチマ進めていきますので、本サイトに公開の際には呟きますが、この仏教伝播の歴史を読み取っていくと、仏教伝播した場所で開いた文化というのは衰退していくんですよね、特に元となった仏教というのは。

細かい理由は解りませんが、創価学会でも「仏法西還」とか呼んで、仏教は東に伝播していき、それが西に帰ると呼んでいます。

この伝播する時に北西インドから中央アジアを経て、中国や日本に伝わったのが、大乗仏教なのですが、いまの時代では北西インドや中央アジアではイスラム教が盛んですよね。あと元々のネパールやインドといった地域では、ヒンズー教に仏教は吸収されてしまいました。

何故でしょうかね?

まあ創価学会は仏教でもないし、いまの日本に仏教があるかどうか、それは解りませんが、ふとそんな事を感じてしまいました。

世界宗教と言っても、世界的には三億程度の分布と言われ、キリスト教の二十二億に比べたら、仏教とはまだまだ人類にとってもメジャーではないんですよね。

おっとっと、話がかなり脱線してしまいました。

このミリンダ王の問いと言われる対話には、初期の仏教の考え方がよく出ていますので、それについてはまたの機会に。

【20170329】仏教の生命論展開

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

いやー、眠いです本当に。
子供達は春休みで、のんびりしてますが父親はそうはしてられません。昨日も帰宅は深夜になり、今日は客先直行です。

家族が居ますからねー、稼がんといかんのですよ。
正社員様のように、遅刻してもサボっても、昼間に居眠りしても組合が守ってくれるという立場ではないもので、フリーランスは生き抜かねばなりませんからね。

さて今日のお題。
あるお方からメールを頂き、ふと考えていることを記事にします。

創価学会では「戸田会長の悟達」と呼んでいるものがありますよね。

無量義経の三十四の否定。そこで否定しきれない存在とは何か。「其の身は~」から始まる否定で、それは仏の事を礼賛する偈でした。

戸田会長は獄中において白文の法華経に取り組むなかで、この否定の真意が解らないと煩悶し、何度も繰り返し思考する中で「仏とは生命の事なんだ」と「悟り」を得た、これが「戸田会長の獄中の悟達」と言われるもので、創価学会流に云えば、仏教を現代に甦らせた発想だと言ってますよね。

「仏とは生命なんだ」
ここから考えられるのは、仏教における仏とは、小乗教と大乗教で微妙に意味合いが異なりますが、簡単に云えば「目指すべき究極の姿」という事です。
人生の根本苦である四苦を超克し、巧みに人々を教化する理想的な存在。

この仏とは生命であり、本来誰でも持っているという表現をしたことで、生きる一人一人の中にそれが在るという認識を広めたという事から、これは巧みな言葉であったと思います。

そういう意味では一定の評価をしてますが、残念なのはそこで話が終わってるんですよね、創価学会では。

人は根源から仏である。
これは法華経の中、釈迦の久遠実成で示されたこと。そして法華経では仏の本処はこの苦悩渦巻く舎婆世界だと明かし、そこで仏として開悟した釈迦であっても法を求め、菩薩行を続けていたと明かしています。

創価学会では「仏とは生命である」という論理展開から、人間主義、そしてその生命を尊厳する立場からの平和主義という展開をしています。

社会に開く角度としては申し分無いのですが、それは単なるお題目となり、実際の組織活動には何らこの悟達は役立ってませんよね。

いやいや、役立ってないではなく、実際の組織活動とは遊離したスローガンと成り果てていて、それこそ選挙とか折伏の時位に利用されるだけの言葉ですよね、これって。

実際には、例えば創価学会では個人の事より組織の事を優先にします。最近では「創価学会仏」という言葉まで飛び出していますが、組織に属し、組織の指導通りに活動することで「創価学会仏」になれると言わんばかりの言葉ですよね。

逆に創価学会の組織に従わないのは、それは裏切りであり、師弟三代の血脈からはずれるとか、そんな感じです。いま全国のあちらこちらで査問だ処分だと、今まで活動してきた会員に対する信濃町界隈の姿勢から、そんな事が見え隠れしてますよ。

「仏とは生命なんだ」という悟達は良いのですが、それでは眼前にある四苦を始めとする人生の諸問題に対して、どんな意味合いがあるのか、その悟達の上から教えて欲しいものですが、そんな事は創価学会では語りません。

ひたすら宿業論を唱え、宿命転換や福運なんつー学会造語を教えて、「勝ちまくれ」としか言えないではありませんか?

いまある世界の諸問題についてどうなのか?
それについても「世界に創価学会が広がったが故の魔の働き」なんて幹部が平気に言いますよね。

つまるところ何ら深まりを見せない思考で、生命論という言葉を振り回し、やれ宇宙のリズムだ正義の法だ、誓願の戦いだしか言えないではありませんか。

こんな創価学会の「生命論」なんて言葉は、僕からすれば無用の長物以外に無いです。

生命論を語る。これは大事なことかもしれません。そして現代に於いてはこれの答えは単に仏典の中だけに求められる訳はなく、当然の事、日蓮の言葉だけで事足りるものではありません。

もっともっと学んで思索をしなくてはいかんですよね。

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