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想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   
カテゴリー「教義改正」の記事一覧

【20170821】再考、創価学会仏

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

たしか本年始め、この創価学会仏に関する記事を書きました。

【20170108】創価学会仏、それは無い無い

この時はあまりにアホらしさが先に立ち、少々乱暴な内容となってしまいましたが、今回は少しこの創価学会仏について思索をしてみたいと思います。

創価学会仏についての創価学会のスタンスは以下の内容でしたね。

本年(2016年)7月26日の全国最高協議会への池田先生のメッセージの中で、
「御本仏の広大なる慈悲を体し、荒れ狂う娑婆世界で大法を弘通しているのは、学会しかない。戸田先生が『創価学会仏』と言い切られたゆえんである」と指導され、
かつて戸田先生が“大聖人に直結した広宣流布遂行の和合僧団である創価学会は、それ自体、仏そのものであり、末法の経典には創価学会仏の名が記されるであろう”と断言されたご指導を踏まえたものです。
 池田先生は、更に、そのメッセージの中で、“広宣流布を推進しゆく創価学会が仏の存在であり、創価学会なくして広宣流布はなく、学会を守ることが広宣流布を永遠ならしめることである”ともご指導くださった。」


まずここで考えなくてはならないのが、創価学会という和合僧団、つまり組織が仏としての存在だと断言している事なんですね。

この思想はそもそも仏教の中にあるのか、という事ですが、たとえば法華経に於いては、過去に同じ名前の仏が存在したことを述べていたりします。

「是の菩薩復千万億の衆を化して、阿耨多羅三藐三菩提に住せしむ。
 命終の後二千億の仏に値いたてまつることを得、皆日月燈明と号く。」
(妙法蓮華経常不軽菩薩品)


これは不軽菩薩が多くの人々を化導したのち、亡くなってから二千億の仏に会った事を述べ、その全てが日月燈明仏という名前だったと述べています。

あとは多くの弟子達に記別を与える時に、同じ名前で与えた例も他にありますよね。

「其の五百の阿羅漢、優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・迦留陀夷・優陀夷・阿・楼駄・離婆多・劫賓那・薄拘羅・周陀・莎伽陀等、皆当に阿耨多羅三藐三菩提を得べし。
 尽く同じく一号にして名けて普明といわん。」
(五百弟子授記品)


しかるに法華経において、僧伽、つまり組織に仏と記載したものは一つもありません。仏が全て同じ名前、これはあるでしょうか、団体を仏なんてのは論外な説なのです。

処で仏という概念について、創価学会はどの様に考えているのでしょうか?

先の創価学会の声明では「荒れ狂う娑婆世界で大法を弘通しているのは、学会しかない。」と述べています。つまり創価学会の教えを弘めているのは創価学会なのだと云うのです。

これ、おおきな認識違いを起こしてますね。

戦後の日本において、創価学会がなぜ大きくなったのか、これは何も組織が動いたのではなく、そこに所属した一人ひとりが必死に活動したからでは無かったのでしょうか?

過去に池田会長も人間革命の冒頭に書いてましたよね。「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」。どこまで言っても「一人」が主体であって、団体が主体では無かったはずではありませんか?

また「広宣流布を推進しゆく創価学会が仏の存在であり、創価学会なくして広宣流布はなく、学会を守ることが広宣流布を永遠ならしめることである」と言っていますが、これを言うのであれば、「広宣流布を推進しゆく創価学会"の一人ひとり"が仏の存在であり」と云うべき処、なぜに組織団体が主体となるのでしょうか。

非常に巧妙な論理のすり替えが行われている事に、本来であれば創価学会の活動家自身が気づかなければなりません。

「又衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり」
(一生成仏抄)


これは有名な御書ですが、この御書からよく思索をしてみてください。

よしんば組織が仏と呼ばれる事があったとしましょう。それでもその組織に属している人達が仏であれば、その組織も仏としての権能を持ち合わせる事にもなるかもしれませんが、組織に属した人々が三悪道の人々であれば、逆に組織は「悪鬼」の様に、人々の命を喰らい尽くす存在にもなってしまうのです。

要は組織というのは能動的なモノではなく、そこに属する一人ひとりがどうなのかによって変化をする存在でしかないのです。

だから日蓮は「只我等が心の善悪によると見えたり」と語っているのではありませんか?

いまの創価学会は教学試験の季節で、この「創価学会仏」なる勝手気ままな邪義を、あたかも仏法に則した教えであるかの様に、会員に刷り込んでいるようですが、それは即刻止めるべきであり、活動家幹部もその異常さには気がついて欲しいものです。

仏法の基本とは、どこまでいっても「一人の人間」であり、集団組織を主体にした全体主義的な思想ではないのです。

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【20170620】創価学会は正法正義だったのか

こんにちは( *・ω・)ノ

古城まさお都議会候補に対して、ネットでそこそこ流れてますが、まあ大事にはならないのでしょう。古城陣営は胸を撫で下ろし、全国からくる支援者に対して「私は悪辣なデマと戦い!満天に創価学会の正義を叫びます!!」なんてやって、そこでアマアマな創価学会婦人部辺りが「古城さん!負けないで!」とエールを送る姿が目に浮かびます。

だから創価学会の選挙や、それによる政治がおかしくなるんですね。

まあそんな事、もう個人的にはどーでも良いです。

それよりも、創価学会は正法正義の組織であったのか、もしそうであれば昨今の変貌は何なのか、等々考えている人は多いのではないでしょうか?

僕が非活になりはじめの時、この事はエライ考えましたね。何たって自分の人生のうち、四半世紀以上捧げた組織だったんですから。

だから様々な事を調べたり学んだり思索したりしてきましたが、結論から言うと設立当初からそんな組織ではなかったという事が理解できました。

ネット上では未だに様々な議論があるわけですよ、この事に対しては。

多くの人たちが創価学会は元々は正しかったと信じていて、そして最近の創価学会のおかしさに触れて「創価学会はおかしくなった!!」「信濃町は狂ってしまったのか?」という事で、過去の池田会長の指導を紐解き、今の創価学会が如何にそれらの指導と異なるかを糾弾し、昔の正しい創価学会に戻そうなんて言うわけです。

確かに昔の創価学会は良いところも沢山ありました。

僕が独身時代で地区リーダーの時、よく地区担(今の地区婦人部長)の家に行っては晩御飯をご馳走になり、旦那の副支部長とは酒のんで未来の夢を語ることもしばしば。

その他、当時の仲間とは夜中まで広宣流布のロマンを語らいあった事も数え知れず。

こんな僕が男子部の中で鍛えられ、仕事にもしっかりと取り組み、結婚する姿を見て、創価学会嫌いの父親も会合に出るまでになりました。

そういう事を考えると、まあ教義等は脇に置いても、当時の創価学会には昭和時代の人間臭さや、泥臭さ。それによる良いところは沢山あったと思います。

ただし本来、宗教の命脈とされる教義についてはどうだったのか。その角度から少し考えてみましょう。

この間の会則改正による教義変更以前の創価学会は、仏宝として末法の御本仏・日蓮大聖人をたて、法宝として一大秘法の南無妙法蓮華経を立て、それが顕された戒壇の大本尊を尊び、僧宝としては大石寺開山の日興上人を立ててました。

本門の本尊とは大本尊であり、戒壇は大石寺の正本堂、題目は南無妙法蓮華経。

この三大秘法を根本として、大石寺に伝わる仏法を信仰することで人間革命ができ、宿命転換ができ、三世永遠の絶対的幸福境涯を築くことができると教え、その信心には力があって多くの体験が創価学会の中にあり、その力がある信仰だから世界に広がったと主張してきたわけですね。

第二次宗門問題の時に日蓮正宗を徹底して責めぬいた時でも、この教義については一切ぶらさずにいたわけで、自分達こそ本来の日蓮正宗だという事から「日顕宗」と呼んで宗門に対しても侮蔑していたわけです。

しかし2014年の会則改正に伴い、戒壇の大本尊を「謗法の山にある」という事から「受持の対象」から外し、その後に日蓮の出世の本懐を変更、日寛教学を見直しすると宣言し、しかも日蓮直筆の本尊はみな等しく「本門の本尊」と定め、身延山の本尊でも功徳はあったと創価大学の教授をして日本宗教学会で講演させ、最近では末法の御本仏という日蓮の立ち位置を変えつつあります。

どうなんですか、これは。
しかしこの事、以外と末端組織には徹底されておらず、現場幹部でもあまり理解されてないんですけどね。

ただこの流れが実は本来の日蓮仏法へ戻す内容であることは、僕もここ十年ほど様々な事を調べ、学ぶ中で知りえた事から理解できます。

むしろ五百塵点劫の当初とか、久遠元初自受用報身如来の再誕だとか、大石寺の大本尊が一閻浮提総与であるとか、熱原の法難が日蓮の出世の本懐だとか、その事の方が実は日蓮滅後に成立した教義であり、日蓮という人は何もそんな事を語ってもいなのです。

そういう事を語ると「御書にも書いてある事なのに、日蓮滅後の事とは如何なる事なんだ!?」という人もいるかと思いますが、そもそも創価学会の編纂した御書全集には「真書」と「偽書」が入り混じっている訳で、無条件にすべてが日蓮の筆の文書であるとは言えない事をまずは知るべきです。

日蓮が末法の御本仏というのは、このブログでの幾度か取り上げましたが、川越仙波檀林から流入した思想であり、戒壇の大本尊は日禅授与本尊の焼き直しという疑いも濃厚。日興師へは日蓮から「血脈の次第 日蓮日興」なんて相承書もありません。

そういった「歴史的には不確実性が極めて濃厚」な大石寺の教義を、創価学会としては長年に亘って「正法正義」と呼んで信じて弘教し、それを広宣流布と信じてきたわけです。

そして近年、創価学会としては世界に広げる事、また宗門から完全に独立するという事を考えてか、その路線を変更し始めて、それが表に顕著に出てきたのが2014年の会則改正からとなったんですね。

つまり端的に言えば、牧口会長・戸田会長・池田会長の信じてきた「日蓮大聖人仏法」と呼んだ代物が、近年になってその正体が表に出てきたと言ってもよく、その信じてきた教えというのは「正法」でもなければ「正義」でも無かったという事でしょう。

また歴代会長の多くの指導も、この大石寺教義に依存してきたわけです。

そう考えてみると、創価学会とは「正法正義の団体」なんかでは無かったという事ですね。
残念ながら。。。。

「仏法やうやく顛倒しければ世間も又濁乱せり、仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり」
(諸経と法華経と難易の事)

この御書は日蓮が門徒の一人であった富木常忍に宛てた手紙ですが、要はその斜めの本体が影響した結果、時間は少しかかりましたが、その姿が昨今の創価学会や公明党の姿として現れたに過ぎないのではないか。

それが僕の考えです。

考えてみれば人間社会の中で「正法正義の教え」とか「それを奉る正しい組織」なんてのは無いのではありませんか?

創価学会も教義の面ではその源流が「斜め」になっていた。しかし初代会長から三代会長までの間の一時期、「人間を尊重する思想」というのが組織内にあったからこそ、少しの間はまともな組織に見えただけかもしれません。

そんなこんなを考えた時、懐古主義により昔の創価学会に戻そうとか、池田先生の考えていた組織に立ち返れというのも、そこにどれだけ意味があるのか今の僕には理解できないのです。

「もともとの根本思想がグダグダじゃん。そのグダグダさに目を瞑って組織を復興なんて意味がない」

日蓮は述べていましたよね。

「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」
(諸法実相抄)

仏法の根本は「行」と「学」です。
「行」とは何も学会活動とかではありません。「学」で学んだ事を社会の中で実践する事も行であり、その為には「学」は極めて重要ですよね。

組織を建て直すとか、過去の会長の種々の指導をおうむ返しの様に語るより、その「学」に基づく「行」、そしてその根本となる「信」について。

それらそもそもの事についていまの時期、一人ひとりがよくよく考える必要がある時代になったのではありませんか?


【20170604】姑息な姿勢は糾弾すべき

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

今日は日曜日。

昨日まで創価学会の教義改正について本サイトの記事をまとめていましたが、本日、Twitterで某掲示板に大白蓮華六月号の教学試験特集号の事が書かれていることが紹介されていました。

早速、嫁に言って大白蓮華6月号を出してもらい内容を見ると、日蓮が「久遠元初・自受用報身如来の再誕」ではなく「久遠実成・釈迦如来の久遠からの弟子、地涌菩薩の上首である上行菩薩の再誕」という事に力点を置いた説明となっていて、今までの定番であった「久遠元初」とか「末法の御本仏」なる単語が消えていました。

この事について、某掲示板では以下の様に感想が書かれていました。

「大聖人が釈尊から末法弘通の付属を受けた上行菩薩にあたると、何度も菩薩を強調します。(86、87ページ)
また、久遠の仏であるという本地を明かした釈尊が久遠の弟子である地涌の菩薩を呼び出し・・・託す。(97ページ)
日蓮大聖人を、仏の釈尊の弟子の菩薩との位置づけての解説でいいのかな。」


この内容は昨年初頭に日本宗教学会において、創価大学の宮田教授の講演内容を、本ブログで取り上げましたが、そこで宮田教授が講演した内容が反映されたものであって、僕からすれば、一年半以上かけて漸く創価学会の教義改正の具体的な内容が出てきたなと感じた次第です。

この日蓮本仏論ですが、そもそも日蓮や日興師の時代にはありませんでした。

僕も最近、日興師の弟子である本六や新六の事を調べ始め、六老僧の人間関係を調べるなかで「五人所破抄」を読み返したりしていますが、そこでは久遠実成の釈迦の久遠からの弟子、地涌菩薩の上首、上行菩薩というのが日蓮の立ち位置だと述べているものはあっても、久遠元初なる言葉は無いし、ましてや日蓮が久遠の釈迦をも越えた本仏という記述はありません。

御書を検索しても、久遠元初というような記述は、ごく限られた御書のみに限定され出てくる言葉であって、日蓮がその様な言葉を話していないことは明かです。

この言葉が出てくる御書は、百六箇抄、本因妙抄、産湯相丞書くらいなもので、五大部や十大部には一切記載がなく、要は「相伝書」といわれている大石寺の歴代貫首の間で秘密裏に伝えられた文書のみ。しかもそれらは最近の研究により偽書認定されています。

もともとこの「久遠元初自受用身」という考えは、天台宗の恵心流の口伝法門をほぼ盗用して作られた教義であり、それは恐らく江戸時代前後に大石寺に流入した教義です。その裏付けは富士宗学要集の中で、堀日享師も書いてますが、川越の仙波檀林に大石寺の貫首になる人物も出向いて学んで居たことから容易に推測できます。

だって仙波檀林とは天台宗恵心流の檀林ですからね。恵心流では以下の様に教えていました。

<教相> 人:釈迦―脱仏 / 法:法華経
<観心> 人:天台―本仏 / 法:一念三千 

これを簡単に言えば盗用し、日蓮門流の中で独自の教義を作り出したのが大石寺であり、創価学会もこの事を何も知らずに受け入れて今まで居たわけですよ。

恐らく創価学会として宗門から別れて独立した方向を検討するなかで、この実態を知り始め、こりゃいかんと思ったので今に至って漸くこの方向に舵を切り始めたのではありませんか?

そもそも世界では仏教といえば釈迦であり、そこに日蓮という鎌倉時代の僧侶が釈迦をも越える仏なんて言ったら、海外では真っ先にカルト認定されてしまいますからね。

以前に話題になった「遠藤文書」にもこの事は書かれてなかったので、創価学会の教学部としても、恐らくここ最近になり理解し始めたのかもしれませんね。

「教学も三代会長教学から、マジ、宮田教学に移ったみたいだね。一闡提は怖いな、なかなか」

某掲示板ではこの様に所感が書かれてましたが、仏法的に言えば、漸く創価学会の教学も仏教という事に関しては正常化し始めたというだけであり、簡単に言えば三代会長教学も仙波檀林の毒気を含んでいたというだけ。それを「一闡提」と言い切るのは勉強不足としか言い様がありません。

寧ろ問題の本質は、教義に関した根源的な変化に気付くこともない組織構造と、それを利用してゆるゆると組織的に自覚をさせない方法で舵を取り行く信濃町界隈の心根の卑怯さでしょう。

そこにこそ「一闡提」という本質があることを理解すべきです。

【20170525】思想を改めないとね

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

この人生、自分を信じてどこまで貫徹して生きていけるのか、そこが大事な気がします。
若いときには「いずれ経済的にゆとりも出来て、悠々自適な生活できる境涯になる」と考えていたのですが、人生半世紀を生きてきて、まあ未だに窮々とした生活してますし、家庭を持っていればそこにも様々な悩みは付き物なんですよね。

さて今日のお題ですが、まずはマザー・テレサの言葉の紹介から。

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

マザー・テレサ


この言葉ですが、中々含蓄深い言葉だと思いますよ。
僕が創価学会の事を語る上で、最近になって考えているのは、信濃町界隈の現状とか、その異常さ。また何も考えない末端組織のオカシサの要因とは、そもそも組織文化を醸成している思想そのものに要因があると考えています。

その思想とは、大石寺から引き継いだ日寛教学を始めとする、そこで語られた「日蓮仏法」というモノ。
そしてそれを人生の究極と信じた牧口会長の創価教育学、戸田会長は根っからの大石寺信徒で特段独自の思想性は無いと思ってますが、三代会長の池田思想もその範疇に入るでしょう。

マザー・テレサが云う「思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。」の、人の思考を作り出すものに宗教の教え(思想、教義)があり、信濃町界隈を筆頭に公明党やそれらを支える末端組織の会員のオカシサの根底に、実は創価学会の教義が大きく影響していると考えています。

だから今の創価学会の現状の変化や、改善などを求めるのであれば、やれ「池田先生の原点に戻れ」とか、最近はあまり聞きませんが「牧口会長の事を思い出せ」と激を飛ばしても意味無いし、ましてや「日蓮大聖人仏法の正しい信仰に戻れ」なんて思いません。

何故なら、それらに問題があるからこそ、会員の思考もおかしくなった訳で、そこから様々な問題も惹起している訳でしょ?

表面が腐っているのが見えたので、より腐敗の進んでいる中身に戻れと言ったところで、それは一体どのような意味があるのか。

無意味ばかりか、より原理主義に傾くだけでしかありませんよ。

僕が最近、日蓮とか日興師やその門下の歴史に着目しているのは、果たしてその思想が、教えられたようなモノなのか、それを知るためであり、そこで解ったのは、それぞれの時代で自分達への我田引水の為の思考バイアスの元で作られた教義の多さです。

こんな思想を鵜呑みにしたら、そりゃおかしくもなるわなー、というのが今の処の感想ですね。

釈迦は「自灯明・法灯明」と説きました。
単純に「依法不依人」というのであれば、法灯明という言葉だけで充分だったのですが、何故その前に自灯明という言葉を語ったのでしょう。

それは法灯明の法について自ら思索する事が重要だからだったのではありませんか?

仏教というならば、何も組織や組織が制定して師匠が語ったという内容を、単に鵜呑みにするだけではなく、それを各人の人生の中で語るだけの思想の咀嚼が必要なんですが、まあ創価学会を信じた人の中には鵜呑み丸飲み丸暗記の人ばかりですよね。

またそういう事しか教えられていないんで、致し方ないかもしれません。

でもせっかく思考できる脳みそを持っているんですから、そろそろそういう事に気づく必要があるのではないでしょうか?

【20170108】創価学会仏、それは無い無い

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

昨年に発表された新解釈。
「創価学会仏」についてモノもーす。

この事について末端組織の活動家達は「ふーん(o・ω・o)そうなんだ」程度の認識しか持っていないことは百も承知で、おそらく組織が仏と云われた処で、なんじゃらほいという事しか感じてないでしょう。

まあ一部の活動家はこの様に感じているようですけどね。

「創価学会仏とは、師匠だけではなかった。創価学会員全体のことであった。 ならば、私も読者の皆さまも、将来、経典に金文字で記される仏ということになる。 様々な宿命に悩み、祈り、解決しながら、創価学会仏として生きる私たち。 私たちは大英雄であり、未来に燦たる創価の仏である。 何というありがたいことであろう!(^^) その確信と幸せを噛みしめつつ、朗らかに歩みたい。」

むー。( ゚ε゚;)何か仏法でいう仏を誤解したまま、信濃町界隈の述べた戯れ言を飲み込んでしまってますね。「貴方は仏」と云われて確信と幸せを感じるとは、なんという事なんでしょう。

まずは創価学会のご意見を御開鎮。
「〝大聖人に直結した広宜流布遂行の和合僧団である創価学会は、それ自体、仏そのものであり、未来の経典には『創価学会、仏』の名が記されるであろう〟それを踏まえ、第3代会長の池田大作先生は、今夏の全国最高協議会に「御本仏の広大なる慈悲を体し、荒れ狂う娑婆世界で大法を弘通しているのは、学会しかない。『戸田先生が創価学会仏』と言い切られたゆえんである」とのメッセージを贈り、創価学会それ自体が「仏の存在」であることを示した。」

まずね、ここで「組織自体が仏の存在」と述べてますが、前の記事にも書いたように、法華経では多くの弟子達を一つの宝名(如来の名前)で記別を与えた事はありますが、集団として纏めて記別を与えた事はありません。

あったら見せてみろと言うんだよ!

何故僕がこの事を追求するのか。
それは法華経にある二乗作仏や久遠実成の意義を大きく誤解させる「邪義」に他ならないからです。

会則改正して「あなた達会員は、未来の経典で創価学会仏と呼ばれるでしょう」というならまだしも、「創価学会それ自体が仏」なんてのは仏法にもなりはしない。

こりゃ外道の教えですよ。

先の活動家が「創価学会仏とは、師匠だけではなかった。創価学会員全体のことであった」と言ってますが、これには大きな誤解が二つあります。

一つは「創価学会員全体」と信濃町界隈は言ってません。あくまでも和合僧団(組織)としての創価学会と言ってますよね?

二つ目は「人々は元来から仏である」というのが久遠実成の教えであり、組織にいるから仏とかいうちゃちいものではありません。

なんでこんな簡単なことすら気付かないのでしょうか?

そんな無知だから信濃町界隈を増長させてしまうんですよ!何を今まで学んできたのか!?

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