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想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   

【20170620】創価学会は正法正義だったのか

こんにちは( *・ω・)ノ

古城まさお都議会候補に対して、ネットでそこそこ流れてますが、まあ大事にはならないのでしょう。古城陣営は胸を撫で下ろし、全国からくる支援者に対して「私は悪辣なデマと戦い!満天に創価学会の正義を叫びます!!」なんてやって、そこでアマアマな創価学会婦人部辺りが「古城さん!負けないで!」とエールを送る姿が目に浮かびます。

だから創価学会の選挙や、それによる政治がおかしくなるんですね。

まあそんな事、もう個人的にはどーでも良いです。

それよりも、創価学会は正法正義の組織であったのか、もしそうであれば昨今の変貌は何なのか、等々考えている人は多いのではないでしょうか?

僕が非活になりはじめの時、この事はエライ考えましたね。何たって自分の人生のうち、四半世紀以上捧げた組織だったんですから。

だから様々な事を調べたり学んだり思索したりしてきましたが、結論から言うと設立当初からそんな組織ではなかったという事が理解できました。

ネット上では未だに様々な議論があるわけですよ、この事に対しては。

多くの人たちが創価学会は元々は正しかったと信じていて、そして最近の創価学会のおかしさに触れて「創価学会はおかしくなった!!」「信濃町は狂ってしまったのか?」という事で、過去の池田会長の指導を紐解き、今の創価学会が如何にそれらの指導と異なるかを糾弾し、昔の正しい創価学会に戻そうなんて言うわけです。

確かに昔の創価学会は良いところも沢山ありました。

僕が独身時代で地区リーダーの時、よく地区担(今の地区婦人部長)の家に行っては晩御飯をご馳走になり、旦那の副支部長とは酒のんで未来の夢を語ることもしばしば。

その他、当時の仲間とは夜中まで広宣流布のロマンを語らいあった事も数え知れず。

こんな僕が男子部の中で鍛えられ、仕事にもしっかりと取り組み、結婚する姿を見て、創価学会嫌いの父親も会合に出るまでになりました。

そういう事を考えると、まあ教義等は脇に置いても、当時の創価学会には昭和時代の人間臭さや、泥臭さ。それによる良いところは沢山あったと思います。

ただし本来、宗教の命脈とされる教義についてはどうだったのか。その角度から少し考えてみましょう。

この間の会則改正による教義変更以前の創価学会は、仏宝として末法の御本仏・日蓮大聖人をたて、法宝として一大秘法の南無妙法蓮華経を立て、それが顕された戒壇の大本尊を尊び、僧宝としては大石寺開山の日興上人を立ててました。

本門の本尊とは大本尊であり、戒壇は大石寺の正本堂、題目は南無妙法蓮華経。

この三大秘法を根本として、大石寺に伝わる仏法を信仰することで人間革命ができ、宿命転換ができ、三世永遠の絶対的幸福境涯を築くことができると教え、その信心には力があって多くの体験が創価学会の中にあり、その力がある信仰だから世界に広がったと主張してきたわけですね。

第二次宗門問題の時に日蓮正宗を徹底して責めぬいた時でも、この教義については一切ぶらさずにいたわけで、自分達こそ本来の日蓮正宗だという事から「日顕宗」と呼んで宗門に対しても侮蔑していたわけです。

しかし2014年の会則改正に伴い、戒壇の大本尊を「謗法の山にある」という事から「受持の対象」から外し、その後に日蓮の出世の本懐を変更、日寛教学を見直しすると宣言し、しかも日蓮直筆の本尊はみな等しく「本門の本尊」と定め、身延山の本尊でも功徳はあったと創価大学の教授をして日本宗教学会で講演させ、最近では末法の御本仏という日蓮の立ち位置を変えつつあります。

どうなんですか、これは。
しかしこの事、以外と末端組織には徹底されておらず、現場幹部でもあまり理解されてないんですけどね。

ただこの流れが実は本来の日蓮仏法へ戻す内容であることは、僕もここ十年ほど様々な事を調べ、学ぶ中で知りえた事から理解できます。

むしろ五百塵点劫の当初とか、久遠元初自受用報身如来の再誕だとか、大石寺の大本尊が一閻浮提総与であるとか、熱原の法難が日蓮の出世の本懐だとか、その事の方が実は日蓮滅後に成立した教義であり、日蓮という人は何もそんな事を語ってもいなのです。

そういう事を語ると「御書にも書いてある事なのに、日蓮滅後の事とは如何なる事なんだ!?」という人もいるかと思いますが、そもそも創価学会の編纂した御書全集には「真書」と「偽書」が入り混じっている訳で、無条件にすべてが日蓮の筆の文書であるとは言えない事をまずは知るべきです。

日蓮が末法の御本仏というのは、このブログでの幾度か取り上げましたが、川越仙波檀林から流入した思想であり、戒壇の大本尊は日禅授与本尊の焼き直しという疑いも濃厚。日興師へは日蓮から「血脈の次第 日蓮日興」なんて相承書もありません。

そういった「歴史的には不確実性が極めて濃厚」な大石寺の教義を、創価学会としては長年に亘って「正法正義」と呼んで信じて弘教し、それを広宣流布と信じてきたわけです。

そして近年、創価学会としては世界に広げる事、また宗門から完全に独立するという事を考えてか、その路線を変更し始めて、それが表に顕著に出てきたのが2014年の会則改正からとなったんですね。

つまり端的に言えば、牧口会長・戸田会長・池田会長の信じてきた「日蓮大聖人仏法」と呼んだ代物が、近年になってその正体が表に出てきたと言ってもよく、その信じてきた教えというのは「正法」でもなければ「正義」でも無かったという事でしょう。

また歴代会長の多くの指導も、この大石寺教義に依存してきたわけです。

そう考えてみると、創価学会とは「正法正義の団体」なんかでは無かったという事ですね。
残念ながら。。。。

「仏法やうやく顛倒しければ世間も又濁乱せり、仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり」
(諸経と法華経と難易の事)

この御書は日蓮が門徒の一人であった富木常忍に宛てた手紙ですが、要はその斜めの本体が影響した結果、時間は少しかかりましたが、その姿が昨今の創価学会や公明党の姿として現れたに過ぎないのではないか。

それが僕の考えです。

考えてみれば人間社会の中で「正法正義の教え」とか「それを奉る正しい組織」なんてのは無いのではありませんか?

創価学会も教義の面ではその源流が「斜め」になっていた。しかし初代会長から三代会長までの間の一時期、「人間を尊重する思想」というのが組織内にあったからこそ、少しの間はまともな組織に見えただけかもしれません。

そんなこんなを考えた時、懐古主義により昔の創価学会に戻そうとか、池田先生の考えていた組織に立ち返れというのも、そこにどれだけ意味があるのか今の僕には理解できないのです。

「もともとの根本思想がグダグダじゃん。そのグダグダさに目を瞑って組織を復興なんて意味がない」

日蓮は述べていましたよね。

「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」
(諸法実相抄)

仏法の根本は「行」と「学」です。
「行」とは何も学会活動とかではありません。「学」で学んだ事を社会の中で実践する事も行であり、その為には「学」は極めて重要ですよね。

組織を建て直すとか、過去の会長の種々の指導をおうむ返しの様に語るより、その「学」に基づく「行」、そしてその根本となる「信」について。

それらそもそもの事についていまの時期、一人ひとりがよくよく考える必要がある時代になったのではありませんか?


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