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想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   
カテゴリー「教義改正」の記事一覧

【20170106】御本尊の事について雑感②

こんにちは(´・ω・`)

創価学会としての御本尊はどうなのか?
その雑感について書き連ねていきます、もう少しおつきあいください。

2015年に創価学会として「諸天供養」の御記念文を廃止しましたが、この意味合いについて理解している活動家はいないでしょう。

創価学会の公式HPには以下の様にこの事について述べています。

「初めに、御本尊に向かい、鈴を打ち、諸天供養の意義も込めて題目三唱します。
御本尊に向かい、最初の題目三唱をするなかに、諸天供養の意義を込めて唱えます。」
(Sokanet 「勤行について」より抜粋)

何故この段階にきて「諸天供養」を削除したのか、創価学会としては明言していません。
しかしこれには世界宗教化という事と深いかかわりがあるのです。

日本をはじめ、アジアでは多神教文化である事もあり「諸天」という概念が理解できますが、欧米文化において「神」とは「God」となってしまい、諸天という概念はありません。その為に近い観点としては「神」に使える「天使」がありますが、その天使に「供養」して「威光倍増」するという概念をつたえるには無理があるのです。

その事もあって、世界的な拡大を考えた創価学会としては、今回「諸天供養」を御記念文から廃止。意義については勤行の中にとどめるという事にしたようです。

さて次に以下の画像を見てください。



これはアメリカの歌手、ティナ・ターナが勤行をしているところをYoutubeに公開している画像です。そのティナの背景には釈迦像があるのが解りますか?

釈迦像の前で座禅をして、勤行をする。

日本の創価学会では勤行する場合、日蓮の文字曼荼羅一体式の形式である仏壇に対して勤行を行いますが、欧米では釈迦像があり、そこに文字曼荼羅などもあって、勤行をしている状況があるようです。

創価大学の宮田教授も述べていますが、世界において「日蓮本仏論」というのは通じません。

現にSGIの各国のHPには「末法の御本仏」という記述が無い事を、宮田教授は述べています。

世界的に仏教の開祖というのは「釈迦」であり、日蓮もその釈迦仏教を学んだ鎌倉時代の学僧という位置づけであり、日本国内で今まで創価学会が宗門と共に述べてきた「末法の御本仏・日蓮大聖人」という事は通じないようです。

それを云うと、世界的には「カルト的な仏教」として誤解されかねない。

そういった事もあって、創価学会としては昨今の多くの教義改正を進めているというのが、現実の様です。

そういう中で、創価学会としては弘安二年大本尊を「受持の対象としない」という制定をし、その「日蓮末法御本仏観」の大きな学匠であった日寛師の教義についても見直しを図るという事を企図しているのだと、聞いています。

でもここで考えるのですが・・・・
そもそも日蓮大聖人仏法と呼んでいたものを、「世界宗教」にする必要がありますか?

どうも創価学会の進め方というのは「刹那的・短絡的」な進め方にしか過ぎない様に思うんですけどね。

現にこの段階で、御本尊という根本的な事についても、その拙速な進め方の為に、教義諭として破たんし始めてているではありませんか。

日蓮正宗から分離する事は良い。
御本尊についても弘安二年の大本尊に拘らないのは良い。

でも一体全体、何を「世界に広める」というのでしょうか?
池田哲学ですか?

でも池田哲学というのは、牧口・戸田会長から連綿と続く、大石寺が唱えるところの「日蓮仏法」から完全に独立した哲学ではありませんよね?

そんな状態で何も無理して、日本の創価学会が世界を引っ張ろうとしなくても、世界中に散らばった「SGI」が、それぞれの国や民族に沿う形で、日蓮の述べた教えを土着化してくれるでしょう。

あとは時間を待てばよいだけではありませんか?
それよりも、日本国内で今まで広げてきた足元について、まずは地固めに専念すべきだと思いますけどね。

世界を救うとか平和を目指すなんて言いますが、そんな事は宗教で実現する事なんて出来ません。それは今の世界をみれば明らかです。

まずは日本国内で、日本の創価学会として御本尊をどの様に整理するのか。
また教義的にもどの様に変化をさせていくべきなのか。

そちらの方を重点的にするべきではないでしょうか?
でもまあ、そんな事を今の信濃町界隈で出来るとは、僕は考えていませんけどね。

今の信濃町界隈にできる事は、電卓片手に会員からいくら搾取し、それをいかに自分たちの都合の良い様に使うのか。そしてまた会員たちを利用して、日本国内の政治的な発言力を維持するのかという事しかないでしょう。

それは当に釈迦や日蓮の指摘している「売僧」の姿にほかなりません。

この御本尊の議論については、色々ありますが、ここから先は、他のテーマの中で継続して思索を進めて行きます。

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【20170105】御本尊の事について雑感①

こんにちは(´・ω・`)

今回は日蓮の文字曼荼羅に関係して(御本尊の事について)少し書いてみたいと思います。

創価学会は2014年の会則改正に伴い、今まで信仰の中心に置いていた「弘安二年の戒壇の大御本尊」を「受持の対象とはしない」という事を明記しました。そして日蓮の直筆の御本尊は全て「本門の本尊」にあたるとして再定義。

これに併せて出世の本懐についても変更した事について、このブログにおいてもいくつか関連する記事を書いています。

この意義はどこにあったのか。
創価学会が公式にどのように述べるかはともかく、根底にあったのは大石寺からの完全なる決別を考えていたのでしょう。

平成三年から勃発した「第二次宗門問題」で「創価ルネサンス」と言い、宗門からの「生命の独立」と言っていても、やはり御本尊は日蓮正宗に関係していた栃木県浄園寺所蔵の日寛師の文字曼荼羅を謹製(複写)して会員に配布していましたので、信仰の根本においては日蓮正宗と決別をしていませんでした。

その事について2014年の会則改正で分離を明確にすべく、弘安二年の大本尊を「受持の対象とはしない」と宣言。新たな独自性に向けて動き出したのだと、僕は考えています。そしてその「独自性」の先には「世界広宣流布」という事を考えているのでしょう。世界に開く上で、宗門の思想というのは受け入れられないものですからね。

しかしこの事について、宗門側の人たちから見れば以下の様に見えますよね。

「そこまで言って何で富士大石寺の歴代のお坊様の書かれた曼荼羅本尊を会員に拝ますんだ‼
それらは戒壇の大御本尊のお写しだぞ。頭破七分です。」

つまり日蓮正宗の文字曼荼羅というのは、歴代法主が「戒壇の大本尊」を写したものであり、その根源である戒壇の大本尊を「受持の対象とはしない」と言いながら、それを書写し書き写した曼荼羅を受持させているという事は、自己矛盾も甚だしいという事なので。

まあこれは宗門の言い分の方に理がありますね。
この事については、以前の記事でも論じましたが、ここで日寛師の言葉を再掲します。

『法華取要抄文段』
「広宣流布の時至れば、一閻浮提の山寺等、皆嫡々(ちゃくちゃく)書写の本尊を安置す。その処は皆これ義理の戒壇なり。然(しか)りと雖(いえど)も仍(なお)これ枝流にして、これ根源に非(あら)ず。正(まさ)に本門戒壇の本尊所住の処、即ちこれ根源なり。(中略)今、日本国中の諸宗・諸門徒、何ぞ根源を討(たず)ねざるや。浅間(あさま)し、浅間し」

つま第り二十六世の日寛師は、各寺院や家庭にある文字曼荼羅は「義理の戒壇」にあたり、それは根源では無い。その根源とはあくまでも弘安二年の大本尊である事を述べているのです。
この事から会則改正に合わせて、日寛師の教学についても再度見直しを図るという事をセットとして創価学会としては進めようとしています。

では日寛師の文字曼荼羅を何故、この様に創価学会の中で配布をしたのか?

これは平成四年から授与を始めていますが、当時の創価学会としては日寛師の御本尊は草創期から創価学会に下付されてきた御本尊であり、その御本尊に祈る事で多くの実証を得てきたと言い、そこに当時宗門が開眼云々を言って「偽本尊」と呼ぶ事は「日寛上人の御心を踏みにじる行為」と呼んでいました。

しかし今回の会則改正において、その日寛師が「根源」と呼んだ大本尊を「受持の対象とはしない」と言いながら、その大本尊を根源としていた日寛師の本尊を授与し続けるという事については、大きな自己矛盾をはらんでいるという事を、創価学会の活動家幹部たちは認識をしなければいけません。

まあ、すでに創価学会と日蓮正宗とは「別教団」であるのですから、別の団体である日蓮正宗から、とやかく言われる事では無いと思うのですが、論理性が破たんしている事は理解すべきでしょう。

自分たちの信じる宗教が「根本尊形」とする御本尊に自己矛盾をはらむ。これは本来、宗教としては致命的な事なんですが、今の創価学会の中にはそういった意識はありません。

何故ならば、この御本尊に祈る事でいくつもの体験を得ているわけで、現場の活動家からすれば「所詮、現証に過ぎず」という事で、こういった論理的な非難についても「それがどうした?」程度の認識しか持てないのです。

日蓮は御書の中で以下の様に述べています。

「但し法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず。」
(唱法華題目抄)

ここで法門が正しいのか、間違えているのか、それを糺すのは法門(論理性)をもって糺すべきであり、利根と通力(要は信仰体験等)によってはいけないと言っています。

でもいま、創価学会の活動家幹部が御本尊に対して何ら疑念を抱かないのは、この「利根と通力」に依っているという事であり、これは日蓮の言葉とも大きな矛盾を起こす問題なのです。

だから会則改正に併せて創価学会としては、この御本尊問題についても明確な見解を出すべきなのでしょうが、いまだにそれを出す事は出来ていません。

これで今後、どの様に教学を展開していくつもりなんでしょうね?
まあ「過渡期」という事で多めに見ても、これを放置しておくと、創価学会としては致命的な欠陥へと増大し、最終的には何の団体だか判らなくなっていってしまいますよ。

この御本尊の話は少し続けますね。
まあ「続けますね」のテーマが拡大していますが、そこは多めに見てください。

【20161105】会則改正の阿呆さに呆れ返るばかり

こんにちは(´・ω・`)

今日は冬が近づく中で麗らかな日和です。
子供を連れて午前中は近所を散歩しましたが、なかなか気持ちがよかったです。

そんな中で今日の聖教新聞の一面に目が行きました。



「創価学会仏」
「宗教的独自性一段と明らかに」
「三代会長の敬称を”先生”と明記」

阿呆か?こいつらは・・・
創価学会の劣化がここ数年で明らかになってきている事は、拙ブログでも散々と書いてきましたが、ここまで行くと「開いた口が塞がらない」という感じを通り越してしまいました。

まず「創価学会仏」について。
この表現は確かに僕が青年部時代にも組織内にありました。
これは過去に戸田会長の述べた指導として昔から言われていた事で、経典においてもその様な表現がある事から、未来に仏教史が振り返られた時には、創価学会もその様に言われるだろうという指導が元になっています。

経典を見ると確かに以下の表記があります。
「汝是の学無学の二千人を見るや不や。唯然已に見る。
 阿難、是の諸人等は当に五十世界微塵数の諸仏如来を供養し、
 恭敬尊重し法蔵を護持して、末後に同時に十方の国に於て
 各成仏することを得べし。皆同じく一号にして名けて
 宝相如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・
 調御丈夫・天人師・仏・世尊といわん。寿命一劫ならん。
 国土の荘厳・声聞・菩薩・正法・像法、皆悉く同等ならん。」
(妙法蓮華経 授学無学人記品第九)

ここで言われているのは阿難や羅睺羅などの弟子たちが授記されたとき、その会座に連なっていたその他多くの弟子たちに授記(未来の成仏)を授けた部分です。

つまり戸田会長の指導はこういう事です。
多くの仏弟子たちが一つの名前で記別を受けた、そういった経典の記述がある事から、いま創価学会の中で活動する人たちも「創価学会仏」として将来、呼ばれる事もあるかもしれないという意味あいの指導であって、組織まるごと、組織自体に「仏」という名前を付ける話ではなかったはず。

僕は過去の本部幹部会の同時中継では、こういった話があったと池田会長が言っていたのを聞いた事があります。

それが今回の会則改正で、
「世界広宣流布を実現しゆく「仏意仏勅」の正統な教団は創価学会しかないことから、未来の経典に”創価学会仏”と記される」
という「創価学会仏」観を披歴しています。

阿呆な話ではありませんか。人ではなく組織に「仏」という属性を与えるという事。
しかも未来の経典って何よ?

元々あった戸田会長の指導をうまく捻じ曲げて、そこまでして「正統教団」という事を主張したいんですかね?

仏教史は釈迦が生誕してから二千数百年になります。
そんな中でさまざまな人師・諭師も出てきて、釈迦の説いた教えに肉付けし、哲学的体系の深さを与えてきました。それに引き換え創価学会は何をしましたか?

会員に対して政争の俱となるような活動を指示し、与党・自民党から「集票マシーン」と呼ばわれても何ら反論すらできないですよね?
また現執行部に都合の悪くなる会員幹部などは、極秘裏に「査問」にかけて「活動停止」「会館出入り禁止」。果ては「除名処分」まで行っています。

これが「創価学会仏」という「仏」の姿なんでしょうか?
もうね、この阿呆さ加減にいい加減、うんざりしてしまいます。

あともう一つ。
「先生」という呼称を「敬称」と定めた事。
松山善三氏が過去に著した「ああ人間山脈 フォーエバーセンセイ取材の旅」という本がありましたが、そこで松山氏が述べていたのは、会員が池田会長の事を「池田先生」と呼んでいたのは、けして宗教的権威を感じて読んでいたのではなく、すぐ脇にいる身近な存在であると感じて「先生」と呼んでいた事を取り上げていました。

要は会長と会員に格差が無い関係。
その象徴が「池田先生」という呼び名に表れていた訳ですよ。
松山氏も書籍の中で、指導者と会員のこの距離の近さが創価学会の強さだと述べていました。

それを会則改正してまで「敬称」という意味付けを与えて「先生」と呼ぶなんてしたら、本来、創価学会が求めていた(表向きかもしれませんが)、組織内の幹の関係をオカシクして、最終的にはより硬直化を招くでしょう。

でもまあ、今の創価学会はただでさえ若者が少なく、これから衰退の一途しかない組織です。
現執行部の原田会長や谷川主任副会長、また長谷川理事長などの「宗教貴族」の小役人では率いる事が難しいので、三代会長の「カリスマ性」に依存しなければならず、だからこそ歴代会長を含め三代会長をことさら祭り上げていくのでしょう。

しかしそれは、そもそも組織が本来持ち合わせていたであろう「志」を壊す行為であって、その先にはより形骸化した組織にしかなりえません。

とまあ、、、末端の一副役職である僕なんかは考えてしまうのですが、実際に現場で活動に奔走している幹部連中には、こういった言葉は届かないのでしょうね。

昨年の会則改正ですら、組織内で徹底されていない(できない)状態で、立て続けに行われる会則改正。その先に信濃町界隈の宗教貴族たちは何を見ているのか。

それは「広宣流布」という、仏教史上のロマンなどではなく、己たちの権益維持のために、如何に会員たちを食い物にしようか。

そんなところなんでしょうね。
ここで日蓮は末法の悪世の中で、悪知識の姿をこの様に述べています。

「此の人を経文には猟師の目を細めにして鹿をねらひ猫の爪を隠して鼠をねらふが如くにして在家の俗男俗女の檀那をへつらいいつわりたぼらかすべしと説き給へり、」
(法華初心成仏抄)

この人(悪知識)を経文ではこの様に言っています。
「猟師が目を細めにして鹿を狙う姿や、猫が爪を隠してネズミを狙うように、在家の人たちに乞いへつらい教えを説くのである」

まあ活動に没頭していては、気付く暇すら無いか。
残念な事です。

【20161014】宮田論文への疑問を読んで②

こんにちは( *・ω・)ノ

最近、よく考えることがあります。
「何のために僕は生まれてきたのだろう」という、まあ人生根本的によくある疑問についてですが。

この世界に生まれ落ちて約半世紀。
様々な出来事があり、多くの事を経験し、今では二人の子供の父親として、また一家の大黒柱として、日々を生きているわけです。

単にたまたま「偶然の産物」でこの世に生を承けたのか、はたまた「何かの過程でこの時代に生を承けた」のか。
僕は後者だと信じていますが、その生きる為の根拠の背景として、個人的に信仰を持っているという感じなのかもしれません。

さて今日は須田元教学部長の宮田教授への反論を読み続けた感想を書いてみます。

(2)「功徳と罰」を主張することは誤りか
須田氏の反論では、本尊の事に続いて「功徳と罰」の事を述べ、その中で宗教の正統性についても触れています。

従来から大石寺教学、またそれを継承している創価学会として、自宗の正統性と功徳の関係について、以下の様に考えていました。

「自分達が弘めている教えは絶対正義」
「本当の功徳は正しい教えでしか得られない」

端的に云えばそういう事であり、だから宗教の教義の優位性について主張するというのであり、「功徳と罰」についてもその延長線上にあるというのです。

僕も創価学会の中で教わっていた時には、そう考えていましたし、その教わった内容がそのモノずばり書かれているのが、須田氏の反論でした。

日蓮は確かに立正安国論を始めとする各御書で、法華経と他の経典との差を主張していました。しかしそれは単なる「排除」の論理ではなく、仏教経典を「バラバラ」に捉えるのではなく、法華経を中心とした体系に再構築という観点では無かったでしょうか?

日蓮が否定したのは歴代の人師や論師の解釈、いわゆる「論とか釈」に関するもののうち、そういった法華経中心とした事ではなく、捨て去ったり或いは勝手に取り込んだりした事であって、法華経以外の経典を否定したものではありません。

日蓮はやもすると「自説のみ正しいと主張したカルト」の様に見られがちですが、その日蓮自身の主張した考え方は、何も日蓮個人の自説なのではなく、仏教本来のあるべき法解釈であるという裏付けをするために、多くの経典や、特に天台大師や妙楽大師等の論や釈を多く引用したのでしょう。

またこのブログでも何度か紹介しましたが、日蓮はこういった「法解釈の正邪」は「利根や通力」というものではなく、あくまで経論に依って為すべきとの主張もしていますので、そこからこの須田氏の反論の中にある「功徳と罰」という論述を見ると、大きな違和感すら感じてしまいます。

また御本尊にある賛文についても触れ、そこにも「罰と功徳」が書かれているのがわかるとありますが、日蓮直筆の本尊で「若悩乱者頭破作七分」「有供養者福過十号」という賛文について、総て書かれている賛文ではありません。

だから「功徳と罰」の論拠としては、かなり根拠性は弱いと思います。

またもしこれが「罰と功徳」の根拠としても、「福過十号」が功徳という事になりますが、これは創価学会の主張してきた「現世利益」の功徳とは意味が異なります。

かくして僕はこの須田氏の論文を読むと、とても残念な気持ちになってしまうのです。

「だったら読まなきゃ良いじゃん」

そんな意見も聞こえたりしますが、僕は今ある創価学会の問題の大元の根っこは、この教義にあると考えていますので、その教義をどの様に解釈するのかという議論はついつい読んでしまいます。

僕は今後の創価学会のあるべき教学の方向性としては、やはり宮田教授の論文の方向性ではないかと考えています。

ただ今の創価学会は、その事について、余りにも軽く考えすぎていること、また活動家幹部にしても、池田哲学とやらにはご執心ですが、日蓮の教えや仏教そのものにも関心が薄く、なんら議論する素養すらない事が問題だと思います。

本来ならは須田氏の様な議論が立ち上がり、そこから本来の日蓮の教学へ議論が波及し、これからの時代にどうあるべきかを、会員たちが関心を持つべきなんですけどね。

今の活動家幹部ときたら、集票活動位しか興味が無いようですからね。

この事はまだ続けていきますよ。

【20161011】宮田論文への疑問を読んで①

こんにちは(´・ω・`)

三連休が終わってしまいました。
個人的にはとても残念なんですが、時間の経過ばかりは致し方ありません。
ここ最近、このブログでは任用試験に事掛けて、現時点で僕が考えている日蓮像をつらつらと書いています。

そんな中、創価学会の元教学部長である須田氏が「宮田論文への疑問」という文書を公開していますよね。
これ少し読み始めているんですが、「何か違うな~」と個人的に感じる事もあり、すこしこのブログで取り上げてみたいと思いましたので、記事にします。

まあ須田教学部長と、青年部時代に「圏教学部長」していた僕とでは、格が違いますので、興味のある方はおつきあいください。
あくまで僕の現時点での主観で少し、この事について書いてみます。

(1)「本門の本尊」があれば日蓮宗各派の信仰にも功徳はあるか 
この言葉で須田氏は宮田教授の以下の言葉について反論を試みています。

「『本門の本尊』を信仰の対象としている日蓮宗各派の信仰、ならびに日蓮正宗の信仰にも、応分の功徳があるということを教義的には認めざるをえないことになるのではないかと私は考える」(中略)。日蓮図顕の真筆本尊も書写の本尊も、いずれも南無妙法蓮華経を具現した「本門の本尊」であるという前提は当然としても、しかし、例えば身延山久遠寺や中山法華経寺に安置されている日蓮真筆本尊を、「本門の本尊」であるからといって久遠寺や法華経寺の信仰をもって拝んで、功徳はあるだろうか。私はないと思う
まあ端的に言えば、宮田教授が述べた事に対して「そんな事、あるはずがない!」という事を言いたいのでしょう。

過去において創価学会としては身延系その他の御本尊について、一貫して「功徳は無い」という主張をしており、その根拠に「生死一大事血脈抄」を引用して、「破折」していた訳であり、この文書内で述べられている事についても、その主張の繰り返しとなっています。

確かに宮田教授の論理というのは、従来の論理からかなり飛躍をしており、「教学部アドバイザー」というような肩書を持っている人としては軽率という指摘は避けられないでしょう。
でも宮田教授が、先の会則改正で述べた主張というのは、傾頭に価する内容を含んでいると僕なんかは考えているわけです。

宮田教授にしろ、須田氏にしろ、述べている「功徳」というのは、いわゆる「信仰体験」であり、それは御本尊に御題目を唱えて、例えば難病が治ったとか、事業が軌道に乗ったという話から始まり、創価学会に入会して信心してよかったというような実感を含めた事を述べています。

この信仰体験ですが、果たして創価学会だけの「専売特許」なのでしょうか?

僕はこのブログでも幾度か取り上げてきていますが、人間とは潜在的に「祈り」を「具現化」する能力はあると確信しています。
だから世の中の宗教は存続しているとも考えているのです。
こういう話をすると創価学会では「魔の通力と功徳は違う。それは人生の先を見ていけばわかる」と主張していますが、果たして創価学会の信仰を真面目に長年やってきた人たちの中で、生涯にわたり功徳体験を得ている人はどれだけいるのでしょか?

また須田氏は続けて生死一大事血脈抄を持ち上げながら、従来の創価学会の主張をひたすら続けています。

それ故に、これまで創価学会ではこの文を引いて「日蓮大聖人、日興上人の御精神に適った正しい信心がなければ血脈はなく、たとえ正しい御本尊を拝しても、功徳が現れるこ とはない。かえって『かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし』〈919㌻〉 と仰せのように、仏法違背の大罪となる」(「大白蓮華」第627号)と教えてきたのである。

要はこの文書の中で須田氏が述べているのは、創価学会の従来からの教義への回帰なのでしょう。
これはつまり現執行部が昨年に行った会則改正に対する「アンチテーゼ」として、宮田氏の論を否定するという行動なのかと思います。

しかし僕は思うんですよね。
今の創価学会に必要な事は、果たして過去の創価学会教学(大石寺教学の亜流と言ってもいいでしょう)への回帰なんですか?

戦後の創価学会は戸田会長の元から始まりました。
そして須田氏の求める回帰の原点とは、まぎれもなく戸田会長が説き、池田会長が広げた思想なのでしょう。

僕も青年部時代にそうした創価学会の教義を信じ、それこそ「希望の二十一世紀」を夢見てきたわけですが、この創価学会の教義がもたらした帰結が、今の創価学会であり、信濃町界隈なのではありませんか?

そうであれば須田氏が主張すべきは、宮田論文への反論などではなく、現時において日蓮仏法がどの様な位置づけを取る思想であるべきなのか。そして過去の創価学会が主張してきた教義への振り返りであるべきではないでしょうか?

そんな事を考えながら読むと、どうも残念な感想しか出てきません。
また現在の創価学会に異を唱える人たち(非活・アンチ)の中に、この須田氏の論文を期待を込めて持ち上げている人もいますが、今の信濃町界隈に疑問を持った人達の中にも、そういった思考しか出てこないという事にも同様な感想を持つわけです。残念だと。

「氏の他の論文を含めて検討し、取り上げられた問題につ いて議論を深めるための参考資料として本稿を作成することとした。」

須田氏自身がこのように述べているので、僕もこの論文を足掛かりとしてもう少し掘り下げていきたいと思いますが、まずは最初に感じた感想として、この様に思った次第です。

この須田氏の文書についても今後、このブログで取り上げていきます。

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