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想学談林-管理者の部屋

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カテゴリー「教義改正」の記事一覧

【20150527】宮田幸一氏の「本尊認定権について」を読んでー②

紹介のページ:本尊認定権について

宮田氏の発表した論文は大枠以下の構成で出来ています。
1)「奉書写之」の解釈
2)『御本尊七箇相承』
3)日興が手本とした真蹟曼荼羅
4)戒壇本尊書写という主張の初出
5)本尊作成の様式、資格者の問題に関する日蓮真撰資料について
6)曼荼羅作成に関する歴史的考証
7)結論

宮田氏の論文は日蓮正宗の「創価学会『ニセ本尊』破折100問100答」に対する反論という事で書かれていて、まずはじめの論は「奉書写之」について取り上げています。

1)「奉書写之」の解釈
御本尊にはすべて「奉書写之(之を書写し奉る)」と書かれています。これはいま創価学会が授与している本尊でも左下の箇所に書かれている文言であり、日蓮正宗系の本尊にはすべて書かれている言葉です。宗門側ではこの御本尊に書かれている文言について以下の様に解釈しています。

「日蓮正宗の各末寺に安置されている御本尊や信徒に下付される御本尊(ニセ本尊は除く)は、すべて根本の御本尊たる本門戒壇の大御本尊のお写しです。御本尊の左下の方を拝すると、「奉書写之」(之(これ)を書写し奉る)としたためられています。「之(これ)」とは、とりもなおさず本門戒壇の大御本尊のことです。」(49 御本尊の「書写」とはどういうことですか。より抜粋)
つまり宗門側では「之」というのは弘安二年の大本尊であり、すべての本尊はこの弘安二年の大本尊を書き写したものであるというのです。このあたりの理論というのは、以前に宗門と共にあった時に創価学会も同様の解釈をしていました。

しかし今回の会則改定により、その考え方を改めたというのです。
宮田氏は「之」という事について、以下の解釈を行っています。

「日興書写曼荼羅には「写之」「書写之」と記載されているもの、あるいは何も書写情報を記載しないものがあるが、「奉書写之」と敬語表現を使用しているものは現存する曼荼羅の中には一つもない」

つまり富士門流の始祖である日興師の書写本尊には「写之(之を写す)」「書写之(之を書写)」という文言や、場合によっては何も書かれていないものがあるという事を例にあげ、また日蓮在世においても日興師は本尊を書写し、その際にも「奉書写之」という文言は使用していない事などから、実は「之」というのは弘安二年大本尊などではなく、書写された本尊そのものを「之」と述べているとの解釈を示しているのです。

これはややこしいのでもっと簡潔に言えばこうなります。
 宗門:「奉書写之」の「之」は弘安二年大本尊
 宮田氏:「奉書写之」の「之」は書写された本尊の事

この論点を突き詰めていくと、結果として解釈論という泥沼にはまってしまい、明確な答えとはならないと思われますので、ここで少し僕なりに補足の論点を加えてみたいと思います。

「石山本尊の研究」(著:柳澤宏道)によれば、日蓮の本尊には「広式」と「略式」、そして「要式」の三種類に分類されるという。その分類内容は以下に紹介します。

・広式:主題の題目を中心に十界がことごとく勧請されているもの。
・略式:主題の題目を中心に十界が略され勧請されているもの。
・要式:主題の題目を中心に釈迦、多宝、地涌四菩薩が勧請されているもの。

そして日蓮の書写の本尊要式というのは、要式から始まり略式、そして広式へと展開しています。そして晩年の弘安年代では大石寺大本尊以外は広式本尊ですが、なぜか大本尊は略式本尊の勧請となっています。

宗門は弘安二年大本尊を「「日蓮正宗の各末寺に安置されている御本尊や信徒に下付される御本尊(ニセ本尊は除く)は、すべて根本の御本尊たる本門戒壇の大御本尊のお写しです。」と言っていますが、何故、このような本来大事な本尊が「略式」で勧請されているのか、また当時はなかった「法華講中」という文言が記載されているのか、大きな疑問が残るところです。

また日達師や日顕師の書写本尊にしても「広式」の勧請をとっていますが、もし宗門の言うように「弘安二年大本尊」を「奉書写之」の「之」とした場合、そこにも大きな矛盾が生じるではありませんか。

こういった事からも、宗門の言うところの「「之(これ)」とは、とりもなおさず本門戒壇の大御本尊のことです。」という主張というのは、はなはだ脆弱な論点に過ぎないものであると思いますし、そこから宮田氏の解釈である「「書写之」の「之」は書写の手本となる本尊ではなく、書写された本尊を指示していると解釈するほうが古文の解釈としては普通だと思われる。」の方が妥当であると思います。
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【20150527】宮田幸一氏の「本尊認定権について」を読んでー①

こんにちは(´・ω・`)
一日に二つ以上の記事を書く事をあまりしてはいないのですが、今回は少し、まずは感想ベースでも良いからまとめたくなり、記事として宮田幸一氏の論文を取り上げてみます。

いやぁ・・・

何せ先日の事ですが、知人で内部の壮年部、役職持ちのメンバーと昨今の創価学会や公明党について語り合ったのですが、そこで驚いたのは昨年に行われた会則改正で弘安二年大本尊の件と、出世の本懐の解釈変更の事を、この知人は一切知らなかったという事です。

まあ立て続けに選挙選挙で組織の中を走り回り、最近ようやっと一息ついているという状況を聞けば、まあさもありなんとは思いましたが、でも自分の信じている宗教団体の根幹にあたる事について、想定通りと言いますが、全くもって関心の無いという事に、やはり想定通りという感想すら抱いてしまったのです。

本来、宗教団体であれば自分自身が何を信じ、どの様な教えてどんな事を目的としているのか、根本的な目的は何かという事は、とても大事な事だと思うのですが、どうやら昨今の創価学会ではそういった観点すら持たなくなってしまったんですね。

という事で、意識のある人にこの会則改正とはどの様なものか、もう少し知って頂きたくもあり、今回はこの宮田幸一氏の論文について少し紹介をかねて所感を書き連ねていきます。

さて、昨年に行われた会則改正で原田会長が胸をはり発表した内容ですが、これについては当ブログの以下のページでいくつか考えた事を書かせてもらっています。
これらの記事では、僕なりにその内容の稚拙さと言いますか、疑問点などについてか書かせて貰いました。しかし今回の宮田氏の論文はその観点とは別に、如何にも学者という観点から、特にこの会則改正の中から「本尊認定権」という事をトピックとして取り上げ論じています。
さてところで宮田幸一という人はどの様な人なのでしょうか。

ネットで調べたところ、創価大学教授なんですね。紹介ページがありましたので以下に紹介いたします。
まあ創価大学で禄を得ているという事は、創価学会に対して致命的な言動はできるはずもなく、あくまで創価学会の関係者という事から今回の記事を書いていると僕は理解しています。(まあ僕の様なひねくれた市井の一末端組織幹部とは違いますから、当たり前と言えば当たり前ですね)

さて振り返りです。
原田会長は先日の会則改正で「本尊認定権」についてどの様な言葉を語ったのか。

『魂の独立以来、学会員は皆、大石寺に登山することもなく、弘安二年の御本尊を拝することもなかったわけであり、各人の御本尊に自行化他にわたる題目を唱えて絶大な功徳を受け、宿命転換と人間革命を成就し、世界広布の拡大の実証を示してきたのです。まさに、これが会員が実践し、実感しているところなのであります。
 創価学会は、大聖人の御遺命の世界広宣流布を推進する仏意仏勅の教団であるとの自覚に立ち、その責任において広宣流布のための御本尊を認定します。』

つまり簡単に言えば、歴史的な背景とか教学的な事は度外視して、活動家各人の信仰体験をもとに創価学会は正統な仏意仏勅団体と測り、だからその責任として「本尊認定」をするという、いわば大見得を切った訳です。

そして今回の宮田幸一氏の論文とは、先に大見得切った原田会長談話を少しでも理論武装すべく出されたものであるとも思えるのです。ではその内容はどういったものなのか、論文の中を見ていきたいと思います。

(続く・・・・)

【20150215】内部資料「世界へ未来へ民衆仏法の大いなる飛翔」⑦

こんにちは(*・ω・)ノ

今日は日曜日ですが、朝から所要で近所の喫茶店にいます。
とりあえずもう少しとは思いますが、先の内部資料について書き連ねていきます。

僕の文書は拙いし、よみずらいでしょうが、今回の会則改正には大きな問題が
見ている事を、少しでも会員の中の意識ある人の目に留まればなーと思い書き連ねていきます。



●あなたは現執行部の暴挙を認めますか?
学会執行部が独断で大御本尊と決別を断行
会員の了承もなしに突然の改変

○広宣流布史上の壮挙である
暴挙ではない、壮挙である。世界広布の実践にふさわしい、青年部世代の実感に即した広宣流布史上、画期的な改正である。「会長を中心とした異体同心の団結を」との池田先生の御指導を根本に、我々は広布を進めていく。

○難癖の主張の論拠はデマ文書
(前半部略)その論拠にしているのは怪文書である。その中身といえば、創価学会があたかも間違った方向に進んでいるかの印象を、読む者にうけつけようとする狙いが明らかである。これらの類は、過去に、師匠と会員を分断させようと謀った学会攻撃において用いらてきた常套手段である。(後略)

もうこの段階では脳乱極まった感じすら覚えます。
創価学会としては、大御本尊との決別は今更始まったわけではなく、平成三年の第二次宗門問題勃発時にはじまったと言っても良いでしょう。

当時の創価学会の中では「月例登山会」というものも実施され、会員は大石寺の今は無き正本堂に参詣をし続けていました。
「日蓮大聖人が生涯かけて建立した大御本尊にお目通りする」
この熱き想いは当時の創価学会の中には、まだ脈々とあり、僕も当時は創価班本山担当の一員でしたので、間近にその思いを感じてもいました。

宗門はここに目をつけて、弘安二年大本尊の目通りに対して「添書登山」という事を始めました。いわゆる末寺からの添書なしには認めないというものです。
当時の創価学会の中では表にこそ出ませんでしたが、動揺を受けた会員も多くいて、そのうちの幾人かは大本尊との目通りを選択して創価学会から脱会した人もいます。

ただ多くの会員は「いずれ僧俗和合の時代がやってくる」という事を信じていました。
しかしその後の創価新報の内容や、教宣活動により会員の中への宗門依存というのは薄くなり、年月が経過する事に大石寺の大本尊という意識も薄れていったと思います。

そして四半世紀ほど経過した昨年末に、突然の会則改正の内容。
創価学会の中では団塊の世代以上には理解されてきたと思いますが、僕の下の具体的に言えば三十代より若い世代では、「弘安二年大本尊」というのは教学試験の勉強でしか聞かない事に対して、創価学会はいきなり「受持対象としない」と宣言をした訳です。

客観的に考えて、これは壮挙と言えますか?

四半世紀も時間があったのですから、この弘安二年大本尊の問題について深堀し、会員に説明する時間は十分にあったと思いますが、そういう事を一切せずに今回はいきなりの改正へと進めたのです。だから現場の中で、いまだに「弘安二年大本尊」にいる人にとっては根耳に水。
だから宗門サイドは「これぞ勝機!」とばかりに、「難癖」をつけてきたのでしょう。

しかもその論拠たるや「謗法の地にあるから受持対象ではない」としながらも「日蓮の顕した本尊はすべて本門の本尊」というちぐはぐな内容。しかも会員すら理解していない事を良いことに、何の検証もせずに日寛師の教義の否定」という、まあ教学的にみてやりたいほうだいの内容です。

こりゃ暴挙でしょう。
その点で言えば、宗門の指摘はごもっともだと思いますよ。

思うに第二次宗門問題勃発時に、こういった事もしっかりと創価学会として研究し取り組み、理論体系を構築していればよかったのかもしれませんが、その後の創価学会では連立政権維持の名のもとに選挙ばかりにうつつを抜かし、放置してきたという事でしょう。

こういった教学的な問題とは、発表した時よりも十年、二十年後に混乱をきたす元になります。

なぜその様に言うかといえば、現在の宗門の姿を見ればわかることです。
宗門自身も、第四祖の日道師と日郷師の跡目争いから勃発した「蓮蔵坊事件」がありました。その問題は最終的には日道師が南条家(有力後見者)の威を借りて幕府の名のもとに沈静化しましたが、その後の宗門(大石寺)の衰退ぶりは目を覆うものでしかなく、結果、「稚児法主」まで出現するような事態になりました。

歴史は繰り返します。
今回の創価学会の会則改正についても、これから起こる創価学会衰退の序章でしかないでしょう。

今の創価学会の末端にいる活動家幹部の多くは、教学の「き」の字も語れません。
だから宗門が「会員の了承もなしに」という以前に、会員には議論すら出来る土壌も無くなっています。それはこの会則改正が発表されてからの組織内の動きを見れば歴然です。

多くの活動家幹部にとって、「弘安二年大本尊」の事よりも、選挙で公明党が議席を伸ばすのか、維持できるのかしか興味を持てない状況です。

「教学は信心の背骨」と僕は教えられてきましたが、今の創価学会はその背骨が「骨粗しょう症」におちいっている状況です。

こんな組織に未来があるとは思えないし、そんな組織が「世界広宣流布」を語れるはずもありません。

【20150214】内部資料「世界へ未来へ民衆仏法の大いなる飛翔」⑥

こんにちは(*・ω・)ノ

今日は土曜日なので連続投稿します。
前回から引き続きますが、今回の会則改正の内容を見直すことで、本来の御本尊という事について僕自身思索をするきっかけにもなります。
そういう意味からも今回の内部資料への見直しを進めていきます。

◆これまでの会長指導を否定するのか?



○僧俗和合時代の指導である
僧俗和合の時代に、その時代状況に即した指導をされていたということ。日顕宗が広布破壊の本性を現した今日、過去の指導がそのまま当てはまるものではないのは明らかだ。三代会長の指導は、全て我々に御本尊の本義と信心を教えてくださったものである。つまり、僧俗和合時代の発言も、その本意は、大聖人の教えと精神に、会員を結び付けようとされたものである。(後略)

○仏法破壊の日蓮正宗と戦った三代会長
創価学会は一貫して、広宣流布を現実に推し進めることを使命としてきた。その目的のため、日蓮正宗と僧俗和合していた時代もあった。しかしその時代にあっても、学会は日蓮正宗のやることを全て受け入れてきたわけではない。戦時中に日蓮正宗が神札を受けようとしたとき、命を賭して牧口・戸田会長が断固反対されたことをはじめ、広宣流布という目的に反することについては、牧口・戸田先生は断固たる厳しい姿勢で戦われた。”世界広宣流布のために”という今回の会則改正は,
牧口・戸田両先生のご精神に沿うものだ。

○学会を讃嘆した法主の言葉も認めるのか
時代状況が変わっているにも関わらず、過去の指導が現在にもあてはまるというのなら、「創価学会によって、大聖人の仏法が末法に広宣流布されることは間違いない」等の創価学会を賞賛した過去の法主発言は、現在においてもあてはまることを認めるのか。(日淳発言など)

宗門も学会を責める時に、過去の会長発言と現在の自語相違を指摘するのは、いわば常套手段と言っても良いでしょう。ここでの発言は創価学会として、その事への決まっている反論です。

だから特にこの内容の箇所について云々をする事はありません。

しかし創価学会として知っておかなければならないのは、果たして牧口・戸田会長が、今の様な創価学会の形を望んでいたのか、それについて理解をしておかねばなりません。

参考として以下に宮田幸一氏のホームページを紹介します。

赤化青年の完全転向は如何にして可能なるかーー全国数万の赤化青年転向指導のために (1935年12月号)

これは「新教」という、創価教育学会の初期の機関誌への論文となっています。
僕のサイトでも少し触れていますが、ここでは「長野赤化事件」という事について、創価教育学会として内務省や警察庁と連携して、赤化(共産化)した教員をオルグするために、牧口会長が動いたことを述べています。

この事について宮田氏はこの様に述べている箇所があります。
「そのゲラをその当時創価学会のイデオロギー部門の担当者であった野崎勲に提出して出版許可を貰おうとしたが、野崎はあっさりと「これはまずすぎる」と言って、いくつかの論文を削除するように指示した。私は野崎とは個人的親交もあったし、私自身もヤバイと思ったくらいだから、第三文明社の担当者と相談して、全集だから手元にある牧口の文章を全部収録するのが本来の姿だが、教団的には現時点で出版するのは不都合だから、将来出版することが可能であるような状況になったら、全集の補遺として出版しようということで当面の公表を断念した経緯がある。」

つまり何を言いたいかと言えば、創価学会の会員達は牧口会長や戸田会長などの、歴代三代会長の思想遍歴について知らない事が多すぎるという事です。
この内部資料にある「僧俗和合」「広宣流布実現」という言葉でイメージする歴代会長と、現実の会長は異なる部分がある事を知るべきなのです。

例えば先の「新教」の記事の中には以下の事が書かれています。
「天台宗や日蓮宗の各派を十把一束に批評されるのが普通であるが、これに対して茲に結論だけをいふと、その中に於ける唯だ一つしかない日蓮正宗といふ富士山麓の大石寺派をいふのである。何故に他のすべてに比較して之のみをいふかと、次の疑惑が起ると思ふが、それは明確なる歴史上の根拠があり、文証と現証と道理の三つが具足されてゐるからの事で、冷静にそれが解るならば、歪曲してゐない限りは何人でも理解し得べき事であり、理解した以上は必ず信ぜざるを得ないと思ふのである。要するに日蓮宗といへば「南無妙法蓮華経」の題目を唱へればよいと思ふであらうが、それだけでは何にもならぬもので、日蓮聖人が日興上人に血脈を相承された法華本門の本尊と、本門の戒壇と本門の題目との三大秘法に従ひ、正統なる本尊に対し奉って、唱題するにあらざれば、真の大利益はなく、それによる事によってこそ、初めて賞罰が明に証明されるのである。」

ここで牧口会長は明確に語っている内容は、単に宗門側との和合というレベルではありません。またこれと同様の内容が特高月報に掲載された、牧口会長の尋問内容に書かれているという事は、単に創価学会と宗門の協調(和合)のための考えという事ではなく、牧口会長が信じきり、それに殉じた思想であると言っても過言ではありません。

創価学会として、こういった過去の歴代会長の言葉を「時代に合わせた」などという口上ではなく、しっかりと検証をすべきだと僕は思います。

そして否定する事は過去の会長の発言であっても、しっかりと否定して決別するくらいの意地を見せて欲しいものですが、以前の会則改正で「歴代三代会長を永遠の指導者と定め、その指導に基づき」みたいなことをしてしまったから、自縄自縛になっているのかもしれませんね。

しつこい様ですが、もう少し続けさせて頂きますよ。


【20150214】内部資料「世界へ未来へ民衆仏法の大いなる飛翔」⑤

こんにちは(*・ω・)ノ

今日はバレンタインデーですね。
昨日は職場の女性社員がチョコレートを配っていましたが、世の女性たちは大変ですね。
もう義理チョコなどという儀礼は止めても良いかと思いますが、頂いたチョコレートは美味しく頂きました。

さて今回は五回目、内部資料について扱いを続けます。
ここまで読んで僕自身が解ったことですが、これは対宗門が訪問してきたときのために、現場会員対策説明用という内容ですね。
でもこのレベルでも現場の活動家幹部にはチンプンカンプンだと思いますが、どうでしょうか。

思うに創価学会では御本尊を大事にしている様ですが、その御本尊の歴史的な背景や意義などは、あまり教えていないんですよね。
どちらかと言えば以下の理屈で終わらせています。

「蛍光灯の仕組みをしらなくても、スイッチ入れれば蛍光灯はつく。だから細かい理屈は知らなくても創価学会の指導通りやれば功徳は出るんだ」

でも現場の会員で最近多いのは「功徳体験なんてない」という言葉です。これ、若い会員等の中には結構多いのではありませんか?
まあそもそも日蓮の説いた教えや、その御本尊なんて、神秘体験の様なものを目的としているわけではありませんから、当たり前なのかもしれません。

体験なんて、仏法から見たら途中で出て来る副産物にしか過ぎないですからね。

前置きが長くなりましたが、進めて行きたいと思います。


前回で少しもれていた箇所があり、その事について追記で少し書いてみます。

これは「創価学会は戒壇の本尊を否定した」という「難癖」について、創価学会として反論をしている箇所です。

○謗法の他宗の寺にある本尊は受持しない
たとえ大聖人が御図顕された御本尊であったとしても、別教団の謗法の寺にある御本尊は受持の対象にしないし、これまでもしてきていない。大石寺が邪宗の寺になったから受持の対象にしないのである。(後略)

○観心の本尊
受持即観心の本義に照らせば、御本尊を正しく拝する信心があってこそ、釈尊の因行果徳の二法が具足した妙法蓮華経の功刀を現実に現すことが可能になる。それが「観心の本尊」なのである。(後略)

○絶大なる功徳と実証
我々は創価学会の御本尊に祈り、人間革命、広宣流布の実践にはげみ、悩める友を救い、自身の境涯を開いてきた。それが創価学会の信心である。学会員は絶大なる功徳を受けてきた。

○文証を出せ
弘安二年の御本尊に祈らなければ成仏できない、という大聖人の御書をあげよ


こんなところですか。
まあまあ、これだけ良くごまかしの理屈を造ったものだと関心さえしてしまいます。本来、創価学会が本義を大事にするのであれば、この次期に選挙にかまけることなく、御本尊と信心の本義について学ばせるべきではありませんか?
しかし現実に今の創価学会の末端組織では、統一地方選挙に以下に集票させるのかを指示しているだけですよね。

本末転倒もいい所だと思うのですが、そう思う人は今の創価学会の末端組織には居ないようです。

さて話しは少し本題からずれましたので、少し戻します。
創価学会として今回の会則改正に伴い、日蓮の顕した御本尊は全て「本門の本尊」という規程をしましたよね。僕はこの考え方自体は間違っていないし、理に適っていると思っていました。
でも今回紹介した文書にある「謗法の寺にある本尊は受持しない」という考え方は、日蓮が顕した本尊は「本門の本尊」という事と相容れないと思いますが、どうなのでしょうか?

そもそも興門派というか、大石寺系、そして創価学会の中で「謗法の寺の本尊は受持しない」という考え方ができたのか、それは以下の理由によるものであったはずです。

「御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない。日蓮大聖人様のお悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にはどうしょうもない。だから、仏立宗や身延のヤツラが書いた本尊なんていうものはね、ぜんぜん力がない。ニセですから、力がぜんぜんない。むしろ、魔性が入っている。魔性の力が入っている。」 『大白蓮華』昭和三十四年七月号

つまり日蓮の顕した御本尊は全て「本門の本尊」という、今回、創価学会が表明した捉え方とはま逆な思考によるものであったはずです。

思うのですが、日蓮の御本尊が大石寺にあるものと、創価学会の会館にあるもので、何か違うのですか?逆にこの内部資料を作成した人物に質問をしたいくらいです。

またここで御本尊の本義として「観心の本尊」という事を述べていますよね。
「観心の本尊」という事で言えば、対境の御本尊の問題ではなく、御本尊に相対する主体としての信仰者の一念が大事という事であり、御本尊は単なる「対境」でしかなく、そこに御本尊が存在している組織だとかは関係ないでしょう。

この時点で、恐らく自己矛盾を起していることすら気付かないのでしょうか?

まあ相手が創価学会が「謗法の寺院だ」と認定していれば、その寺院にある御本尊を祈る事、これは物理的には無理である事でしょう。しかしそういった物理的な事と、形而的な事は立て分けて考えるべきですが、ここではそういった事すらごちゃごちゃに述べています。

そして結論として「文証を示せ」なんて、、、、あまりにも雑な論理ではありませんか?

これから「世界宗教だ」などと主張している組織が、根本の軸となる御本尊に関して、このような議論しかできないのですから、やはり情けないとしか言えませんね。

こりゃ法華講の方に勝ち目はありますよ、本当に。
(ただそれが即ち法華講が正義という話しではありませんので、念のため)




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