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想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   
カテゴリー「教義改正」の記事一覧

【20150213】内部資料「世界へ未来へ民衆仏法の大いなる飛翔」④

こんにちは(*・ω・)ノ

さて内部資料についても第四回目となります。
この内部資料では宗門からの「難癖」として「出世の本懐」という事について述べています。

「出世の本懐」とは何なのか?
これは意味的には「この世に生まれてきた目的」という事であり、日蓮がこの世に生を受けた目的の事を指します。

まずは資料から宗門の「難癖」について見てみましょう。

「弘安二年は出世の本懐。それをも否定するのか」
「「余は二十七年なり」とある。弘安二年の御本尊は出世の本懐である。すべての御本尊の根本となる御本尊である」

宗門の見解、それは今まで創価学会もその様に学んできた事ですから、御存じの事と思いますが、少しおさらいをしておきます。

弘安二年といえば、日蓮の年表の中であった事件は「熱原農民信徒の弾圧」です。

これは弘安2年(1279年)9月21日、熱原の農民信徒20人が、院主の田に押し入って、稲を刈り取ったという無実の罪で逮捕され、鎌倉に連行されました。
農民信徒は侍所(さむらいどころ)の所司・平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)の私邸で厳しい取り調べを受けて、法華経の信心を捨てるよう、脅されましたが、全員がそれに屈せず、信仰を貫き通しました。その結果、神四郎(じんしろう)・弥五郎(やごろう)・弥六郎の3人の兄弟が処刑され、残りの17人は追放されました(10月15日)。この事件が熱原の法難」です。

実はこの背景として日興師が駿河方面で折伏を進める中で、天台宗の僧侶や信徒などの入信も相次いだ事から、熱原にある竜泉寺の行智という坊主がそれを阻止しようと策謀を巡らし、幕府の平左衛門頼綱(所司)を巻き込んで行った弾圧です。

日蓮は10月1日に著述した「聖人御難事」という御書の中で以下の言葉を述べています。
「仏は四十余年天台大師は三十余年伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり。」
「彼のあつわらの愚癡の者どもいゐはげましてをどす事なかれ、彼等にはただ一えんにおもい切れよからんは不思議わるからんは一定とをもへ、」

ここで日蓮は釈迦や天台大師、伝教大師の出世の本懐を上げながら、自身の出世の本懐は「余は二十七年(弘安二年)」と述べています。
そして弘安二年十月には熱原の法難があり、大石寺の大本尊も「弘安二年」となっている事から、この大本尊御図顕を「出世の本懐」と定めていたという事です。

しかし今回、創価学会はこの宗門の解釈を真向から否定する事を述べています。
「聖人御難事には「余は二十七年なり」と、出世の本懐を遂げられたと仰せになっている。しかしながら、出世の本懐の内容そのものは、全く示されていない。またほかのどの御書にも、弘安二年の御本尊が本懐であると述べられていない」

つまり創価学会の言う「出世の本懐」とは、今回の資料においては「末法の衆生の一生成仏の道を示される事が大聖人の誓願であり、それを達成された事を誓願の達成。すなわち「出世の本懐」なのである」と述べています。

この観点から熱原の法難を見て、「日蓮は民衆仏法の確立を確信した=出世の本懐」という事も述べていて、この聖人御難事ではその事を「余は二十七年」と述べたと解釈しているのです。

おそらくこの論議ですが、宗門と創価学会は永遠に水かけ論になるでしょう。この内部資料の言葉だけでは、宗門の解釈は否定出来ません。もし否定するのであれば(創価学会の主張が正しいとしたのであれば)、創価学会として「戒壇の大本尊は贋作だ」というスタンスを明確に打ち出し、その元で宗門に対抗しない限り、勝ち目はないでしょうね。

そもそもなのですが、今回の会則改正に伴い、創価学会としてはいまだにスタンスが中途半端である事を否めません。「弘安二年の大本尊」を「出世の本懐」では無いとして、信仰の対象とはしないと言いつつ、「本門の本尊」であると述べています。

そもそもこの「弘安二年の大本尊」ですが、歴史的にもかなり疑念の多い本尊です。
例えば授与書きに「願主弥四郎国重」と書かれていたり、「法華講衆等敬白」と書かれています。

例えば「弥四郎国重」という事について言えば、富士宗学要集第七巻、「両山問答」に詳しく書かれ、第五十二世日霑上人の指南にあると言いますが、これが読んでみると「こじつけ」として思えません。しかし宗門においては「御相伝なのだ」の一言で正当化しています。

また「法華講宗敬白」と言いますが、日蓮在世の時の講(信徒組織)は「大師講」です。試しに御書を見てください。「法華講」という言葉がありませんが、「大師講」という言葉は随所に明確に記載されているのです。

また弘安二年の大本尊は「板曼荼羅」ですが、この文字の彫りこみの形が「V」なのか「U」なのか、つまり使用されているノミの形が何かにより、鎌倉時代のものなのか、それ以降の時代であるのか判別できるのですが、宗門としてはそれを公表もしていませんし、調査もさせていません。要は拒否し続けているわけです。

つまり宗門がそもそも「出世の本懐」と言って大事にしている「弘安二年大本尊」の歴史的な背景自体、実に怪しげなものなのです。

この本質的な事をしっかり斬りこみを入れない限り、この出世の本懐の弘安二年大本尊問題というのは解決する事は出来ません。

僕は創価学会として、ここにおいても「半端な姿勢」が見え隠れする感じがしています。

ここで語った事は、今から四半世紀前に、創価班の広宣部の中では学ばれていた事であって、けして珍しい議論なんかではありません。

宗教団体として「教義」は骨髄であり、「御本尊」とは幹そのものです。
その事を何ら研究せず、ありきたりな議論でかわそうというその姿勢そのものに、僕はさらなる疑念を深めてしまいます。

「今回の会則改正は、いったい何を目的としているのか?」

という事をです。

という事で、内部資料の事はもう少し続けていきます。


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【20150212】内部資料「世界へ未来へ民衆仏法の大いなる飛翔」③

こんにちは(*・ω・)ノ

今日は仕事が終わり、寝る前に記事を更新します。
昨日からのつづきで、創価学会の内部で配布されている内部資料について書き記していきます。

先の記事にも書きましたが、今回、この内部資料を配布する契機は宗門からの難癖だと言います。でもまあ創価学会として脇の甘さが大いにあり、そこをモロ突っ込まれたという事であり、この内部文書はそういった宗門からの「難癖」を破折するための内部資料という位置づけです。

という事で早速、その「破折」とやらを読んで行きたいと思います。

◆創価学会は戒壇の大御本尊を否定した
「大御本尊を否定すれば、ご自宅の御本尊を含め、学会に存在する全ての本尊を否定することになる」

まずこれは宗門側の主張です。
では創価学会は実際にこの弘安二年の大本尊に対してどの様に述べたのか、聖教新聞に掲載された「解説」の中から抜粋して振り返って見ましょう。



「今回、三大秘法についての解釈を次の様に変更した。すなわち、末法の衆生のために日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の文字曼荼羅と、それを書写した本尊は、すべて根本の法である南無妙法蓮華経を具現されたものであり、等しく「本門の本尊」である。(中略)したがって「本門の本尊」としては、「弘安二年の御本尊」も含まれるが、それのみが「本門の本尊」だとするものではない」


こう読んでみると、まず法華講の詰問自体が言葉を端折りすぎているという感があります。
先日の聖教新聞に掲載されている解説を読む限り、創価学会が「弘安二年の大御本尊」を否定するという事にはなっていないのが良く解ります。

だからと言って、「創価学会は否定していないから、法華講の言葉は的が外れている~終了~」という様に収まるものではありません。

ちなみに創価学会ではこの「難癖」への反論として以下の事を述べていますね。

○創価学会は仏意仏勅の教団
「創価学会は、大聖人の御遺命の世界広宣流布を推進する仏意仏勅の教団である。その責任において広宣流布のため御本尊を認定する」こととしたものだ。

○弘安二年の御本尊を否定したのは日顕
何を否定したというのか、「受持の対象とはしない」としただけである。受持の対象にしないことと、否定するというのは全く違う。弘安二年の御本尊を否定した事は、いままで一度もない。むしろ否定というなら、弘安二年の御本尊をニセモノだと言った日顕こそ御本尊を否定した張本人だ。

○大聖人仏法の本義に基づいた本尊観
今回の会則変更は、弘安二年の御本尊を否定するものではなく、大聖人仏法の本義に基づけば、弘安二年の大御本尊も学会の御本尊も、本門の本尊であり、全く等しい。すなわち、末法の衆生のために日蓮大聖人が御図顕された十界の曼荼羅と、それを書写した本尊は、すべて末法の法である南無妙法蓮華経を具現されたものであり、等しく「本門の本尊」である。

どうですか?この説明で納得できますか?
まあ多くの現場活動家幹部であれば、これだけの言葉で拍手喝采でしょう。「創価学会は言い切った!此の通りだ!」という感じでしょうか。

でもですね。
僕がもし法華講ならば学会活動家幹部に以下の詰問をします。

「創価学会の授与している御本尊は誰の書写ですか?」
「第二十六世日寛上人の御本尊ではありませんか?」
「創価学会は日寛上人のお言葉を否定、蔑ろにするのですか?”はい”か”いいえ”でお答え下さい」

さて、あなたがこの内部資料を読んだ活動家幹部であれば、どの様に反論しますか?
恐らくこの言葉を言われたならば、混乱して反論できないはずですよ。
法華講の言う「大御本尊を否定すれば」という言葉の裏に、実は日寛師の教えが隠れていることを知らなければならないのです。

「一には富士山は是れ広宣流布の根源の故に、根源とは何ぞ、謂く本門戒壇の本尊是なり、故に本門寺根源と云うなり、弘の一の本(五十)に云く『像末の四依仏化を弘宣す化を受け教を稟く須らく根源を討ぬべし若し根源に迷わば則ち増上して真証に濫ぜん』云々、宗祖云く『本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしむ」等云々、既に是れ広布の根源の住所なり蓋ぞ本山と仰がざらんや」(『富士宗学要集』第三巻■宗義部[2]・「文底秘沈抄」)

ここで日寛師は「根源とは何ぞ、謂く本門戒壇の本尊是なり」と明確に述べています。そしてその他の御本尊はこの根源の枝葉としての「義理の本尊」という定義をしているのです。

つまりこういった宗門の一言の「大御本尊を否定すれば」という言葉の根拠には、日寛教学が隠れていることを理解しなければならず、それを理解するならば、先にあげた「創価学会は仏意仏勅の教団」「弘安二年の御本尊を否定したのは日顕」「大聖人仏法の本義に基づいた本尊観」などという言葉は、何ら反論にならない事が解りますよね?

ちなみ日顕師は公式に大御本尊は否定していません。いわゆる「河辺メモ」という中で、そういった言葉が載っていることであった、公的は発言で否定はしていないのです。むしろ創価学会として今回、公式に「日寛師の教学」を否定している分、極めて論理的には部が悪すぎるのです。

さあ、あなたが創価学会幹部であり、法華講からこの様に詰め寄られたなら、一体、どの様に反論をしますか?

ちなみに先日の「会則改正の解説」の中で、日寛師の教学について、以下の様に述べていましたね。

「日寛上人の教学には、日蓮大聖人の正義を明らかにする普遍性のある部分と、要法寺の法主が続き、疲弊した宗派を護るという要請に応えて、唯一正統性を強調する時代的な制約のある部分があるので、今後はこの両者を立て別けていく必要がある」

つまり簡単に言えば、今回、創価学会として日寛師も間違えている部分はあると宣言しているんですが、気付いた人はどれだけいるのでしょうね。

しかしこの解説の言葉を無闇に出すと、よけい創価学会の人は土壺にはまるので言わない方が良いでしょう。もし言うと、僕が法華講なら以下の様に質問しますから。

「では日寛上人の教学で、時代に合わせた部分がどこで、普遍性のある部分はどこか、教えて下さい」
「まさかそんな事も調べ研究もしないで、先の文底秘沈抄を安易に否定したのですか?」
「創価学会にとって、御本尊、日寛上人とはそんなレベルで見ていたのですか?」

どうでしょう、この言葉に反論できる人はいますか?
今の創価学会の活動家幹部の中には、それだけ腹を決めた人が居るとは思いませんが、いかがでしょうか?

まあ僕だったら「そうだよ、日寛師も間違いはあるし、全てが正解では無いと考えているよ」答えますけどね。

ここまで読んでどう思いますか?

僕はやはり今回の会則改正の動き、これは創価学会としての拙さを責められるべきものだと思いますよ。かりにも宗教団体であり、「日蓮直結」なーんて言葉を言っているのですから、それなりに下準備(研究)をしてから、しっかりとした根拠を元に宣言し、会員に周知徹底すべきではありませんか?

でもまあ、それをやると逆に、今の創価学会が主張する「師弟不二」などが根底から崩れ去りますから、結果としてジレンマを抱えていることには間違いないんですけどね。

どうです?創価学会の教学部とて、現在ではこんなレベルですよ。
教学部主事で、次期会長候補の名前があがっている「ダニガワ氏(あ、、、打ち間違えちゃった、ごめんなさい)。谷川氏」でしたね。

貴殿の責任は極めて重いと思いますよ。



【20150211】内部資料「世界へ未来へ民衆仏法の大いなる飛翔」②

さて続けます。

◆師匠の闘争を受け継ぐ
 この段では今回の会則改正とは、創価学会が192カ国地域に拡大した大発展は、ひとえに池田先生の構想によるものであり、とりわけ平成3年の第二次宗門問題で宗門から破門され「魂の独立」を宣言した事を紹介、この事を明確に今回の改正でこの戦いを継承する事を述べています。

ふーん、、、そうなんだという事でしかありません。
そもそも平成3年の第二次宗門問題で、確かに宗門と決別しましたが、結果として当時の宗門が抱えていた問題点をそのまま現代に顕しているのは、現在の信濃町界隈であり、創価学会本部でしょう。

そんな事は内部の活動家よりも外部の人が理解しています。

まあそんな事はどうでもいいですが、今回はここで「こうした師匠の大闘争と御指導の意義をより明確にした今回の会則改正に対する低次元な難癖を、断固破折してまいりたい」と言っているので、早速具体的な内容を見て行きたいと思います。

[難癖への対応にあたって]
◆御書根本=大聖人の御精神から全てを判断
まずここでは「創価学会は大聖人直結の団体である。従って、御書根本である。どこまで行っても立ち返るべきものは御書であり、そこにある大聖人の御精神である。歴代法主の言葉は、所詮は「人師・論師」の言であり、御書の「解釈」でしかない。この姿勢は、これまでも全く変わっていない」

ここで宗門からの攻勢を「難癖」としている。またああくまで「御書根本」だと言い、ほかの言葉は「人師・論師」の言葉だとバッサリ切っています。しかしこの言動自体は間違えていませんが、だから「だから大事な事」がある事を忘れていませんかね?

それは何かと言えば、「だから議論が必要」という事です。

確かに歴代貫首の言葉は「人師・論師」の言葉、つまり「仏の言葉ではない」という事でしょう。しかしそれは創価学会の主張とて同じ事です。創価学会の言葉も「御書の解釈」でしかありません。日蓮は述べています。

「師の日蓮の法門九牛が一毛をも学び及ばず候といへども法華経に付いて不審有りと仰せらるる人わたらせ給はば存じ候なんど云つて、其の後は随問而答の法門申す可し」(教行証御書)

ここで「随問而答」と述べていますが、お互いに疑問があるのであれば「問答=議論」をする事を述べているのです。

だから創価学会は「人師・論師」という前に、日蓮直結で御書根本というのであれば「議論」をしなければなりません。しかしこの事について、今回の文書でどのように述べているのか読んでみましょう。

◆大確信で語り切る
「創価学会は第二次宗門事件の勃発当時も「池田先生は正しい。正義は学会にある。日顕宗は間違っている」という大確信で破邪顕正の言論戦を展開し、仏法の正邪を明確にしてきた」とあります。これというのは以下の様な言動をしろとでも言うのでしょうか?



僕も過去に法華講や妙観講ともやりあった経験がありますが、対論に際して御書の裏付け、各経典の裏付けなどをしっかりと取り、その元で行ってきました。「問答」をするのに「池田先生は正しい。正義は学会にある」という大確信だけでは出来ません。
しっかりとした論拠建てが必要になりますが、今の創価学会にそれがあるように思えません。

◆むやみに相手の土壌に乗らない
「大白法号外」等でなされている批判は、平成5年に創価学会の御本尊授与が開始されてきた使い古された内容が大半であり、難癖にすぎない。そうした難癖について、相手の土俵に乗る必要は全くない。「大上段で構え、斬って捨てる」との姿勢で対応してまいりたい。」

この言葉は何とも勇ましいのですが、今回、創価学会が行った会則改正は前回の平成5年には行っていない事が二つある事を、創価学会自身は理解しているのでしょうか?

 1)弘安二年大御本尊を信仰対象とはしない。
 2)その為に日蓮の出世の本懐の解釈を変更した。

つまりこういった点についても、今回は明確に根拠を提示しなければならないとう事です。

ただそれもしないで「大上段に構え、斬って捨てる」という姿を示した時、それは無残な対論の姿をさらす事であり、結果として日蓮の言う「随問而答」できない事となり、ひいては「日蓮直結」という言葉だけが上滑りしてしまう事になってしまいます。

ここまで読んだ時点で、この書類の作成者は実際に対論現場を経験した人物ではないと理解できますね。
もし僕が現在でも広宣部であった場合、真逆に創価学会の教学部に詰問すると思いますよ。

「こんなものは教学でもないし、日蓮直結でもなんでもない。こんな事で、創価学会の正義をどう証明するというのか!?」とね。

この内容については、次回の記事以降で書いていきたいと思います。

【20150211】内部資料「世界へ未来へ民衆仏法の大いなる飛翔」①

こんにちは(*・ω・)ノ

昨日、ツィッターで少し(というかかなり)触れましたが、創価学会の現場組織で、今回の教義条項に関わる会則変更にともない、内部資料として蒔かれているというものを入手しました。
原本については、公開するのはちょっとなーと思いながら、その内容について少し読み解いてみたいと思います。

まあ個人的には脱力感満載のものでしたけどねー・・・・
では内容について紹介をしたいと思います。 



【会則改正の意義】
◆大聖人の仏法の本義に立ち返る
 -宗教独自性を明らかにし、未来を見据え、さらなる世界広布邁進へ

まずこの段では、
「創価学会創立85周年、池田先生の会長就任55周年、SGI発足40周年の事に触れ、広布の進捗状況とグローバル化が進む現在において「大石寺へ参詣しなければならない」などと言った日蓮正宗の時代錯誤の主張は、世界広布を推進していく上で足かせになるものである。」と延べ、
「それらは聖地信仰であり、末法の一切衆生の救済を熱願された日蓮大聖人の仏法の本義とかけ離れたものであるという事は、断じて間違いない」と述べている。

そして「今回の改正は、「根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法を信じる」という大聖人の仏法の本義に改めて立ち返り、大聖人の仏法を唯一世界に弘めて来た創価学会の独自性をより明確に示すため、そして未来を見据え、世界宗教として更なる飛翔を遂げるにふさわしいものとするための改正である」として結んでいる。

まず此の段について述べてみたいと思います。
正直言って、今回の資料ですが、内部の教宣部や広宣部関係に配布されたとも聞いていますが、僕は「本当け??」と言う内容です。

まず宗門との関係ですが、実際には第二次宗門問題(平成三年以降)で完全に決別していると思っていました。それをここで改めて「大石寺へ参詣しなければならない」という言葉を述べ、宗門への反論というべき「日蓮正宗の時代錯誤の主張」という言葉を言っていますが、今の創価学会にとって宗門というのは、いまだそれだけ影響力がある存在なのでしょうか?

ほうって置けばいいじゃん。
そう考えもするのですが、恐らく宗門側では創価学会の末端組織へと揺さぶりをかけてきているのでしょう。だから改めて宗門の事をここで殊更とりあげて、「破折」をしようという事から、この内部資料を作成し、配布をはじめたのかもしれません。

まあ僕から言わせれば、御本尊の問題をはじめとした大石寺教学と決別する事なく、未だに創価学会として大石寺教学を採用していた事の付けを残したまんま、今回の会則変更で「弘安二年大本尊」との決別をいきなり図ったことがそもそもの原因だと思いますよ。

しかしここで「聖地信仰」に難癖をつけている処は笑えますね。
創価学会として「大誓堂」なる巨大なハコモノを建設し、池田会長の音声データを道師として、創価学会常住本尊を謹刻した板本尊を安置しているではありませんか。
創価学会こそ、今回の会則変更で信濃町の聖地化を企図しているのですから、この段階で「目くそ鼻くそ感」が満載になってしまいます。

◆青年部世代の実感そのもの
続くこの段では「青年部の大半は第二次宗門問題以降に信心を始めたものである。弘安二年の御本尊をみたこともなく、各自の御本尊や会館の御本尊、すなわち創価学会が認定した創価学会の御本尊に題目をあげて、人間革命と広宣流布の実践に励んできた。よって「御本尊=創価学会の御本尊」というのが、青年部世代、またSGI・新入会メンバーにおける共通の実感である」とも述べています。

この説ごもっともと思うのですが、また別の見方をすれば創価学会として信仰の根本である「御本尊」の事について、青年部世代を含む、新たな人達に学ばせてこなかったことを、ここで暗に吐露しているように思えますけど、どうでしょうか?

そもそも御本尊とは日蓮が初めに著したものであり、現代においても多く直筆本尊は残っています。また日蓮以降においても、六老僧を始めて、大石寺などでも歴代貫首などが書写を行い、創価学会が授与している御本尊についても第二十六代貫首・日寛師の本尊です。だから「創価学会の御本尊」ではなく、正式には「大石寺貫首書写の御本尊」であり、創価学会はそれを「認定」しているという立場に過ぎません。「創価学会の御本尊」ではなく、正式には「大石寺の中で創価学会が認定した御本尊」という事です。

だから今回、会則改正に伴い創価学会として「御本尊」という信仰の根本に関する事を取り上げた結果、大石寺として責めこんで来る事は当たり前であり、この事が少なからず会内に波紋を投げかけているという事なのではありませんか?

要は創価学会として、信仰の根本のご本尊の事についておざなりにしてきたのですからね。そこは結果として「大石寺」に依存していたという事が、今回の会則改変で見えてきたという事でもあります。

さてさて、創価学会はこの事についてどの様にけりをつけるつもりなんでしょうか。
「外野席」にいる僕としては、とても見ものなんですけどね。

という事で、この資料の事については続けます。

【20150205】会則の教義条項改正の解説ー番外編①

こんにちは(*・ω・)ノ

今日の関東甲信越方面は雪だとか。
まだ小雨なんですが、これがこれから雪になると言います。嫌ですねー。
雪が降って喜ぶのは犬と子ども達位なもので、僕なんか下手すりゃ帰りの時間に大変な目に遭いそうな気がします。

後も残りますからねー。( ̄∇ ̄)
今日もやること満載で、そんな早く帰る事なんてできないですから。
できれば小降りであるように、祈りたいです。

さて、前回まで創価学会が発表した会則改正の解説を読んでみました。まあ簡単に云えば創価学会として新たな聖地化を計る布石としての会則改正だったのではないかという結論づけを僕はしました。

聖地があれば会として存続出来るとでも思ったんでしょうか、その真意は置いておきます。

ここでそもそも論。
日蓮出世の本懐は、大御本尊の建立だったのでしょうか?
宗門としては「当たり前」というのでしょうし、創価学会では今回の解説でいくと「それは違う」と言うのでしょう。

僕の考えですが、これについては「違う」と考えています。では僕も創価学会と同じく農民弾圧で三人斬首という事に本懐を感じたのかと言えば、それも違います。

釈迦は法華経を説くのが本懐だったと言います(真偽は別ね)、天台大師は「摩訶止観」だと言います。この両師ともに「経典」もしくは「論」を説き残すことを「本懐」としています。

では日蓮の本懐はなぜ「本尊」なのか?また民衆内に信心護持が根付いた事とか云うのか。
「三国四師」と言いますが、宗門や創価学会の言うとおりなら、日蓮だけ違う事を「出世の本懐」だとしていますが、その理由についてはどちらも論究していないですよね。

日蓮にとっても「出世の本懐」は何かしらの論(御書)なのではありませんか?

まあこの事は別に論じてみたいと思いますが、そういう点も考慮しなくてはいけないでしょう。
今回の創価学会が発表した解説でも、そう言ったところを述べていないで、従来の「出世の本懐」をコロッと簡単に変えたところに、僕なんかは残念感を感じています。

「こいつら(信濃町界隈)にとって、教義とは軽いものなんだなー」ってね。

さて、宗門はこれから従来の「本門の本尊」を片手に、創価学会を責めてくるでしょう。そして創価は議論を逃げつつ、「御本尊認定の権能」を振り回すでしょう。

でも御本尊とは、信仰で必ず必要なモノなのですか?
そこについて考える必要もあると僕は考えています。

「一、御筆の本尊を以て形木に彫み不信の輩に授与して軽賎する由諸方に其の聞え有り所謂日向日頂日春等なり。
 日興の弟子分に於ては在家出家の中に或は身命を捨て或は疵を被り若は又在所を追放せられ一信心の有る輩に忝くも書写し奉り之を授与する者なり。」


これは「富士一跡門徒存知の事」の一文です。
ここで日興師は御本尊を形木(版木)にして増刷、信徒に配ることについて否定的な立場を表明しています。それは御本尊を軽く扱う危険性を指摘しての事です。

日興師の考えている御本尊の授与とは、身命に及ぶ難を受けた人、また傷などを受けても信心を貫いた人に授与すべきであると、はっきり書いています。

また近くでは堀日亨師も形木の本尊を授与する事に疑問を投げかけていました。

現実に創価学会の末端では、多くの御不敬(御本尊を粗末に扱う事)が未だに発生していますよね。学会活動家であれば解るはずです。

仏法のあるべき形として「本尊」「戒壇」「法(題目)」という三大秘法というものはあると思いますよ。しかしそれが信仰する上で必ず必要なのであれば、何故、日興師は形木を否定していたのでしょう。

答えは単純。
信仰に御本尊は必ずしも必要では無いからです。

違いますか?

確かに日蓮も弟子に乞われれば御本尊を書写してましたが、まさか鎌倉の辻つじで御本尊を渡してはいなかったでしょう。
日蓮の時代、その門下に居るだけで殺害される危険性のある時代です。そんな時代に弟子になった人達に対して、日蓮は惜しむことなく御本尊を授与しました。

その姿を日興師は見ていたからこそ、五老僧が形木を作り出してバンバン御本尊を下付していることについて、「それは違う!」と指摘をしたわけです。

これを見ると今の創価学会や宗門で御本尊を授与している姿勢そのものが、当時の五老僧を彷彿としてしまいますけど、どうでしょうか。

過去、仏教史を省みると御本尊が必ずしも信徒の中にあったかというと、それは違ったのではありませんか?

寺や集まる場所にこそ本尊はあり、信徒の日常は教学を研鑽する傍らで、思い思いの形で祈りをしていたという姿だったと思いますよ。

そこから考えるならば、今でいう「内得信仰」が一般的だったと思います。
そうであれば御本尊という事について、強ちに議論をして、そこから自組織の正統性を議論するとかはおかしいと僕は思うのです。

だから僕は創価学会として、例えば常住御本尊がこれから中心の御本尊とする事について、特段問題視はしていません。しかしその御本尊を「人寄せパンダ」のようにして聖地化をはかり、その正統性を表明するために、教義を取り繕うという姿勢におかしな事を感じているのです。

またそもそも聖地化という事について、池田会長も否定していたではありませんか。それを今頃になって大誓堂なんてハコモノをつくり、そこに常住御本尊を奉掲し聖地化するなんて、それこそ自語相違と言うものです。

宗門に至っては御本尊を信徒を拡大する道具として利用していますよね。法主の血脈とかいって。

どちらもおかしいのです。

御本尊の事を創価学会や宗門が云々するなら、それ以前に整理・議論すべき事が沢山あるのを、何故互いに理解できないのでしょうか?

今回の教義条項改正に伴う事で、これが感じることの一つです。

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