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想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   

【20160512】人生の目的や意味について

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

今日の関東の空は抜けるような青空ですね。昔、佐藤浩市が出ていたCMで「黒いほどの青空で」という言葉がありましたが、僕はこういう青空が大好きです。

さてTwitterで最近、地元の幹部が来たことを書きましたが、その内容に触れつつ少し今日は書いてみたいと思います。

今の公明党や政権与党に対して僕は指摘し、あわせて支援体制が結果としてポピュリズムを増長させ、政治の停滞を招いている事を、その幹部に話をしましたが、彼の幹部いわく。

「でも素晴らしいと思いませんか?国会議員をこれだけ輩出しているんですよ。創価学会として。これだけでも称賛に値すると私は思うのですが」

この幹部、僕の話の要点は理解出来てないようです。

「選挙の功徳や福運は計り知れないほど大きいのですから、運ちゃんも共に闘いましょうよ!」

僕は答えました。

「僕は今の創価学会がいう功徳や福運には全くもって興味ありませんよ。良いですか、人生生きていれば良いことも悪いことも有るのは当然で、それをいちいち功徳だ福運だ挙げ句のはては罰だという事自体、おかしいでしょう。日蓮は功徳とは六根清浄とも言ってましたが、これは生きるなかで人生本来の意義を見えるようになるという事が本来の功徳なのではありませんか?」

すると幹部は答えました。

「そんな事では会員さんは動かないですよ。功徳を貰い、皆が幸せになりたいと信心しているんですから。」

果たして創価学会は何を幸せと云い、どんな事を幸福と教えているのか。
この幹部の言葉を聞いたときに、僕はやはり組織劣化を考えざるを得ませんでした。

「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや」

これは日蓮が弟子の四条金吾に宛てた手紙に書いてある言葉です。
人生の中で苦しいことや楽しいこと、それぞれにお題目を唱えて生きていくことが自受法楽、つまり信仰の本来の目的という事なのではなかったのでしょうか。

「命の力、生命力を着けていけば辛いことでも悠々自適と生きていける。これこそが絶対的幸福境涯である」

僕はそう教わってきました。
しかし今の創価学会では、選挙で活動することで、人生に良いことを呼び寄せる事ができる。それが功徳や福運だというのです。

んな極楽浄土を求めるような信仰だったんでしょうかね?

こんな事ばかり教えていくから、本当に苦悩している人が創価学会に入ると「祈っても良いことなんて無い」「なぜ私は人より沢山お題目を唱えているのに、こんな不遇な人生を送らなければならないのか?」となり、日蓮や仏教、そして文字曼荼羅をも罵倒する様になってしまう。

本当にそれで良いんか?

人の一生はせいぜい七十年か八十年。
そんな短い人生を、ひたすら楽なこと、楽しいことだけ求めるような事になってしまう。そしてそれを教え、その為に選挙で頑張れという。

これを組織の劣化と云わずして何と云うんでしょうか。

本来は信仰を続けるなかで、自身の人生の意味付けを知り、そこから人生の質の向上へとつなげていくものが、まつたく真逆な事になってますよね。

ここからはあくまでも僕の私見です。
恐らく信仰をするなかで一番確立しなければいけないのは「死生観」でしょう。
人は死ぬとどうなるのか、翻りこの世界に生まれ出でて生きるというのは、どんな意味があるのか。

「所詮臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を「是人命終為千仏授手令不恐怖不堕悪趣」と説かれて候」(生死一大事血脈抄)

この世に生を受けた人は、漏れ無く「死」を迎えます。死後にどの様な事があるのか、そもそも自身にとって不可避な最大のイベントである「死」とはなんなのか。
そこを見つめ直す事が一番大事な事であり、それの解決無しに人生を謳歌することはありえません。

全ての信仰にはすべからく、信仰体験とは付き物です。大事なことはその体験の先に何を己が求めるようになっていけるかであって、その信仰体験(特に心地よいもの)ばかりを求めるようになっては、その信仰で死生観の確立は困難になり、真逆に欲による生への執着が強くなってしまいます。

また今ある日蓮仏法の解釈だけでは、この確立は困難でしょう。もちろんこの日蓮の教えのなかには多くのヒントは隠されています。
しかしそれを知るには、より多くの事を学ばなければなりませんし、その学ぶという事をより大切にしなければならないのです。

創価学会では功徳や福運を求め、その為に組織に尽くし活動に専念することを求め、こういった「学び」という事について、あまりにも軽視しすぎてませんか?

先の幹部にしても、そういう事について問いかけをすると「私は運ちゃんほど学んでませんので、それは解りません」と言いました。しかしながら続けて出てくるのは「でも池田先生は素晴らしいですし、間違えてはいないと思うんですよ」という言葉です。

「だったら學べ!」

僕は常にいいますが、学ぶ時間よりも票の獲得、また幹部であればその集票活動する活動家が欲しいという処のようでした。

釈迦は僧伽を作り、弟子たちに学びの時間と場所を作りました。日蓮は激闘のなかでも「大師講」という学びの場を持つことを大事にしていました。

人生の意味を理解するには、やはり学びの場を持たねばなりません。

しかし今の創価学会で、もし学びの場を作り出したなら、日本の権力者が求めるような「集票マシーン」とはならなくなり、また信濃町界隈が求めるような「飯の種の組織」は崩壊してしまいます。

だから創価学会は徹して「学びの場」を作り出すことなく、その代わりに「学びの真似事の場」をつくらせ、活動家諸氏を無知のままに放置しています。

こんな事で、果たして活動家たちは人生の意味を見つけ出すことができるのでしょうか?

創価学会の幹部との対話をすればするほど、幻滅に似た感覚を強くしてしまうのです。
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