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想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   

【20161015】戸田会長「青年訓」

こんにちは( *・ω・)ノ

なにやら学校では既にインフルエンザが流行の兆しを見せているとか。
僕の周囲を見ても風邪をひいている人が増えてますが、やはり夏の猛暑から一気に転じて秋らしさが深まっているので、やはり体調を崩す人も増えているのでしょう。

僕自身、若いときに比べて格段に環境変化にたいする順応力が落ちたなと思うこと度々です。

秋と云えば「食欲の秋」「スポーツの秋」「読書の秋」と様々あり、過ごしやすい季節のはずなので、体調管理をしっかりやって、良い過ごし方をしたいものですね。

さて今日は、少し赴きを変えて「青年訓」について読み返してみたいと思います。

昔の創価学会は確かに「青年の組織」でした。会合運営、種々の活動を仕切るのは青年部であり、壮年部や婦人部などはバックアップするという組織。
それが今や「自称・青年部」の壮年部や婦人部が前面にたち、青年部自体もはや「未来部の一部」となってしまい、且つ統監的にも激減の一途。

このままでは恐らく「宗教界の王者」「民衆の王者」どころか、既成の葬式仏教にもなり得ない組織になって行くでしょう。

あと十年か二十年は待たずして、そうなっていくと思います。

創価学会の創始者は牧口会長ではありません。彼の人は戸田会長に切っ掛けを与えた人であり、この会の創始者は紛れもなく戸田会長です。
その戸田会長の元に、当時多くの青年が集い、創価学会はここまで膨張する事が出来ましたが、その会長が青年に何を語ったのか、この青年訓を読み返せば解るでしょう。

以下、僕なりにコメントを入れつつ紹介します。

青年訓 

新しき世紀を創るものは、青年の熱と力である。
吾人等は政治を論じ教育を勘うる者ではないが、
世界の大哲・東洋の救世主・日本出世の末法御本仏たる
日蓮大聖人の教を奉じ、最高唯一の宗教の力によって人間革命を行い、
人世の苦を救って各個人の幸福境涯を建設し、
ひいては、楽土日本を現出せしめんことを希う者である。 


ここで戸田会長は、創価学会の立ち位置について語っています。
それは「最高唯一の宗教」として日蓮仏法、大石寺の教義を奉じて「各人の幸福境涯」を目指すとあります。
つまり教えそのモノというより、主語が人々の幸福である!が大前提。
ここに創価学会のウィークポイントが隠れていたのかもしれません。

今の創価学会の中にある「日蓮」とは形式的なものです。
この戸田会長の信じた教えが、実は世界的なモノではないと実感したのが三代会長だったのでしょう。
そこで「人間主義」を標榜したまでは良かったのですが、結果として「池田哲学」というパッチワークの思想を中心にしてしまい、いまや仏教的な教学はボロボロとなり、「影斜めならば体斜めなり」の言葉通り、組織の歪みは著しいモノになってしまいました。

つまるところ宗教団体で「学会」と名前を着けるも、組織活動ばかりにほうけて、教えそのモノを蔑ろにした結果が今の姿なんでしょう。

なぜこうなってしまったのか。

それは会の本来の目的が「幸福境涯の確立」となっており、この幸福境涯という事についても現世利益的な方向となり、そこに「世界の大哲」である仏教を学ぶという姿勢が弱まってしまったという事実です。

此の事業は、過去においては釈迦の教団が実行し、
近くは日蓮大聖人の教団が勇ましく戦ったのである。
釈迦教団の中心人物たる舎利弗にせよ、阿難にせよ、皆若き学徒であった。
日蓮大聖人の門下も又、皆若き青年学徒によって固められていたのである。
日興上人は大聖人より二十四歳も若く、
日朗も又二十一歳の年のひらきをもっていた。
西より東に向かった仏教も青年によって伝承せられ、
東より西に向かう大聖人の仏法も、青年によって基礎づけられたのである。
 

戸田会長は創価学会に入信するのは、牧口会長が縁となってでした。

自身も結核で苦しむなか、お題目を唱えてそれに打ち勝ったという体験もあり、そこから「日蓮(大石寺教学の中の)仏法は絶対である」という確信から、創価学会を創設しました。

そしてその組織の命運は、この組織の青年部の姿如何に掛かっていると信じていたので、この部分を書かれたのではないでしょうか。

確かに昔の創価学会では青年部が青年を育成出来ました、しかし今は?

多様化した現代の青年層を糾合できる存在では無くなりましたね。
何せ中心者が宗教貴族ばかりになってしまい、そこに求道や刷新の息吹は無くなってしまったからでしょう。

吾人等はこの偉大なる青年学徒の教団を尊仰し、
同じく最高唯一の宗教に随って、人間苦の解決、真の幸福生活確立、
日本民族の真の平和、苦に没在せる東洋の浄土化を弘宣せんとする者である。 

諸兄等も此の偉大なる過去の青年学徒群と同じ目的、
同じ道程にあることを自覚し、大先輩に劣らぬ覚悟がなくてはならぬ。
霊鷲山会に共々座を同じうした時、『末法の青年は、だらしがないな』と
舎利弗尊者や、大聖人門下の上人方に笑われては、
地涌の菩薩の肩書きが泣くことを知らなくてはならない。 


総ての大衆運動の中心には、志と哲学がありました。しかし今の創価学会にはそれは無くなってしまい、あるのは既得権益の維持と権力側に付き続けようという思惑だけです。
特に信濃町界隈が宗教貴族ばかりになって、いったいどこに「地涌の菩薩の肩書き」があるというのか?

奮起せよ!青年諸氏よ。闘おうではないか!青年諸氏よ。 

しからば、誰人と如何なる戦を、吾人等はなすものであろうか。
 

組織の衰退の兆候は、何もいま始まったばかりではありません。恐らく言論問題近辺、つまり創価学会として組織整備が整った時期からあった事でしょう。

いまや「青年」は何処に居るのか?
この戸田会長の「奮起せよ!青年諸氏よ!」の言葉が空回りしていますね。

第一は、無智の者に永遠の生命を訓え、
日蓮正宗の本尊の絶対無二なる尊貴を知らしめて、
功徳の大海に思うがままに遊戯する自在の境涯を会得せしむる為に、
忍辱の鎧を著、慈悲の利剣をひっさげて戦うのである。
 

昨年の会則改正で、「日蓮正宗の本尊の絶対無二」という思想を、創価学会としては放棄しました。
良い悪いは置いといて、根本の思想を安直に変えたことにより、創価学会は背骨をなくしてしまったのです。

この重大性を気づく人が、末端組織でも皆無という事実に、創価学会の衰退の要因があることを、そろそろ活動家幹部達は気づくべきではありませんか?

第二は、邪智邪宗の者に、立正安国論の根本義たる、
邪宗邪義は一切この世の中の不幸の原因であり、
諸天善神は国を捨て去り、聖人は処を去って、世はみな乱るるなりと訓え、
邪智邪宗をひるがえすよう、智慧の鎧を身にまとい、彼等が執着の片意地を、
精進勇気の利剣をもって断ち切るの戦いである。 


「邪智邪宗」という言葉も既に死語となりました。
まあ仏教を正しく認識できない事を「邪智邪宗」というならば、いまの創価学会は紛れもなくそうでしょうね。

第三に、衆生を愛さなくてはならぬ戦いである。 

しかるに、青年は親をも愛さぬような者も多いのに、どうして他人を愛せようか。
その無慈悲の自分を乗り越えて、仏の慈悲の境地を会得する、
人間革命の戦いである。 而して、吾人は更に、諸兄等の行動について、
望む所をもつものである。 


会員や友人を「選挙の駒」「組織維持の種」と認識させる活動をしている時点で、その組織は「人々を愛している」とは言えません。今の活動家はそんな人ばかりになってしまいましたね。

第一に、絶対的確信に充ちたる信仰の境地に立脚し、
信行において微動だにすることなく、唯一無二の御本尊を主・師・親と仰ぎ、
日蓮大聖人と共にいますの有り難さに溢れ、
地涌の菩薩の後身を確信することである。 


「絶対的確信」なのか、「無知蒙昧なる無条件の組織依存」なのか。これを認識する智慧が必要なのですが、そう言うことを蔑ろにし過ぎた結果が今の創価学会であると理解すべきです。

第二には、行学に励み御書を心肝に染め、大聖人の仏法に通達して迷いなく、
今は如何なる時かを凝視して、大聖人の御心を心とし、
日興上人の御遺誡を我が命として努むべきである。
 

創価学会が活動家に求めたのは、結果として「行学の二道」ではなく「行活(動)の二道」であって、学ぶことを会員から遠ざけました。
何故ならば組織維持にとっては、会員は放牧された羊である必要があったのです。

第三に、その行動の態度たるや真摯にして、暴言を用いず、
理をつくして指導の任に当り、威厳と寛容の姿の中に、
邪義邪宗邪師に対しては、一歩も退かぬ勇気あるべきことである。 


組織として「総括、反省」が出来ない体質となり、信濃町界隈では「ヒラメ族」ばかり。
そしてそのヒラメ族達が、末端組織の上に君臨する構造なので、暴言や強言、そして権威主義が横行してますよね。

第四には、部隊長の命を奉じて、学会精神を会得し、班内の士気を鼓舞して、
学会青年部の中心人物たることを自覚せられたきことである。
 

組織役職も、末端組織では自己認知の道具となり、人脈で構築される状態です。
そんな幹部達には何ら期待すら出来ないでしょう。

しかも、広宣流布の時は近く、日蓮正宗の御本尊流布の機は、
今まさにこのときである。
故に三類の強敵は、まさに現われんとし、三障四魔は勢いを増し、
外には邪宗邪義に憎まれ、内には誹謗の声ようやく高し。
驚くことなかれ、この世相を。こは、これ、聖師の金言なり。
 

そもそも「広宣流布」の本義をとらえ間違えてもいましたので、創価学会が未曾有の発展をした現在、日本はどうなりましたか?
冷静に考えてみれば解ることです。

されば諸君よ、心を一にして難を乗り越え、若き花の若武者として、
大聖人の御おぼえにめでたからんと願うべきである。
愚人にほむらるるは、智者の恥辱なり。
大聖にほむらるるは、一生の名誉なり。
心して御本尊の馬前に、屍をさらさんことを。
(昭和二十六年九月二十八日)
 

こんな感じなので、いまやこの訴える言葉も空虚なものでしかないと、僕は感じてしまいます。

青年とは未来の異名であり、その青年を活かすには、明るい指標と明確なビジョンが必要です。
昭和二十六年といえば、日本は滅び、これから復興しようという時期であり、戸田会長はそれをいち早く察してこの様な「青年訓」を発表したのでしょう。

しかし現在の創価学会はどうなのか。

信濃町界隈は高齢者ばかりで、上にいけば行くほど腹黒く、末端組織で残っているのは「池田センセー」という、過去の幻想に囚われた「自称、青年部」ばかりです。

今の時代、青年達に語るべきはなんなのか?

単なる宗教言葉などではなく、活きた「人生の意義」であると思います。

それを語るには人一倍悩まなければならないし、人一倍、苦労して学ばなければなりません。

しかし悲しいかな創価学会には、そんなモノは既に無くなってしまいました。

これはとても残念なことですね。
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