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想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   

【20161109】御本尊の差異はあるか

こんにちは( *・ω・)ノ

寒いですね。
今日からコートを着て通勤しています。
そう言えばアメリカ大統領選挙は本日開票ですが、誰になるんでしょうか?
テレビでは「報道特別番組」を組んで中継するそうですが、本来なら別の国のことなんで、そこまで不要だろうと思うのですが、そこは日本の「宗主国」ですからねー。

まあどちらになろうと、日本にもかなり影響があるのではないでしょうか。

さてTwitterを見てると、未だに「偽本尊」とか、それにまつわる「仏罰」なんて話が、もっともらしく云われていて、驚きます。

僕も昔は御本尊により結果が違うとか、そんな事を信じていたことがありました。これは創価学会の本尊が偽という意味ではなく、日顕師の書いた本尊とか、身延山で販売している本尊とかについてですが。

しかし非活となり、日蓮や宗門史、また心理学とか様々な事を自分なりに学んでみたところ、やはりこの「偽本尊」とか「真正本尊」は、あまり関係ないことが解りましたので、その事を今回は書いてみます。

日蓮の文字曼荼羅。
一般的には御本尊の事をこの様に呼んでます。
日蓮の人生を見てみると、龍ノ口の法難ののち、依知にて「楊子本尊」を顕して以降、日蓮は文字曼荼羅を書写し続けました。

その相貌は書かれた時により異なり、楊子本尊以降、始めの頃は御題目と梵字で書かれた愛染・不動、そして日蓮というシンプルなものでした。
そしてその後、十界が書かれ四天王も書かれ賛文も書かれ等して、現在見られる内容に変化しています。

「曼荼羅」とは真言密教にもありますよね。「金剛界曼荼羅」とか「胎蔵界曼荼羅」とか。そのなかで「八葉九尊」とか言われていますが、御義口伝の御題目の解説の中にも「九尊」とか、書かれていたりするので、日蓮の文字曼荼羅も、この真言密教の曼荼羅の流類に入るのではないでしょうか。

こんな事を言うと「やはりお前は悩乱しているな!(#゚Д゚)ノ」と言われそうですが、この件について田中智学も同様な事を言ってました。

「真言密教とて権教である。実教の法華経から真言密教を解釈するのが、何か問題があるのか」

要は真言密教の曼荼羅の教えに影響を受け、日蓮が文字曼荼羅が書かれたとて、何の問題があるのかと言うことです。

まあ曼荼羅の講釈はここまでとして。

さて、この文字曼荼羅が、例えば創価学会で謹製されたものと、日蓮正宗が謹製したものと、祈った結果に差があるというので、そこから真贋の話題が出てますよね。

「御本尊も血脈を付法された御法主猊下が書写したもの以外は、魔の生命が入り込み、その御本尊に祈ると不幸になる」

これは多くの法華講の人たちが言うことです。また似たような事を二代会長と戸田会長も言ってました。代表的なのは「偽札に例えた話」として残ってます。

まずここで考えなければならないのが、祈りを叶える主体は誰かという事。

まさか御本尊が魔法使いよろしく「テクマクマヤコン・テクマクマヤコン。何々になれ~」なんて事、やりませんよね?

願望を持つのも「人」、祈るのも「人」。そしてその結果を感受するのも「人」です。
つまり祈って結果を出し、それを感受するのは一貫して人以外にあり得ません。

何度も書きますが、華厳経では「心如工画師」とありますが、この心は人の中にある心であり、その心が環境を作り出すという事を述べてます。

だから祈った結果が「幸福」なのか「不幸」なのか、それはその人自身の心の現れでしかなく、文字曼荼羅はその助縁に過ぎません。

だから例えば創価学会の御本尊に向かい、祈った結果が不幸であれば、それは創価学会の御本尊に原因があるのではなく、祈っている本人の心の中に原因があります。

同様に日蓮正宗の御本尊に祈って不幸になったなら、やはり本人の心に原因があるわけです。幸福になったという話も、原理は同じなので割愛します。

つまり祈った結果の幸不幸は、助縁となる文字曼荼羅にあるのではなく、そこに祈る本人の心の中にあるのではないか、というのが僕の結論です。端的に言えば。

それをあたかも謹製した組織によって、その優劣があると云うならば、それは既に「内道としての仏法」ではなく、「外道としての教え」になっていると言うことです。

もちろん御本尊とて助縁として関係するのですから、見た目が既に不気味とか、気持ち悪いなんてのは論外ですね。

昔、戦前ですが宗門も販売してましたよね、紫の地に金箔の刺繍で文字を顕した曼荼羅とか。あと個人的に身延で販売している日蓮筆を元にした謹製した曼荼羅なんて、どうも色合いが気持ち悪くて、祈る気になりません。

また創価学会の曼荼羅で、一般会員に授与される本尊も、安っぽいと言えば安っぽいので、それが気になる場合には、やはり問題になるかもしれません。

しかし曼荼羅が祈る事に関係するのは、その程度の事であり、そこを殊更煽って「偽曼荼羅」とか「悪鬼が入った曼荼羅」なんていう理屈、僕はおかしいと思いますよ。

そうは言っても、例えば創価学会で御本尊を頂いて勤行・唱題したら、幸せになるどころか不幸ばかり起きるとか、また逆に宗門の御本尊を受けたら不幸になったという話はよくあることですね。

この場合、やはりどちらの文字曼荼羅に功徳の力があるからとか、間違っているとか批判するよりも、その祈りをしている本人の話をよく聞いて、その心の中にある事に耳を傾けるべきではありませんか?

文字曼荼羅を御本尊と呼び、その功徳力や真贋を論じる場合、えてして曼荼羅が信仰の根本に関わる事なので、信仰者としての本人の事より、その背景には組織に拘束したい、その為の道具として曼荼羅を利用したいという思惑が強くあります。

そんな事に振り回されてしまっては、信仰している意味が無くなってしまいますよ。
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