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想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   

【20161215】祈りの叶う叶わないは信心か?

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

昨日から出張で、深夜作業を終えて帰路の途中、この記事を書いています。

今日のお題ですが、よく相談で「創価学会では"祈りとして叶わざるは無しの御本尊"と言われたのですが、御本尊に祈っても一向に祈りが叶った事がありません。」という内容が以外と多いんですね。

そして学会の末端組織の幹部に指導を受けたりすると「もっと真剣に且つ具体的に祈らなければ叶わない」という言葉や、「広宣流布への祈りしか叶わない」という事を言われます。その他で言えば「んなもん、全ての祈りが叶ったら、本人のために良くないから叶わないのだ」という幹部もいたりして。

入会するときや活動を始めたときには「しっかり祈りを叶えて幸せになろう」という割りに、その質問したら、叶わない理由を幹部の体験と主観で話すからテンデンバラバラな話になってしまうんですよね。

僕が最近、この「祈りを叶える」という事について考えていまして、今回はその事について少し書いてみたいと思います。

まず大前提ですが、全ての人は祈りを叶える能力を持っています。

このブログでも幾度か取り上げましたが、全ての人間は自身の心の中にある事を具現化出来る能力を持ち合わせているのです。

だからこの事については、初期の仏教経典と云われる華厳経にも書かれているし、一念三千という理屈も、その事を志向しています。

この「想像を具現化する」という能力は、全ての人に遍くある能力だから、世の様々な宗教にも奇跡体験といわれる事が起きるわけですが、この能力が本来あるという事を信じないから人々は何かにすがる事で祈りが叶うと錯覚し、そこを宗教に利用され、操られててしまうという事もあるわけです。

創価学会だけではないでしょ?体験談なんて。

法華講にもあれば顕正会にもある。果てはオウム真理教やイスラム教でもあるでしょう。当たり前の話なのです。

そしてそんな宗教に騙されると、この体験が大きな呪縛となって、離れられなくなってしまうのです。

でもそんな事云うと。

「では何故、私の祈りは叶わないのか!納得できない!」

こう叱られてしまう事もあるので、そこの理由について書きますが、これから書く事は、あくまでも僕の主観ですので信じる信じないはお任せします。

まず始めに理解しなければならないのが、祈りをする「自分自身」とは、どんな存在なのでしょうか。

この事を省みたことありますか?

仏教説話で「雪山の寒苦鳥」というのがありますね。これはとても寒い雪山に寒苦鳥という鳥がいて、寒い冬の間は「暖かくなったら、寒さを防ぐために立派な巣を作ろう」と毎日震えながら考えるのですが、いざ春になり暖かくなると、ついつい昼寝ばかりしてしまい、巣を作れません。そして季節が廻りまた冬になると同じ事を考えているという話。

これは思った事を、中々実行出来ない人間の持つ弱味を的確に表すとともに、意味のある人生を送ろうというテーマの話です。

この話はとても身に詰まされる話なんですが、この話とは単に怠けグセを指摘しただけの話では無いと思うのです。心の動きのコントロールの難しさも表現されています。

さて一念三千で云われる「十界互倶」ですが、この話を単に「十界の中にそれぞれ十界があって、、、」なんて理解する必要はありません。ここで表現されているのは「心の多重性」と言っても良いでしょう。

人は喜びの中に悲しみや怒りを備え、苦しみの中にも喜びや学びの心を持ち合わせるという、多重的な心を持っている。

この事を十界論を利用して表現したのが「十界互倶」という話です。

また「百界千如」とは、その多重的な心が様々な姿を持って現れる事を表しています。そしてそこに三世間(五陰・衆生!国土)が入るというのは、その心が本人のみならず、社会や住んでいる環境にも影響を与えるという事を述べています。

詰まるところ「一念三千」といつのは、人の心の多重性と広がりを説いたもので、私達一人一人もこの様な心を持っているという事です。

だから「祈りが叶わない」という事をよく言いますが、本当にどの様な祈りをしているのか、当の本人でも解らないモノなのです。

祈るときに以下の様な事はありませんか?

「◯◯なりたい(でも▲▲で無理かな)」
「□□するぞ(でも**あるしな~)」

祈る際に必ず()で書くような心の呟きというのは経験しているはずです。心の呟きに至るまでは、意識の奥底に様々な蠢きがあり、呟きとして表出してきます。

人は心に想像した事を具現化出来る能力がある。それが真実であれば、祈った結果が今の「叶っていない」現実だという事にもなるのです。

人の心の動きはとても複雑です。祈りの過程において、祈る意識がその複雑な動きの心に影響され、実は「祈っている事」自体が本人の意識しない処でぶれてしまい、結果として本人の意識とは異なる結果が出てしまう。すると本人は「祈りが叶わない」と嘆く。

こういう事でしょう。

つまり「祈りが叶わない」と言うのは、この様な自身の心の動きが理解できていないという事でもあるのです。

人の心には多重性があり、意識できない領域もあって、それが周囲と密接に関連性を持っています。だから単に「意識」だけの範疇だけで捉えている存在ではありません。

つまり「祈りが叶わない」というのも、実は本人総体の祈りとしては、叶っているという事なんだと僕は思います。

どうでしょうか。これが今、僕が考えている「祈りが叶う叶わない」事についての理由です。

そしてここから思うのは、人生の苦悩とは自分の意識とは異なる状況に置かれる事から始まったりもします。しかしその根本的な理由は、自分自身を本当に理解できていない事に起因するのであり、理解できれば自ずとその意義等も解るのではないでしょうか?

創価学会の御本尊とは「観心本尊」であり、この心を観じて理解するための本尊です。なにも祈りを叶えるための「幸福製造機」なんかではありません。

「祈りが叶わない」のであれば、御本尊の前に端座して、「何故叶わないのか!叶えて見せる」ではなく、自分が本来どうあるべきかを先ずは観じるべきだと思うんですけどね。
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