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想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   

【20161218】組織と信仰についての雑感

こんにちは(´・ω・`)

あと1週間程度で本年も終わります。
毎回書きますが、一年というのは本当に早いものですね。

さて、先日の事ですが、ある幹部と話をする機会がありました。
そこでその幹部は滔々と朝日新聞の記事に掲載されていた原田会長の談話について語っていました。

 ――池田大作名誉会長は88歳。最近は表立った活動を控えています。体調はいかがですか。
 「元気にしておりますよ。執筆活動などに専念しています」

嘘コケ!そんなもんでは無かろうに。

新・人間革命でも代筆者は全国に何名いるんだ??
また一昨年前だったかな?学園の卒業式に電話回線で激励を入れた時には博正氏が「通訳」に入らなければならんほど、呂律も回ってなかったというではないか。

だからここ数年、人前にも出てこれないのが事実だろう。
こういう事は、以前からマスコミにはリークされているし、そのリーク情報前提で朝日新聞も質問をしているのに、はなからそういった事を、対話した幹部は聞く耳をもちません。

「朝日新聞は穿った見方をする新聞だから意地悪な質問しかしない」

またその新聞記事も幹部からすれば「創価学会の会長が云う言葉なので嘘はない」という前提になってしまっているんですよね。
でもまあ、それを信じるのも「信仰」と言えば信仰の形式なんですよね。
だから創価学会の活動家は信濃町界隈からすれば「扱い易い、放牧羊」と同じなんですが。。

さて組織と信仰、これはどういう関係で捉えたら良いんでしょうか?

実はこの観点、先日の会則改正の際に飛び出してきた「創価学会仏」という観点の捉え方で解る事があります。少し前の記事でも触れた事ですが、再度この事について書いてみます。

◆創価学会の観点
創価学会は、大聖人の御遺命である世界広宣流布を唯一実現しゆく仏意仏勅の正統な教団である。日蓮大聖人の曠大なる慈悲を体し、末法の娑婆世界において大法を弘通しているのは創価学会しかない。ゆえに戸田先生は、未来の経典に「創価学会仏」と記されるであろうと断言されたのである。

ここで「創価学会仏」とは教団そのものが「仏」として、未来の経典(どんな経典だ?)に記されるとありました。
つまり人間が集団化した「組織」に対して「仏」を見る観点ですね。

◆法華経の観点
法華経においても一同がそろって「記別」を受ける処があります。以下のその経文を紹介します。

爾の時に世尊、学無学の二千人を見たもうに、其の意柔軟に寂然清浄にして一心に仏を観たてまつる。
仏阿難に告げたまわく、
汝是の学無学の二千人を見るや不や。唯然已に見る。
阿難、是の諸人等は当に五十世界微塵数の諸仏如来を供養し、恭敬尊重し法蔵を護持して、
末後に同時に十方の国に於て各成仏することを得べし。
皆同じく一号にして名けて
宝相如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊といわん。寿命一劫ならん。
国土の荘厳・声聞・菩薩・正法・像法、皆悉く同等ならん。
(妙法蓮華経授学無学人記品第九)

ここでは学無学の弟子ら二千人に対して「皆同じく一号にして名けて」とある様に、一人ひとりに対して「宝相如来」という記別を釈迦は与えています。
確かに多数の人が「同一の宝号(如来の名前)」を付けるという点でみれば、創価学会の主張する「創価学会仏」も、釈迦が妙法蓮華経でいう「宝相如来」も同じです。

しかし片や「教団」に対して「仏」という名称を付与する事に対して、法華経ではあくまでの「一人ひとり」に対して記別を与えているのです。

この差が理解できますかね?

創価学会が定める「創価学会仏」。
これは人が「創価学会」に在籍していれば「仏を構成する一人」となるという事を創価学会は主張していると同じであり、組織に在籍しなくなった途端に、その人は「仏を構成する一人」では無くなるという事を意味します。

一方、妙法蓮華経の観点では、極端な例を言えば釈迦の教団に在籍有無にかかわらず、一人ひとりは「宝相如来」という記別を受けた事には何ら変わらないという事です。

この今回の会則改正で見えてくるのは「組織に在籍すればこそ、会員は如来の構成員の一部足り得る」という、とても傲慢な組織論理が拝啓に有るのですが、この事に気付く会員はまったくもっていません。

「謗法とは法に背くという事なり法に背くと申すは小乗は小乗経に背き大乗は大乗経に背く法に背かばあに謗法とならざらん謗法とならばなんぞ苦果をまねかざらん」
(顕謗法抄)

「謗法」という言葉、個人的にはあまり好きではありませんが、ここで言うのは「大乗は大乗経に背く」とある様に、大乗仏教と言いながら、その大乗経の考えに背く事を言います。
妙法蓮華経は徹して一人の人間を大切にする経典であれば、その人間を軽んじる事は当然、謗法にあたるでしょう。

「五逆と謗法とを病に対すれば五逆は霍乱の如くして急に事を切る、謗法は白癩病の如し始は緩に後漸漸に大事なり」
(呵責謗法滅罪抄)

そして謗法が招くものが、当初は微々たる問題でしかないのですが、時間が経過すれはするほどのその問題点は大きくなっていくという事を日蓮も述べています。だから日興師は遺誡置文で以下の様に言っているんですよね。

「一、時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事。」

「時の貫首が己義を構えば(時の指導者が勝手な仏法の義を述べたのであれば)」というのは、信徒は用いてはならないとありますが、逆を返せば信徒は常に教義研鑽に勤め、その本義を常に思索をしている必要があります。

また釈迦は「犀角独歩(犀の角のように独り歩め)」と述べ、入滅に際して弟子の阿難に「自灯明・法灯明(自らを灯明として他に依らず、法を灯明として進めばよい)」と述べています。

そこから考えてみれば、仏法の信仰者は決して組織に頭を預けてはいけないのです。
常に研鑽し、自主独立の思想を打ち立てるために、日々努力をしなくてはなりません。

しかし今の創価学会は違いますよね。
それは「創価学会仏」を規定した会則を読むだけで十分解るはずですが、今の創価学会の活動家には、その様な事を望む事は出来ません。

組織信仰に陥ってはいけません。
「役職の使命と責任」の前に、仏法者としての「自覚」を問いたい処ですね。

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