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想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   

【20161226】信心の意義(個人的な感想)

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

今年もあと一週間。
来年は酉年、羽ばたき出る年にできるのでしょうか?様々思考を巡らせています。

信濃町界隈は大誓堂内にある「三代会長記念会議室」という豪奢な会議室で、明年に向けて打ち合わせをしたとありましたが、そもそも創価学会にあのような会議室が必要なのか?

「末世の僧等は仏法の道理をばしらずして我慢に著して師をいやしみ檀那をへつらふなり、但正直にして少欲知足たらん僧こそ真実の僧なるべけれ」
(曽谷殿御返事)


この言葉は第二次宗門問題の時、創価学会が宗門の坊主や寺族にぶつけていた言葉ですが、豪奢な会議室でふんぞり返る信濃町界隈は「俺は坊主では無いし、出家でもない!」と言い張るでしょう。

彼らには「在家」という感覚しかありません。
宗門と袂を分けたいま、信濃町界隈も出家同様な位置にあるはずですが、本人たちには「宗教でおまんま食べている」という自覚すら無いのです。

また末端幹部も「信濃町の本部には池田先生がいらっしゃる」と、信濃町界隈を信頼しきり、彼らの行いに、なんら疑問にすら感じないでしょう。

創価学会の活動家幹部たちは、あの第二次宗門問題で何を学び、何を理解したのか全くもって理解できません。

だから創価学会という組織が「頭破作七分」だと僕は思うわけで、こんな組織にどっぷりと浸かってはいかんと思ってます。

さて本題です。
昨今でも僕の元にちょくちょく相談メールが来たりします。そしてそこに述べられているのは深刻な悩みごとばかりで、僕からすればそんな会員のいる組織は一体何をしているのかと思います。

苦悩している会員一人にも寄り添う事が出来ない組織が世界を語るなぞ「臍が茶を湧かす」という他無いでしょう。

なんの組織なんですかね?
まあ僕から言わせれば選挙信仰組織でしかありません。だから会員も票を組織にくれれば良いと云うだけで、まったく何をしているのか。

そんな中、僕は人生の苦楽という事に思いを馳せることが多々あります。

何故ならば、僕の周囲でも創価学会の信仰を長年やっていて「なんだこの程度なのか?」と思う人が多くいるからです。

創価学会では「宿命転換」とか「絶対的幸福境涯」とか言って「三世永遠に崩れざる幸福」なんて、それこそ安物大バーゲンの様な言葉を乱発してますよね。

そんな創価学会で長年、真面目にやってきた人達の中で、本当に言葉通りだという人は中々見当たりません。

僕から言わせれば、世間より苦悩している人達が多くいるのではありませんか?

時間を費やし労力かけて、経済的にも貢ぎ続けて、世間と同じ様な幸福しか得れないのであれば、それは得策ではなく、人生の時間の浪費でしかありません。

まあ信濃町界隈からしたら大事な「お客様」なので、励ましはするでしょう。それこそ「池田大作ブランド」を縦横無尽に利用してね。

でも人生とは厳格なもので、そんなブランドの激励を得たとしても、ついてくる苦悩には何等差が出ることはありません。

では何故苦悩を強いられるのか、そこについて明確な事を語れる幹部が果たしてどれだけ居ますか?

そんな事をつらつらと考えてしまいます。

この人生の苦悩について、日蓮は「過去の正法誹謗の罪」と説明しています。しかしこれはどうなんでしょうね?

いま釈迦の人生について、書籍を読んでいます。そこでは釈迦の成道する時の内容はとても劇的な表現をしていました。

釈迦は菩提樹の下に座り、瞑想をしているなかで、一つ前の生、二~三前の生、十前の生、百前の生、千億前の生から幾つの宇宙の生成や消滅を経る中の生を思い返し、各々は何の名前でどの様に生きて、どの様に死んだかを振り返ったと言います。

大変雑多ですが、この様な内容の話でしたが、これらは初期の仏典に書かれていたとあり、真実は定かではありません。

ただ釈迦はその瞑想により、自身の過去を振り返る中、十二因縁や四諦といった苦の本質を悟ったとされてますが、そこを掘り下げ、新たな視点として大乗仏教では、法華経の久遠実成という観点を述べたのではないかと思います。

人々は元来、仏である。
仏とは全てを知悉し、縦横無尽に生きる存在で、人々を導く存在でもあります。

端的に言えば法華経の久遠実成は、全ての人々は元来、その様な存在だと述べているのです。

さてここで少し話を変えて、昨今のスピリチュアルな思想に目を転じましょう。
特に西欧で盛んなスピリチュアルの話、またニューエイジな観点では、私たちはこの世界に「学び」の為に生まれてくるという説が多くあります。

細かい文献はさておいて、僕も幾つかの書籍を読む中で、ほぼ同じ方向性の話が大半をしめていました。

それは仏教でいう「中有」の時には、なんら苦悩もなく、この世界の成り立ち等、全てを理解していた。しかしこの世界に生まれでる際、自分自身の魂の成長の為に、自分で人生の課題をあえて設定し、まるで鎧姿を纏うように窮屈な肉体の中に入り、生まれ出てくると言うのです。

その際には記憶を消されて生まれてくるので、課題を自分自身が設定した事なんて覚えていないと云うのです。

最近の西欧でいう「カルマ(宿業)」というのは、この生まれでてくる時に自身が設定した課題(苦悩)を指し示すことが多く、従来から日本に根付く古代インドの輪廻転生の宿業論とは異なります。

この思想ですが、大乗仏教の法華経にある「久遠実成」とは、とても親和性があることに僕は気づきました。

久遠実成では釈迦も元来「仏」で、それこそ広大無辺の知慧を持ち、なんら苦悩する必要もないのに、あえて仏法を学ぶために様々な姿で生まれ、ある時は虎に食われ、ある時は鬼にこの身を捧げ、皮を剥ぎ、肘を蝋燭がわりに灯明点し、長い間、生死を繰り返しながら生きてきたと言うのです。

「我本行菩薩道」という法華経の言葉には、その事が説かれているのです。

「願兼於業(願ってあえて業を持つ)」
これも同様な事を述べてます。

詰まるところ信心の意義とは、この様な事を確信することにあるのでは無いでしょうか?

何も生きている事が楽しくてしょうがないとか、偉大なる師匠と「在在諸仏土・常与師倶生」なんてものが目的ではないと思うのです。

「では日々の勤行とか、御本尊とかはどんな意義があるのか?」

そんな事を問われそうですが、それは次回に述べたいと思います。
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