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想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   

【20170115】日蓮教学、また仏教への向かい方

こんにちは(´・ω・`)

いやー最強の寒波が襲来(?)という事で北海道をはじめ東北や北陸地方で大雪になっているようですが、皆さん大丈夫でしょうか?

近年、この様な昔で言えば「天変地夭」ともいうべき気候がよくある感じがします。
現代でこそロジスティックな面、また社会の構造やハード、また情報面で仕組みがしっかりと出来上がっている事もあって、大災害とはなっていませんが、これが昔の時代。例えば鎌倉時代であれば、まぎれもなく大きな天災になっていたのではないかと思います。

昨日からの冷え込みで、僕なんかは家に閉じこもっています。
外はとても寒く、外出する気がおきません。

さて、そんな事は兎も角。

先日の事、宗教学者の島田裕巳氏のツィッターで以下の発言がありました。

「創価学会の新年1月の座談会で使われる日蓮の遺文は、「生死一大事血脈抄」だけれど、これは写本しかないし、内容から考えても「偽書」。日蓮は、真筆の遺文で「血脈」なんてことばを一度も使っていない。いい加減、日蓮正宗の教義から本当に脱した方がいい。」

確かに今月の座談会御書は生死一大事血脈抄です。
そして日蓮の御書を読んでみると確かに「血脈」という文言を検索すると、この御書以外には本因妙抄、百六箇抄、身延相承書、あとは立正観抄という御書のみにあり、例えば五大部といった重要だと言われる御書にはありません。

そこから言えば島田氏の御指摘とおり生死一大事血脈抄は偽書という疑いが濃厚であり、かつこの「血脈」という言葉も「日蓮正宗の教義」という事が云えるかもしれません。

しかしかといって「偽書の疑いがある⇒不要」という、短絡的な言葉で切り捨てるのも如何なものかと僕は思います。

確かに日蓮正宗の歴史を見れば、富士山麓の山寺であり、一時期は人材も枯渇する中で、地元権力者の縁故を頼り「稚児法主」を擁立したり、また要法寺から法主を入れたりする中で、どうしても自宗派の権威づけを行う必要から、日蓮の御書に「加筆」をしたり、また日蓮からの「相伝書」という事で、分献をでっちあげたりしてしまい、結果として現代において日蓮の教学とは何たるかすら見えなくしてしまいました。

その闇たるや、とても深いものであって、現代においてはハッキリ言って「手を付けられない状態」であると言っても過言ではないでしょう。

ただこの事については、何も日蓮教学に限った事だけではなく、仏教そのものにも同様な事があるのも事実です。

現在、僕は釈迦の生涯にかかわる文献を少しづつ読み解いていますが、仏教経典においても釈迦を尊崇するあまり、様々な表現が混入し、その実像が見えなくなっています。

「法華経非仏説論」というものも出ていますが、実際に釈迦が自らの口で法華経が説かれたという証拠は無く、この法華経自体も大乗仏教運動と同時期に成立しています。

釈迦が始めた仏教教団も僧侶の特権意識と、民衆を見下した組織となり硬直化する中で、在家信者であっても「仏になれる」という、当時の人々の想いから大乗仏教は発生し、その最高峰の経典として法華経が成立したと言っても過言ではないでしょう。

この様な背景を考えてみると、単に「日蓮が説いていないから」とか「偽書の疑いが濃厚だから」という事だけで、その御書を排斥するものいかがなものかと思ったりします。

重要な事は、日蓮の言葉をくみ取る側として、日蓮の志を考えながら御書に向き合い、そこから日蓮の説いているという教説を読み取るという事では無いでしょうか?

だから僕は「偽書」の疑いがあっても、それを単純に排斥するのではなく、その中身に説かれている内容が「何を指し示し」しているのかを考え、そのうえで御書等については取捨選択するものだと考えています。

そしてこれは仏教に対しても同様な事が必要でしょう。

つまる処、現代において日蓮を学ぶ、また仏教を学び取るという事は、その教説の内容を自身の中で解釈して取捨選択できる「インテリジェンス」を必要とするのだと思うのです。

単純に「御書」に書かれているからとか、誰それが言っているからとかではなく、自分としてその教説の内容を自分自身の言葉で語れるのかにより取捨選択し、自身の哲学として吸収する能力が必要なのではないでしょうか?

「あひかまへてあひかまへて信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給うべし、行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」
(諸法実相抄)

この日蓮の言葉には、そういった思いが隠れているのではないでしょうか。
ちなみに、ここでいう「行」とは「学会活動」だとか単純な事ではありません。それは日々の祈りであり、その祈りを元にした生活です。そして「学」とはそういった事を通して「学ぶ」という事全般を指していると捉えるべきです。

よくよく思索をしたいものですね。

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