忍者ブログ

想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   

【20170918】内道変じて外道となる

こんにちは(´・ω・`)

この三連休、本当は子供を連れてどこかへ行こうかと考えていたのですが、台風18号の影響で、結局は家の中に雪隠状態となってしまいました。
まあ個人的には仕事関係で勉強しなければならない事もあるので、その時間を取る事が出来ていますが、やはりこの天気は憂鬱になりますね。

さて先日の記事「【20170915】七重の相対(五重の相対)考察」を読んでいただいた方からメールを頂き、いまの創価学会の中で行われている幹部指導の実態についての疑問点を頂きました。
今回はその回答ではありませんが、その件について少し記事を書いてみます。

「難しい問題に出会ったとき、年配の婦人部の人は「もう必死で御題目をあげるしかないだよ」とよく言います。題目をあげて問題に取り組むのはいいのですが、題目をあげる事しか思いつかず、それ以上考えるのを放棄してると思います。」

この文面は頂いたメールからの一部抜粋となります。

僕が青年部時代からこういった指導というのは行われていました。斯くいう自分も青年部時代に家族の大問題に出会ってしまい、藁をもすがる思いで当時の男子部の先輩の家を夜中に訪問した事があります。
当時、その先輩は深夜1時近いのにも関わらず、快く家に上げて頂き、僕の想いや考えている事を一通り聞いてくれて、最後に一言「もうお題目しかないだろう」という言葉をもらいました。
それからの僕は毎晩、帰宅すると深夜まで一人仏壇の前に座って深々とお題目を一時間以上唱える日々が続きましたが、一か月ほど経過した時に、状況が急転直下で変化して問題を乗り越えたという事がありました。

その事を先の先輩に報告したところ「本当に良かったなー」と自分の事の様に喜んでくれた時の先輩の顔は未だに僕の記憶に残っています。
(余談ですが、この先輩も後に信濃町界隈の中央幹部に反論した結果、降格人事をくらい、組織から消えてしまいました)

人が悩みを抱えてきた場合、どの様な言葉で相対するのか、そこには常套句はありません。
出てくるのは恐らく、その人に対して日常からどの様に心の中で考えているのか、その人に対する想いにつきるのではないかと思うのです。

「昼夜常精進 為求仏道故 此の文は一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり。」(御義口伝下)

御義口伝は口伝だから日蓮直説ではなく偽書だとも言われていますが、僕自身はこの言葉には真実があると考えているのも、こういった事からです。

この悩んだ相手にかける言葉。
ここで特に気を付けなければならないのは、安易な言葉は慎むべきという事ではないでしょうか?

先の拙ブログの記事で「内外相対」について書かせてもらいましたが、仏法とは内道であり、全ての事象の原因は自身の内にあるという事に気付かなければならないという事です。
よく創価学会の中で言われる事ですが「御本尊様にお任せすれば大丈夫。とにかくお題目を上げなさい」という言葉。これも本来は気を付けなければならないのです。

本来、内道という事で言えば、その問題が如何なる原因が自分の中にあり出会ったのか。そこについてしっかりと相手に理解をさせなければなりません。またこの原因ですが、単なる宿業論という事ではないという事も相手に理解をさせる事も大事な事なのです。

いまも創価学会の中で良く言われている「過去世の謗法(宿業)が原因で現在の苦しみがある」というのは、実は婆羅門の教えであって、釈迦もその思考は否定していました。
それが一番の根拠は「久遠実成」という法理です。妙法蓮華経が何故、大乗経典の最高位の経典であるかはこの法理があっての事であり、要は久遠という計り知れない昔、釈迦は既に成仏していたにも関わらず、様々な経典で過去世の姿として説かれてきた様に多くの苦悩を受け、そこで常に法を求めて菩薩の修行に励んだという事はそういう事ではありませんか?

日蓮もこの事については開目抄で以下の様に述べています。

「経文に我が身普合せり御勘気をかほればいよいよ悦びをますべし、例せば小乗の菩薩の未断惑なるが願兼於業と申してつくりたくなき罪なれども父母等の地獄に堕ちて大苦をうくるを見てかたのごとく其の業を造つて願つて地獄に堕ちて苦に同じ苦に代れるを悦びとするがごとし」
(開目抄上p203)

つまりいまある苦悩には理由と目的があり、そこに対して直視する事が仏法では重要な事であり、譬え日蓮の文字曼荼羅に祈ったとしても、その原因を自分自身の外にあると認識させ、且つ自分とは別の御本尊という自分以外のスーパーパワーを持つ存在に依存させてしまうのであれば、それは内道ではなく外道の教えとなってしまうでしょう。

以前の記事にも書きましたが、僕の相談のメールが来て、会ってみるとお題目を唱えて一時期は改善したように見えていても、時がたてば同じ苦悩にめぐり逢い、そこで堂々巡りを始め、最終的に仏法不信となっている人の多くが、この外道の信仰に陥っていました。

「御本尊ちゃま~、お願い、御利益で祈りを叶えて!!」

こんな祈りは外道の祈りであって、仏法の祈りではない。
僕はその様に考えています。

この事について天台大師も「道士の心を以て二教の概と為し邪正をして等しからしむ義是の理無し、曾つて仏法に入つて正を偸んで邪を助け八万十二の高きを押して五千二篇の下きに就け用つて彼の典の邪鄙の教を釈するを摧尊入卑と名く」とある様に、この様な祈りでは、見た目は仏法の様ですが、何ら外道の祈りと変わる事の無い信仰として仏法を誤解させてしまうのです。

苦悩に悩む人に対して、どの様な言葉を掛ければ理解してもらえるのか、そこは解りません。
単刀直入に「願兼於業」という事を話しても、相手は理解できないかもしれません。だからこそ、相手をどれだけ想い「抜苦与楽」の心をもって対応していくのか。

そういう「心」を持った幹部が少なくなりましたね。

仏法とはどこまで行っても内道なのですから、こういった視点を忘れてはいけないと僕は思いますよ。

PR

プロフィール

HN:
運ちゃん
性別:
非公開

フリーエリア

バーコード

ブログ内検索

P R

忍者アナライズ

カレンダー

11 2017/12 01
S M T W T F S
1 2
3 4 6 7 9
10 16
18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

最新コメント

[10/21 中]
[05/03 NONAME]

忍者カウンター

Copyright ©  -- 想学談林-管理者の部屋 --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]