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想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   
カテゴリー「未選択」の記事一覧

【20170720】破邪顕正する前に

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

暑い日々が続いてますが、皆さんは体調管理されてますか?
熱中症もそうですが、この天候で高齢者などは脳血栓なんかも増加するようですので、こまめな水分補給を心がけて、乗り切りましょう。

さてタマにネットで見る「破邪顕正」という言葉、特に元創価学会の活動家だった法華講の人や、創価学会でも一部鼻息の荒い人が使ってますよね。

「邪を破折し正しきを顕す」
こんな意味なのでしょうが、自分の信じる組織が正しいと思い込んで、他の組織の論理的な矛盾点を突き、黙らせるという事なですね。

最近思うのですが、人は「教えが正しい」という事だけで、宗教は信じませんよね。
そこにあるのは人間関係であったり、はたまた信仰体験であったり、あとは個々の人間としての様々な想いであったり。そういう事で宗教は信じられています。

だから相手を論理的に黙らせた処で、その相手が自分の宗派に鞍替えすることはありません。たまにそこから宗派替えをする人もいますが、それは極僅かな人だけの事です。

日蓮は「法華折伏・破権門理」という言葉を述べ、徹底した折伏を確かにしていましたが、この対象はあくまでも当時の仏教僧に対して行い、それに連なる幕府関係者に対して行っていた様に思います。

また門徒にあっても折伏を確かに行っていましたが、考えてみれば当時の人々は何らかの宗派の門徒であったことから、折伏をしていたものと思われます。

そして創価学会。こちらも特に戦後の復興期には「折伏大行進」とやってましたが、これはどちらかと言うと、とにかく「日蓮正宗・創価学会は正しい」と相手の言葉を聞かずに捲し立て、なかば強引に組織勧誘を行う事を言っていて、本来の折伏とは少し違っていた様にも思うのです。

その実体は「小樽問答」の音声データを聞けば明確なのですが、創価学会ではこのデータを公開してないですよね。

この「折伏」とか「破折」というのは、その前提として「自らの教えは絶対に正しい」という事があります。

例えば日蓮は「法華経こそ正しい教え、釈迦の直説」と信じ、確信していたからこそ行った行為ですが、考えてみたらそれって日本仏教に閉じた話であり、それは大きな枠組みで見ても日本に伝来した大乗仏教の枠組みの中の話でしかありません。

そもそも仏教を見てみると、そこには「空観」という思想があって、物事とは全て縁起で成り立っていて、そこに絶対的に存在するモノなんて無いという考え方が基本になっています。

あの「四十余年・未顕真実」という有名な言葉が書かれている無量義経でさえ、以下の言葉があるのです。

「菩薩、無量義を修学することを得んと欲せば、応当に一切諸法 は自ら本・来・今、性相空寂にして無大・無小・無生・無滅・非住・非動・不進・不退、猶虚空の 如く二法あることなしと観察すべし」

つまりこの無量義を修学するのであれば、諸法(全ての事象)は過去から未来へ向けて持つ性質や現れる姿は全て縁起で成り立ち実体の無い「空」でり、それが安定しているのであり、それが真理なのだと観察しなさい。という事です。

現に創価学会もそうですが、法華講においても主張している「正義」とは、富士門流大石寺教学という枠内に止まった正義論であり、それ以外に通じるものではありません。また創価学会が後生大事に語る池田哲学にしても、その枠内を外れる存在では無いのです。

こと創価学会で言えば、逆にそこを近年の教義改正によって壊してしまい、よりグズグズだから法華講にもやり込められてますよね。

例えば創価学会から法華講に移ったとしましょう。すると法華講では「相伝書」の類いを使って自宗派の正統性を語ります。有名処は「偽本尊論」でしょう。しかしこれは日蓮の述べたこと、宗門の歴史を調べてみると、後世に自分達に都合が良いように作られた理論となっているのが解ります。

また宗門から創価学会に移ったとしましょう。そうすると宗門の言う「偽本尊」の論理的な稚拙さを教えられますので、そこの矛盾は理解出来ますが、逆に創価学会のおかしさは教えられず、やはり捏造された「創価三代麗しの血脈」なんて教えられたりします。

双方が双方ともに自分達の「窓枠」を通して、相手の矛盾点を突きまくる。これが「破邪顕正」の実態ではありませんか?

今の時代、そんなことをしている場合ではないのですが、まあ人というのはとかく相手を組伏せることで高揚感が得られるので、そういう言葉が消えることは無いのでしょう。

もっと広い視野で学べれば良いんですけどね。
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【20170714】仏の位置付け

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

仕事をしない居眠り社員のケツ拭きばかりで、毎日仕事でストレスたまりますんで、たまに午後出社して気分転換を図ります。

さていきなりですが、仏教に於て目指される「仏」とはなんなのでしょうか?

日本の中では長年にわたる葬式仏教の影響もあって、死んだ人を「ホトケ」と言いますが、本来の意味で言えば「「仏」とは、仏教における最高の存在であり、悟りを開いた者である仏陀(如来)とする(狭義の仏)。」(引用元:Wikipedia)なんですよね。
ここでいう「悟り」とは宇宙の森羅万象の根本を理解できたという見方もありますし、人間の持つ四苦八苦の根本原因を知りったという事と言えるかもしれませんが、実際にその詳細については、明確に仏典の中には書かれていないようです。

この世界の物事を全て文字で表す事は不可能で、そこを考えてみたとき、悟りという事について文字として明確に書かれていないのは致し方無いことだとは思います。

この「仏」ですが、原始仏教においてはゴーダマ・シッタールダ一人を指し、仏はこの世界に一人でしたが、大乗仏教に於ては三世十方に様々な仏国土があり、そこにいる様々な人々に対して、様々な法華経を説く仏が居るという考え方に変わりました。

要は時間的・空間的に縛られることなく、この世界は仏が沢山いて、そこでは人々に応じて様々な法華経が説かれていると解釈されたんですね。

しかしここで法華経と言いましたが、それ以外の教典では、仏は目指すべき存在であり、尊敬すべき存在でした。そして人々は仏になれるが、それには長遠な修行を勤め抜かなければなれないという存在でした。

しかし法華経の本門にて、久遠実成が明かされた段階で、実は人々は元来仏であるという概念に大きく変化して、「迷うを衆生、悟を仏」という概念に大転換したとも言えるでしょう。

そしてそこから派生したのが「本覚思想」というものであり、究極いうと「元々仏なら修行なんて必要ないじゃーん」という考え方まで出てきてしまったのです。

創価学会では「仏とは生命の事なんだ!」という戸田会長の悟りが基本となってます。これは一人ひとりの中に仏の性質が元来備わっているという理解を広げるには、ある意味で適切な表現であったと思いますが、では「仏とは何?」という事については、やはり何らそこには回答していません。

第三代の池田会長は「生きている事、それ自体がたのしい境涯」を成仏した境涯と言ってましたが、いま人前に出れずに前回の都議選でも会員を票集めに鼓舞するためだけに「生かされている」自身を、果たして彼の御仁は楽しんでいるのでしょうか?

このあたりのヒントについて、実は臨死体験者の中に見つけることが出来たりします。

「プルーフ・オブ・ヘブン」を著作したアメリカの脳外科医、アレクサンダー・エベン氏は、自身の著作の中で、臨死体験中に様々な思考が自分の中に駆け巡り、言葉に表現出来ないが、多くの事を知り得たとも述べています。
また「現代の神話・輪廻転生」でJ.L.ホイットン氏は、逆行催眠による臨床例からも、同様の言葉を多く残していました。

また「神との対話」の著者、アメリカ人ニール・ドナルド・ウォルシュも、その著書の中で人間の本来あるべき意義を「経験」とし、人は神と同じであり別ではないと書いていて、やはり「全てを知る立場である」と述べています。

また「チベット生と死の書」を著作したチベット僧のソギャル・リンポチェ氏も、人が亡くなるときには自身の中のある「真理」と出会うと述べ、チベット仏教に於て臨終を大事にするのは、その真理と知り、同一化出来るからだとも述べているのです。

少し変わった処では「宇宙人ユミットからの手紙」(ジャン・ピエール・プチ、 理学博士 工学博士 国立パリ高等航空宇宙大学 プリンストン大学教授 フランス国立科学庁主任研究員)の中で、ユミットの死生観に論究、そこでは宇宙意識という大きな存在から、一人ひとりが分化して、経験を得るために「この世」に誕生しているとあり、それはアメーバの触手とアメーバの関係だという様な話もあったのです。

こういう幾つかの文献等から考えるに、人間また生命の存在というのは、実に深淵かつ壮大なもので、そういうモノを一人ひとりが内在しているという事は言えるのでは無いでしょうか?

では何故にそんな存在である一人ひとりが、人生に悩み、苦しみ、ある人は殺し、ある人は殺されするのか。

人生の意義や目的。
そういう事を、僕はこの生きる中で経験し理解して学ぶ事だと思いますが、そういう事についても理解する。そして理解した人を仏と呼んでも良いのかもしれませんね。

ちょっと難しいテーマでしたかね?

【20170708】組織の諌め方

こんにちは( *・ω・)ノ

昨日は職場の知人と呑んでました。
面白いもので職場関係の知人と接する方が、何かと触発を受けたりするし、社会の中で知り合った人の方が、何かと良い付き合いができたりしますね。

僕が分県青年部長をしていた時、携帯電話の電話帳には300件を越える連絡先が入ってました。今では精々十数件。当時は殆んどか創価学会の人間でした。

でも創価学会の中の付き合いの方が、表面的な付き合いだったと思いますよ。

さて今日のお題。
件三名のブログを見ましたが、彼らは沖縄に行ってたんですね。まあマスコミに露出する機会も増えて、さぞかし多くの人が集まったのかと思いきや、それほどでも無いように見受けられました。

彼らもそうですが、今の創価学会の姿を諌め、極悪幹部を糾弾し、責めまくることで創価学会を正常化したいと考えている人も多いのでしょう。

でも果たしてそうなんですかね。
日蓮はこの国に正法を打ち立てて、国を安寧にする事を目指してましたよね。確かに当時の仏教界悪侶を舌鋒鋭く責めて、それにより悪侶が正面からでは太刀打ち出来ないという事で、幕府の身内に泣きついて、日蓮に様々な迫害を加えました。

この姿は、いま創価学会を立て直そうという人達に近いものがありますよね。

でもよーく考えて見て下さい。
日蓮は悪侶を責める、それ以前に法華経と御題目という法門を打ち立てました。つまり「法の確立」という事を初めに行ったのです。

いま創価学会を諌め、立て直そうという人達の中で、こういった観点で考える人は皆無だと思うのですが、どうでしょうね。

創価学会は確かにおかしくなりました。
それはここ十年から十五年というタイムスパンの中で顕現してきたことですが、その前に思想的なオカシサが実はあったのではありませんか?

思想的な狂いというのは、そう簡単に表の姿には出てきません。これについては日蓮も語書の中で述べている通りです。

「五逆と謗法とを病に対すれば五逆は霍乱の如くして急に事を切る、謗法は白癩病の如し始は緩に後漸漸に大事なり」
(呵責謗法滅罪抄)


五逆罪とは大逆の事であり、これは仏法以前に大問題の犯罪行為です。

一方の謗法とは法の理解を間違え、とる行動を間違えた事を指しますね。つまり今の創価学会のオカシさとは逆罪では無く謗法に当たります、それはつまり「最初は緩くあり、時が経つことにその問題が顕現化して大事になると言うのです。

今の創価学会の姿は、まさしくこれではありませんか?なぜ気付かないんですかね?

謗法であると言うなら、極端な話、牧口会長の考え方とて問題を内在していたという事ではないでしょうか。まあそもそも牧口会長が信じた大石寺の歴史や教義が日蓮のモノとは異なることが、最近になって創価学会でも理解してきたので、教義改正なんてのもやり始めたんですよね、組織の裏でコソコソと。

こういう事を組織の中であからさまに語れない事も問題なのです。

仏法の言葉に「無懴」という言葉がありますが、間違えたならばそれを堂々と組織内で語れること、それが一番大事な事なのですが、そういう姿勢を組織として取れない、また取ることが出来ない事が大きな問題でしょう。

確かに信濃町界隈の行動、知れば知るほど怒りを覚えますし、許せないという気持ちになります。しかし日蓮は言いました。

「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには。」
(立正安国論)


原田氏や谷川氏、責められるべき幹部は山ほどいるでしょう。しかし彼らは所詮、枝葉でしか無いことを理解すべきで、彼らを生み出した組織文化やその組織文化を作り出した思想を責めるべきなのです。

何故なら創価学会の「思想」こそが一凶なのですから、そこを「禁ぜんには」という視点に立たねば本来の「諌める」事にはなり得ません。

件三名の様に元々信濃町界隈にいて、その界隈から追い出された人間。しかも元幹部でありながら、そういう事すら認識できず、稚拙な教義の事や創価学会の歴史を語れない人間が、職場復帰して「組織を建て直す」と云う言葉を信じて、その元に集まって「懐古主義」の様に語り合ったとて、そこにどれだけ意味がありますか?

創価学会への諫言というのであれば、単に信濃町界隈の幹部を「極悪」として徹底的に責め抜くだけでは出来やしない事を理解すべきです。

なぜその様な組織を信じてしまったのか、それはどんな組織でどんな歴史を持つ組織だったのか。そしてそこはどんな思想を持っていたのか。

責める前にその事に思いを馳せ、見つめ直さなければならないのです。

僕はそう思いますよ。

【20170707】信心とは何ぞね?

こんにちは( *・ω・)ノ

北九州各地は甚大な被害状況となってますね。お住まいの方々のご無事を祈るばかりですが。

日蓮が立正安国論を著した契機は正嘉の大地震でした。当時、日蓮は鎌倉に居てこの震災の惨状を目の当たりにしたときに、痛切に感じたのは、彼の文章の冒頭の客人の言葉だったのでしょう。

「観れば夫れ二離璧を合せ五緯珠を連ぬ三宝も世に在し百王未だ窮まらざるに此の世早く衰え其の法何ぞ廃れたる是れ何なる禍に依り是れ何なる誤りに由るや。」

太陽の運行も星の運行も正しくあり、過去に応神天皇は百代守るとも言われていたのに、この世界の衰え方や法の荒み方はどういった事に依るのか。

日蓮には心の中に、仏教僧としての疑問とその原因に対しての確信が有ったのでしょう。それを確かめる為に駿河の実相寺で一切経典を閲覧し、立正安国論としてまとめ、時の幕府の実権者である最明寺入道(北条時頼)に上呈したのでしょう。

この日蓮の著した立正安国論が金科玉条と僕は考えてませんが、信仰者として社会とどう向き合うのか、そこに対しての手本だと思ってます。

信仰する人は、個人的にも様々な問題を抱え、それを信仰で乗り越えようとしている人も多く、また信仰とは個人の内面の事なので、やもすると社会と隔絶したものになりがちです。
しかし日蓮は自身の考え方を表明し、それを理立てで述べました。しかも論というのに、敢えて対話の形式を用いてです。

「今の世の中はここがおかしい」

そういう視点を持つ事は極めて大事なことかと思います。

翻り創価学会ではどうか。
どうやら「都議選大勝利」で組織内は一息入れた感じの様です。昔の様に人がいませんから、やはり「本陣東京に!」なんてのも、活動家幹部には大きな負担だったのでしょう。

創価学会の世界ではよく有ることですが、選挙期間中には地元議員からの受け売り言葉で政治を語り、公明新聞などの内容や、議員の実績ビデオを見て、それなりに語りますが、選挙が終わった途端に政治には一斉に無関心になります。

要は僕がいつも言うことですが、票集めが創価学会にとっての信仰活動であり、投票日はその信仰活動の結果を確認するだけ。そして選挙が終わったら政治はもう信仰活動では無くなる(票集めが終わる)ので、一気に関心が無くなるんです。

先の日蓮と今の創価学会、どれだけ解離しているのか、ここだけ見ても解りますよね。

もう数年経過しましたが、東日本大震災の傷はまだ癒えてません。福島第一原発の事故も終息してません。熊本地震でも復興途上にも関わらず、今の日本は2020年に東京オリンピックへ向けてお祭り気分。
北朝鮮もやばいけど、今の日本の政治の動きもとてもヤバイのに、そんな事を「人間主義」という創価学会は、何らメッセージすら発信してませんし、活動家幹部もそんな意識すら持ってません。

「極悪への祈りは極善に通じる」

かつて永遠の御大はそんな事を言ってましたが、創価学会に取っての極悪とは、安保法制に反対し、共謀罪に反対し、そんな事を進める自民党の下駄の雪の様な公明党を批判し、私腹を肥やす信濃町界隈を批判する会員が極悪になっているようです。

「信心」なんて言葉を使いますが、信心とは信仰をする心の事であり、今の創価学会に着いていっては、この心はどこに向かされるんでしょうね?

「今回の都議選は信心で勝利しましょう!」

こんな言葉は国内の組織末端で語られていたのですが、今の創価学会の「信心」とは何ですか?

単に票をかき集める事を言いますか?それとも功徳と呼んでいるご利益ですか?

その「心」が何処へ向いているのか、確認をして欲しいモノですね。

【20170705】人間の感受性と宗教

こんにちは( *・ω・)ノ

台風が来ましたが、これで関東の水瓶は大丈夫なのでしょうか?
なんでも関東近縁のダムでは水位が低く、このままで行けば取水制限も有りうるという話を聞きました。

あとこの間の東京都議選の結果、さすがは公明党ですね。「自公連立」が前面に出ると、今の自民党の有り様から煽りを食うところ、手のひら返しで「都民ファースト」に与することで、そのリスクを回避、議席を確保しましたよね。
一方の自民党は己の撒いた事から歴史的な大敗を喫してしまいました。

公明党は「国政と都政は別」とシレッとした態度で今後も自民党と国政では協力関係を取ると言ってますが、考えてみれば自民が今回の歴史的な大敗の影に、国政における自民党の不甲斐なさが有るわけで、その自民党とも今後も仲良くとかいう姿勢で、果たして今後も自民党と上手くやれるのか、またそれは国民を裏切る行為にならないのか等、様々な事を考えてしまいます。

でもまあ創価学会・公明党としては「得意絶頂」の時期なんでしょう。歴史を考えたとき、これからの公明党・創価学会が実は見物なのかもしれませんね。

さて今回の都議選において、元青年部幹部だった人の苦言がマスコミに取り上げられました。これに対して内部のある筋では「有名」な御仁がTwitterで呟いてましたね。

後閑由治
「ダメ人間の断末魔。
現在61歳ということは35歳位で青年部を卒業していた年代なのに、肩書きは「青年部元幹部」つまり「壮年部での役職が無かった」のか。
2年前に会社を倒産させ、今は病気で自宅療養。要するに「安保法制の頃に学会批判を始めたら会社は潰れ病気になった」ということか。 https://t.co/gFAvSTQK7p


そもそも政治信条とは、個人に与えられた権利であり、その信条に基づいて意見を発した人を、その信条ではなく現在の状況についてあげつらい「ダメ人間の断末魔」等という事、これはどうなんでしょうかね?

信仰者としてもそうですが、そもそも人間の資質としてどうなのか、大いに疑ってしまう言動です。

会社の倒産や病気というのは、これは何人にも有りうる事であり、けして他人事ではありません。
何せ新たに百社立ち上げても、十年後には二~三社しか残らないというこの社会。しかも会社の倒産とは経営者の心と体、そしてその人への経済的なダメージや社会的なダメージは、語りきれないものがあります。

僕が青年部の頃、創価学会幹部の会社が倒産し、借金踏み倒して夜逃げしたという話を度々聞いたことがありますが、それについてもこの御仁は同じ様に「ダメ人間の断末魔」と言うのでしょうか?

ましてや「安保法制反対」と会社の倒産に、一体なんの関係が在るというのか。

要は創価学会や公明党に従順ならば「殉難者」といい、少しでも反論する人間は「ダメ人間の断末魔」と言うわけですよね。

それって人間としてどうなんでしょうか?

こういう傾向、何も創価学会に限った事では無いかもしれませんが、創価学会を始め富士門流には強く出てくる人間としての傾向で、やはりその淵源には日蓮の言動や、創価学会に於いては永遠の指導者である池田会長の言動にあるのでしょう。

ただ日蓮にしても池田会長(はどうだか知りませんが一応挙げておくとして)も、弱り目の人に対して畳み掛ける様な心を持っていたのかといえば、違うと思います。しかし人が亡くなれば、残した言葉がその人となりを作り出すので、その誤解を当たり前として、こんな無惨な言葉を投げ掛ける「後継者」が出てくるのでしょう。

信仰とは自身を見つめ、他者を見つめる行為でもあるのですが、こういう言動を吐き出す勘違い人間を大量生産してしまうという事も在るんですよね。

それは「人間」を見ずに組織を見て、教えを教条的に理解する人間ほど、その傾向が強くなってしまいます。

要は人間やその心、そして生命に対する想像力が欠如しているという事なのです。

この傾向は何も特別な事ではなく、信仰者ならば誰でも陥りやすい事なので、僕はこの「後閑由治」という人物を他山の石とはせずに、自分自身を律して行きたいと思いましたね。

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