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想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   
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【20170422】創価学会と法華講の共通点

こんにちは(´・ω・`)

昨今のツイッターは何かと議論が巻き起こっていますね。
そんな中で最近では僕自身「我見」と指摘されている事もあったりしましたが、その発言をしている人物が創価学会の方で、恐らく現在の創価学会に対してアンチ創価の立場を持たれている人の様です。

まあツイッター上での発言の仕方は基本「自由」な事だと思いますが、言葉遣いに礼節が感じられないのは、これはこれでとても残念な事です。しかし一方でツイッターは公開の場でもあるので、そこでの礼節は弁えなければならないマナーであると思います。

「公場にして理運の法門申し候へばとて雑言強言自讃気なる体人目に見すべからず浅�しき事なるべし、弥身口意を調え謹んで主人に向うべし主人に向うべし。」
(教行証御書)

この御書は、日蓮が弟子の三位房に与えた言葉で、三位房という弟子は頭脳明晰で弁舌巧みであった事から公場での対論において、しばしば「自讃気な姿勢(自分が勝ち誇る様な態度)」を見せた事があるのでしょう。その事について日蓮が指摘をしているのがこの御書なのです。

僕が広宣部の時、先輩からよく注意されたのは、その姿勢や言動についてでしたが、昨今の創価学会でも特に僕が「師弟原理主義者」と呼んでいる人達には、こういった姿勢が著しく欠如した姿が目に映ります。

これは池田会長が過去に「善無畏三蔵抄」を講義した際に「たとえ、強い言葉であっても、人を救えば真実の言葉であり、柔らかい言葉である。たとえ、柔らかい言葉であっても、人を害すれば偽りの言葉であり、強言である。」と述べた事を、「相手を侮蔑しようが何をしようが、絶対に正しい創価学会を守る言葉であれば構わない」という様な理解として広まった事に原因があり、それは言い換えれば池田会長の責任でもある訳です。

この点は創価学会の活動家であとうと、誰であろうと気を付けなければなりません。

さてそんな事とは別に、実はツイッターの中の発言で、とても気になった発言がありますので、ここで少し紹介したいと思います。



ここでは「自分のかってな考えで、仏法の教えを判断することは、謗法ですよ」という発言がありました。この発言をされている方は創価学会の会員です。

僕はこの発言に少し驚きを憶えました。

以前、これは今から二十年ほど前ですが、当時は第二次宗門問題の最盛期ともいうべき時代で、僕の地元の圏の中でも、法華講青年部が会員宅を無差別に訪問し、脱会を迫るという事を繰り返していました。
その為に僕は法華講青年部の責任者(青年部長)と会う事にして、少し対論をした事があります。

法華講の青年部長から最初に言われた言葉が「創価学会は誰のご指導を受けて御書を拝読しているのか?」という事でした。つまり御書は御本仏の御言葉であり、本来であればしっかりと御書を学んで、血脈付法の御法主猊下に縁のあるご僧侶の指導の元に拝読をしないと「謗法・我見」に陥ってしまうというのが、法華講の主張でした。

それに対して僕は「御書とは多くが日蓮大聖人から門下の人達へのお手紙ではないか、だからひらがなでも書かれている物も多くある。それとも日蓮大聖人は、門下へのお手紙を出す際に、お弟子を一緒に送り込んで講義をさせていたのか?」と反論しました。

この問いに対して法華講青年部長は言葉が詰まりましたが、つづけて問い直してきました。

あなたが御書を自分で読むというのであれば、もし池田大作と貴方の解釈が異なった場合、あなたは自分の解釈を優先するのか、池田大作の解釈を優先するのか、どちらなんだ?

この質問に対して僕は「そうであれば御書と経典、また過去の人師・諭師の論や釈に立ち戻り考えるだろう。依法不依人であれば、当たり前ではないか?」と返しました。

この観点ですが、当時の創価学会青年部としての公式見解でした。依法不依人、これは仏法の大原則であり、池田会長であっても「人師・諭師の一人」であれば、互いに解釈が異なった場合、そこは徹底して法文献を下に探求をする。それこそが教学のあるべき姿なんだと。

その言葉を聞いた法華講青年部長は「それこそ驕慢謗法の姿なんだ!」と一方的に捲くし立てて言葉を荒げてしまい、以降、対論とはなりませんでした。

先のツイッターの言葉を見た時、この当時の法華講青年部の姿がオーバーラップしてしまい、今の創価学会の教学の姿勢に対して、解ってはいたのですがとても残念な気持ちになったのです。

このツイッターの発言主は、別の発言で「役に立たなかった広宣部」という言葉も言っていましたが、実はこれに対しては反論の余地が無く。何故ならば僕が広宣部の時に「次に問題を起こすとすれば信濃町にある学会本部の中であろう」と皆で予想をしていたにも関わらず、多くの広宣部OB達が、今の創価学会の有様の中で、唯々諾々と本部幹部や圏幹部、分県幹部として指揮を執っており、これら幹部の誰一人、今の信濃町界隈の言動に対して異論を挟む人物が出ていません。

これでは確かに「役に立たなかった広宣部」という指摘は的を得ているのです。

とまあ、このツイッターの発言を見て感じたのは、こういった事なのですが、実はその他にも気になる点があるのです。

それは過去に原田会長が本部幹部会の席上に発言した「創価師弟三代の血脈」という言葉です。
これは恐らく日蓮大聖人に脈打つ血脈は、牧口・戸田・池田の三代会長の「師弟の中」にしかないという発言なのですが、これは法華講が第二次宗門問題の当時に主張していたものと同一な事を指向しています。

宗門問題勃発時の創価学会では「生死一大事血脈抄」の以下の御文を持って、日蓮大聖人の血脈観を主張していました。

「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」
「相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ」

これは久遠実成の釈迦と法華経と自分たちには何ら差別なんかは無い。その思いで唱える御題目以外に日蓮の言う血脈は全くないという言葉です。
一方、当時の日蓮正宗では以下の御書を元に「生死一大事血脈抄」以外にも血脈がある事を主張、それを「別しての血脈」と呼んで、歴代の法主のみに伝わっている事を主張していました。

「又是には総別の二義あり総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず輪廻生死のもといたらん、例せば大通仏の第十六の釈迦如来に下種せし今日の声聞は全く弥陀薬師に遇て成仏せず譬えば大海の水を家内へくみ来らんには家内の者皆縁をふるべきなり、然れども汲み来るところの大海の一滴を閣きて又他方の大海の水を求めん事は大僻案なり大愚癡なり、法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて余へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはいなるべし、但し師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし」
(曾谷殿御返事)

ここでは「又是には総別の二義」があって、この二義を間違えてしまえば成仏など思いも依らないという事を述べています。そして「根源の師」を忘れてというのは、日蓮大聖人を「根源の師」と呼びはしますが、その「別しての血脈」を持つ法主も根源の師だと主張をしていました。

一見すると「なるほどなぁ」となってしまいそうなのですが、これにはトリックがあって、この御文の前を読むと「総別の二義」とは「総附属(釈迦から弟子たちへの附属ー後世の弘教の委託)」と「別附属(釈迦から地涌菩薩たちへの附属)」の二つを指し示している事であり、「総別の二義」を弁えないと、末法に出現する地涌菩薩の事を理解できないし、それにより日蓮が述べる法門も理解できないという事を述べているのです。

つまり血脈という話ではないのです。

そもそも血脈とは何か?
それは持ち合わせている法と行動の正統性を示すもので、何ら不可思議なものを示す言葉では無いのですが、日蓮大聖人が求めた血脈観とは、組織等に伝統的に伝わるものではなく、その求める姿勢と行動によって伝わるものであると述べているのです。

だから本来であれば、何らこの血脈という事を神秘性や神聖視させるものでは無いですが、今の創価学会ではそういった事を主張するだけの背骨が無くなってしまったのでしょう。それが原田会長をして「師弟三代の血脈」という言葉を発しさせたのではないかと考えています。

この血脈観といい、仏法への向き合い方といい、今の創価学会は過去の日蓮正宗とまったく瓜二つなものになってしまいました。そこから察するに、恐らく池田名誉会長が没後には、その昔、宗門で発生した「蓮蔵坊事件」よろしく、残された資産の分捕り合いをするような騒動が巻き起こる事でしょう。そしてそれは恐らく司直の手にゆだねられ裁可されるという事になるのではないでしょうか?

そしてその後は、恐らく興門派富士門流大石寺の過去の歴史の様に、凋落した姿を世の中にさらしつつ衰退していくものだと、僕は予測をしています。

だって、、、歴史というのは常に繰り返すものではありませんか。

日蓮正宗も第三世日目師が客死した後、この内紛は発生しています。
その正統継承者である創価学会が、第三代没後にそうならないという保証はどこにありますか?

むしろ大石寺化している創価学会には、そういった危険性がいや増していると思うのが当たり前だと思いますよ。

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【20170422】我見の進め!

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

二十代には二十代の悩み。
三十代には三十代の悩み。
そんな形で人生とは「悩み」というモノを常に相手に生きていかねばならないようです。
僕は五十代ですから五十代なりの悩みにぶち当たっている感じの日々です。

思うに僕は中学生の頃から、良くも悪くも悩みと共に生きてきました。どんな悩みかと言えば、まー様々な悩みごとですね。

四十代迄は、とにかく人の前に立ち続ける事に悩んでいました。できればナンバー2のポジションに居たかったのですが、何かと矢面に立つ機会が多く、それに揉まれて強くなったんだなあと感じることも度々です。

まあ戯れ言は置いといて。
最近、ツイッター等でよく僕に「我見」と云われることが多々あります。
自分なりに考えた事をブログやツイッターで発信していればさもありなんですが。

「我見」とは何か?
三省堂の国語辞典を紐解いてみると、以下の事を言うそうです。

①自分だけの狭くかたよった意見や見方。
②〘仏〙 「 我執(がしゆう) 」に同じ。


ここを読むと、自分の思い込みだけで、他者の意見を聞かず、ひたすら己の意見に執着する事を「我見」と呼ぶようですね。でもこれでは僕を「我見」と呼ぶ人達の方が、そういった傾向があるように思えますが、どうでしょうか。

一方の意見とは何か、同じく三省堂の国語辞典を読んでみましたが、以下の事でした。

①ある事についてもっている考え。 「 -を述べる」 「 -を聞く」 「 -書」
②道理や利害を説いて他人を戒めること。説教。 「どら息子に-する」
③室町幕府の訴訟において,右筆方が衆議して将軍に提出する答申。


意見と我見。
違いは自身の述べた事柄、また考え方に執着していて他者の意見に耳を貸さない場合には「我見」であり、執着せずに、より深めようと云うものが「意見」では無いでしょうか?

これを考えると、僕は常にブログやツイッターで言っているのは意見であって、けして我見には相当しませんよ。何故なら僕の思索の軸は日蓮の御書であったり、古今東西の意見や論文を切っ掛けに考えていること、思うことを述べているに過ぎません。

何も自分だけの思い付きで、ツイッターやブログ、本サイトに書いてたりもしませんし、ましてやそれに執着して意見を聞かないという事は基本的にはありません。

しかしこういった個人の「意見」を「我見」とラべリングしてしまう思考。実はこちらの方が我見に当たるのではありませんか?

僕を我見と指摘して、それこそ「我こそ正統なり!」という御仁もいますが、この背景には十年間以上前に、信濃町界隈が画策していた思惑に自分が乗せられている事に、自分たちもまんまと乗せられているという自覚がありませんよね。

幾度かこのブログにも書きましたが、僕が分県青年部長の時。当時、巣鴨の戸田講堂で首都圏の青男書会という会合がありました。
参加対象は、首都圏組織の男子部で、分県・総区の青年部長、男子部長、書記長以上の会合です。

当時、この会合の担当幹部は正木(当時)副会長。
語られた指導とは「教義論争で指導者亡き後の宗教団体は分裂する!」という内容で、その為にも「師弟関係」をこれからの時代は中軸にする事を熱く語っていました。

それ以降、どこへ行っても「師弟」という言葉を耳にしましたが、本部幹部会においても池田会長が「仏法の真髄とは師弟なんです!」とスピーチまでしてました。

そして僕が壮年部に移行した時、理事長であった正木氏は、とある総々県(都道府県単位の組織)の壮年部大会で以下の様にぶち上げた事を聞きました。

「日蓮大聖人の御書は難しいから読まなくても良い。もし学びたければ池田先生の講義集を読めば事足りる」

そして気がつけば組織の中で御書全集を持ち歩く人は激減しましたし、何よりも教学その物が軽く扱われる様にもなりましたよね。

任用試験の回答はマークシート、教授認定は本来ならば試験と面接があった筈ですが、いつの間にか活動歴と会合参加で認定。
実際に大量生産された教授の多くは、活動体験語れても、教学なんてほとんど語れやしません。

つまり創価学会はここ十数年かけて、会員を教学から離して来たわけで、そして会員活動家も「煮られるガエル」よろしく徐々に思考を変えられていき、気がつけば今の体たらくへとなってしまいました。

恐らく僕の事を「我見」と批難していた方たちも、その様にして思考を変えられた自覚無く変わった人達なんでしょう。

僕が非活になったとき、地元の圏長が言った事が典型的にそれを表していました。

「運ちゃん、例えば池田先生が極悪人であろうと付き従うのが信心なんだ。君と僕との信心の違いはそこなんだ」

この先輩とは創価班の広宣部で共に活動していたとき、日顕師に対して依法不依人の言葉で共に徹底して責めそのぬいて来ました。その同じ人がこの体たらくに変わってしまったのです。

「ちょっと待ってください、仏法の基本は依法不依人ではなかったのですか?」

そう話をしても、そこは聞く耳すら持ちません。

仏教とは釈迦滅後百年ほどで、部派仏教へと展開されて行きました。また紀元前後には大乗仏教が勃興しました。
釈迦が説き残した教えから、様々な教義に広がり八万四千法蔵と云われる体系へと展開され、その元に多くの釈論が展開されたのは何故なのか?
それは多くの人達が、釈迦の言葉を考えながら、そこに隠された理論を紡ぎだしたという事に他なりません。

またこれは日蓮の説き残した教えについても同様です。良い悪いは置いといて、日蓮宗や日蓮正宗において、日蓮の言葉から様々な論が派生しているではありませんか。

創価学会がこれから見直しをかけると述べている日寛教学というのも、そういう派生した論であり、その日寛師も論師であったということです。

本来の仏教とは、そういった様々な人達が考えて発展してきた宗教であれば、その考える事を「我見」という言葉で封じ込める事は、そもそも仏教自体の否定にも繋がることを認識すべきなのです。

我見。
これを自分で思考した言葉とした場合、今の時代では、どんどん我見を発信すべきなのです。何故ならば、ここ四半世紀ほど人類の価値観の変化している時代はありません。であれば当然、新たな展開が仏教や日蓮の思想でも必要な時代なのです。

いろんな見解を出し、そこにいろいろな意見を交え、大いに語らう事が必要でしょう。
けして感情的な事ではなく、また自身の意見に無意味に固執し感情的にならない様に。

【20170421】師弟原理主義者について

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

もう来週過ぎたらゴールデンウィークに入る時期になりますね。
最近、通勤電車に乗っても、駅間の時間が早く感じますが、これも年齢の影響なのか?

そんな事を考えています。

さて、最近目につくのは池田会長との関係を極限まで頑なに守り「全ての事は池田先生から」という様な思考の人達です。

こういう人達は、罵詈活からアンチまでに分布し、組織の事に対しては互いに「池田先生の綺麗な箴言」を元に批難し合ってます。

互いに批難するだけなら未しも、これが同じアンチでも池田会長に対して少しでも疑々を差し挟むものがいたら、そこにも噛みつくという傾向がありますが、これもまた過去の池田会長の指導にある「極悪は三世永遠に許してはいけない!」「極悪を責めれば極善となる」「悪を滅するを功といい、善を生ずるを徳という」という指導をそのまま守っているだけなんですよ。

池田先生を小バカにする奴ほど極悪な存在は居ない!

という事なんですね。

何故、僕がここまで云うのか。
それは過去に僕が創価班の広宣部をやっていた時に、その様な思考をしていた時期があったから理解できる事であり、反省代わりに述懐すれば、広宣部ではそれこそチンピラ上がりの様な顕正会と直接対峙する事もあるんですが、その時には生半可な気持ちではやれません。
僕も過去に顕正会の会館に高等部の入会届を返して貰いに訪れた際に、会館前で数十名の顕正会員に囲まれ、三十分以上、罵声を浴びるなか一触即発の場面もありました。また常盤台に本部がある時にも、ある会員が持ち去られた御本尊を取り返しに、単身、顕正会本部に乗り込んだ経験もあります。

ここまでやるには、それなりに思い込みを強くして、覚悟を決めないと出来やしません。

だから僕も一時期ですが、その様な思考に陥った事もあります。ですからその原理主義的な思考も理解出来るのです。

しかし果たしていま、「池田先生を求めて」とか「敵と戦わねば~」とネット上にいる師弟原理主義者ともいう人達の中に、そういった「組織の敵」と云われる人と、直接対峙した人間がどれだけいるんでしょう。

恐らくはネット上で叩くだけという経験しか無いというのが実状では無いのでしょうか。現に議論の脇も甘すぎますしね。

何度も書きますが、僕は個人が池田会長にどの様に思いを寄せようと、それに対して侮蔑するつもりはありませんが、人に対するラべリング(決めつけ)とか、感情的な罵声や悪口と言った、みっともない姿を晒すのはどうかと思います。

だって貴方が信じて師匠と呼んでいる池田会長は、そんな事を求めてたんですか?

「それは極悪を許してはいけないからだ!」

では「極悪」とは一体何ですか?
そこに対して少しは冷静に考える度量というのも必要でしょう。

ただこういう原理主義者的な思考まで陥ると、逆にそこをつき壊せなくという現実もあって悩ましいんですね。

僕も青年部の最後半、ある女性のアンチ創価の人に合い、そこで池田会長の事を完膚無く滅多ギリにされた事がありました。
「池田先生の物語」について具体的な内容を示し、実例を示されて否定され、これが僕自身の「動執生疑」にもなりましたが、その為にかなり精神的に不安定にもなりましたね。

要は四半世紀近く「正しい」と信じようとしてきたモノが崩壊するわけで、この辛さはなかなか言葉だけでは表現する事は困難です。そしてまた追い討ちをかける様に、教学的な事も指摘され、もう精神的にかなりヤバイ状態にもなりました。

自身の信じてきた事、やって来た行動を一辺に壊すと、恐らく人間は自我崩壊を起こす危険性があり、その事を人は無意識に察知するものです。

ですから、人はそういう事に執拗な抵抗と反発をするわけで、師弟原理主義者が、こと池田会長については論理的な会話が成り立たないのも、そういう理屈だと僕は考えています。

この創価学会に多くいる「師弟原理主義者」というカテゴリ。実は信濃町界隈にとっては良い飯の種になりうる存在なんですね。だって「池田会長の言葉」とか「御指導」。あとは香峰子奥様の「御言葉」には、基本的に反発できないのですから、利用価値は大きいと思いますよ。

もし組織への隷属を立ちきりたいのであれば、まずは自身の意思で一度「創価三代師弟の関係」から離れて見るべきなんですね。

でもまあそれはとても困難で、苦悩に満ちた事への選択にもなりますので、それをすると自身の心の中の葛藤との戦いにもなるんですけどね。

でもそれを乗り越えない限り、真実というのは見えやしません。

そして真実を見なければ「創価牧場」からの離脱も出来ないんですよね。

さてさて、その道を選択できるでしょうか?

【20170420】正しい信心ってなに?

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

「いま辞めたらダメだ。仕事が回らなくなってパニックになる」
雑談紛れに"居眠り・遅刻大王"の様なプロバと話していたら、言われた言葉でんす。

(っ-_-)っ

んなの知らんわな。
僕自身、今の職場を無防備に辞める気はなく、雑談交じりの会話の中での言葉ですが、だったらパートナーを確りと扱えと言いたいですな。

何でもぶん投げ、その手柄は「私がやりましたー!!」みたいな評価をしてるんですから、嫌になりますね。

まあ所詮、パートナーは「物件費」の科目で扱われる立場なんで、致し方なしですが。

それは兎も角。
前にも書きましたが、こんな事してると様々なメールが飛んできます。

先日も以下の"お言葉"を頂きましたので、ちと紹介します。

「仏法と日蓮大聖人は、そんな安っぽいものではないですからね。
日蓮大聖人を呼び捨てにするのも良くはありません。」
「独自、独学では日蓮大聖人の仏法を全て学び正しく実践する事は出来ないですから、」


恐らく法華講か顕正会あたりなんでしょう。僕のブログや本サイトを見て「これは正しい日蓮大聖人仏法を教えなければ」という使命感から連絡を寄越したものと思われます。

まず始めに。
僕が日蓮と敢えて呼んでいるのは、人間・日蓮として捉えようとしているからですが、これが中々理解されないみたいですね。

別に侮辱する意図なんて更々ありません。
会社でも自分の会社の上司は、尊敬した人であっても、例え社長であっても呼び捨ては常識でしょ?

むしろ「末法久遠元初・自受用報身如来」の意義を込めて「日蓮大聖人さまは~」なーんて考えたら、人間として日蓮を見れなくなってしまいますよ。

「然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり、此の八万法蔵を我が心中に孕み持ち懐き持ちたり」
(三世諸仏総勘文教相廃立)


人間を離れて仏法が有るわけ無く、全ては人間から出発しているのであれば、その事を説いた人に対しても「人間」と見ずして、何が解ると言うんですか?

多くの法華講・顕正会の人達は、既にこのスタート時点から間違えているんですから、そこから一体何を学ぶと言うのでしょうか。

次に独学で云々という事について。
正直言って今の時代、インターネットを調べてみれば、様々なヒントが転がってます。それは玉石混在ですが、思考すべきヒントは山ほど見つかるのです。

そのヒントから物事を調べ、学び、様々な有識者とたまに懇談するだけで、それこそ組織の活動の合間に学ぶよりも、多くの事に触れることが出来て、知ることが出来るのです。

果たして組織の中で「井の中の蛙」のように、同調した上下のある人間関係の中で語られる事に、一体どれだけ学ぶ価値があるんでしょうか。

仏教とは「自灯明、法灯明」の哲学です。自分で思索をすることをわすれ、さもレコーダーの様に聞きかじりな事だけ記憶しても、理解できる事なんて殆どありませんよ。

またもう一つ。
例えばある教師が十人に同じ教えを説いたとします。でも理解され方は十人十色、一人として教師と全く同じ理解にたどり着く人なんていやしません。だって知識や理解度、また生きてきた人生の背景が異なるんですから。

そこで一つ大事なことは何か。それは「志し」を理解しようとしているのか、してないのか。

そこだけではありませんか?

どこぞの組織に属していれば、自然と「正しき教え」を学びとることが出来ると言うほど、仏法は簡単なモノではないでしょ?

そこんとこを理解して欲しいものですが、どーも「組織信仰」に没入している人達は、そういう事を理解できないようですね。

シッカリ学べよ、ゴラ!!
( *゚A゚)

【20170419】笑って生きろ

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

今日は夕方からの用事の準備で、本業は午前半休して準備してました。
だからこの時間に出勤してますが、暑いですね~。普段は空調効いたビルの中に居るので実感ありませんでしたが、この暑さは体にきそうな感じです。

さて、今日のお題。
昨日の事、子供と学校の事について様々語りました。年齢は思春期、様々な事があるのでしょう。僕から見たら小さな事でも、子供にとっては大変なんですよね。

そこでやった父ちゃんのアドバイス。
「自分自身を信じて進め!」
「五年先、十年先に自分で今の事を笑い話に出来るように取り組め!」でした。

我が子はスッキリしたのかしないのか、そこは解りませんが今日もしっかりと登校してたので、その後ろ姿に「がんばれー!」と心の中で念じた次第です。

人生には年齢に応じて様々な苦難は付き物ですよね。こんな親父でも日々様々な事を悩んでたり考えたりしています。
しかも最近、僕自身が感じているのは体の年齢、それは昔ほど無理が確実に利かなくなっている事です。

この体の衰えの先に、確実に自身がこの世界からオサラバする時が来るんですよね。

仏教は「四苦の超克」だと考えていますが、一体それはどの様な事なんでしょう。

理想の存在として「仏」を立てて、「成仏=仏を成く(ひらく)」と言っても具体滝にはどの様な事なのか、仏教書を読んでも多くは抽象的な事しか出てきません。

創価学会に至っては、とにもかくにも組織につくし抜き、活動をやり抜けば所願満足の人生となり、未来永劫幸福のリズムに乗れるとか、およそ仏教らしからぬ事を近年語り出していますが、話にもなりません。

ここで仏教を離れて、昨今の欧米でのNDE(臨死体験学)関係を紐解いて見ると、そこで語られているのは、この人生とは学びの場であるということです。

これは自身の命の成長の為に、その不足している所、理解が足りない所をこの世界で経験し、学びとるために課題を自身で選択してこの世界に生まれてきているという論です。

そしてその課題が東洋の仏教でいう「カルマ(業)」だと言うのです。また家族の関係性は、互いに学び会う為にある時は親子、ある時は夫婦、そしてある時は恋人など、時々の人生で関係性をもって生まれるとも言うのです。

興味深いのは、こういう学説を唱えるのが経歴的にしっかりと社会的認知を受けている人達だということ、また語る前には臨床例や聞き取り調査、個人の臨死体験を元に述べている点です。

仏教の中で、こういう理論が語られたのは、無着や世親といった唯識派と云われる大乗論師の時代であり、紀元二世紀~四世紀あたりだと記憶してますが、それ以降、考えてみれば様々な論は語られていても、こういった死の事や、輪廻の事など北伝仏教の中で語られたのはあまり無いのかもしれません。

敢えて言えばチベット仏教等は「死と再生のバルト」といった話が「チベット死者の書」で取り上げられた埋蔵経に述べられている位でしょうか。

まあ様々な理屈はありますが、「四苦の超克」の事については、やはり一人ひとりが意識をしていくべき問題であり、そこは最終的には個人で解決すべき事ですよね。

思うに信仰とは、そういう事を通して自身の人生の価値を作るものであり、仏教とてその領域に入るわけです。

その為にも「笑って生きろ!」という事を大事にしたいものだと思いますよ。

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