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想学談林-管理者の部屋

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カテゴリー「本尊考」の記事一覧
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【20170120】勤行の事について

こんにちは(´・ω・`)

最近続いた深夜勤の影響もあってか、昨日は一日仕事を休んでしまいました。
疲れが抜けないのは嫌ですねー。

さて、前回の記事では文字曼荼羅、創価学会や宗門で言う「御本尊」という事について少し角度をつけて書かせてもらいました。

御本尊とは末法において法華経を弘通する為の「旗頭」である事。またこの御本尊の意義とは人間が人生を生きていく中で様々な人と交わり、様々な事を体験しますが、それらはお題目を中心として生き抜く中で、良い事も悪い事もすべてが「かけがいの無い事」として理解できるようになる。

それが「妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる」という事だと。

その事についてツイッターでちょっとした御質問を頂きました。

「胸中よりも、ちゃんと座った方がいいのかしら。
文字曼荼羅がなくても、やりたい人は必ず、何かしらの団体に所属しないといけないのかな。。。」

この質問を拝見し、様々思いを巡らしましたが、その内容はツイッターという140文字の世界では少し書ききれないかと思い、ブログの記事にしてみます。

ここで「ちゃんと座った方が良いのかしら」とあるのは、勤行・唱題という形式の事だと思います。

創価学会では近年、この勤行をかなり簡略化し、御祈念文についても変更をしました。

別に簡略化したのが「良い」とか「悪い」という事は、僕はないと考えています。ただ御祈念文に至っては、「祈りの主題」を固定化させる事でもあるので、もう少し大事にすべきではないかと思いますが、それは宗教団体として創価学会が求め決めるという事については「どうぞご自由に」と思っています。

そもそもこの勤行について。
本来は日蓮正宗で僧侶が朝晩実践していた修行の形式を簡略化して在家信徒でも行える様にしたものです。

いわゆる「五座・三座の勤行」というやつですね。
この勤行の淵源について少し調べてみると、この形式というのは十七世紀の頃にある程度、形式が固まった様です。
これは大永三年(西暦1523年)に大石寺第十二世日鎮師が認めた「堂参御経次第」という書き物の中に、その原型が残っています。まずはそれを紹介します。
■一日夜
 本堂へ十如是寿量品一巻、題目百返
 天御経へ十如是寿量品一巻、題目百返
 御影堂へ十如是寿量品一巻、題目百返
 又其後、寿量品三巻、題目三百返

■二日朝
 御影堂にて、十如是寿量品三巻、題目三百返
 天御経へ参りて、十如是寿量品一巻、題目百返
 大堂へ参りて、十如是寿量品一巻、題目百返
 御影堂へ参りて、十如是寿量品一巻、題目百返
この形式が十七世紀の日精師の時に客殿一か所で丑寅勤行として五座をやる形式になり、十八世紀で日寛師が今の形式に近い内容を定めた様です。(日寛上人/歴全8、報福原式治状)
■一、丑寅
 初座(諸天) 十如是寿量品
 二座(本尊) 十如世雄寿量
 三座(代々) 十如是寿量品
 四座(祈祷) 十如是寿量品
 五座(回向) 十如是寿量品

■一、黄昏
 初座(本尊) 十如是寿量品
 二座(代々) 十如是寿量品
 三座(回向) 自我偈三巻
要は出家者の修行として「座(場所)」を変えながら、読経・唱題する修行があったものを、一か所で行う形式に簡略化した事で、この「五座・三座の勤行」の形式が整えられてきたという事でしょう。

これらは「化義(儀式の形式)」と言いますが、時代と共に変遷するものなのです。

だから創価学会として自組織で考えた形式にするという事も、ある意味で間違った事ではありません。

所詮、形式ですからね。

ではこの「勤行」という事について、日蓮は御書の中でどのように述べているのか。以下に「唱法華題目抄」の一文を紹介します。

「問うて云く法華経を信ぜん人は本尊並に行儀並に常の所行は何にてか候べき、答えて云く第一に本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可しと法師品並に神力品に見えたり、又たへたらん人は釈迦如来多宝仏を書いても造つても法華経の左右に之を立て奉るべし、又たへたらんは十方の諸仏普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし、行儀は本尊の御前にして必ず坐立行なるべし道場を出でては行住坐臥をえらぶべからず、常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし、たへたらん人は一偈一句をも読み奉る可し助縁には南無釈迦牟尼仏多宝仏十方諸仏一切の諸菩薩二乗天人竜神八部等心に随うべし愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし。」

ここで日蓮は法華経を信じる人の「本尊」と「行儀並びに常の所業(勤行)」はどうあるべきかを述べています。

■本尊:法華経:八巻、一巻、一本。あるいはお題目を書き記したもの。
⇒これで本尊と出来ないと思う人がいたら、釈迦・多宝仏を書くか造仏して法華経の左右に安置。
⇒それでも本尊と出来ないと思う人がいたら、十方諸仏をを書くか造仏して安置。
■勤行の姿勢:道場の中では座して行う事、道場以外では行住坐臥(生活の行動の中)は特にこだわらない。
■勤行の内容:御題目を唱える事。
⇒それでも足りないと思うのであれば、法華経を読む。
⇒それでも足りないと思うのであれば南無釈迦牟尼仏多宝仏十方諸仏一切の諸菩薩二乗天人竜神八部等を心に思い描いても良い。

以上となっています。

この「唱法華題目抄」という御書は、日蓮の生涯でも立教開宗後、間もない時の御書なので、当然、文字曼荼羅などもまだ語られていませんし、おそらく化義という事も固まっていない時期であったから、この様な書き方になっているのではないかと思います。

しかし重要な事としては、「愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし。」という事では無いでしょうか。

これは「愚者」とここで書かれていますが、この日蓮の法門を未だ理解していないのであれば「一念三千の観(観心)」を、この本尊と勤行の事を行う際に、前面に出さずに、まずはこの事(観心)を学び習った後に行うべきであると書かれている事です。

つまり勤行を実践する前に、しっかりとその意義を学んでから実践すべきであると言っているのです。これは実に合理的な内容だと思いました。

つまり「祈り」とは何か、「本尊」とは何か、その本質的な事を学んだ後でなければ、どの様に形式等を整えたとしても、本来の意義から外れてしまうという事なのです。

これは僕が以前から語っていた事に符合する事なのですが、祈りとを叶える能力は万人に備わるものであり、日蓮正宗や創価学会の曼陀羅の専売特許ではありません。

また祈りを行うにはその意義は当然の事、理解していなければならず、ここで日蓮も、勤行を行うには「一念三千の観」が大事であるが、それを知らないのであれば、勤行の前に、その事を習ってから実践しなさいとあります。

「ただひたすらに祈れば良い」

そんな事では無かったのです。

またこの言葉を逆説的に捉えるのであれば、この御書にもあるように「行住座臥」とあるように、何も仏壇の前だけではなく、常に日常の中で御題目を唱える事が、実践としてあることが言えるでしょう。

文字曼陀羅は創価学会や宗門に在籍しないと頂くことは出来ません。そしてそれら組織はそれをもって、日蓮の信仰をしたいのであれば、自組織に所属することを求めています。

しかし本尊とは「根本尊形」として、何を尊重するのかを具体的に明示した物です。
あればベストなのかもしれませんが、それの受持を必須としているとは、この唱法華題目抄を見る限り、そうは思えません。

また御題目や経典を読むことを「読誦」と言いますが、これは「声を出して読む」という意義と「口ずさむ(誦)」の意義があります。

そこから考えるのであれば、何も一ヶ所にとどまらず、常に心の中で御本尊(文字曼陀羅)を思い描き、一念三千を観じる意義で御題目を口ずさむという方法も、当然ありだと想いますよ。

この方法は昔から「内得信仰」という事でありましたよね。

勤行について、僕はこの様に考えています。
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【20170118】本有の尊形

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

今年の僕のテーマですが「一日一生」と決めています。これは先日、あるテレビ番組で紹介されていたあるプロ野球選手の言葉ですが、妙に気に入ってしまい、これぞ本年の僕のテーマだと決めた次第です。

歳が上がれば上がるほど、日々過ぎ行く速度が速くなっています。このままで行けば、今生も瞬く間に過ぎ去ってしまいますので、何とか日々爪を立てる想いで、何かしらをやりきったという日々にしようと、奮闘しています。

この年明けから僕は仏壇の前に座るように心がけてます。この「座る」というのは習慣として「座る」ではなく、常に意識を持って座る事に拘り実践しています。

祈る時間、勤行の内容はさておき、朝な夕なに仏壇の前に座り、読経・唱題をしていますと、先の「一日一生」と相まって、何とか日々空転せずに生きている感じがしますよね。

この御本尊ですが、日蓮は弟子の日女御前に手紙を認めて、その意義を説明しています。
以下にその部分を紹介します。

■日女御前御返事
「爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎ(摺形木)たる本尊なり、されば首題の五字は中央にかかり四大天王は宝塔の四方に坐し釈迦多宝本化の四菩薩肩を並べ普賢文殊等舎利弗目連等坐を屈し日天月天第六天の魔王竜王阿修羅其の外不動愛染は南北の二方に陣を取り悪逆の達多愚癡の竜女一座をはり三千世界の人の寿命を奪ふ悪鬼たる鬼子母神十羅刹女等加之日本国の守護神たる天照太神八幡大菩薩天神七代地神五代の神神総じて大小の神祇等体の神つらなる其の余の用の神豈もるべきや、宝塔品に云く「諸の大衆を接して皆虚空に在り」云云、此等の仏菩薩大聖等総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず、此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる是を本尊とは申すなり。」


ここで日蓮は、この文字曼陀羅はけして自作したものではなく、過去の人師・論師が知っていながら顕す事のなかったものであると明かします。

そしてそれを日蓮は「法華弘通の旗印」として顕したと言うのです。

文字曼陀羅を本尊として、また末法の法華経弘通の旗印として顕すとは、どういう事なのでしょう。
ここでいう旗印とは、戦の場で足軽などが印として上げるモノではなく、法華経を末法において弘通することを宣言する意味と捉えて良いかと想います。

ここでいう過去の人師でもある妙楽大師や伝教大師は、像法の末に生まれたことを嘆いていたともいい、その事を日蓮は撰時抄に以下の様に書いています。

「彼の天台の座主よりも南無妙法蓮華経と唱うる癩人とはなるべし」

末法とはご存じの通り、釈迦の仏法の効力は消え失せる時代ですが、法華経がいよいよ広まるときだとも云われており、妙楽大師や伝教大師は、例え重病人であっても、この末法に生まれ、御題目を唱えたかったのだと云い、日蓮はその旗印として曼陀羅を顕したと言うのです。

そしてその文字曼陀羅では何が書かれているのか。

「されば首題の五字は中央にかかり四大天王は宝塔の四方に坐し釈迦多宝本化の四菩薩肩を並べ~」

これは法華経の虚空会の儀式をそのまま顕しています。そしてそこには善神から悪鬼まで様々な人々が収まっていることを述べています。

「此等の仏菩薩大聖等総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず」

そしてこの文字曼陀羅が表現する姿は、何を顕しているのかについても、日蓮はこう述べています。

「此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる」

妙法五字とは御題目を指す言葉といってもよく、それに照らされる事で、善神や悪鬼等も「本有の尊形」になる。つまり「本来あるべき尊い姿」になると云うのです。

この事が「法華弘通の意義・目的」であり、それを具体的に顕しているから「はたがしら」だと日蓮は述べたのでしょう。

この事について、より具体的にはどういう意義があるのか。

人間の人生、最近では八十年を越えるものとなってますが、この人生のなかで出会う人達や、関係する人達には様々な人が居ますよね。

自分を守る人、支えてくれる人、頼る人、頼られる人。また自分に害を為す人、悪意を持つ人、中には鬼のように命を食らうような人も居ます。

また出来事についても良い事、悪い事。それはもう様々あります。

これら全てが「妙法五字」に照らされると、「本来在るべき尊い姿になる」というのです。つまり人生にとってかけがいの無い大事なモノとなるというのです。

いいですか?
それらが「良い」とか「悪い」とかいう二元的な事ではなく、「かけがいの無い」という事として理解できる事が、「本有の尊形」という意味だと僕は理解しています。

そして「法華経とはその様な事が解かれており、具体的にはこの様な事なのだ」と顕しているのが、この文字曼陀羅だと云うのです。

だから勤行の意義についても、単に創価学会が教えている「御本尊ちゃま、お願い~」なんてすがる行為でもなく、この文字曼陀羅(御本尊)も「祈りとして叶わざるなし」という「幸福製造機」なんてものでもないのです。

法華経に説かれる「久遠実成」とは、その様な事を説いているのであり、そのより具体的な意義が形として表したのが文字曼陀羅なのです。

そして勤行とは、その姿を見つめながら自身を見つめ祈る事だとも言えるのです。

創価学会や宗門が唾競り合う「功徳体験」は、その祈る行為の副産物として、発生しているに過ぎません。

ちょっと難しかったでしょうかね。

【20160122】本尊への向かい方

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

日本には強い寒波が居座るようで、当面はこの寒さが続くようですね。

さてここ半月の間、僕は個人的に御本尊(文字曼荼羅)について思いを巡らせています。
今は観心本尊抄を読んでいますが、こりゃ難解極まりないもので、その内容も天台教学的な文言もあり、しかも文体は鎌倉時代の古文でしょ?

頭のなかがおじやになりそうな時もありますが、まあ日々努力しています。



この日蓮の文字曼荼羅について、大石寺貫首二十六世の日寛師は観心本尊抄文段で以下の様に述べてます。

「故にこの本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり。
故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり。」


この日寛師の言葉もあって、創価学会としては「祈りとして叶わざるなしの御本尊」という事を述べているんですよね。

しかし今回の会則改正で創価学会として、日寛師の残した各抄論について見直しをするというスタンスなのですが、果たしてどこまで見直しをするつもりなのか、未だにその様な話は出てきません。

まあ恐らくこの観心本尊抄文段の解釈については見直しをする事はないでしょう。
創価学会にとっては御本尊は祈りを叶える為の道具であり、その「祈りを叶える」事が宿命転換という事にも繋がりますから、ここの観点を変えてしまったら、創価学会とて会員を鼓舞することが出来なくなってしまいます。

これは法華講も同様で、創価学会の本尊に祈っても結果が出ないと嘆く人たちに、法主の有りがたさを説き示し、正しい日蓮正宗の御本尊こそ、全ての祈りを叶えるものと言ってますからね。

日蓮が何故、この文字曼荼羅を顕したのか。そこについて様々な御書を読んだりしていますが、総じての思いとは、人々に対して法華経でいう処の「仏知見を開かせること」なのではないかと思います。

だから法本尊開顕の書の名前に「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」という題目を付けたのでしょう。

「この本尊とは観心の為の本尊なんだ」

この様に思えるのは僕だけでしょうか。

この「観心」とは一体何なのか、これについて観心本尊抄には以下の様に述べられています。

「観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり、譬えば他人の六根を見ると雖も未だ自面の六根を見ざれば自具の六根を知らず明鏡に向うの時始めて自具の六根を見るが如し、」(観心本尊抄抜粋)

つまり自分自身の「心の中にある十法界を観る」という事が「観心」という事なのでしょう。
ではこの「心の中にある十法界を観る」とはどういう事なのか。それは自分自身の中には地獄の心から仏の心まで備わっているという事を感得する事なのかと思います。

また日蓮は以下の様にも述べています。

「此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる是を本尊とは申すなり。」(日女御前御返事)

つまり心の中にある救いようの無い苦しみ、渇き、怒り、様々な感情が人生の中で渦巻きますが、お題目を唱え、文字曼荼羅(御本尊)に向かいお題目を唱えていくという行為の中で「本有の尊形」(これは本来の意味という事で捉えても良いかと思いますが)として見えてくるという事なのではないでしょうか。

人生には様々な苦悩や葛藤が渦巻いています。
この荒波の様な心の中のうごめきがなければ、実は人生というのは何ら得るモノが無い時間なのかもしれません。そして人々はその「心のうごめき」に悩み、苦悩します。

しかし文字曼荼羅に向かい、お題目を唱える事で、そういった様々な心の荒波の本来の意味を自覚する事ができ、そこで信じれる自分自身という存在も見えてくる。

そういう事を述べているのかもしれません。

また、そういう文字曼荼羅にお題目を唱える過程で、様々な「実証」という事も起きるのかもしれませんが、それはまさに豆腐でいう「オカラ」というものでしか無いと思います。

その「オカラ」が得られるか、得られないかという事自体、実は大したことではないと思いますが、多くの創価学会や法華講の人たちは、そこに拘り「われこそ正統なる日蓮直系」を言っているのですから笑止千万という他ないでしょう。

ここ最近、ずーっと文字曼荼羅の事を考え、思索を進める中でそういった思いが強くなってきています。

まあ、これも我見と言われたらそれまでなんですけどね・・・・

本日の記事は以上となります。

【20160118】日蓮の文字曼荼羅について

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

今朝方は大雪のため、各地の交通機関は大混乱。まったく都会というのは悪天候に関しては脆弱なものだと実感します。

さてこの週末、僕は日蓮の文字曼荼羅について掛かりきりとなってました。
物好きというか何と云うかですが、別に誰からもお願いとかされているわけでは無いのに、こんなことをしていたわけです。

この文字曼荼羅の調べ、考察した内容については、本サイト「想学談林」の方にアップしていきますので、そちらの方も宜しくお願いします。

僕は二世なので、生まれた時から家に「御本尊さま」と呼んでいる日蓮の文字曼荼羅がありました。
まあ実際には大石寺貫首六十六世日達師の書写による文字曼荼羅でしたが、この御本尊によく母親は御題目を唱えてました。

子供心にこの文字曼荼羅って何が書いてあるのか、興味はあったのですが、如何せん内容が全然解りませんでした。

これは成人し、男子部になってからも同様で、先輩幹部に聞いても「命の形が書かれている」とか「宇宙の法則が示されている」というような説明しか聞けなく、唯一御書の「如来滅後五五百歳始観心本尊抄(通称、観心本尊抄)」に御本尊の内容が書かれているとは聞いたのですが、この御書は日蓮が言う通り、まったく難解極まりないものでした。

ところで戸田会長はこの文字曼荼羅を「幸福製造機」というような比喩で語ってましたが、この文字曼荼羅とはそうなものなのでしょうか?

「蛍光灯の仕組みや構造が解らなくても、スイッチ入れれば明るくなる。それと同じで、この御本尊の仕組みを知らなくても、功徳は絶大なんだ」

これが実際に教えられた事ですが、そろそろ天命を知る年齢にもなる僕としては、この文字曼荼羅とは何なのか、創価学会で教えられた事だけでは、自分自身、腑に落ちない事もあって、勝手に調べ始めているという処です。

そういえば創価学会では日蓮直筆の本尊は、全てが等しく「本門の本尊」と言ってますよね。

ところでそんな創価学会の活動家は、今の時代、日蓮直筆の本尊と言われるものが、果たして何幅現存しているか、知っているのでしょうか?

知らないんですよね、これが。

今年の参議院選挙の投票日とか公示日なんかは貪欲に知ろうとするくせに、日蓮直結と云いながら、こういう本義的な重要事項には興味も持ちませんから、当たり前でやしょうけどね。

これについて、山中喜八編・ 日蓮聖人 真蹟集成第十巻『本尊集』によれば、現存しているのは124幅はあるようです。

この週末にこの124幅の文字曼荼羅の相貌をつまびらかに拝見してみたのですが、まあ相貌と言っても様々なものがありました。

考えてみれば、日蓮の生涯で文字曼荼羅を書写したのは十年そこらの期間でしかありません。それは文永十年から弘安五年までの限られた期間です。

では日蓮がそれまでどの様に御本尊の事を考えていたのか、実は明確にわかる資料と云うのは無いようです。

一番始めに書かれたのは「楊枝本尊」というもので、これは龍ノ口の刑場から佐渡に流罪される途中、相模の国依知(今の神奈川県厚木市)の本間邸から佐渡に出立する時に書かれたものです。

この曼荼羅ですが、主題の御題目と愛染明王・不動明王の梵字だけ、あとは日蓮の花王という至ってシンプルなものです。

この原型とも云える曼荼羅を見たとき、やはり本尊とは御題目なんだという事を強く感じました。

以降、曼荼羅は時を経る毎に勧請(書写)される諸仏諸菩薩が増えたり変わったりしながら、いくのですが、驚いたのは「金剛大日如来」「胎蔵大日如来」というものがあることとか、あと始めから最後まで一貫して書かれているのは主題の御題目と不動・愛染の梵字だけという事です。
(まあ一部には書かれていないものもありますが)

こういった御本尊の相貌を拝見すると、単に「邪宗」を「他宗」と言い替え、日顕宗だけが邪宗だから、他の宗派は容認するとかいった、値の浅い議論だけでは済まず、本来、日蓮が考えていた事や、立正という考え方、また日蓮そのものに関する視点を変えなくてはならなくなると思いました。

まあ取り合えずまだ触りだけですが、これからこの文字曼荼羅についても、僕自身、さらに深堀を進めたいと思ってます。

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