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想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   
カテゴリー「法華経の世界観」の記事一覧
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【20160204】南無妙法蓮華経について④

こんにちは( *・ω・)ノ

さて昨日は節分。暦の上では春になります。
とは云っても寒いことには変わり無く、これから気温が低い日もまだまだ続くでしょう。

これまで御題目について、御義口伝を基に振り返って見ましたが、そこにある意義は幾つかありました。

一つは「無明」という、人々の悩みや苦悩の根本的な要因と、「法性」という悟りの要因。これは別々に在るのではなく、一体であるという事。

また原因と結果が別々に在るわけでもなく、これらも同時に具わること。ここでいう原因とは九界の事でもありますが、仏教の教えとして、この九界で悩み苦しむ先に成仏(結果)があるとしていましたが、それらは同時に備わるという事。

そしてこれらの事を声をだし、語るという事が「妙法蓮華経」という経典の意義であり、そこの意義に心も体も帰命するという事が南無妙法蓮華経という御題目の意味だと云うのです。

さてもう少し形而上の事を語ります。
人間が生きていくのは、実に多くの悩みや苦難が付きまといます。
例えば子供の頃には、欲しいものが手に入らないとか、大人になれば収入が少ないとか。
これだけではありません。
年齢が上がれば老いを感じ、病気で苦しむこともあれば、大切な人を失うことも有るでしょう。

仏教では四苦八苦と言いますが、釈迦の教えと云われる仏教宗派の多くは、こういった事について、根本の原因は「因果応報」「煩悩」という事だと教え、だから修行し煩悩を絶ちきる事を教えています。

今の時代ではこういう仏教宗派も形骸化し、多くの人たちはこういった仏教宗派の教えの事すら知らないかも知れません。しかしそうは云っても苦悩は付き物という人生の構造に変化はありません。

こういう苦悩は逃げれば逃げるほど着いてきますし、目をそらせば反らすほど鮮明に見えてきます。

だから人々は苦悩を増すわけですね。

では妙法蓮華経とは、そこに対してどの様な事を述べているかと言えば、そういう苦悩と同価値の悟り、ここでは人生の気づきとでも言いましょうか、人生の苦悩にはそういう事が隠れていることを述べているわけですね。
これが「無明・法性一体」です。

またその苦悩とは、時間をかけて努力する事でより良くなるという事ではなく、この苦悩の中に、人生の喜びが同時に内包されているという事。これに気付く事が「因果倶時」です。

だからそれを信じて生きなさい、という事が妙法蓮華経という五字に託された意義であり、その意義を信じていくというのが、南無妙法蓮華経という御題目ではないかと思います。

この大前提を理解して御題目を唱えるのと、理解をしないで唱えるのでは、やはり結果として得るものは異なるのではありませんか?

そんな事を知らないで、御題目を「祈りを叶えるマントラ(呪文)」として唱える事は、はたしてこの日蓮の目指していた志に合致するのか。

「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや」
(諸法実相抄)

ここで日蓮は「久遠」と述べていますが、これは単に時間の事を述べているわけではありません。釈迦の根源的な志と同意した弟子であるかという事であり、それを地涌の菩薩と呼んでいるのです。

この事は御題目を唱える上で、能々考えていきたいものですね。

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【20160203】南無妙法蓮華経について③

こんにちは( *・ω・)ノ

さて南無妙法蓮華経については続きますよ。
前回からの続きです。

「又云く梵語には薩達磨芬陀梨伽蘇多覧と云う此には妙法蓮華経と云うなり、薩は妙なり、達磨は法なり、芬陀梨伽は蓮華なり蘇多覧は経なり、九字は九尊の仏体なり九界即仏界の表示なり」

ここで妙法蓮華経の音訳について語ります。
「サダルマ・プンダリーカ・スートラム」
これが梵語の妙法蓮華経ですが、これを音訳し、そこにある九文字が九尊の仏体を表すとの事。でも読むと十文字なので、何故に九文字というのか、僕には理解できませんでした。

ただここでいう「九尊」とは密教の胎蔵界曼荼羅で表される仏の事で、これは恐らく天台密教から来ているものだと思います。

日蓮を学ぶと「密教」について、かなり攻撃的ですが、この御義口伝にこういう事を述べていると云う事は、つまり密教自体も単純に否定する立場では無いことが解ります。

「妙とは法性なり法とは無明なり無明法性一体なるを妙法と云うなり蓮華とは因果の二法なり是又因果一体なり」

ここで「妙」とは法性(悟り)の事を云い、「法」とは無明(迷い)の意義があると述べ、「妙法」という事は迷いも悟りも同じことであるという意義があると言っています。

ではなぜ「妙」が法性で「法」が無明なのか?
これについては後々出てきそうなので、ここでは割愛します。

「蓮華とは因果の二法なり是又因果一体なり」

蓮華と云う華は、開花した華には既に種が備わっていることから、この蓮華の姿を通して、結果(華)の中に原因(種子)が内包しているという事を表しているそうです。

これはつまり因果一体であり、原因を作り出したときに、そこには既に結果が備わっているということですね。
また広く見たときに、原因としての菩薩行を行っている時点で、そこには結果としての成仏は確定しているという事も指すそうです。

「経とは一切衆生の言語音声を経と云うなり、釈に云く声仏事を為す之を名けて経と為すと、或は三世常恒なるを経と云うなり、法界は妙法なり法界は蓮華なり法界は経なり蓮華とは八葉九尊の仏体なり能く能く之を思う可し已上。」

経というのは全ての人々の言葉を指すといいます。天台の解釈で声は仏事を行うとは、この経という文字から出ています。
また現象世界はここまで述べた妙法であり蓮華であり経であるも言います。そして蓮華とは仏の体を指しているともいうのです。

この事についてはよくよく考えなさいとして、締め括っているのです。

つまり日蓮の唱える南無妙法蓮華経にはこれだけの意義があると云うことを述べていますが、ここから見えるのは仏教の演繹法による思考展開であり、釈迦が述べたかったのは「妙法蓮華経」に含まれ、日蓮が述べたかったのは、この妙法蓮華経に帰命するという事だと思います。

それ故、御義口伝の冒頭にも御題目が述べられたのではないでしょうか?

次回はこの事について、もう少し噛み砕いて書いてみたいと思います。

【20160202】南無妙法蓮華経について②

こんにちは( *・ω・)ノ

さて昨日の続きです。
「南無」とは「帰命」であり、そこには人と法に対する二つの意義があると述べました。
また様式として「帰命」とは「隋縁不変一念寂照」という天台の言葉を述べて、ここには善悪に通じるとも述べました。

あー、とても危険ですよね。
こういう事を進めていくと「我見」と云われ、大謗法とも呼ばれたりします。

でも良いのです。
我見と呼ばれようが大謗法と呼ばれようが、学ぶということは自分としての解釈があり、そこに様々な添削があって、自身のモノになっていくわけですから。

考えないで家畜のような信仰者になってはいかん訳ですよ。

という事で思索を続けます。

さてこの帰命という事には、二つの形態があると言います。

「又帰とは我等が色法なり命とは我等が心法なり色心不二なるを一極と云うなり、釈に云く一極に帰せしむ故に仏乗と云うと、」

ここで云うのは「心と体」の事ですね。
心は信じているけど行動が違うとか、心は違うけど行動は帰命しているとか。
信じる、つまり帰命するというのもこういった複雑な事が関係するわけです。

そして心と体が一致することが重要で、そこに仏乗(成仏、仏を開く)という事があるわけですね。

これはとても重要な事を述べています。

心が帰命するというのは、例えば法華経を信じることの意義や重要性を理解しているからであり、ただそうであっても言動不一致であれば成仏しないという事ですよね。
そして逆もまた然りで、行動として帰命している様に見えても、心では信じていなければ、こちらも成仏はほど遠いいとなります。

信濃町界隈なんてのは、後者が殆どであり、行動として如何にも信仰心が強逝で、「池田先生は云々」なんて語りますが、こりゃダメだという事になります。

前者の場合、どちらかと言えば学者として法華経を学んだ場合には有り得ますよね。
「確かに法華経は素晴らしい」なんて言葉にしてみても、ではそれを具体的な行動として、なにかしているかと言えば、実は何もやらないという事。

但しここでは形態について述べてますが、そもそも法華経の真意が掴めてなければ、いくら色心(心と体)が一致しても「隋縁不変一念寂照」という事にすらならないわけです。

だから帰命とは言っても、一番最初に立ち返りますが、どの人に帰命するか、どの法に帰命するか、そこがまず大事な事だとおもいますよ。

「又云く南無妙法蓮華経の南無とは梵語妙法蓮華経は漢語なり梵漢共時に南無妙法蓮華経と云うなり、」

ここで法華経に帰命するという事で南無妙法蓮華経という言葉があり、「ナーム」という梵語と「妙法蓮華経」という漢訳の言葉で出来ていることから、この法とは世界的な思考であると述べてます。

日蓮のいた当時は、世界観といってもインド・中国・日本という三国の世界であり、仏教とは当時の日本にとっては国際的な最先端の思想でしたから、この様にのべていると思います。

では現在においてもそうなのか?
そこについては疑問ですね。

何故ならば心の構造の解析とか、世界の成り立ちの形而上の事で言えば、実は今や欧米の方も研究が進んでいます。
欧米ではこの研究の結果として仏教を見直したりしていますが、日本やアジアではとうなのでしょうか?

特に日本の寺仏教なんかは形骸化が激しくて、とても世界的な宗教とは呼べません。

日蓮は「梵漢倶時」と言ってますが、日蓮門下でこの事を真剣に考えていた人はいるのでしょうか?

考えてみれば、うすら寒い思いすら感じてしまいます。

世界は大きく様変わりしているのですから、「梵漢倶時」で世界的な思想というならば、信仰している我々がそれを成し遂げなければならないのではないでしょうか?

そこためにも、再度、法華経に立ち返ることも大事な事と思うんですけどね。

【20160131】法華経を信じるという事

こんにちは(´・ω・`)

文字曼荼羅を調べている中で、いやがうえにも法華経について観ていかざるを得なくなっている昨今。法華経について再度読み始めてもいます。

創価学会の活動家時代には、読んでも日蓮大聖人の御書くらいであり、しかもそこには「創価学会教学部」というフィルタがどうしてもかかってしまいます。

いま、活動から離れた立場で再度、法華経を拝読してみると、まあ様々な事に気付きがある事を実感していますが、その一方でこの法華経というのは何を書いているのでしょうね。



日蓮のお題目も、文字曼荼羅も、根源はやはりこの法華経です。
正確に言うならば、鳩摩羅什が漢訳した「妙法蓮華経」です。
だからここの原点を離れては、日蓮の仏法、お題目や文字曼荼羅でさえ意味をなさなくなってしまいます。

そういう意味ではとても重要な経典なのですが、今の創価学会では見向きもしません。
何故見向きもしないかと言えば、やはりそこには「日蓮末法本仏論」という事があり、釈迦は所詮、日蓮に対しては「迹仏(仮の仏)」であり、釈迦の説いた仏法も今の時代では意味をなしていないという認識が根強くあるからではないかと思います。

また更に言うならば、いまの創価学会にとっては日蓮の仏法さえ形骸化し、そこにあるのは「池田哲学」と信濃町界隈が呼称している、日蓮仏法の枠組みに古今東西の哲学をパッチワークの様に当てはめたものだけしかありません。

そこに「法華経を学べ」と言ったところで、誰も学びはしないでしょう。

でも確かにこの「妙法蓮華経」を今の時代にそのまま読んだ処で、そこにどれだけの意義があるのかは、実際のところ解りません。
やはり現代には現代の解釈が必要となりますし、そこを原理主義・教条主義の様に経文を一つひとつ取り上げたところで「木を見て森を見ず」では無いですが、法華経で本来求めた事を読み取る事というのは実際には難しいと思われます。

だから法華経は法華経で、現在においてどのような思想であるのか、そこについては読み解く必要も出てくるのではないでしょうか?

そしてこの法華経の理解がなければ、最終的に日蓮の「文字曼荼羅」という事についても、現代において正確にその意義などは理解できないのではないかと思います。

法華経の意義を理解しないて「法華経を信じない人は無間地獄に落ちる」なんて言質は、今の時代には不要なのではないでしょか?

そういった観点から、少し法華経を見直してみる。
そんな事にもこれから取り組んでみたいと思います。


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