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想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   
カテゴリー「神との対話」の記事一覧

【20161022】広宣流布とは何だったのか?

こんにちは( *・ω・)ノ

この間まで暑い日があったのに、一気に秋らしくなりました。
ちなみにこの時期に夏の様な陽気に成ることを「インディアン・サマー」というそうですが、もうさすがにあの様な暑い日は無いと思ってます。

季節の変わり目には何かがある。

「しをのひるとみつと月の出づるといると夏と秋と冬と春とのさかひには必ず相違する事あり」
(兵衛志殿御返事)

考えてみればここ四半世紀、様々な事がありましたが、人類の歴史で大きな変わり目を迎えつつあるのかもしれません。

さて今回のお題、広宣流布について書いてみます。
そもそも大石寺や法華講、そして創価学会はこの「広宣流布」という言葉を使ってますが、どの様な意味なのか。

大石寺では元々、日本人の大多数が弘安二年の大本尊を信じ、「大石寺」が「本門寺」と名前が変わり、時の天皇陛下が参詣に来て「不開の門」が開かれ大本尊の元を訪れる時が来ると云ってました。そしてその時こそが「広宣流布達成の日」なんだとか。
そして戸田会長はその模擬試験として、大講堂落慶法要の時に、総理大臣であった岸信介を招待したが叶わず、その息子である安倍氏(今の総理の父親)を代理で招いて法要を行いました。

多くの日本人と言いますが、どれだけの人々かという指標として「舎衛の三億」という仏教説話の話をあげてましたよね。
過去に舎衛国という国があって、その広宣流布の時には一億が信心して、一億は理解者で、残りの一億は信心してない状況だったそうです。

だから大石寺に正本堂を建立した時には、日本の人口は約一億二千万人、約二千四百万世帯として、その三分の一である八百万世帯に創価学会が拡大したという「理屈」で、「現時における広宣流布達成」と宣言したんですよね。

しかしその事について、同じ大石寺信徒であった妙信講(顕正会)は面白くなく、大石寺の中で大騒ぎ。「謳惑の戒壇」と言いがかりをつけて、もうあちらこちらで騒ぎだした訳です。
要は大石寺信徒内の主導権が取れなかった事に浅井親子が納得しなかったんでしょう。

でもこうして見ると、この広宣流布観とはあくまでも日本国内のローカルな話でしかなく、世界に開く理屈にならない。だから創価学会としては「世界広宣流布」という言葉を作り、大石寺臭さの脱却を目指し、「人間主義」という新たな仏教観点を打ち出して、まあ今に至るという処でしょう。

ここまで見てみると、広宣流布という言葉には「教勢拡大」という観点が付きまとっていますが、本来の意味はそうだったのでしょうか?

確かに日蓮はお題目を唱える人が増える姿と言うのを、各種の御書に書き残しています。

「皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり、日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」
(諸法実相抄)

しかしこれが広宣流布の求めた姿かというと、そうではないでしょう。これは鎌倉時代に日蓮一門が小数孤独な戦いの中で、それを鼓舞するために述べた言葉として受けとるのが妥当だと思います。

この広宣流布について、法華経の薬王菩薩本事品には以下の言葉があります。(有名な部分ですが紹介します)

「我が滅度の後後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶して悪魔・魔民・諸天・龍・夜叉・鳩槃荼等に其の便を得せしむることなかれ。宿王華、汝当に神通の力を以て是の経を守護すべし」

ここでは後後の五百歳、これは末法を指すという解釈ですが、世界にこの経典を広く宣べ、語り広めて行きなさいと言ってます。そしてそういう活動を通して、悪魔や魔民といった、人を苦しめる存在の動きを封じていくことを求めています。

これが本来の広宣流布なんですよね。
何も組織を拡大しろとか、そんな事は本来の意義として求めている訳ではなく、もし組織的に拡大したといっても、それはそういう事を進める上で副次的に出てくる事というだけでしょう。

しかし創価学会や顕正会といった組織では、本来副次的に出てくる姿を求めてしまい、本当に目指すべき姿を理解せずにここまで来てしまいました。

残念な事ですね。

また広宣流布というのは、単に慈善事業や福祉的な行動、また反戦的な活動を云うのではなく、この法華経を語り広めるという中で、その社会の中の人々の中に芽生えてくる心から出てくる姿であり、それも主体ではありません。

広宣流布とは法華経の志を受け継ぐ言論戦であり、中核には思想と哲学が確立してなければなりません。そしてそういう思想や哲学を多くの人に啓蒙し、社会を常に触発する活動でなければならないでしょう。

しかし大石寺を始め、創価学会もそういった言論戦であり思想戦という事を、あまりに軽く見すぎて来たのではありませんか?

そういった中軸がずれたままの行動では、当然の事、その先にあるのは広宣流布ではなく「悪魔・魔民」が跳梁跋扈する社会であり、いまの信濃町界隈はまさにそんな姿となってますよね。

そして信濃町界隈が関わってしまった日本という国にしても、人を目的とせずに、人を手段としてしか観ない世の中になってしまいました。

そろそろ「広宣流布」という言葉を安易に使うのではなく、本来の意義について再検討を始めなくてはならないでしょう。

日蓮門下、いや、仏教徒としては、ここが一番大事なのかもしれません。
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【20160726】立正安国論に学べ

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

今朝がた神奈川県津久井で発生した福祉施設の死傷事件、背景には一体何があるんでしょうか。
何か最近は変な事件が世界中にチラホラと発生しています。かのカール・グスタフ・ユング氏は、第一次対戦を深層心理の立場から予見していました。

要は個人個人の心の奥底に流れる無意識の中でおかしな動きを感じての事だったと思います。

いまの世界、イスラム国というテロ運動が表面に表れてはいますが、人類の奥底の意識の中で、一体何が起きているんでしょうね。

全くもって不気味な感じがする今日この頃です。

さて今日は立正安国論を元に少し記事を書いてみます。
日蓮門下の中では「予言の書」みたいな感じでこの御書を捉える風潮があります。しかし改めて読み直して見ると、これは「予言の書」ではないと僕は考えているのです。

確かにこの中で「自界叛逆難」と「他国侵逼難」を予見し、それは後に「二月騒動」と「文永・弘安の役」となって起きました。
これだけを考えると「日蓮はやはり本仏で、我々の計り知れない神通力をもって予言されたのだ」と思うのかも知れませんが、当時の鎌倉は日本の政治の中心地であり、幕府の中の不穏な空気を日蓮は察知していたかもしれませんし、日宋貿易で中国との交易も盛んであった事から、当時の元(蒙古)の動きも知っていたとしても、なんら不思議なことではありません。

大事なことは、世の中の情勢の表明的な事を読むのではなく、その奥底に流れている事に目を凝らすことが出来るのかと言うことです。

恐らく日蓮は、そういう処を鋭敏に感じていて、それを指摘するために経典を引用しただけなのではありませんかね?

何せ当時は政祭一致の社会で、その基本的な思想に仏教はありましたから、経典を引用しての指摘には、幕府にとってもそれだけインパクトがあるものであったと思います。

あと一つは、このことは本サイトの想学談林にも書いていますが、当時の仏教は「鎮護国家」が主たる役目でもありました。
だから「鎮護国家三部経」を儀式として講義して、その経典の持つ摩訶不思議な力を持って国の安寧を図ろうという考えがありました。

しかし日蓮はそれらの経典を全て法華経の解説書として位置付けし、法華経をあしく敬うということから人々の心が影響をうけ、そこから社会が混乱し、様々な災いが起きると述べたのです。

「神天上の法門」についても、けして擬人化した神様がいて国を護るとかではなく、人々の心の内にある「善性(善なる性質)」であり、社会の思想が狂うと、その心が人々の中から消えていくという事を述べたものだと思います。

また日蓮が延べたのは、自分の宗派を大事にしろとか、自分の主張する教えに従えという事ではなく、仏教開祖の釈迦の本意を求め、それを元に幕府は善政を敷くべきであり、その本意とは法華経にあるという事を主張したのであり、その為に国家鎮護三部経を引用して論理を組み立てています。

これが国家諫暁というものでした。

何も正義の教えを権力者に説くとか、そういう事ではなく、社会思想の本来あるべき論を呈示したまでの事です。
だからこの立正安国論には「国構えに民」という、貞観政要という幕府法制の元になった中国古代書にあった文字を随所に用いたと思うのです。

翻り現代に目を移しましょう。
今の時代は鎌倉時代の国家とは異なります。
社会制度は民主主義となり、政教分離の世の中です。日本は立憲民主主義の国となっていますよね。

こんな時代に教条的に立正安国論を述べた処で意味はなく、単に法華経を信じよ!日蓮を信じよ!などと言っても無意味であり、むしろカルトの謗りを受けるでしょう。

この時代にあって立正安国論を読むならば、やはり「人間主義」という事を念頭に置けるかどうかだと思います。

ここでいう人間主義とは、基本的な人権の尊重を元にした、人を手段とする社会ではなく、人を目的とする思想だと考えています。

法華経で何が説かれていたのか。
それは全ての人々は心の奥底に「仏性」を持ち、それぞれの人生にそれぞれ目的と意味を持ち生まれてきたという事です。

しかし現実には、日本において、例えば自公政権になり、小泉政権に於いては、竹中平蔵氏が主導して規制緩和が行われました。

規制緩和自体はけして悪ではありません。      問題はそこから人々は資本主義の部材として扱われるようになってしまい、本来企業の役目は社会の雇用確保というものから、単なる営利団体となってしまった事だと思います。

この一点を取ってもおかしな社会になったと思いますが、昨今ではこの自公政権は立憲民主主義を蔑ろにし始めていますよね。

安保法制などは最たるものでしょう。
先日、地元の壮年部と話をしましたが、今回の閣議決定で集団的自衛権を認めたことに「何が問題なんですか?」「なぜ憲法解釈を閣議で変更してはいけないのですか?」という発言をする体たらく。

政治に関わるのであれば、もっと学んで欲しいものですが、学ぶ姿勢すらありません。

こんな人間が政治の活動をしていて、果たして良いのか?
そんな事を実感もしましたが、それが今の創価学会であり、自称・日蓮直結の教団だそうです。

日蓮は鎌倉時代に於いて、大きな思想的な革命を行いました。しかし日蓮門下を名乗る創価学会を始めとした各教団は、一体何をしているのでしょうか?

もう一度、立正安国論を学び直せ!
またそれは教団が発刊する教材ではなく、自分自身の頭を使って取り組んで欲しいと思います。

「諸法実相」これは日蓮が述べた言葉でもありますが、諸法とは社会を示し、実相とは社会を作り出している人々の心を指すのです。

社会情勢が怪しい現代において、一人ひとりが取り組まねばならない事が、そこから見えてくるのではないですかね?

【20160531】創造者としての自分②

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ
創造者としての自分の事、まだまだ続きます。
仏法を現代に読み解くためには、やはり現代の思想の上で語る必要があると考えています。
そういう点から言えば、この「神との対話」は有用なテキストでもあると考えていますので、もう少し時間を費やす必要もあるかと。
という事で、今しばらくお付き合い下さい。
さて創造者としての自分という事で、話は続きます。

「すべての創造は思考から始まる。すべての創造は次に言葉になる。すべての創造は行為によって成就される。」
「あなたが考えるだけで言葉にださなくても、ひとつの段階での創造だ。考えて言葉にすれば、もうひとつの段階での創造になる。あなたが考え、語り、行動すると、具体的な現実になる」

ここでは人がその環境を創造するためのプロセスが語られています。

仏法では「依正不二」という言葉があります。
ここでいう依法とは環境を指し、正法とは自身を指し示しています。つまり環境と個人は常に関連性を持ちながら存在するのであり、その事についてここでは「創造」と言う言葉を使っているのだと思います。
正法(自分)が依法(環境)に影響を与えるプロセスというのは、前の記事にも書きましたが、仏法で述べる「身口意の三業」です。

人は常に物事を考え(意)、その考えが言葉となり(口)、それが行動として現れる(身)。
よく日本人は(特に昔の時代の男性諸氏は)「不言実行」を美徳としていました。
しかしこれを読むと、やはり自分が向かいたい方向の事については、言葉に出し、具体的な行動が大事だという事が改めて理解できます。

「ほんとうは信じていないことを考えたり、語ったり、行動したりすることはできない。だから、創造のプロセスには信念、つまり知るということが含まれる。絶対的信頼だ。願うだけでなく、確実にそうなると知っていなければならない。したがって、創造行為には、つねに知識が含まれる。何かを身体で理解し、まるごと確信する。「完全に受容する」ということだ。」

これはとても重要な事を述べています。

僕が学会で活動をしていた時、よく男子部員などは「祈っても全然叶わない」という言葉を耳にしました。
しかしその話をよく聞いてみると、ここにある「ほんとうは信じていないことを考えたり、語ったり、行動したりすることはできない。」という事と同様な時が多々ありました。
本人はさも必死に願望を祈ります。

しかし実はそれは単なる「思い付き」であったりして。だから本気にもなっていないし、その結果として行動も伴わない。
要は思い付きを「願望」とし、単にお題目を唱えているだけ。

それでは「祈りが叶う」という事は無いのです。
祈りを叶えるためには「自分はこうなっていくんだ!」という、ここで言うところの「信念」がまずは大事になってきます。

そしてこの信念の裏付けになる事は「知る」という事が含まれますが、これは何を知るのか。それは「己自身を知る」という事でしょう。
その祈りを自分自身が信じているのかいないのか。
信じていなければ当然、それが叶う事はありません。

また大事な事として「願うだけでなく、確実にそうなると知っていなければならない」という言葉にある様に、自分自身が言葉に出したとして、その祈りが自分自身、どの様に叶える事が出来るのか、そのプロセスを知らなければならないという事です。つまり「祈り」の中には当然「棚から牡丹餅」という事はありえないという事です。

だからここでは「創造行為には、つねに知識が含まれる。何かを身体で理解し、まるごと確信する。「完全に受容する」ということだ。」という言葉で述べていると思われます。



「そこまでわかっていれば、強い感謝の気持ちが生まれる。感謝せずにはいられない。それがたぶん、創造最大の鍵だ。創造が具体化する前に、創造に感謝することだ。願いは当然かなえられると信じることだ。そう信じてもいいどころか、信じたほうがいいのだ。それこそが悟りの確実なしるしだ。すべての〈マスター〉はあらかじめ、ことが成就すると知っていた」
「あなたが創造するすべて、創造したすべてを祝福し、楽しみなさい。一部でも否定すれば、自分の一部を否定することになる。あなたの創造の一部としてどんなものが現れようとも、それを自分のものとし、祝福し、感謝しなさい。非難しないように努めなさい。非難するのは、自分を非難することだからだ」

祈りを叶えるという事(創造)のプロセスの重要性、また自分自身を知るという事の大事さと共に、ここでは「感謝」という事の大事さを述べています。

先の段とも重なるのですが「完全に需要する」という事は、創造のプロセスの結果として現れた(創造された)結果についての需要(受け入れ)と共に、その結果については、内容如何に関わらず「感謝」する自分自身である事が大事だというのです。

この「神との対話」で記述されている内容は、実は別の書物である「ザ・シークレット-秘密の法」という書籍に書かれている事と重複しますが、そこにおいても、一番重要な事は「感謝」という事だと書かれています。

人の人生、そしてそこを取り巻く環境というのは、まさにその人が「創造したもの」であり、良くも悪くもその人の「心=一念」が作り出した世界だという事が理解できれば、そこに自ずから「感謝」という感情が湧き出します。
しかし「こんな事は祈っていない」という事だとすれば、それは「怨恨」につながり、その先にあるのは「自分自身の非難=自己の否定」という事につながってしまいます。
この事について、日蓮の御書にも同様の言葉があります。

「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや、いよいよ強盛の信力をいたし給へ」(四条金吾殿御返事)
ここでは苦楽ともに思い合わせて、つまり目を背ける事なく御題目を唱えていきなさい。それこそが自受法楽(自分自身で望んで受ける法楽)であると述べ、いよいよ強盛の信力(自分自身を信じる力)を出していきなさいと述べています。

よく「創造」という言葉を考えてみると、それは即「願望成就」という観点の話で捉えがちですが、実はここでいう「創造」というのは、瞬間瞬間、人間は自分自身の生きる環境を作り出しているという話の「創造」であって、それが即ち「心で思い描いた願望成就」という訳ではない事が、ここまで考えてみると理解できませんか?

大事な事は自分自身が常に自身の周囲の環境を「作り出す=創造する」主体者だという自覚と、その自覚から自己自身を知り、如何に自分自身の人生を「有意義なものにしていくのか」という事についての事柄が、ここでは書かれているのではないでしょうか。

【20150526】創造者としての自身

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

さてさて「神との対話」について進めてみます。あー、そうそう、当体義抄もやりますが、少しの間はこちらを書かせてください。

このちまちま考えてしまうのは、僕の悪い癖だと思うのですが、こればかりはどーにも為らない性分のようですので。

さて前回の「祈りと創造」の続きです。
「②神は創造者だ」

この言葉が前回に続いてありましたが、これを読むとついつい「キリスト教の絶対神」みたいな事を想像してしまいます。
しかしこの本、こんな視点で読み始めてしまったら、これほど下らない本はないでしょうし、著者であるニール・ドナルド・ウォルシュ氏もがっかりすることでしょう。

この前段で、人々は「神に似せて創られた」とありますが、この神と言うのは、前回の記事に書いたように、この宇宙の始まりから存在していた生命の本源というものです。

つまるところ、この世界はそこから創り出されたものであり、この創造の源と我々一人一人も同じ存在であるという事から、この対話はスタートしています。

ここでは便宜上「神は創造者だ」と述べていますが、あえて仏法の理論的に言えば、総じて一人一人の人間も、環境(自分の周囲の世界)の創造者だという事に他なりません。

そしてこの思想は一念三千にもつながるモノだと思います。

ホームページ等にも「諸法実相」という事で書きましたが、ここで再度復習します。

仏法では瞬間の心を「一念」と呼び、それは三千羅列だと述べていますが、これをもう少し噛み砕いて読み進めてみます。

瞬間の一念の心は「相」として見た目に現れます。それは顔の表情であったり、言葉であったり行動であるわけです。そしてその心には性質も備わり、この「相」と「性質」が合わさり「体」となります。

この瞬間の一念から派生した「体」は周囲に対して作用する「力」があり、それが環境に様々な「作用」を起こします。

その作用により「原因」を作り出してしまい、その原因は心の奥底深くに蓄えられます。

ここまでは瞬間瞬間の働きですね。
ちょっとややこしいのは、この原因が結果として顕在化するには時間差があると言うことです。

ただ仏法では「因果倶時」と述べてますので、原因を作り出した段階で「結果」も既にそこに内在していると捉えます。

ただその内在した「結果」はと言えば、時の経過で何かしらの合致した「縁」により「結果」として顕在化して来るのです。

そして顕在化した「結果」は自分の一念に対して「報い」をもたらします。この報いには善悪はありません。善悪を判断するのは、受けた本人の心であり一念です。
「相」「報」までは一貫して一念の心から起きていることを「本末究竟等」と呼びます。

この一連の働きというのが、個人に止まらずに社会に、そして住んでいる場所等にも同様の関連性を持った働きがあると云うのが三世間の考え方であり、心の瞬間瞬間の動きが「十界互倶」という言葉で表現されています。

なぜ仏の別名を「如来」と呼ぶかと言えば「如如として来る」という様に、こう言った瞬間瞬間の一念の動きや働きを知り尽くしているからです。

この様に様々な瞬間瞬間の一念と、それが周囲に働きかけ、それがまた一念にフィードバックされるという事の繰り返しが人生であり、それはとりもなおさず「創造者」としての働きそのものであるといえませんかね?

だから「神は創造者だ」という言葉に僕は何ら違和感を感じることなく、将にその通りだと感じてしまいました。

「あなたがたは三つが一体となった存在だ。その三つをどう呼んでも良い。父と子と聖霊でもいいし、精神と身体と霊でもいいし、超意識と意識と無意識でもいい。」
「創造とはその三つの部分から生ずるプロセスである。言い換えれば、あなたがたの創造には三つの段階がある。創造の道具は思考、言葉、行為だ。」


ここでいう三つというのが、これまたとても興味深い言葉です。

仏法では仏の姿として「一身即三身」というものがあります。

法身とは生命の本質、過去から未来に一貫性を持つ身です。報身とは知恵の働き、応身とはこの二つの特性を備えた肉体です。

また「身口意の三業」ということもありますね。行動、言動、そして意識(心)です。これはさき言葉と一致します。
人生を作り出すのは身口意の業(働き)であり、その働き(プロセス)の実態は法報応の三身であるのです。

よく「祈りとして叶わざるなしの御本尊」と創価学会では言ってます。また宗門の人は「御法主上人貎下の認めた(許可した)正しい本尊」だから祈りが叶うと云います。

しかしこの「祈りを叶える(創造する)」は人間が本源的に持ち合わせた力用であり、それは身口意の三つの行い(業)により進むというのです。

得てして祈りの叶わないという人は、この三業のいずれかのプロセスを蔑ろにしていたりします。また当然の事、そこに「御本尊」という対境の真偽などは関係ないのです。

人生の環境の創造者たる自身。
なんとも興味深い言葉だとは思いませんか?

【20160523】祈りと創造について①

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

「神との対話」をちまちまと読み込んでいます。僕は今まで創価学会の中で仏法の初門を学び、それ以降に他の書籍等を様々読み込んでいますが、その前提からこの本を読んでみると、またそれは興味深い事が見つかったりします。

この本の中で「人生をどう上向きにするのか」という著者の質問にたいしての回答が興味深い内容だったので、少し書いてみます。

「人生は創造であって、発見ではない。あなたがたは、人生に何が用意されているかを発見するために毎日生きているのではなく、創造するために生きている。自分ではわかっていないだろうが、あなたがたは、一瞬一瞬、自分の現実を創造している。」

実はこれに近い言葉というのは華厳経に説かれています。内容を少し以下に紹介します。

「誓えば工みなる画師の、諸の彩色を分布するが如し。虚妄に異色を取るも、四大に差別無し。」

喩えば巧みな画家が、さまざまの彩色を塗り分けるようなものである。〔彼は〕迷いつつ異なった色を用いるが、〔それらの色は、みな地・水・火・風の〕四元素〔から成るのであって、これ〕に区別はない。

「四大は彩色に非ず、彩色は四大に非ざるも、四大の体を離れて而も別に彩色有るに非ず。」

〔もちろん、この場合〕四元素〔そのもの〕が彩色ではなく、彩色〔そのもの〕が四元素であるわけではないが、〔同時に〕四元素の本体を離れて別に彩色があるのでもない。

「心は彩画せらるるに色に非ず、彩画せらるる色は心に非ざるも、心を離れて画かるる色無く、画かるる色を離れて心無し。」

〔また、画家の描く〕心が彩り描かれる色ではなく、彩り描かれる色が心ではないが、その心を離れて描かれる色はなく、描かれる色を離れて心はない。

「彼の心は常住ならず、無量にして思議し難し。一切の色を顕現するも、各々相知らず。」

その心は、永遠・不滅ではなく、無量であって、思いはかることはむずかしい。〔それは〕一切の色を現し出すが、それぞれ互いに相知らない。

「心は工みなる画師の、種々の五陰を画くが如く、一切の世界の中に、法として造らざる無し。」

心は、巧みな画家が、〔物質・感受・想念・意思・認識という〕さまざまの五陰〔から成る人〕を描き上げるように、一切の世界においてあらゆるものを造り出す。

「心の如く仏も亦た爾り。仏の如く衆生も然り。心と仏と及び衆生と、是の三に差別無し。」

心のように、仏もそうであり、仏のように、衆生もそうである。心と仏と衆生との三者には、区別はない。

「諸仏は、悉く一切は心より転ずと了知したもう。若し能く是の如く解せば、彼の人は真の仏を見ん。」

仏たちは、みな、一切のものは心から起こるということをはっきりと知っておられる。もしもこのように理解することができれば、その人は真の仏を見るだろう。

「心も亦た是れ身に非ず、身も亦た是れ心に非ざるも、一切の仏事を作すに、自在なること未曾有なり。」

〔だが、その〕心は身ではなく、身も心ではない。〔しかも両者は、かかわりあって〕いまだかつてなかったほど自在に、一切の仏事を行う。

「若し人、三世の一切の仏を求知せんと欲せば、応当に是の如く観ずべし、心は諸の如来を造る、と。」

もしも人が、三世の一切の仏を知りたいと思うなら、このように観察すべきである。心がもろもろの仏を造る、と。

ここで華厳経では心を画家(画師)として一切のものを造り出している事を述べていますが、これは「神との対話」そのものとリンクしています。
画家とは描き出す対象を観察して模写している訳ではなく、その対象が画家個人の心証の中にどの様に写し出されたかを「創造」する立場であり、これは将に同じことを述べています。

この著者のニール・ドナルド・ウォルシュ氏がどれだけ東洋哲学、なかんずく仏教に造詣が深いかは知りませんが、かなり華厳経の言葉に近いことを述べています。これ自体はとても興味深いことです。

そして対話は続きます。
「どうしてそうなるのか、どんなふうに創造しているのかをまとめてみよう」

「①わたしは神の姿をかたどり、神に似せて、あなたがたを創造した」


ここで気を付けなければならないのは、著者の基本になっているのはキリスト教を根本にした思想にあるということです。
人は言葉や文字で伝達する場合、自身が認知している情報を基にしてしまうものです。
だからここで「神の姿」とか「創造した」という単語から「天地創造=キリスト教」というレッテルを貼った思考で捉えるべきではありません。
ここでいう「神」というのは、この宇宙に存在する命の本体としての存在であり、この神との対話によれば、我々はその存在が自身を認識し体験するための分身として存在するというのです。

話は少し変わりますが、日蓮は天台学僧の最蓮房から「血脈」について問われ、それに回答したものが「生死一大事血脈」です。
そこには以下の言葉があります。

「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり」

ここで日蓮が述べた要旨と、さきの言葉の要旨は、極めて酷似している事ではありませんか?

人生を上向きにさせる第一の要諦としてこの言葉が述べられているのには、これが大前提であるという事でしょう。

人はまず自身を否定します。
「自分ほどどうしようも無い人間はいない」「自分ほど不幸な人間はいない」等々。自分を否定する言葉のバリエーションには事欠かない位です。
そして宗教に依存するのは、そんなどうしようも無い存在だと否定する自分の救済を求める事から始まります。

僕が男子部に入りたての頃、先輩に言われたのは「信心とは自己否定から始まる」でした。これはつまり今いる自分が無力で学もなく、どうしようも無い存在だと認識することから始まるというのです。

しかし信仰の本来の目指すところとは、自分自身を信じる事にあるにではないでしょうか。

例えば日蓮仏法では文字曼荼羅を本尊とします。それは「観心の本尊」であり、顕された虚空会の姿その物が自分の中にあると「観じる」為の本尊です。
そして勤行とは、それを日々確認するための修法だと僕は理解しています。

世の中には苦悩にうちひしがれ、嘆き悲しむ人がごまんと居ます。そしてその多くが自分自身を否定して受け入れることが出来ません。

しかし人生を上向かせる大前提は、その自分自身を認め、受け入れることだというのです。その自身の尊厳があってこそ、人生に価値を感じることが出来る。

ここではその事を述べているように思うのです。

あれー、紙面が無くなってきました。
続きはまた次回に。

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