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想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   
カテゴリー「神との対話」の記事一覧

【20160523】祈りと創造について①

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

「神との対話」をちまちまと読み込んでいます。僕は今まで創価学会の中で仏法の初門を学び、それ以降に他の書籍等を様々読み込んでいますが、その前提からこの本を読んでみると、またそれは興味深い事が見つかったりします。

この本の中で「人生をどう上向きにするのか」という著者の質問にたいしての回答が興味深い内容だったので、少し書いてみます。

「人生は創造であって、発見ではない。あなたがたは、人生に何が用意されているかを発見するために毎日生きているのではなく、創造するために生きている。自分ではわかっていないだろうが、あなたがたは、一瞬一瞬、自分の現実を創造している。」

実はこれに近い言葉というのは華厳経に説かれています。内容を少し以下に紹介します。

「誓えば工みなる画師の、諸の彩色を分布するが如し。虚妄に異色を取るも、四大に差別無し。」

喩えば巧みな画家が、さまざまの彩色を塗り分けるようなものである。〔彼は〕迷いつつ異なった色を用いるが、〔それらの色は、みな地・水・火・風の〕四元素〔から成るのであって、これ〕に区別はない。

「四大は彩色に非ず、彩色は四大に非ざるも、四大の体を離れて而も別に彩色有るに非ず。」

〔もちろん、この場合〕四元素〔そのもの〕が彩色ではなく、彩色〔そのもの〕が四元素であるわけではないが、〔同時に〕四元素の本体を離れて別に彩色があるのでもない。

「心は彩画せらるるに色に非ず、彩画せらるる色は心に非ざるも、心を離れて画かるる色無く、画かるる色を離れて心無し。」

〔また、画家の描く〕心が彩り描かれる色ではなく、彩り描かれる色が心ではないが、その心を離れて描かれる色はなく、描かれる色を離れて心はない。

「彼の心は常住ならず、無量にして思議し難し。一切の色を顕現するも、各々相知らず。」

その心は、永遠・不滅ではなく、無量であって、思いはかることはむずかしい。〔それは〕一切の色を現し出すが、それぞれ互いに相知らない。

「心は工みなる画師の、種々の五陰を画くが如く、一切の世界の中に、法として造らざる無し。」

心は、巧みな画家が、〔物質・感受・想念・意思・認識という〕さまざまの五陰〔から成る人〕を描き上げるように、一切の世界においてあらゆるものを造り出す。

「心の如く仏も亦た爾り。仏の如く衆生も然り。心と仏と及び衆生と、是の三に差別無し。」

心のように、仏もそうであり、仏のように、衆生もそうである。心と仏と衆生との三者には、区別はない。

「諸仏は、悉く一切は心より転ずと了知したもう。若し能く是の如く解せば、彼の人は真の仏を見ん。」

仏たちは、みな、一切のものは心から起こるということをはっきりと知っておられる。もしもこのように理解することができれば、その人は真の仏を見るだろう。

「心も亦た是れ身に非ず、身も亦た是れ心に非ざるも、一切の仏事を作すに、自在なること未曾有なり。」

〔だが、その〕心は身ではなく、身も心ではない。〔しかも両者は、かかわりあって〕いまだかつてなかったほど自在に、一切の仏事を行う。

「若し人、三世の一切の仏を求知せんと欲せば、応当に是の如く観ずべし、心は諸の如来を造る、と。」

もしも人が、三世の一切の仏を知りたいと思うなら、このように観察すべきである。心がもろもろの仏を造る、と。

ここで華厳経では心を画家(画師)として一切のものを造り出している事を述べていますが、これは「神との対話」そのものとリンクしています。
画家とは描き出す対象を観察して模写している訳ではなく、その対象が画家個人の心証の中にどの様に写し出されたかを「創造」する立場であり、これは将に同じことを述べています。

この著者のニール・ドナルド・ウォルシュ氏がどれだけ東洋哲学、なかんずく仏教に造詣が深いかは知りませんが、かなり華厳経の言葉に近いことを述べています。これ自体はとても興味深いことです。

そして対話は続きます。
「どうしてそうなるのか、どんなふうに創造しているのかをまとめてみよう」

「①わたしは神の姿をかたどり、神に似せて、あなたがたを創造した」


ここで気を付けなければならないのは、著者の基本になっているのはキリスト教を根本にした思想にあるということです。
人は言葉や文字で伝達する場合、自身が認知している情報を基にしてしまうものです。
だからここで「神の姿」とか「創造した」という単語から「天地創造=キリスト教」というレッテルを貼った思考で捉えるべきではありません。
ここでいう「神」というのは、この宇宙に存在する命の本体としての存在であり、この神との対話によれば、我々はその存在が自身を認識し体験するための分身として存在するというのです。

話は少し変わりますが、日蓮は天台学僧の最蓮房から「血脈」について問われ、それに回答したものが「生死一大事血脈」です。
そこには以下の言葉があります。

「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり」

ここで日蓮が述べた要旨と、さきの言葉の要旨は、極めて酷似している事ではありませんか?

人生を上向きにさせる第一の要諦としてこの言葉が述べられているのには、これが大前提であるという事でしょう。

人はまず自身を否定します。
「自分ほどどうしようも無い人間はいない」「自分ほど不幸な人間はいない」等々。自分を否定する言葉のバリエーションには事欠かない位です。
そして宗教に依存するのは、そんなどうしようも無い存在だと否定する自分の救済を求める事から始まります。

僕が男子部に入りたての頃、先輩に言われたのは「信心とは自己否定から始まる」でした。これはつまり今いる自分が無力で学もなく、どうしようも無い存在だと認識することから始まるというのです。

しかし信仰の本来の目指すところとは、自分自身を信じる事にあるにではないでしょうか。

例えば日蓮仏法では文字曼荼羅を本尊とします。それは「観心の本尊」であり、顕された虚空会の姿その物が自分の中にあると「観じる」為の本尊です。
そして勤行とは、それを日々確認するための修法だと僕は理解しています。

世の中には苦悩にうちひしがれ、嘆き悲しむ人がごまんと居ます。そしてその多くが自分自身を否定して受け入れることが出来ません。

しかし人生を上向かせる大前提は、その自分自身を認め、受け入れることだというのです。その自身の尊厳があってこそ、人生に価値を感じることが出来る。

ここではその事を述べているように思うのです。

あれー、紙面が無くなってきました。
続きはまた次回に。
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【20160518】神との対話を読んで②。人生の目的への視点

こんにちは(´・ω・`)

今日は先ほどまで「臨終用心抄」を読んでいました。
それを読み進んだ後、この「神との対話」で読み感じた事について、ここで少し記録をしておきたいと思い、ブログの記事にします。

いやー、創価学会の事や公明党の事で、言いたい事や書きたい事は山ほどあります。
そればかりではありません。今の日本の社会や世界の事についても、言いたい事は山盛りあります。

しかしそういった感情とは別に、自分の人生とはどういったものなのか。そういう根源的な事についても、僕としては学んでいきたいという欲求もあります。そうなるとただ学会問題への指摘や、社会へのモノ言いばかりではなく、自分自身を省みるために学ぶ時間も必要だと思うんですよね。

以前、ある元職員の人と語らった事があります。
この方は信濃町界隈の片隅で仕事をしていた人でしたが、その状況に呆れてしまったようで退職。その後は自身で起業し、仕事をしていました。

その人からは「運ちゃんも学会書籍や仏教書だけではなく、西洋哲学にも眼を向けた方が良いよ」と言われました。

当時はそんなものなんかな~・・・と漠然とした感覚しかありませんでしたが、考えてみると昨今の思想関係で言えば、西欧の学識者等の書籍の方が、より深淵なテーマを扱っているものも多くある事を感じます。

僕が常々「志の見直し」という言葉を言うのも、実は僕自身の心の奥底にこういった西欧の「新たな視点」というものに触発を受けている事があるのかもしれません。

さてさて前文が長くなりましたが本題です。
この「神との対話」には以下の言葉がありました。

「魂ーあなたがたの魂ーは、知る必要のあることがすべて知っている。隠されている事は何もないし、知らされていないことは何もない。だが知っていることだけでは充分ではない。魂は体験したがっている。」

これは中々示唆に富んだ言葉だと思いました。
法華経の久遠実成について、このブログでも幾たびか取り上げてきました。

仏教では「成仏」と言えば、一般的には修行につぐ修行を行い、その先に「悟り」を得て到達できる境地を「成仏」と言っていますが、これは法華経で久遠実成を明かされる前の考え方です。

久遠実成では「五百塵点劫」という思案も及ばない様な遠い昔に釈迦は既に成仏していたという視点に立っています。そしてその立脚点から、例えば雪山童子や楽法梵志などの過去世の釈迦の修行という観点を観てみると、実はこれら修行時でも釈迦は既に「成仏」を為した後の行動であるわけです。

本来、仏という立場であれば「すべてを知り尽くしている」というものであるにも関わらず、鬼神となった帝釈天王に身を投げ、ろうそくが無いと肘を自ら焼くという修行をした事になります。

それは何故なのか?

法華経においては「我本行菩薩道」として「人々を導く菩薩の姿・行動」と述べていますが、これを別な角度で言えば「経験したがっている」という事と合致すると思います。ここでいう「経験したがっている」という事ですが、単なる経験を欲しての行動ではなく、魂として理解をしている事を経験を通して実感するという言葉で言った方がいいでしょう。

また仏教で説かれている生命の構造では「阿頼耶識(蔵識)」というのがあります。
これは久遠の昔からの記憶を蓄えている意識と言われていますが、それはまさに「知る必要のあることがすべて知っている」に通じるものかと思います。

「然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり、此の八万法蔵を我が心中に孕み持ち懐き持ちたり我が身中の心を以て仏と法と浄土とを我が身より外に思い願い求むるを迷いとは云うなり」(三世諸仏総勘文教相廃立)

ここで日蓮も一切経典は「我身一人の日記」と述べている事も、この言葉に通じている事だと思えてなりません。

「おいおい!外道の言葉を用いて、それは催尊入卑(卑しい教えに貶める事)だろう。」

そんな事を言う偏狭な人もいると思いますが、仏教を現代に理解しやすくするために、改めて新しい表現というものも必要でしょう。また過去においてもそうですが、仏教とは様々な思想と交流しながら、その深化を促進してきた思想だったのではありませんか?

今の時代にあって、こういった様々な思想に触れ、そこから思索をより深め活発にするという事が、とても大事な事だと僕は感じてなりません。


【20160517】神との対話を読んで①

こんにちは( *・ω・)ノ

今日は雨で憂鬱な朝です。
でもまあ憂鬱な日がないと、スッキリとした朝の素晴らしさも解らないので、こういう朝も大事だと思ってます。

実は仕事で失態があり、それがこの憂鬱な気分を増大させてます。トラブル切り分けでお客様先に設置していた機器が故障し、記録が取れなかったという事。

全くもっていろんな事があるものです。

さて本題。
ニールド・ナルドウォルシュの「神との対話」という本を、只今チマチマと読み始めてますが、これが中々興味深い内容でした。

僕は創価学会の活動を離れてから、拘り無く様々な書籍に目を通してきましたが、特に思想系に関して云えば、結構同じ事を述べているものがありました。

代表的な処で云えば、J.L.ホイットン著の「輪廻転生ー現代の神話」やソギャル・リンポチェ著の「チベット生と死の書」。また変わったところではジャン=ピエールプチの「宇宙人ユミットからの手紙」もそうですし、キュブラー・ロス著の「死ぬ瞬間の書」なんかもそうでした。

あー、あとガール・グスタフ・ユングの深層心理学関係もそうです。

あれ、何かこう取り上げてみると東洋より西洋のものが多い感じもしますね、まあ良いかと。

これらの著者は医者や学者で、しかもとても理性的な人たちです。また時代も場所も異なるのに、思想的に大きな共通性があるということは、とても興味深いものですね。

さて話の本筋を戻します。
この記事ですが、通勤途中に書いてますので、あくまでも記憶をもとに書いてます。だから細かい文献引用が出来てない処はご容赦下さい。

「神との対話」では著者が苦悩と失意のどん底の中で、自分の人生を神に呪うところから始まっています。まあ、呪うと言ってもこれはよくある話で「なぜこんな人生を送らなければならないのだ!」という切なる叫びとでも言った方が良いでしょうか。

それに対して自動書記的な事が起きて、そこからこの本が始まっていました。

ここで登場する「神」とは確かにキリスト教の言葉を引用していたりしますが、所謂「ヤソ教(ユダヤ、キリスト、イスラム教)」の神(God)ではありません。
どちらかと云えば、大いなる自我というか、生命の本体そのものと表現しても良いかと思います。

この中では「個人=自我」とは如何なる存在なのか、そしてこの宇宙の成り立ちは如何にして始まったのか。そこから話が始まっています。

さてさて、、、ちょっとニューエイジ的な内容になっていきますので、苦手な方は読み飛ばして下さいね。

そもそもこの世界には一つの「自我」があったと云うことです。ただ存在しているだけで、単体であることから他と自身すら比較が出来ず、自分が何者か、どの様な存在なのか知ることも理解することも出来なかった。

その為に自身を二つに分けた。
それにより相対的に自身を知ることが出来たが、より自身を知るため、また様々な経験を得るために「物質世界」を作り出して、そこに自身の分身を送り込んだというのです。

ここで「分身」と述べていますが、これはオリジナルその物であり、要は比較相対するために作り出したとは云え、この別れた存在も自分であり、神そのものと同じ存在である。

ざっくり云うと、こんな事を語っているわけです。

だから著者に語りかけた神と、著者は実は大本をたどれば同じ存在であり、神自身が比較相対し経験を得るための存在として著者もいると云うのです。
(著者が経験している苦悩も、ここでいう神の経験でもあるという事)

ここで興味深い事が二つ出てきています。

一つは「自我=自分」という存在の定義について、もう一つはビックバンを始めとした宇宙の成り立ちについて。

仏教では「如我等無異」という言葉があります。そして中古天台の流れと言われてますが、当体義抄で語られているのは、この自分達が妙法蓮華経の当体であり、久遠元初から仏であるという事です。

ここでいう「久遠」というのは、タイムスケールの様に考えられ勝ちですが、要は根本的・本質的という意味合いがあります。

また自我偈の最後にある「毎自作是念」というのも、仏が常に考えているのは、如何にして人々の仏性を開いていくのか。つまり内在している本質的な仏の性質を開くのかという事ですね。

この「神との対話」では、語りかけて来た神は「あなたは私自身でもある」と云うことを述べていますが、これは法華経の久遠実成と同じ事を述べていると云えないでしょうか?

貴方達も元来仏なのだ、という言葉と。

そして法華経ではこの舎婆世界を「衆生が游楽するところ」と述べていますが、この神との対話の神は「自身が相対的な存在として、様々な経験をする場所」と呼んでいました。

人が語るとき、そこには文化や民族性というのが絡みます。人が表現する場合、自分自身の文化的な背景の言葉で述べる事から、この著作のベースにキリスト教の言葉があるのは当然です。

大事なことは、そこから何を読み取れるかであり、日蓮はそれを「文底秘沈」と読んでいました。

であるならば、日蓮門下はこういう古今東西の思想哲学を、より学べるはずだと思いますが、実際にはそれが一番出来ない人たちになってますよね。

さてさて、この話はこれからも継続します。今日はここで時間切れとなりましたので、

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