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想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   

【20170717】「立正安国論の指導原理」を拝見して②

師弟不二ARCHIVE「立正安国論の指導原理について」


そういう事で早速ですが、読み進んで行きたいと思います。

創価学会の平和運動の基盤は、日蓮大聖人の立正安国論の精神にあり、正法を根底において、世界の平和の繁栄を確立しようとするものです。大聖人は、法体の広宣流布を確立されるとともに、未来における化儀の広宣流布の時代のために、あらゆる指導原理を残されました。日蓮仏法は、一宗一派の独占物ではなく人類の至宝ともいうべき共有財産です。なかでも立正安国論は、日蓮仏法の最高峰にそびえ立つ「平和の思想書」とも言えるでしょう。

これが冒頭に述べられている言葉です。

この言葉は当に創価学会設立当初から、創価学会として理解している「立正安国論」について語っている内容であり、まさに模範解答ともいうべき内容です。

しかし昨今の公明党を通じての国内の動き、また信濃町界隈から漏れ伝わる組織としての在り方、これはこの冒頭にある言葉とは相いれない状況となっています。僕はその原因について、実際には創価学会の活動家の中の「思想・思索に対する軽視」というものがあり、自分たちが信じる思想哲学に対して、あまりにも真摯でない事があると考えているのです。

そしてその考え方が、実はすでにこの冒頭に現れているのではないでしょうか?

例えばここで「正法」と述べていますが、それは一体何を指していますか?
日蓮が立正安国論で述べている「正・悪」というのは、単に現代でいうところの「正義と邪悪」という二元論の事ではありません。

日蓮が述べて「正法」とは「正しい法解釈」の事であり、「悪法」とは「悪しき法解釈」の事を述べているのです。そしてその「法」とは間違いなく「仏法」の事であり、日蓮はこの仏法の骨髄には法華経があって、その法華経を中心として仏法を理解し解釈する事を「正法」と述べ、法華経に依らずに仏法を解釈する事を「悪法」と呼んでいるのです。

創価学会では単純に「南無妙法蓮華経」を宇宙のリズムとか、宇宙に遍満する法則とかのべて、その南無妙法蓮華経を「正法」と捉えたりする論もありますが、実は「正法」と安易に述べている軸がぶれている事に気付いていないのです。

またそこに気付きも無い事から、安易な「池田思想・哲学」を「正法」に組み入れ認識し、それも日蓮の説いた教えに通じると信じ、理解している事から、結果として創価学会の活動家の思考パターンとして、物事を深く認識・理解するというスタンスを取られ無くしてしまっています。

あと一つ。日蓮は現代の日本人が理解している様な「平和思想」を考えていたわけではありません。ここで「創価学会の平和運動の基盤は、日蓮大聖人の立正安国論の精神にあり」と安易に述べていますが、日蓮は戦争(戦乱)を単純に反対している訳では無いのです。

「国を失い家を滅せば何れの所にか世を遁れん汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か、」
(同、立正安国論)
「速かに蒙古国の人を調伏して我が国を安泰ならしめ給え」
(北条時宗への御状)

日蓮は立正安国論で「国」と述べていますが、これは現代の国家とは若干異なります。しかし民族の集合体として、また対外国に対する組織としての「国」を捉えており、他国から責められている事について「調伏して」と述べています。この「調伏」ですが、一般的には護摩祈祷を執り行う事と理解されもしますが、別の読み方としては「外からの敵や悪を教化して、成道に至る障害を取り除くこと。」と述べ、これは現代に言えば外交交渉にもつながる言葉となっています。

「戦争(せんそう)とは、複数の集団の間で行われる、国際紛争の武力解決である。」とある様に、現代においては「外交の延長」として国家間の外交問題の解決法とも言えますが、創価学会の平和思想というのは、実はそれほど深い思索に基づく事では無かったことが、昨今の公明党の取る一連の行動、またそれに反対する創価学会員の行動にも見て取れます。

創価学会も一時期は共同歩調をとった平和学の世界的権威であるヨハン・ガルトゥング博士は
「「日本には平和運動(Movement)がない。あるのは反応(Reaction)だけだ。憲法9条を安眠枕に寝続けている。起きて未来に向けてクリエイティブに何ができるのか右派左派を超えて考えねばならない」と述べ、「日本には何かに反対するムードで覆っている。政府が恐れるのは反対ではなく代替案を国民が出してくることだ」と先日来日の砌に述べていました。

そうであれば、創価学会として単に憲法九条の護持という事だけではなく、現実路線の上での「平和」をどの様に構築していくのか、しっかりとしたビジョンなり、ポリシーを公に発表しなければならないところ、そういった議論にすら行きつかない状況ではありませんか?

「平和」の対義語は「戦争」ではなく「騒乱」です。
そして「戦争」とは国家観の外交の延長戦上にある事であれば、当然現実の国際外交という事を認識せねばならず、その前提として「国家の平和」を語らなければならないところ、そういう事を語れる人材は、実際に創価学会の中にどれだけいるんでしょうか?

さみしい事に公明党の「遠山議員」が「平和博士」を詐称し、適当な事を述べ、活動家は無批判にその遠山議員の言葉を賛同し、それに反対する会員の多くは国内左派の言動の焼き写しの様な議論でしか、遠山議員の言葉に対して反論が出来ていない。

これが実際の創価学会の取り組んで来た「平和運動」の結果でしかないのです。
その事を理解できているのであれば、安易にこの様な冒頭の言葉は出ないと僕は考えているのです。

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【20170717】「立正安国論の指導原理」を拝見して①

こんにちは(´・ω・`)

ツィッターで少し触れましたが、「師弟不二ARCHIVE」というサイトに「立正安国論の指導原理について」という論文が掲載されていました。総数30編から構成されている、それなりの論文です。

師弟不二ARCHIVE「立正安国論の指導原理について」

僕自身、立正安国論を幾度か読み返し、自分の目線で考えてみましたが、この安国論自体には日蓮の生涯を通しての想いが記されており、そこで提起されている内容は、よくできていると感じました。ただしこの日蓮の論文を、そのままダイレクトに文字面を読み進めたとしても、それは現代に役立つモノにはならないと感じています。その理由ですが、まず第一にこの立正安国論というのは鎌倉時代の社会に対して、鎌倉時代の仏法僧、また「法華経の行者」として書かれたものであり、現代の社会にそれが即ち当てはまるとは考えていません。

大事な事は日蓮がこの「立正安国論」を以って、何を論及したかったのか、その骨髄を読み取り、それを現代において一人ひとりが「自身の声」で語る事をしなければ、所詮は単なる「国宝・立正安国論」に過ぎなくなってしまいます。

またそういう点から考えた時、どの様な視点でこの論文を捉え、そして語るのかによって、その内容が異なってしまうと考えてもいます。

例えば日本において、昭和初期の時代に「日蓮思想」というものは隆盛を誇りました。
筆頭は田中智学の「国柱会」であり、そのほかで言えば、二二六事件を引き起こした皇道派青年将校の理論的指導者として名前があがった北一輝などがいます。また牧口常三郎もその中に入るでしょう。

この両名の思想の根底にはそれぞれの「日蓮思想」があり、そこには当然「立正安国論」への思想もありました。しかるに、彼らの思想というのは戦前の日本をけん引し、結果、日本を亡国の憂き目にしてしまったという事実を、日蓮の思想を学ぶものであれば、常に念頭に置かなければならないのです。

「教主釈尊の御使なれば天照太神正八幡宮も頭をかたぶけ手を合せて地に伏し給うべき事なり、法華経の行者をば梵釈左右に侍り日月前後を照し給ふ、かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」
(種種御振舞御書)

日蓮の思想に対しては、日蓮自身も述べている様に「あしくうやまはば国亡ぶべし」と云うように、「亡国の教え」にもなる危険性を秘めている事から、しっかりと学ぶ事が大事になってきます。ここで日蓮が「あしくうやまはば」とは何も粗末に扱い尊敬しないという形式的な事ではなく、「間違えた解釈で尊重してしまったならば」という事であり、まさに先の戦前に隆盛した日蓮思想とは、「あしくうやまはば」という内容であったのではないでしょうか?

そういう点から考えてみると、先に紹介した「立正安国論の指導原理」という事についても、僕の考えとしては同様に間違えた視点があると感じています。そしてここではその感じた事について、少し文面を以って考えてみたいと思います。

一点、お断りを入れておきますが、これから述べる事は「僕の解釈」であり、それが「正義」だとは主張致しません。何故ならば、正義とは所詮「相対的」な事でしかなく、それが故に理性的な対話を進められず、本質への理解が進められない事になると考えています。

創価学会の教学関係で残念な事は、会の持論を「絶対的な正義」と信じ、そこを軸として「折伏・破折」という視点にすぐ移ってしまいます。

それでは日蓮の教学を学ぶという事は出来ませんし、その立ち位置に拘る間、その思想というのは「ドクマ」にしかならないと考えています。

そういう点についてご理解頂き、読み進めて頂ければ幸いです。

【20170714】仏の位置付け

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

仕事をしない居眠り社員のケツ拭きばかりで、毎日仕事でストレスたまりますんで、たまに午後出社して気分転換を図ります。

さていきなりですが、仏教に於て目指される「仏」とはなんなのでしょうか?

日本の中では長年にわたる葬式仏教の影響もあって、死んだ人を「ホトケ」と言いますが、本来の意味で言えば「「仏」とは、仏教における最高の存在であり、悟りを開いた者である仏陀(如来)とする(狭義の仏)。」(引用元:Wikipedia)なんですよね。
ここでいう「悟り」とは宇宙の森羅万象の根本を理解できたという見方もありますし、人間の持つ四苦八苦の根本原因を知りったという事と言えるかもしれませんが、実際にその詳細については、明確に仏典の中には書かれていないようです。

この世界の物事を全て文字で表す事は不可能で、そこを考えてみたとき、悟りという事について文字として明確に書かれていないのは致し方無いことだとは思います。

この「仏」ですが、原始仏教においてはゴーダマ・シッタールダ一人を指し、仏はこの世界に一人でしたが、大乗仏教に於ては三世十方に様々な仏国土があり、そこにいる様々な人々に対して、様々な法華経を説く仏が居るという考え方に変わりました。

要は時間的・空間的に縛られることなく、この世界は仏が沢山いて、そこでは人々に応じて様々な法華経が説かれていると解釈されたんですね。

しかしここで法華経と言いましたが、それ以外の教典では、仏は目指すべき存在であり、尊敬すべき存在でした。そして人々は仏になれるが、それには長遠な修行を勤め抜かなければなれないという存在でした。

しかし法華経の本門にて、久遠実成が明かされた段階で、実は人々は元来仏であるという概念に大きく変化して、「迷うを衆生、悟を仏」という概念に大転換したとも言えるでしょう。

そしてそこから派生したのが「本覚思想」というものであり、究極いうと「元々仏なら修行なんて必要ないじゃーん」という考え方まで出てきてしまったのです。

創価学会では「仏とは生命の事なんだ!」という戸田会長の悟りが基本となってます。これは一人ひとりの中に仏の性質が元来備わっているという理解を広げるには、ある意味で適切な表現であったと思いますが、では「仏とは何?」という事については、やはり何らそこには回答していません。

第三代の池田会長は「生きている事、それ自体がたのしい境涯」を成仏した境涯と言ってましたが、いま人前に出れずに前回の都議選でも会員を票集めに鼓舞するためだけに「生かされている」自身を、果たして彼の御仁は楽しんでいるのでしょうか?

このあたりのヒントについて、実は臨死体験者の中に見つけることが出来たりします。

「プルーフ・オブ・ヘブン」を著作したアメリカの脳外科医、アレクサンダー・エベン氏は、自身の著作の中で、臨死体験中に様々な思考が自分の中に駆け巡り、言葉に表現出来ないが、多くの事を知り得たとも述べています。
また「現代の神話・輪廻転生」でJ.L.ホイットン氏は、逆行催眠による臨床例からも、同様の言葉を多く残していました。

また「神との対話」の著者、アメリカ人ニール・ドナルド・ウォルシュも、その著書の中で人間の本来あるべき意義を「経験」とし、人は神と同じであり別ではないと書いていて、やはり「全てを知る立場である」と述べています。

また「チベット生と死の書」を著作したチベット僧のソギャル・リンポチェ氏も、人が亡くなるときには自身の中のある「真理」と出会うと述べ、チベット仏教に於て臨終を大事にするのは、その真理と知り、同一化出来るからだとも述べているのです。

少し変わった処では「宇宙人ユミットからの手紙」(ジャン・ピエール・プチ、 理学博士 工学博士 国立パリ高等航空宇宙大学 プリンストン大学教授 フランス国立科学庁主任研究員)の中で、ユミットの死生観に論究、そこでは宇宙意識という大きな存在から、一人ひとりが分化して、経験を得るために「この世」に誕生しているとあり、それはアメーバの触手とアメーバの関係だという様な話もあったのです。

こういう幾つかの文献等から考えるに、人間また生命の存在というのは、実に深淵かつ壮大なもので、そういうモノを一人ひとりが内在しているという事は言えるのでは無いでしょうか?

では何故にそんな存在である一人ひとりが、人生に悩み、苦しみ、ある人は殺し、ある人は殺されするのか。

人生の意義や目的。
そういう事を、僕はこの生きる中で経験し理解して学ぶ事だと思いますが、そういう事についても理解する。そして理解した人を仏と呼んでも良いのかもしれませんね。

ちょっと難しいテーマでしたかね?

【20170713】法華経の成仏観について

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

毎日酷暑。僕は内勤なのでトラブル何かがないときには、基本的に事務所内勤務なので、エアコンのある室内にいます。
でも毎朝毎夕の通勤時には、長旅でもあるので、そこで汗だくになることで酷暑を堪能しています。

さて法華経ですが、いま個人的に読み進めていて「提婆達多品第十二」まで来ています。
比喩品第三から学無学授記品第九までは、釈尊の主だった弟子達への「記別」、所謂未来世に於ける成仏の予言と、それに対する各種の比喩や因縁等が語られてます。
しかし提婆達多品ではいきなり龍王の娘で八歳の女の子が男になってその場で成仏してしまいます。

読み進んでいて「何故にいきなり小娘が成仏するのか?しかも男に変身してか?」と、唐突感が否めません。

真実はどうか解りませんが、やはり提婆達多品というのは、他の章とは異質なものですね。
また悪人成仏ということで、提婆達多の過去世の因縁を語ってますが、これもよく解らない事で、先々に久遠実成が説かれれば、悪人成仏なんて言葉を作らずとも、そこに包含されるとも思うんですが、よく解りません。

あと提婆達多品で異彩を放っているのが智積菩薩という、多宝如来の従者の存在でしょうか。

何せ虚空会が始まったばかりにも関わらず、まるで駄々っ子の様に「多宝如来さま~、もう国に帰りましょうよ~」と云い、釈尊に「暫し待て」と言われ、文殊菩薩と法華経を論じ、冒頭から「文殊菩薩さんは幾つ折伏やったんですか?」とか「法華経って即身成仏出来るの?」なんて場を弁えない質問をしてるんですからね。

日蓮はこの法華経をどの様に理解していたんでしょうか。今でこそ大乗仏教運動が起きるまでの過程や、法華経の成立に至るまでの事が明らかになってますが、鎌倉時代にどこまで判っていたのか。

日蓮自身、修学したのは比叡山延暦寺で、日本の天台宗でした。そして天台宗の開祖とは言わずと知れた伝教大師であり、伝教大師は唐代の中国の天台宗で学んで教えを持ち帰りました。

「法華経の一文字一文字は仏である」

この様に日蓮は語ってますが、これは法華経こそ真実の教えであるという事を述べているのでしょう。

しかし昨今の研究によれば、正法華経の訳者、竺法護が元にしたサンスクリット語版の方が、鳩摩羅什の元にしたサンスクリット語版より新しかった事、また鳩摩羅什の没後にも漢訳の妙法蓮華経で幾度か補完が為されていた楊で、先の提婆達多品はその時に組み込まれたのでは、とも言われてます。

つまり「一文字一文字が真実」という割には、その経典も添削が頻繁に行われていたりもしていました。

人とは信じきることで幸福にもなれば不幸にもなります。教えの中身が真実かどうか、そこにどの様な事実が隠れ、そこにどの様な真実があるのか。
その事については、単なる信仰体験で語り判別することは出来ません。

僕は何も「だから法華経や日蓮、また文字曼荼羅は偽物であり、無用の長物だ」なんて考えて云いませんが、そこに至るまでの事実はまず知りたいですね。

その上で志は本来、どこにあったのか、そこを掴み取れたら良いなと考えているのです。

法華経とは成仏の物語。まだまだ読み進めますが、今の段階で感じたことは、こんな処ですね~。

【20170712】法華経雑感なんだけど

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

法華経を改めて読み始めて、やっとこさ見宝塔品までたどり着きました。
創価学会や宗門では、法華経というと一般信徒は触れたがりませんよね。これは以下の日蓮の言葉の影響なんでしょう。

「答う此の経は相伝に有らざれば知り難し所詮悪人善人有智無智有戒無戒男子女子四趣八部総じて十界の衆生の為なり」
(一大聖教大意)


ここで「相伝に有らざれば」とあるので、「嗚呼、相伝無い俺らが読んでも真意は理解できないんだ」となり、読まないんだろうと思います。しかしこの文言の後に「十界の衆生の為なり」と有るように、所詮、法華経も私たちの為ならば、読んで悪いという事は無いはずでしょ?

ここでいう相伝とは、何か唯仏与仏的な不可思議な相伝を受けないとかいう事ではなく、法華経が誰のために、どの様に説かれたかを理解しないと解らないという事であり、読んではいけないと云うものでは無いのです。

また創価学会では、第二代戸田会長が出獄後、法華経講義から始めて、えらい仏罰を受けたなんて逸話もあるので、余計に読みたがりません。

しかし戸田会長が御書からとか、日蓮大聖人の仏法からと言ってましたが、その信じていた大石寺の教義でさえ、偽書や変な解釈が混じりあってましたよね。だからここで法華経を読むことに、何の躊躇が必要なんでしょうか?

ただ法華経については、釈迦滅後の西暦二百年頃に成立した経典であり、釈迦の直説ではなく、ある意味で当時の部派仏教に対するアンチテーゼもあって成立した経典であり、その事を念頭に読まなければならないと思いますけどね。

さて本題です。
法華経を読み進むと、そこここに様々な教理も語られてますが、法師品第十まで目につくのが、弟子たちへの記別の多さです。

間違えてはいけないのが、法華経に於ての記別、特に迹門と言われる前半十四品の記別とは、そこで弟子たちが「即身成仏」をしてる訳では無いという事です。ここで語られた記別とは「これから先の長い長い時間に渡り修行に励み、無数の仏について修行した後」という条件付きで「成仏の可能性」を語っているだけなのです。

しかも成仏の記別を与えられた多くの人は、釈迦の十大弟子や、釈迦の元で修行に励み阿羅漢果という悟りを得ている人達とか、学無学と言われる出家や在家の人達で、多くは大乗仏教の中で「お前らなんて成仏叶わず!」と言われ続けた声聞や縁覚といった二乗の人達でした。

でもそもそも実在の釈迦が阿羅漢達を弾呵していたかどうか、それは解りません。原始仏教の経典では、釈迦自身も自分の事を阿羅漢として語っていた箇所も在る位ですから、真意は解りません。

また一番最初に記別を受けた「智慧第一」の舎利佛は、実在の釈迦が亡くなる八年前の時期には既に亡くなってましたから、亡くなってしまった人間が、その会座に登場するのも変ではありませんか?

要は釈迦滅後二百年経って、仏教教団が形骸化し、その教団の中心者達が本来、釈迦が考えていたであろう人々の救済を考えずに、空論の様な地に足の着かない教理に埋もれ、しかも出家者しか成仏出来ないと云うような、人々から遊離して権威化著しい中、純粋に釈迦を求め、恋慕した人達が経典を紡いだとして、彼らはこの法華経の物語を通して何を語りたかったのか、そこを考えなければならないと思うのです。

その視点無しに、単に文字面を読みふけり、そこに書かれている内容をトレースしたとしても、それこそ「文上読み」でしかなく、法華経の心は理解できないのでしょう。

という事で、今の僕はそんな事を考えながら、今は先ず法華経に展開されているものがたりを読み耽ってます。読めば読むほど疑問も募りますが、恐らく法華経を「理解する」とかの前に「知っておかない」と、日蓮は解らない気がしていて、文字曼荼羅についても解らないと思ってます。

まあ「観心門(信心・信仰)」という事だけを求めるのであれば、こんな労力も必要ないんでしょうけどね。

法華経の話題は、不定期にこれからも書いて行きますので、よろしくお願いします。

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