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想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   
カテゴリー「NDE関連」の記事一覧

【20171016】鏡視について

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

日本の社会では上を向いても下を見ても、選挙一色に染まってますね。
先週一週間は、通勤時間などを利用して個人的に考えている憲法観とか改正についての文書を書いていましたが、これは個人的に今回の衆議院選挙において気になる事だったからです。

しかし本来の自分の思考の方向とは仏教であり、日蓮の教義であったりする訳で、それが「想学」の本筋だと考えています。

という事で、実は別の本も読んでいたりもしてました。
今回、読み進めているのは以下の本です。



この本の著者はレイモンド・ムーディという人で詳細は以下のwikiを参照してください。

ウィキペディア「レイモンド・モーディ」

「死者との再会」という題名はいかにもオカルト的な要素が満載な感じもしますが、この本はれっきとした著者の研究活動の内容について書かれています。
ここで書かれているのは「鏡視」という事で、薄暗い鏡を置いてそこを人は観察する事により、先に亡くなった人達との再会を行う事が出来るという内容です。

とても興味深い事なのですが、例えば昔から霊媒師は「水晶玉」を使い未来を予見していたりします。また古代ギリシャ時代などでは託宣所(これは神からの託宣を受け取る場所)にも、良く磨かれた金属の桶に水を貯え、その水面を利用した「鏡視」を行う事で、神官などがそこから様々な情報を引き出していたという事が歴史的な文献の中から紹介しています。

また世界各地においても、神との対話を行う場所、また死者と語らう場合の多くに「鏡」が使われていたりしていた事も紹介、イギリスの15世紀の王朝時代の科学者も、この鏡視を利用していたというのです。

そういえば日本の皇室に伝わる三種の神器の一つは鏡でしたよね。

つまり鏡面を利用して人は自身の深層心理の中をのぞき見る事が可能であり、もしかしたらその深層心理の奥底に、生者と死者をつなぐ何かがあるのかもしれません。

著者のレイモンド・モーディ氏もこの鏡視を行う際には、科学者の間では様々な侮蔑をされたと言いますが、その経験を通し、今の人類は科学やテクノロジーにより多くの恩恵を受けている反面、この鏡視にあるような「自己の内面」に耳を澄ます事が少なくなり、その恩恵を受けれないくなっているのではないかという事を言っていました。

確かにそういった側面はあるかもしれません。

遠い昔の人達は、例えば夜空に輝く北斗七星を見上げ、その星々と同じものが自身の心の中にあると感じていました。古代中国の考え方の「二十八宿」とか「星の動きを見て世界を知る」というのはありましたよね。日蓮が立正安国論で引用した経典にある言葉、例えば「星宿変化の難」というのもそういった類の話ではないでしょうか。

また日蓮が顕した文字曼荼羅にしても「観心本尊」というのは「心を観じる」という意味であり、自身の内面世界に目を凝らし、耳を傾けるという事ではないかと思います。

ついつい多忙な生活の中ですが、そういった自分自身の内面世界の事を考えてみる。そしてそこに耳を傾ける。今の時代ではそういった事がとても大事なのではないかと、この本を読んで感じた次第です。

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【20170907】死後の生や霊魂について

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

今回のお題、おもいっくそオカルト臭がぷんぷんしますが、やはり僕自身の思考の枠内にこういった項目もあるんで、お付き合いして頂ける方だけお付き合い下さい。

さてこの夏なんですが、夏と言えば「怪談」という事で、YouTubeに上がっていた怪談を暇があると聞いてました。僕が好きなのは北野誠とか西浦和也なんかですね。稲川淳二の話はガチ過ぎて長くは聞けません。

かくいう僕も人間五十年以上やっているので、理屈では説明できない不思議な事は幾つか経験していたりしますし、それこそ学生時代には肝試しなんて言って、夜中にドライブがてら彼方此方に行きました。

こうやって怪談などを見ると、この世界には霊魂なるモノが存在し、それが場合によって祟りをなし、不幸になっていくという事もまんざら嘘とは思えないのですが、その一方で釈迦は霊魂の存在を否定していますし、輪廻転生というのも原始仏教では否定しているとか。

でも日本にいる霊媒師とか霊能者という人の中には仏教関係の人も多く、その辺りの整合性はどうなんだろうと考えたりもします。

釈迦は在家信者への比喩の意味もあって、輪廻転生とかを説いたという説もありますが、それは人それぞれの解釈の問題であると僕は考えています。
また釈迦が死後の事や霊魂を否定したのも、そんな訳のわからんこと議論するより、いまある生を真剣に捉え、生きるための事を考えろという事だったのかも知れませんし、日蓮も同様だったと思うのです。

最近、欧米では臨死体験学(Near Deth Experience)というものがあり、これは単にオカルトという事ではなく臨床例の中から得られた臨死体験をもとに研究する学問で、なかなか興味深い事が多くまとめられています。

これは以前にも書きましたが、故キュブラー・ロス女史やレイモンド・ムーディ氏といった医学者が様々に研究し本を著作、日本に於いても京都大学のカール・ベッカー教授がいます。
カール・ベッカー教授に於いては日本の臨死体験の文献の多さを取り上げてますが、これらの多くは過去の念仏宗の僧侶の体験を筆記したものを言ってまして、それを聞くと日蓮を信じる人には特に拒否反応を示すかもしれません。

世界各地には「前世記憶」を持つ子供の記録も多数あり、またこの臨死体験学においても死後の体験、またそこから転生に至るまでの症例も多数あり、そこから察するに単純に否定する事も困難ではないかと思います。

しかし一方で、霊魂とかの話のなかで地縛霊だ浮遊霊だ生き霊だという話もありますが、それは一体どうなのでしょうか?

人は所謂死ぬときに「死有」を通過して「中有」に入ると仏教の中では説いています。これはチベット仏教でも同じですよね。しかし先の霊能者などは、人が死んだ時に強い執着をもっている為のこの世界に縛られる霊がいるという話を真しやかに語ってたりします。

ましてや生き霊なんて、生きている本人とは別に霊として現れるというもので、これは論理的に理解するのは大変に困難です。
だって生霊飛ばしの本人は、そんな事を意識もしていないケースがほとんどですから、そもそも生霊と言われる存在の意思と、その飛ばしている本人の意思はどの様に理解したら良いのでしょう。

ここからは僕の私見なのですが、霊として存在する意思や、恐らく自我というものは生死を問わず存続するものではないかと思いますし、その自我が経験した事も記憶として継承されるのではないかと思います。

ただ厄介なのはこの個別にあるという自我というモノが絶対的な存在なのかと言うことは疑問がありますね、何故ならこの世界に絶対的な立て分けというのが、実は存在しないからです。

男性や女性の境目、これもアナログ的であり、緩やかな立て分けであり中間的な性も存在します。また有機と無機の間にもウィルスという、どちらにも分けられない存在があります。

これと同様に自我と他者という存在も、実は明確に立て分ける事ができない存在なのてはありませんかね?
昨今の深層心理学でも個人個人は意識の置く深くで共通な基盤を持っているという話があります。

だから霊魂とか生き霊とかも、そういった心理学上の考え方にあった存在なのかと思ったりします。まあ具体的な事で言えば「念」という、人々の意識の間を行き来する波の様なものかもしれませんね。

そしてそれがあたかも生き物の様な意識をもっている様な働きは、その念を受け取る人の意識というか、自我というか、そういう事が関係しているのかもしれません。

実はこういった事についても、何かしたの「理屈としての整理」が出来ないものかなと考えたりしています。まあ答えがあるという事では無いのでしょうけどね。
でも恐らくそういった思考の整理というか構築は、今言われている仏教の枠内だけでは難しいでしょうし、それこそもしかしたら欧米の神学という分野の内容も参照しなければならないだろうし、心理学という世界や、当然の事NDE(臨死体験学)という分野にも踏み込まなければならないテーマであって、一朝一夕に理解出来たりするものでは無いでしょう。

という事で、またこの件について何か考え着いたら書き連ねていきたいと思います。
それについて、興味のある方はお付き合い下さい。

【20170906】四刧と輪廻

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

北朝鮮の水爆開発による騒ぎ、もう報道番組はそれ一色の様な感じになってますね。
確かに北朝鮮の核開発は、日本にとっても大きな脅威でしょう。核保有国でいうとロシアや中国も居ますが、北朝鮮は戦時国家であり、今までにも多くのテロ事件を起こしていますので、この中国やロシアと同列に論じることは出来ません。

しかしこの日本で騒いでいる問題の一番の根っこに、日本としての自国に対する安全保障という概念が無いことが問題なんですけどね。それは無理なのかな。

さて本題です。
仏教には「刧」という考え方がありますが、実はこれ、仏教というよりもバラモン教に縁源があるようで、長大な時間の単位をのべた言葉なのです。
ただし仏教において、その長さというのは曖昧で、明確に今でいう何年とかという概念は無いようですね。

「刧」とは時の長さを言いますが、時間そのものという意味もあります。
この言葉の使われた言葉に「四刧」というのがあります。これは世界がたどる時の流れと言っても言いかもしれません。確かこのブログでも過去に書いた事があると思いますが簡単におさらいをしてみます。

「四刧」とは「成刧」「住刧」「壊刧」「空刧」という四種類のプロセスとして語られてます。

成刧とは、世界が出来上がるプロセスであり、生成・発展の段階と言っても良いでしょう。住刧とは、生成された世界に様々な生物等が発生し、まさに「住む時」の事を言います。壊刧とは作られた世界が壊れる時であり、壊れたあとに無くなる事を空刧と呼んでいます。

仏教ではこの宇宙や地球など、世界というのはこのブロセスを成→住→壊→空→成という感じで繰り返しながら成り立っていると説いてます。

これは何も世界だけの話ではなく、組織や家庭、また一人の人間についても、このプロセスを逃れるものではありません。

人についても、母親のお腹の中で成長し(成刧)、二十歳前には体と心は出来上がり、様々な生きる為の活動をします(住刧)。やがて年齢が上がり体のあちらこちらが痛みだし、病を得ることもあるでしょう。そして老化が進み、亡くなっていきます(壊刧)。亡くなると個人という存在は、この世界から消えますが、その無の状態にあって生命は次への待機をしています(空刧)。

つまりこのサイクルを繰り返し、繰り返し生命は続いているという事であり、大きく見て「生死を繰り返す」という事で、仏教では「輪廻」とも説いています。

しかしこの輪廻という思想も実は仏教の独自の考え方ではなく、バラモン教に既にあった思想であり、この輪廻の生死を抜け出ることを「解脱」と呼んでいました。

「人はこの現実世界に生まれでて、様々な苦しみを受ける。解脱とはその生死を抜けて、この苦悩渦巻く現実世界に二度と生まれて来ない事」と言う事なんでしょう。

初期仏教の解脱も、これに近い思想があった様ですし、チベット仏教に於いては、死の時に悟りを得れば二度とこの世界に生まれてこなくなると言います。しかし法華経に於いてはこの苦悩渦巻く現実世界が仏の本当の住処であると説かれているのです。

いま皆さんの目の前にある世界、これはやもすると「明日もあるし、来年もある。いやいや、十年後や二十年後にもこの世界はある」と錯覚し、それこそ「常住不変に何時までもこの世界は続く」と錯覚をしてしまいますが、どんなに長くても百年以内には、殆どの人達はこの世界から離れなければなりません。

それは自身の肉体が壊れていくからです。

いまある体、つまり肉体ですがこれも老いていき、何れは死を迎え現代であれば火葬にされ無くなってしまいます。
またそればかりではなく親兄弟、家族や友人とも離れなくてはならないのです。

最近の僕は、こういった事が自身の身にここから三十年以内には降りかかるという事を考えるのですが、その時には常に慄然とした感覚に襲われます。

若い頃には「恐怖」でもありながら、まだまだ先の事と思ってましたが、年増える事に時の流れを速く感じ、親の死を経験して現実味を得ました。
若い頃の「恐怖」という感覚は既に無いのですが、慄然とした感覚は拭いきれません。

日蓮は「されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべしと思いて」と述べてましたが、この歳になって漸くこの言葉を理解し始めた感じです。

創価学会はロクでもない組織に成り下がり、その宗教貴族達の行状には、いつもあきれ返るばかりですが、それに裂く人生の時間は不毛です。

僕はこの人生の根元的な問題について、思索する時間をもう少し取りたいと思っています。

【20170905】臨終の事

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

最近個人的に思うのは、創価学会が会憲を制定しようが、何に大勝利しようが、永遠の御大が亡くなろうが、僕の人生にはあまり関係ないかなと言う事です。

会憲の有無に関わらず、嫁やその身内は学会活動を続け、創価学会を無擬曰信で信じて活動を続けますし、公明党へも支援を続ける事でしょう。
本人たちが、この先疑問を感じれば、僕の話にも耳を傾ける事があるかもしれません。

一度信じたモノを覆す事は至難の技であり、人は自分が信じて人生をかけていることを、容易く否定する事は出来ないものです。

しかしそれは兎も角。
日蓮の御書を少しここで引用します。これは有名な部分です。

「夫以みれば日蓮幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく人の寿命は無常なり、出る気は入る気を待つ事なし風の前の露尚譬えにあらず、かしこきもはかなきも老いたるも若きも定め無き習いなり、されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべしと思いて、一代聖教の論師人師の書釈あらあらかんがへあつめて此を明鏡として、一切の諸人の死する時と並に臨終の後とに引き向えてみ候へばすこしもくもりなし」
(妙法尼御前御返事)


これは日蓮が仏法を学び始めた動機について述べたものです。ここで日蓮が述べているように、どの様な人であっても「臨終=死」というのを免れる事は出来ません。だから臨終の事を何よりも先に学ぶべきであると、この様に言っているわけです。
しかしその一方で日蓮の御書と呼ばれるモノの中には、臨終とはどの様な事なのか、それについて言及されたものはありません。臨終は大変な事だから、今をしっかりと生きる、その様な事に重点が置かれた内容となってます。

さて少し話を変えて、僕の片親は既に鬼籍に入っていますが、この親が死んだ事を通して、「死」についてはリアルに感じるようになりました。

数時間前まで生きていた親が息を引き取る。では逝った親は今どこにいるのか?何を感じ何を見ているのか?

考えますが、想像することしか出来ません。

死は全てを無くします。親子の繋がり、社会との繋がり。またこの世界で築いた地位や財産も何もかも、死の前には関係ありません。そこから先に持っていく事は出来ないのです。自分の体でさえ持っていく事は出来ません。

こういう事が自身の身の上にも確実に訪れる。そういう事の実感を、親の死は僕に与えてくれました。

日々現実と実感しながら家族と過ごし、仕事場の同僚と過ごす。この現実が自分自身から切り離され、一人乗り越えていかなければならないイベントが死であり、これを逃れる事は出来ません。

それに対峙したとき、果して僕は何を感じ、何を見るのでしょうか。そしてその死の先には一体何があるのか。

こういった事に思いを馳せていくと、いまの創価学会の事なんてのは、ある意味でどうでもよく感じてきます。それよりもこの問題を自分自身の中でどの様に消化し、生きている内に理解していけるのか、そちらの方が大事に思えてくるのです。

結論はありませんが、ちょっと考えた事を今回は書かせてもらいました。

【20170321】死というのはよーわからん

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

この連休はのんびりできましたが、その分、週明けのダルさがあります。
昨日はYoutubeで、過去にNHKでやっていた「チベット死者の書」に関する動画を見てました。

原始仏教では「無我」を唱え、輪廻転生からの「解脱(この舎婆世界へ生まれなくなる)」を説いています。この解脱というのは仏教独自の思想ではなく、古代インドにあった思想で、そこの影響もあるのでしょう。

チベット仏教はもともとチベットにあった土着宗教のボン教と仏教が融合して成立したものと云われ、過酷な高地の人々の中で生と死を間近に見続ける環境から派生しているので、こと死と生についての洞察は深いものになったのだと思います。

このチベット仏教には「バルト」という考え方があり、これは川の中州という意味があるそうです。

バルトには四つがあるという事で、生のバルト、死のバルト、中間生のバルト、再生のバルトというそうで、人間が死ぬときには生のバルトから死のバルトへと移行する過程だと言います。そしてこの時には「心の本質」が現れるので、そこで悟りを得られれば、輪廻転生からの解脱ができて、この世界に二度と生まれることなく、苦悩から逃れる事ができると言います。

チベット仏教は大乗仏教に分類されますが、この辺りは原始仏教の考え方に近いのかと思ったりしますね。

この世界を「舎婆世界」と呼び、苦悩の世界という事から、二度とこの世界に転生しない事を目指す考え方は南伝仏教等にも多くありますが、法華経はこの考え方とは一線をかくすモノかと思います。

特に如来寿量品では「我常在此 舎婆世界 説法教化」と、本来は解脱した仏が常に居る場所として「舎婆世界」だと述べてますからね。

このチベット仏教は、ヨーロッパの唯識派の人たち、代表的な人はカール・グスタフ・ユングに多大な影響を与えました。

しかし昨今の臨死体験学等では、人々はこの世界に「魂の成長」のために繰り返し生まれてきているという説もあったり、多くの臨終を看とり研究してきた、故・キュブラー・ロス女史等は、成長の先に「魂の羽化」の様に次の段階に移行するという考え方もあったりします。

要は生と死の問題とは、人類にとって抜きがたく、永遠の課題として存在してるんですよね。

この十九世紀から二十一世紀という時代は、人類にとって「物欲の時代」かもしれません。産業革命の機械化から始まり、パックス・アメリカーナでは「大量生産、大量消費」の世紀となりました。

しかし人間が普遍的に持つ「生と死の問題」については迷走を深めるだけで、なんら解決するばかりか、こちらも混迷を深めています。

だって誰もが正面から向き合えなくなりましたよね。

特に今の日本では、産まれるのも病院で、死に逝くのも病院という、社会から隔絶した場所となってます。

そろそろ、人間が普遍的に持ち合わせている、この問題について、思いを致さなければならない時期に来てるのでは無いでしょうか?

最近、僕が感じるのは、この世界の奥にある意思というか、そういった事ですね。これは何もオカルト的な事ではないですよ。

人々は何らかの意思により、この世界に産まれ、そこで一つひとつの人生を全うしているのでは無いかということで、これは単なる偶然の産物としての生などでは無いんじゃないかと言うことです。

答えなんて当然、持ち合わせているませんが、そんな事を感じながら、日々生活をしています。

あ、、そうそう。
こんな事について、今の創価学会では当然の事、答えなんてありませんから。

今の創価学会では師弟不二なんつー、下らん呪縛を教えているだけで、それによりまだ思考を縛られている人たちも沢山居ますからねー。

以上、とりとめ無い今回の記事でした。

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