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想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   

このブログについて

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ここは想学談林の管理人がつれづれなるままに書き込んでいるブログです。

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内容は主に日蓮、創価学会、公明党、また時事関係など様々です。
よろしければ読んで見てください。

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【20170623】火宅から出るのは無理か

こんにちは( *・ω・)ノ

さて皆さん「三車火宅の譬え」というのは覚えてますか?
恐らく昔なら青年三級だか二級あたりで勉強した内容だと思いますが。

これは法華経の比喩品第三で語られた譬話で、語ったのは舎利弗となってますよね。(まあ実際の歴史では法華経が説かれたと云われる頃には舎利弗は故人でしたけど)

内容は、その昔ある長者がいて、彼は大きな邸宅を持ち、財宝も沢山持ち、召し使いも沢山いたと言います。
ある時、その長者の家が火事になり、中にいた人達は逃げましたが、長者の子供達は燃え盛る家の中で遊ぶことに必死で、自分達が如何に危険な状況か理解できず、燃え盛る家も遊園地の中に居るように錯覚して遊び回っていたと言います。このままで行けば子供達は丸焼けになり死んでしまう。
外から父親である長者が「危ないから出てきなさい」と呼び掛けても遊びを止めず、子供達は火宅の中から出てこようとしません。
そこで長者は一計を案じ、子供達に呼び掛けます。
「ほら、お前たちの欲しがっていた大きく宝物で飾られた牛車をあげるから、はやくこちらに来なさい」
すると遊び回っていた子供達は、牛車欲しさに火宅から飛び出して来ました。
そこで長者は彼ら子供達に、より大きな大白牛車を与えたという話です。

この説話、よく読むと突っ込み処が満載なのですが、それについては置いといて、これは火宅の中にいる子供達を凡夫に譬え、火宅で遊び回っていたいるのは、苦悩の多いこの娑婆世界で生きていることを指し、長者は仏で誘い出す大きな牛車とは声聞・縁覚・菩薩の三乗を指すそうです。

そして出てきた子供達に与えた大白牛車は仏乗(成仏)と言うのです。

開三顕一(声聞・縁覚・菩薩の三乗を得る目的は仏乗―成仏にある)という法門を示す比喩であると言いますが、この説話で巧みなのは、この娑婆世界を火宅と比喩したという所でしょう。

この世界には様々な苦悩が渦巻いています。物欲・色欲・無色欲。この様々な欲から物事に執着が生まれ、そこに苦悩が生じてくる。

だから小乗の教えでは、そんな欲(煩悩)を否定して、灰身滅智の先に成仏する事を目指したんだと僕は教えられて来ました。そして日蓮仏法とは「煩悩即菩提」と云い、その煩悩を薪の様に燃やして行きながら、それをエネルギーとして菩提(覚り)を目指すのであり、欲望は否定しないとも聞きました。

まあ仏教の真偽は一先ず置いておいて、今の世界は本当に欲望が渦巻き、そこに様々な策謀があって、人間社会は蠢いてます。

世の中の多くの問題の根底にはこの「欲望」があって、人々はこの欲望に日々焼かれていると言っても過言ではありません。

創価学会が東京都議会議員選挙に必死に動けるのも、また無条件に公明党の票をかき集めるのも、根底にはこの「欲望」があるからですね。

んな事いうと、活動家は云うでしょう。
「我々には池田先生が指し示してくれた、世界広宣流布という目的がある、お前にはそれが理解できないのか?」

いやいや、でもその根底には「欲」があるじゃあないですか。「宿命転換」「人間革命」「境涯革命」「絶対的幸福』。
それらも云わば「欲望」に変わりありません。ある意味で創価学会とは欲望を肯定しながら、それを昇華する事ではなく、会員の欲望をうまく組織権益に利用する仕組みを構築しているわけです。

この世界は確かに欲望が渦巻き、僕を含めてその欲望に踊らされているというのが、現実ですよね。

大事な事は、その踊らされているという認識を持つことであり、その根底にある自分自身の欲望。これには物欲(即物的な欲求)、色欲(肉体的な欲求)、無色欲(精神的な欲求)があるという事を理解すべき事ですよね。

これら欲求とは生きるためには必要な事ですから、それらを切り離すということは、生きることを止める事にも通じてしまうの思います。

だから本当はこの欲求という自身の中にある動きを理解する事で、そこからその自分の中にあるものと如何に付き合うべきなのか。そこが「煩悩即菩提」の始まる立ち位置であり、単にそれらを無条件に肯定する事ではないと思ったりします。

創価学会の様に無条件に肯定するから、その会員達は信濃町界隈にコントロールされ易くなってますから。

そしてこれは何も創価学会に限ったことではなく、この日本社会や、延いては人類社会の仕組みその物も、その構造になってませんか?

果たして人々は火宅から抜け出せるのか、いやいや、そもそも火宅に居ることを認識出来る様になるんですかね?

そんな事を考えています。

【20170622】嗚呼、公明党議員

こんにちは( *・ω・)ノ

東京都議会議員選挙も佳境に入ってきましたね。
とは言いながら、僕は何ら関与もしてないので当事者ではありませんが、嫁が活動家幹部なので様々な話は漏れ聞いています。

何でもどこぞの区が危ないとか、あと一票上乗せとか、どこそこ区の時局の参加者がいないとか、そんな話はよく聞きますし、自宅のファックスにも入ってきてます。

本当に活動家はコキ使われ大変ですね。

公明党と都議もそうですが、議員なんてのは政治家なんだから、本来は議席を得たら自分の才覚でもって、支持者を増やすべきであって、四年の任期でそれが叶わないなら、議員なんて辞めれば良いだけではありませんか。

そんな正論を考えてしまいますが、それが難しいんでしょうね。

公明党の議員は「3000のネットワーク」とか豪語してますが、僕が思うにこの議員は三通りに分類出来るのではないかと。

一つ目は国会議員ですね。
彼らは末端組織なんかでは活動は殆どしてません。多くが官僚とか弁護士で創価大学出身が多くいますが、僕から見たら「池田イデオロギー」に子供の頃から染め抜かれ、両親も強信な人が殆どで、それこそ組織の中の良いとこだけ見て、ぬくぬく生きながらも実際には末端組織の泥臭いことは経験してません。

青年部経験者がいても、副部長とか副本部長クラスですからね。またその殆ど組織では公認の幽霊幹部だったりします。
(全員とは言いませんが、傾向としての話と観てください)

二つ目は県会議員や政令指定都市の地方議員。地方主要都市の市会議員も入るかな。
彼らの多くは末端組織で活動経験があって、例えば分県幹部や総県、総々県幹部の経験者です。また仕事でも大手企業勤務で働き、そこそこの大学を卒業していたりします。
(こちらも全員とは言いませんが、傾向としての話と観てください)

三つ目は地方の市町村議会の議員。
こちらは兼業議員が多いですね、議員報酬も安いので、それだけでは生活なんて出来ないですから。
こちらの人は活動家幹部経験者で例えば圏や本部幹部クラスの人が多いようで、学歴などもまちまちの様です。

これはあくまでも傾向の話であって、必ずこうだとは言いませんが、そんな分類が成り立つのではありませんかね?

ただ共通しているのが、一人として若いときから政治家を目指している人物なんて居ないという事です。全員が全員、ひたすら今で言えば「池田先生」を求めぬいて、それぞれが一生懸命、組織活動に励んだりしていた人が殆どです。(除く、国会議員ね。彼らは組織の実態を知るほど活動なんてしてなくて、官僚や弁護士業だけに専念してますから、末端組織の実情なんて知りません)

だから政治家になっても「ノンポリ政治家」であり、殆どが先輩公明党議員に引っ付いて政治家として学び動くわけですが、もともとがノンポリで池田哲学位しか知らないことから、まともに他の政治家の様に議論も出来なければ、どぶ板を歩き回ることは無いと思います。

殆どが創価学会の活動家や、その周辺だけで動くのが関の山ではありませんかね。
まあ一部の議員には、それこそ政治家として開眼し、自身で基盤を作れる人も居たりしますが、僕が知る限り希少価値ですね、そんな人は。

だから毎回の選挙になると、本人も必死に創価学会の組織内を回り、常に「重点区」だ「激戦区」だと言って創価学会の組織に依存し、それこそ公明新聞一面に「絶叫顔」を晒すわけです。

逆な見方をすれば、選挙の時に絶叫顔を晒すのは、任期の間に手を抜いていた証拠と考えても良いでしょう。

他の政党の政治家は、やはり若い頃から政治の世界を観て来てるわけで、まず公明党の議員連中は、そこから違うので、やはり脇の処が甘いですね。

この間、公明党の参議院議員の「佐々木さやか女史」が、法務大臣の擁護発言をして、評論家の田原総一郎氏から「あれはバカだよ」と揶揄されてましたが、彼女なんかも泥臭いことはやってないし、ノンポリなんで恐らくあの発言が巻き起こす非難は理解もしていないと思いますね。恐らく山口代表に言われて「ハイ!喜んで!」なんてやったんでしょう。

まあ彼ら議員は創価学会や公明党に反旗を翻さない限り、一生、信濃町界隈が生活を保証するのですが、もし信濃町界隈から見放されたら生きていけません。

まず反旗を翻したら、即刻、創価学会の組織を上げて「仏敵」と認識され叩かれます。また個人として政治家を継続しようにも、もともと地盤を作ることも出来ない人達なんで、自分の力では政治家としてはやっていけないでしょう。

また地方議員なんかは、本来の生活基盤を擲って議員になってますから、潰しも効かないし、それこそ家族総出で「飢え死に」する事になるかもしれません。

かくして公明党から立候補して議員になった人達は、自分自身の自由というのを信濃町界隈から取り上げられた存在と言っても良いでしょう。

支援者も何も考えていなければ、議員たちも自由な発言や行動なんて出来ません。彼らは共に信濃町界隈が許容する範囲でしか選択や思考の自由の範囲は無いのです。

過去に内閣法政局として「宗教団体の政治活動は違憲ではない」と言いましたが、創価学会では政治活動そのものを「信仰活動」とする事により、組織内における政治信条の自由を取り上げているのです。これは本人達が意識しているしていないに関わらず、現実としてそうなってます。

こんなのが日本の政治のしかも政権与党に関わっていて良いのかな?

特に創価学会の会外の人たちには考えてほしいものですね。

【20170621】日蓮の本尊について

こんにちは( *・ω・)ノ

今日は少し小難しいこと書いてみます。
それは「日蓮の本尊」の事です。

「何を今更、いよいよ運ちゃんは悩乱しはじめたか!」と言われそうですが、とりあえず書いてみます。

2014年の会則改正で、創価学会は戒壇の大本尊を「受持の対象とはしない」と宣言し、日蓮直筆の本尊は全てが「本門の本尊」としたことは、先日の記事で書きました。

この事は既に二年半近く経過しているのに、創価学会の中では徹底されておらず、先日も長年の友人である会員に話をしたところ、目を真ん丸くしてました。

その友人も元創価班で総県幹部をやってましたが、色々あって今は広宣長をやってます。

「いやいや、運ちゃん。戒壇の大本尊が偽者というのは、昔、日顕が言っていたけど、あれは本当の事と創価学会は認めたんか?」

そう言われたので僕は語りました。

「まあ今の処、創価学会としては正面切って偽者とは断じてないが、大本尊としての位置付けは大きく変えた事は間違いないだろ?」

彼自身、やはり未だに大石寺の大本尊は一閻浮題総与の本尊だと信じてましたので、この会則改正に伴う大本尊の位置付け変更には驚いて居たようです。

もともと日蓮は文字曼荼羅を本尊と呼んでいたのは、四条金吾等の御書を見たら解ります。しかし日蓮の考えていた本尊観とはどの様なものだったのか、実はあまり解ってないんですよね。

いま出先なので正確な文献の名前は出てきませんが、日蓮がある女性門徒に授与した曼荼羅が発見された時、その曼荼羅は和紙に認められていましたが、丁寧に畳まれた形で見つかりました。
この状況から見ると、常に奉掲されていたのでは無いようで、恐らく今で云う会合の時に掲げられて居たと考えられ、それ以外、普段は丁寧に畳まれて保管されていた様子だったとの事。

「問うて云く法華経を信ぜん人は本尊並に行儀並に常の所行は何にてか候べき、答えて云く第一に本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可しと法師品並に神力品に見えたり、又たへたらん人は釈迦如来多宝仏を書いても造つても法華経の左右に之を立て奉るべし、又たへたらんは十方の諸仏普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし」
(唱法華題目抄)


日蓮は題目を流布し始めた当初、本尊についてはこの様に述べていましたが、ここでは釈迦像や多宝如来を法華経の左右に奉ることを述べてました。またその他十方の諸仏や普賢文殊等の奉る事もありだと述べています。

日蓮は亡くなるまで釈迦の随身仏を所持してましたが、これは恐らく文字曼荼羅を顕した後も、その前に安置されていたものと思います。

また御書を見てみると、冨木常忍や四条金吾といった有力門徒から釈迦仏像を造ったので開眼供養の相談が日蓮の元にあった事が書かれたものもあります。

日蓮の本尊観、その中心にあったのは法華経であり、その法華経の虚空会の様子を顕したのが文字曼荼羅です。だから本尊として中心になるのは文字曼荼羅であって、そこには何ら疑義を挟むも事はありません。

しかしその文字曼荼羅をどの様に奉安するのか、その形式はと言うと、実は日蓮正宗自体も明確では無いんですね。

創価学会や法華講の人たちの安置形式は「一幅式」です。それは文字曼荼羅だけを安置する形式です。
一方の大石寺本山塔中寺院、また古刹寺院等は「一幅一体式」と言って、文字曼荼羅の前に日蓮座像を安置しています。
今はどうなのか分かりませんが、以前の学会寄進の大客殿では「一幅二体式」という形で文字曼荼羅を中心に日蓮と日興師の座像が左右に安置されていました。

日蓮は仏像として釈迦仏を安置することはやってましたが、果たして自身の座像や弟子の日興師の座像を文字曼荼羅の場所に安置される事を意識してましたかね?

奉安形式とは、その御本尊の意義という事から見ると重要な意味があって、日蓮門下では釈迦仏像を安置していた形跡が多くあり、日蓮もそれに対して何ら否定する言葉は残してません。

そこから見ると、身延山や他の日蓮宗寺院で行っている釈迦仏像の安置というのも、もしかしたら日蓮時代からあった事なのかもしれませんね。

そういう中で一幅式は略式の奉安形式という事かもしれませんし、大石寺がやっているような日蓮座像を文字曼荼羅の前に置くのは、少し違うような気もします。

因みに今ある宗派で釈迦像を自宗派の本尊としているのは日蓮宗派だけという話も聞いたことがあります。

天台宗では薬師如来を本尊としてますし、真言宗では大日如来、念仏宗は阿弥陀如来が本尊となってますからね。

昨年に宮田教授が日本宗教学会で講演し、日蓮の文字曼荼羅と共に釈迦に対する認識を創価学会では変えようとしている様に思います。

その事について、アンチ創価学会の中にも「身延と与同する大謗法」という意見が多くありますが、そもそもその思考は大石寺の教義の「残滓」とも言うべき考え方に囚われた思考です。

この本尊のいう事については、日蓮の歴史を正視しながら、過去に囚われない解釈で思考をした方が良いと思えますし、もしかしたら大石寺貫首で要法寺から派遣された日精師が釈迦仏を造立したのも、日蓮門流ではそれほど変な事ではなかったのかもしれません。

大石寺の様に釈迦を認めない事から、創価学会でも一般的な仏教に疎くなり、結果として「似非仏教」とも言うべき創価学会の教義も、そんな処から発生しているという事を、理解すべきではありませんか?

この事はもう少し考え直す必要があるのかもしれませんね。

【20170620】創価学会は正法正義だったのか

こんにちは( *・ω・)ノ

古城まさお都議会候補に対して、ネットでそこそこ流れてますが、まあ大事にはならないのでしょう。古城陣営は胸を撫で下ろし、全国からくる支援者に対して「私は悪辣なデマと戦い!満天に創価学会の正義を叫びます!!」なんてやって、そこでアマアマな創価学会婦人部辺りが「古城さん!負けないで!」とエールを送る姿が目に浮かびます。

だから創価学会の選挙や、それによる政治がおかしくなるんですね。

まあそんな事、もう個人的にはどーでも良いです。

それよりも、創価学会は正法正義の組織であったのか、もしそうであれば昨今の変貌は何なのか、等々考えている人は多いのではないでしょうか?

僕が非活になりはじめの時、この事はエライ考えましたね。何たって自分の人生のうち、四半世紀以上捧げた組織だったんですから。

だから様々な事を調べたり学んだり思索したりしてきましたが、結論から言うと設立当初からそんな組織ではなかったという事が理解できました。

ネット上では未だに様々な議論があるわけですよ、この事に対しては。

多くの人たちが創価学会は元々は正しかったと信じていて、そして最近の創価学会のおかしさに触れて「創価学会はおかしくなった!!」「信濃町は狂ってしまったのか?」という事で、過去の池田会長の指導を紐解き、今の創価学会が如何にそれらの指導と異なるかを糾弾し、昔の正しい創価学会に戻そうなんて言うわけです。

確かに昔の創価学会は良いところも沢山ありました。

僕が独身時代で地区リーダーの時、よく地区担(今の地区婦人部長)の家に行っては晩御飯をご馳走になり、旦那の副支部長とは酒のんで未来の夢を語ることもしばしば。

その他、当時の仲間とは夜中まで広宣流布のロマンを語らいあった事も数え知れず。

こんな僕が男子部の中で鍛えられ、仕事にもしっかりと取り組み、結婚する姿を見て、創価学会嫌いの父親も会合に出るまでになりました。

そういう事を考えると、まあ教義等は脇に置いても、当時の創価学会には昭和時代の人間臭さや、泥臭さ。それによる良いところは沢山あったと思います。

ただし本来、宗教の命脈とされる教義についてはどうだったのか。その角度から少し考えてみましょう。

この間の会則改正による教義変更以前の創価学会は、仏宝として末法の御本仏・日蓮大聖人をたて、法宝として一大秘法の南無妙法蓮華経を立て、それが顕された戒壇の大本尊を尊び、僧宝としては大石寺開山の日興上人を立ててました。

本門の本尊とは大本尊であり、戒壇は大石寺の正本堂、題目は南無妙法蓮華経。

この三大秘法を根本として、大石寺に伝わる仏法を信仰することで人間革命ができ、宿命転換ができ、三世永遠の絶対的幸福境涯を築くことができると教え、その信心には力があって多くの体験が創価学会の中にあり、その力がある信仰だから世界に広がったと主張してきたわけですね。

第二次宗門問題の時に日蓮正宗を徹底して責めぬいた時でも、この教義については一切ぶらさずにいたわけで、自分達こそ本来の日蓮正宗だという事から「日顕宗」と呼んで宗門に対しても侮蔑していたわけです。

しかし2014年の会則改正に伴い、戒壇の大本尊を「謗法の山にある」という事から「受持の対象」から外し、その後に日蓮の出世の本懐を変更、日寛教学を見直しすると宣言し、しかも日蓮直筆の本尊はみな等しく「本門の本尊」と定め、身延山の本尊でも功徳はあったと創価大学の教授をして日本宗教学会で講演させ、最近では末法の御本仏という日蓮の立ち位置を変えつつあります。

どうなんですか、これは。
しかしこの事、以外と末端組織には徹底されておらず、現場幹部でもあまり理解されてないんですけどね。

ただこの流れが実は本来の日蓮仏法へ戻す内容であることは、僕もここ十年ほど様々な事を調べ、学ぶ中で知りえた事から理解できます。

むしろ五百塵点劫の当初とか、久遠元初自受用報身如来の再誕だとか、大石寺の大本尊が一閻浮提総与であるとか、熱原の法難が日蓮の出世の本懐だとか、その事の方が実は日蓮滅後に成立した教義であり、日蓮という人は何もそんな事を語ってもいなのです。

そういう事を語ると「御書にも書いてある事なのに、日蓮滅後の事とは如何なる事なんだ!?」という人もいるかと思いますが、そもそも創価学会の編纂した御書全集には「真書」と「偽書」が入り混じっている訳で、無条件にすべてが日蓮の筆の文書であるとは言えない事をまずは知るべきです。

日蓮が末法の御本仏というのは、このブログでの幾度か取り上げましたが、川越仙波檀林から流入した思想であり、戒壇の大本尊は日禅授与本尊の焼き直しという疑いも濃厚。日興師へは日蓮から「血脈の次第 日蓮日興」なんて相承書もありません。

そういった「歴史的には不確実性が極めて濃厚」な大石寺の教義を、創価学会としては長年に亘って「正法正義」と呼んで信じて弘教し、それを広宣流布と信じてきたわけです。

そして近年、創価学会としては世界に広げる事、また宗門から完全に独立するという事を考えてか、その路線を変更し始めて、それが表に顕著に出てきたのが2014年の会則改正からとなったんですね。

つまり端的に言えば、牧口会長・戸田会長・池田会長の信じてきた「日蓮大聖人仏法」と呼んだ代物が、近年になってその正体が表に出てきたと言ってもよく、その信じてきた教えというのは「正法」でもなければ「正義」でも無かったという事でしょう。

また歴代会長の多くの指導も、この大石寺教義に依存してきたわけです。

そう考えてみると、創価学会とは「正法正義の団体」なんかでは無かったという事ですね。
残念ながら。。。。

「仏法やうやく顛倒しければ世間も又濁乱せり、仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり」
(諸経と法華経と難易の事)

この御書は日蓮が門徒の一人であった富木常忍に宛てた手紙ですが、要はその斜めの本体が影響した結果、時間は少しかかりましたが、その姿が昨今の創価学会や公明党の姿として現れたに過ぎないのではないか。

それが僕の考えです。

考えてみれば人間社会の中で「正法正義の教え」とか「それを奉る正しい組織」なんてのは無いのではありませんか?

創価学会も教義の面ではその源流が「斜め」になっていた。しかし初代会長から三代会長までの間の一時期、「人間を尊重する思想」というのが組織内にあったからこそ、少しの間はまともな組織に見えただけかもしれません。

そんなこんなを考えた時、懐古主義により昔の創価学会に戻そうとか、池田先生の考えていた組織に立ち返れというのも、そこにどれだけ意味があるのか今の僕には理解できないのです。

「もともとの根本思想がグダグダじゃん。そのグダグダさに目を瞑って組織を復興なんて意味がない」

日蓮は述べていましたよね。

「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」
(諸法実相抄)

仏法の根本は「行」と「学」です。
「行」とは何も学会活動とかではありません。「学」で学んだ事を社会の中で実践する事も行であり、その為には「学」は極めて重要ですよね。

組織を建て直すとか、過去の会長の種々の指導をおうむ返しの様に語るより、その「学」に基づく「行」、そしてその根本となる「信」について。

それらそもそもの事についていまの時期、一人ひとりがよくよく考える必要がある時代になったのではありませんか?


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