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想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   

このブログについて

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ここは想学談林の管理人がつれづれなるままに書き込んでいるブログです。

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内容は主に日蓮、創価学会、公明党、また時事関係など様々です。
よろしければ読んで見てください。

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【20170920】大義なき衆議院解散で見えること

こんにちは( *・ω・)ノ

九月に入り、仕事関係が結構しんどいことになってまして、それを乗り越えようと日々奮闘しています。

社員には使えない人達が多く、それこそ三分の一は日がな一日ネットサーフィンし、三分の二は、それらの人を脇目にしながら多くの案件を捌き、僕のようなパートナーがそれを補助するという感じで、ここで補助と言っても実際には主担当として取り組んでいます。

今の職場を見ると、会社とは社会福祉団体の様な側面もあるんだなと感じます。要は仕事が出来ない人にも居場所を与え、年齢に応じた給料を支払うんですから。

僕の様な個人事業主の様な感覚で生きてきた人間には、理解できない事なんですが、今居る大企業には未だにその様な風潮を感じます。

さて、そんな職場にもご多分にもれず男子部員が居るわけで、昨日も今回の衆議院選挙について話をする機会がありましたが、正直、この男子部員は怒ってました。

「俺たちゃ選挙の手駒ではないっすよ、うちの支部長も怒ってました」

何でもその支部長は元広宣部らしく、いまの創価学会の教義改正や一連の動きは知っていて、もう堪忍袋の緒が切れたと言ってるとか。

「でも選挙は頑張るんだろ?」

そう話を向けると「なーにイッテんすか、それを口実に友人と遊ぶだけですよ。数字なんて適当にあげときゃ、あとは静かなんですから」と笑ってました。

今回の選挙に「大義」はあるか?
この大義について、政治家の大義と庶民の大義は異なります、また政治家でも様々でしょう。

日本は議会制民主主義と言ってるんですから、その今の政治家の大義が違うと思うのであれば、落選させれば良いのですが、それが中々出来なかったりします。

その理由は「権益」という言葉で、僕はこのブログでも書いてますが、多くは選挙民と政治家の利害関係です。

創価学会もご多聞に漏れず、この権益を政治活動により守る側の立場にいます。しかし会員たちはその信濃町界隈の持つ権益を理解せず、広宣流布という理想の為に創価学会や公明党は取り組んでいると夢想しているのです。

この二つの考え方の大きな隔たりの狭間に立っているのが今の原田会長を筆頭にした信濃町界隈なんですね。

政治や経済と言った「権益側」には、創価学会としてそれを維持すると伝え、一方の創価学会会員に対しては、そんな権益のドロドロしたことはおくびにも見せず、池田先生を中心とした麗しい広宣流布の為に政治活動が必要だと諭し、ハッパを掛けるわけです。

こりゃ精神的にマトモな人間には出来ない芸当ですよ。

恐らく原田会長にしても今の信濃町界隈にしても、創価学会に入り、そこで活動を始めたばかりの頃は、そんな姿や精神構造ではなかったはずですが、まあ簡単に云えば戸田会長や三代の御大の作り上げた信濃町界隈の中で、今の様な精神構造になったのでしょう。

よくネットの中や、創価学会の在野の中でも原田会長を中心とした信濃町界隈はケシカランという論調と、そんな彼らに利用されている池田会長を偲ぶ言葉が多くありますが、そこに欠落しているのは、そういう信濃町界隈の人達を醸成してきたのは池田会長自身でもあるという視点です。

僕は以前に池田会長の近くにいた人と話をしましたが、その人が云う池田会長とは「中身が空っぽ、周囲につく側近次第でコロコロ変わる人」だそうです。

僕が非活になってから十年以上経過しましたが、距離を置いて創価学会を見ていると、その実態は池田会長の姿そのままだと感じます。

要は周囲の社会的な状況で、コロコロと主張が変わり続けてますよね。

僕は池田会長と親しく会話したことなんてありませんが、この創価学会という組織を見る事で、その人物なりを理解しました。

「私が創価学会を作ってきたんです!」

ありし日の御大は、本部幹部会同時中継の席上で何度も繰り返してきましたが、これは本当だったんですね。

まあ三代の御大がコロコロと変わるのは勝手ですが、それに振り回される方は大変でしょう。そんな御大だからこそ、付き従うには思考を停止せざるを得ません。

今の創価学会の思考停止は、そういった事情から拡大したのかと僕は思ってますよ。

そして思考停止しない人達の中に、信濃町界隈の職員、議員や外郭団体の職員が居るのではありませんか?

今回の選挙に関しては、自民党から創価学会に対して事前に打診があり、信濃町界隈はそれを了承、直ぐに方面長会議を開きました。そして公明党代表の山口氏に対し、安倍総理は伝達したんですよね。

つまり創価学会との間で話はついたから、解散するよと伝えた訳です。

これ、外向きにしたら山口代表は良い面の皮という事が判ってしまうことですよね。

確かに公明党代表の立場は、組織こそ別れてますが、実態としては創価学会の政治部門の責任者に過ぎません。でももう少し対外的に配慮してやれば良いのにとも思いましたが、創価学会の政治担当であるピロシ氏にはそんな感覚は無いのでしょうね。

今ごろピロシ氏は「俺こそ日本の政治の中枢に居るんだ」と得意満面になっているのかもしれません。

まあ、とにもかくにも衆議院の解散風は強まる一方です。

創価学会の末端組織の人達も、少しは知恵ある行動をとってみてはいかがでしょうか?

【20170919】創価学会にとっての教学

こんにちは( *・ω・)ノ

ここ二~三日で日本の政治状況は動いてきました。それこそ末端組織の人達の本来の役目である集票活動がまた始まります。

ついこの間、東京都議会選挙が終わったばかりなのに、今度は衆議院解散と選挙なんて、よくやるもんですよ本当に。

今朝の報道ではロシアから帰った山口代表を安倍総理は私邸に呼んで協議したとありますが、もう今月の17日に自民党は創価学会の了承を取り付けたと云うんですから、山口代表には事後通達というものですね。

まあ信濃町界隈のピロシは確か、山口代表が青年部の末端組織の幹部の頃から、信濃町界隈の中央幹部だったんで、反論するなんて事は無いでしょう。もしかしたら昨今の山口代表の冴えない表情は、そのストレスに依るものだったりして。

まあ所詮、「党代表」と言った処で創価学会の政治部門の責任者に過ぎませんから、何ら実際の決裁権なんてあるわけないですからね。

そんな中、創価学会の行事の一つであった教学試験も選挙で飛びそうな話を聞きました。

僕の嫁も組織の中を走り回って啓蒙していたのですが、それが全ては「紙くず」として消え去るのでしょうか。

残念な事ですね。

今の創価学会にとって、教学なんてのはさして重要ではないのが、この一時をとっても理解できるというもの。
まあ2014年の会則改正から一連の教義改正について、未だに末端組織では徹底されてませんし、教学試験の教材についても良くできたもので、改正した論点はギラギラさせずにスルーできる内容でした。

未だに末端組織では大石寺の大本尊を恋慕し、それの図顕が出世の本懐。日蓮は末法の御本仏と信じている人が多数います。まあ多くは高齢者ですけどね。

一方で今の青年部は、教えの論理性や日蓮の説いた内容なんて、刺身のツマ程度で御書すらまともに読めませんから、池田先生さえ居ればどーにでもなるんでしょう。

だから池田会長の事は、表に出さないし出せないのだと思ってますよ、僕は。

日蓮は「大難出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり」と開目抄で述べてましたが、いまの創価学会、こと信濃町界隈にこの心意気はあるのでしょうか?

それとも、既に資金は唸るほどあり、自分達が生きている間は食いっぱぐれは無いことから、適当にやっているのかもしれませんね。

青年を育成するとか、教学を大事にするなんて、口先だけで言ってますが、いまの創価学会にはそんな事は関係ないのでしょう。
既に「お元気な池田先生」という事さえ言っていれば、末端組織の人達は「お元気な池田先生の元で云々」と、信濃町界隈のおかしさなんて忘れて集票活動もしますし、財務と言ってお金も貢ぎますからね。

こんなんが「宗教界の王者」「庶民の王者」と言うんだから、何とも嘆かわしい限りです。

【20170918】内道変じて外道となる

こんにちは(´・ω・`)

この三連休、本当は子供を連れてどこかへ行こうかと考えていたのですが、台風18号の影響で、結局は家の中に雪隠状態となってしまいました。
まあ個人的には仕事関係で勉強しなければならない事もあるので、その時間を取る事が出来ていますが、やはりこの天気は憂鬱になりますね。

さて先日の記事「【20170915】七重の相対(五重の相対)考察」を読んでいただいた方からメールを頂き、いまの創価学会の中で行われている幹部指導の実態についての疑問点を頂きました。
今回はその回答ではありませんが、その件について少し記事を書いてみます。

「難しい問題に出会ったとき、年配の婦人部の人は「もう必死で御題目をあげるしかないだよ」とよく言います。題目をあげて問題に取り組むのはいいのですが、題目をあげる事しか思いつかず、それ以上考えるのを放棄してると思います。」

この文面は頂いたメールからの一部抜粋となります。

僕が青年部時代からこういった指導というのは行われていました。斯くいう自分も青年部時代に家族の大問題に出会ってしまい、藁をもすがる思いで当時の男子部の先輩の家を夜中に訪問した事があります。
当時、その先輩は深夜1時近いのにも関わらず、快く家に上げて頂き、僕の想いや考えている事を一通り聞いてくれて、最後に一言「もうお題目しかないだろう」という言葉をもらいました。
それからの僕は毎晩、帰宅すると深夜まで一人仏壇の前に座って深々とお題目を一時間以上唱える日々が続きましたが、一か月ほど経過した時に、状況が急転直下で変化して問題を乗り越えたという事がありました。

その事を先の先輩に報告したところ「本当に良かったなー」と自分の事の様に喜んでくれた時の先輩の顔は未だに僕の記憶に残っています。
(余談ですが、この先輩も後に信濃町界隈の中央幹部に反論した結果、降格人事をくらい、組織から消えてしまいました)

人が悩みを抱えてきた場合、どの様な言葉で相対するのか、そこには常套句はありません。
出てくるのは恐らく、その人に対して日常からどの様に心の中で考えているのか、その人に対する想いにつきるのではないかと思うのです。

「昼夜常精進 為求仏道故 此の文は一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり。」(御義口伝下)

御義口伝は口伝だから日蓮直説ではなく偽書だとも言われていますが、僕自身はこの言葉には真実があると考えているのも、こういった事からです。

この悩んだ相手にかける言葉。
ここで特に気を付けなければならないのは、安易な言葉は慎むべきという事ではないでしょうか?

先の拙ブログの記事で「内外相対」について書かせてもらいましたが、仏法とは内道であり、全ての事象の原因は自身の内にあるという事に気付かなければならないという事です。
よく創価学会の中で言われる事ですが「御本尊様にお任せすれば大丈夫。とにかくお題目を上げなさい」という言葉。これも本来は気を付けなければならないのです。

本来、内道という事で言えば、その問題が如何なる原因が自分の中にあり出会ったのか。そこについてしっかりと相手に理解をさせなければなりません。またこの原因ですが、単なる宿業論という事ではないという事も相手に理解をさせる事も大事な事なのです。

いまも創価学会の中で良く言われている「過去世の謗法(宿業)が原因で現在の苦しみがある」というのは、実は婆羅門の教えであって、釈迦もその思考は否定していました。
それが一番の根拠は「久遠実成」という法理です。妙法蓮華経が何故、大乗経典の最高位の経典であるかはこの法理があっての事であり、要は久遠という計り知れない昔、釈迦は既に成仏していたにも関わらず、様々な経典で過去世の姿として説かれてきた様に多くの苦悩を受け、そこで常に法を求めて菩薩の修行に励んだという事はそういう事ではありませんか?

日蓮もこの事については開目抄で以下の様に述べています。

「経文に我が身普合せり御勘気をかほればいよいよ悦びをますべし、例せば小乗の菩薩の未断惑なるが願兼於業と申してつくりたくなき罪なれども父母等の地獄に堕ちて大苦をうくるを見てかたのごとく其の業を造つて願つて地獄に堕ちて苦に同じ苦に代れるを悦びとするがごとし」
(開目抄上p203)

つまりいまある苦悩には理由と目的があり、そこに対して直視する事が仏法では重要な事であり、譬え日蓮の文字曼荼羅に祈ったとしても、その原因を自分自身の外にあると認識させ、且つ自分とは別の御本尊という自分以外のスーパーパワーを持つ存在に依存させてしまうのであれば、それは内道ではなく外道の教えとなってしまうでしょう。

以前の記事にも書きましたが、僕の相談のメールが来て、会ってみるとお題目を唱えて一時期は改善したように見えていても、時がたてば同じ苦悩にめぐり逢い、そこで堂々巡りを始め、最終的に仏法不信となっている人の多くが、この外道の信仰に陥っていました。

「御本尊ちゃま~、お願い、御利益で祈りを叶えて!!」

こんな祈りは外道の祈りであって、仏法の祈りではない。
僕はその様に考えています。

この事について天台大師も「道士の心を以て二教の概と為し邪正をして等しからしむ義是の理無し、曾つて仏法に入つて正を偸んで邪を助け八万十二の高きを押して五千二篇の下きに就け用つて彼の典の邪鄙の教を釈するを摧尊入卑と名く」とある様に、この様な祈りでは、見た目は仏法の様ですが、何ら外道の祈りと変わる事の無い信仰として仏法を誤解させてしまうのです。

苦悩に悩む人に対して、どの様な言葉を掛ければ理解してもらえるのか、そこは解りません。
単刀直入に「願兼於業」という事を話しても、相手は理解できないかもしれません。だからこそ、相手をどれだけ想い「抜苦与楽」の心をもって対応していくのか。

そういう「心」を持った幹部が少なくなりましたね。

仏法とはどこまで行っても内道なのですから、こういった視点を忘れてはいけないと僕は思いますよ。

【20170915】七重の相対(五重の相対)考察

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

この連休は台風が日本を縦断するようですが、連休は来ないで欲しかったなー。
でも相手は自然なんで、どうにもならないし、人間社会の都合なんて関係ないですからね。

皆さん、この連休は雨風には十分に気を付けましょう。

さてTwitterでトンチンカンだなと思いつつ、七重の相対なんてのを書きましたが、今の創価学会の中では何気にありそうな事なんで、五重の相対からはじめて少し考え直してみたいと思います。

五重の相対の雛形的な思想は天台の教義の中にもあったようですが、五重となると日蓮の思想だと言っても良いでしょう。この考え方は互いに相対比較して、何れが正しいのかを判別する思考(判釈)なのですが、まずは各相対について考えてみたいと思います。

1、内外相対
内外とは「内道」と「外道」を相対する事で、内道とは仏教で外道とはそれ以外だと言います。
そもそも何故仏教を「内道」と言うかですが、これは物事の因果を自身の内側に見るという事を指し、仏教はそういう思想であるから「内なる道」で内道と呼んでいます。
一方、自分以外の外側に神など何者かを立て、そこに因果を見るのが外道だといい、日蓮のいた当時では道教やバラモン教を外道と呼び、今の創価学会では仏教以外全て外道と教えています。
しかし昨今のキリスト教の神学とかの議論を見ていると、自分の中に神を求め、内省的な思想が見られるので、強ちキリスト教だから外道と言えないと思います。
また創価学会の中でも文字曼荼羅を御本尊様と呼ぶのは良いのですが、あたかも万能の力を文字曼荼羅は持つ存在と捉え、「御本尊ちゃま!お願い!とお祈りすれば叶います」なんて指導がまかり通りますから、これは外道の一分に入ると思いますよ。

2、大小相対
これは仏教の中にある大乗教と小乗教という二大潮流を相対比較する事を述べてます。ここでいう小乗とは、今で言えば南伝仏教を思い起こします。そこでは最高の悟りを阿羅漢果(声聞の悟り)として、主に出家して修行に励む個人の救済に力点を置いている仏教を云います。大乗教とは北伝仏教で、いわゆる中国や日本に伝播した仏教で、人々は菩薩の行いをする事で、万人に成仏の方途があるという教えを云います。
要は一人を救済する教えか、万人を救済する教えかという判定をするわけですが、形として大乗仏教であっても、人々の救済に目を向けないものは小乗仏教にも劣るものであるので、一括りに「大乗仏教」や「小乗仏教」とは言えませんよね。
例えばインドで一億人の人々に仏教を広めたという佐々井秀嶺師は南伝仏教の教えを持って行動してます。一方の創価学会は大乗の教えと云いながらインドのハイ・カーストしか相手にしてません。
一体どちらが仏教の本義に近いのか、考えてみたら判るでしょう。
単に奉じている教えが小乗か大乗かという問題では無いのです。

3、権実相対
こちらは法華経以外の権経と、法華経を相対して判釈するもので、法華経こそ釈迦の本意であり、それ以外は仮の教えであるという事で判釈してますが、最近の研究では法華経の成立は釈迦滅後五百年頃だと言われていて、釈迦直説でないのはほぼ確定しています。また法華経の成立についても、実は詳細な事は解っていないので、単純な判釈は出来ないと思うのです。
しかし多くの弟子たちに成仏の記別を与え、久遠実成を通して仏はけして自身の外に居るわけでもなく、ましてや何かで得られるものではない。人は元来、仏であるという思想はとても魅力的で意味ある内容だと思いますよ。
そういう点では法華経は優れているのでは無いかと思いますが、この判釈では権経を捨て去るというものではありません。
やはり仏教哲学とは、実経と権経ともに必要であり、主軸をどちらに置くのかという事だと思います。

4、本迹相対
これは法華経の本門と迹門の相対判釈ですが、久遠実成が説かれている本門が重要だという事ですよね、詳細は省略します。

5、種脱相対
これは日蓮仏法と釈迦仏法の立て分けを言っていて、久遠下種の釈迦仏法は下種を気づかせ悟らせる事、これを脱益仏法と呼んでますが、それに対して、日蓮仏法とは仏種の無い人々に、下種を施す仏法だと言うのです。
これは日蓮独特というよりも、どちらかと言えば興門流の考え方では無いかと思います。そもそも久遠下種の衆生と下種無しの衆生とは、どの様な違いがあると言うのでしょうか。もし違いがあると言うなら、何時の時代から綺麗に切り替わると言うのでしょう。また「富士一跡門徒存知事」にも日蓮は釈迦久遠の弟子の上首である上行菩薩の再誕としてますが、何をもって日蓮仏法は釈迦仏法と違うのか、そういう疑問点が多くあります。
この下種日蓮仏法という思考、またそこから派生したであろう日蓮本仏論が、結果として門下の中に、仏教軽視を産み出してはいませんか?
確かに日蓮の説いた教えの解釈は、それまでの仏法に対して一重深く立ち入っていると思いますが、それは釈迦の説いた教えと別のものではありません。

僕は個人的にこの立て分けについては、もう少し丁寧な議論が必要だと考えています。

6、創宗相対
ここからは近年の創価学会の動きから、勝手に読み取ってます。あくまでも創価学会という立場からであり、そもそも宗門にはこう言ったものは存在しません。
創価学会と宗門教学。これは共に根っこを辿れば大石寺教学であり、戦前の宗門の説いた教えが基本になってます。
牧口会長は大石寺の教えでも、自身の価値論を用いなければ功徳は得られないと云い、戸田会長は生命論、そして池田会長は人間主義を用いて大石寺の教えを独自に展開したと言っても良いでしょう。
そして第二次宗門問題を境にして、創価学会ではその様な創価学会の教学こそが世界宗教に合い相応しく、宗門の教えは「富士宮の山寺信仰」と切り捨てたわけです。
そして創価学会の展開する日蓮仏法こそが民族や思想を越えて人類を結びつけると自画自賛したわけです。

7、池創相対
そして近年では、従来の創価学会の思想から、池田哲学という名前に切り替え、近年の古今東西の思想のパッチワークを中心に据え、池田会長のカリスマ性を異様に高め、かの御仁を永遠の指導者に祭り上げ、その元に団結して進む創価学会という組織を独自の解釈で「創価学会仏」として祭り上げ、SGIも日本創価学会の一部門とし、御大のカリスマ性を傘にきた会長を最高位に祭り上げる会憲なるものを制定しました。

従来の戒壇大本尊を受持の対象とせずと云い、日寛教学は見直すと語り、日蓮の出世の本懐の解釈も変更。ここに来て本仏論まで消そうとしています。

僕は昨今の創価学会この教義の一連の内容について、教学的な観点や歴史的な観点で解らなくも無いですが、今の創価学会にはそういう地に足の着いた議論で決めた訳ではなく、何か行き当たりばったりの動きにしか見えないんですね。

また活動家幹部連中も、こういう事には一切無関心で、異口同音に「お元気な池田先生」で終わらせている処には異常さを感じます。

創価学会仏とは、実は悩乱した仏ではないのか?

七つをこうして並べてみると、改めて創価学会のおかしさを実感するのは僕だけでしょうか。

もう止めてほしいな、こんな事。

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