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想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   
カテゴリー「未選択」の記事一覧

【20170626】専従職員は必要なのか

こんにちは( *・ω・)ノ

昨日も僕の地元の婦人部あたりで、朝から晩まで都内に行っていた人達が居たようです。
その真面目な行動は組織内では称賛されるのかも知れませんが、休みの日に嫁が一日外出して集票活動に励むというのは、その家庭にとってどうなんでしょうか。

それぞれの家庭の事なので、僕は嫁からそんな話を聞いたときに、コメントは特にしませんでしたが、様々な事を考えてしまいます。

さて今回、AERAの以下の記事を読んで、専従職員の事について考えた事を書かせてもらいます。

寺の収入年3万円! “モグリの坊主”にもなった住職の過酷な生活〈週刊朝日〉

以前にある北陸の正宗寺院の法華講幹部からメールがあり、聞いたところでは宗門の寺の中にも地方の寺院なんかでは、それこそ住職も慎ましい生活を強いられるという事で、金満生活できる坊さんは宗門の方でも都市部にある一部の寺院だけだと聞きました。

もともと「僧侶」とは「出家者」の事であり、それこそ家も家族も捨て去って、ひたすら仏道を求め精進する人をいうのですが、今の日本では職業の一つとなって、その「僧侶」という仕事により収入を得て家族を養っています。僕が小学生や中学生の時には、地元の古刹寺院の子供の友人が何人か居ましたからね。

この出家というスタイルですが、今の日本の社会の中で、本来の意義に忠実な姿では出来ない事だと思いますが、どうなんでしょうね。

インドや東南アジアあたりの地域では、未だに僧侶に供養を施し、それにより功徳を得るという習慣がありますし、インドにおいても出家して道を修める人達を社会で許容するという考え方が根付いていますが、極端に言えば今の日本ではホームレスになる覚悟が無ければ、本来の意義の出家なんて出来ない事かもしれません。

さてさて、この僧侶とか出家の事についてはこの位にして、次は専従について。

創価学会には多くの専従職員が居ます。

創価学会の本部職員や中心会館には専従職員も居るでしょう。聖教新聞社なんて呼ばせてますが、あれも創価学会の出版事業を行う部局であり、そこに勤務しているのも基本的には専従職員ですよね。

そして創価学会は多くの事をやってますが、例えば聖教新聞の配送とか、書籍の輸送なんかは「日本図書輸送」という創価学会の関連会社がやってますし、本部や関連施設の警備は「日光警備」という会社がやってます。また本部周辺のレストランや小物、書籍を販売しているのは「東西書院」という会社ですし、創価学会関連書籍の出版社として「潮出版」や「第三文明社」がありますね。また映像メディア系は「シナノ企画」という会社もあります。
あと有名処で忘れてはいけないのが、「創価大学」や「創価学園」。あと「公明党」もありますよね。

まあその他細かいモノを挙げれば切りがない感じもしますが、要は創価学会の「宗教」の周辺には、それによって収益を得ている企業も多くあって、そこにはそれを生業として生計を立てている人間が多くいると言うことです。

僕は本来、収入を得るという事は、社会に対して何らかの付加価値を提供し、その見返りが収入という形で得られ、それにより生活を営むものと考えてますが、専従職員は何か付加価値を社会に提供して居るのでしょうか?

恐らく会員の信仰行為のおこぼれで収入を得るのが彼ら専従職員であって、要は言葉は悪いのですが、会員の信仰に寄生しているだけであって、その立ち位置は社会の中でも扱いとしては最下層にいても良いくらいだと思うのです。

だって社会に何ら付加価値を提供していないですから。要は信仰に寄生してお金を得てるんですよね?

しかしまあ大きな宗教組織であれば、どうして専従職員というのは必要になるのかもしれませんが、そんな彼らが高給を貪るのみならず、あまつさえ特権意識を持つなんて、本来はトンでもない事だと僕は思うのです。

しかも近年に至っては、この本部職員や外郭団体職員が「家業化」して「代々職員」が発生している状況に至っては、あるべき事では無いと僕は思ってます。

だいたい社会の中で仕事をしている会員と、その会員の信仰心に寄生して録を得ている職員のどちらが社会人としてマトモだと思いますか?

そりゃ社会の中で付加価値を作り出している「在家」に決まっているではありませんか。

しかし昨今の組織では総県幹部以上は原則「職員もしくは外郭団体職員でなくてはならない」なんてやりはじめてますよね、その理由も「いざという時には職員でなければ信頼できない」とかいう理由だと云います。

大きな組織になれば、そこに時間が経過するなかで特権意識も芽生え、そこから宗教貴族の様な人間も出てくるでしょう。そんな彼らは必ず自分達が寄生している「在家」の信徒を見下し始め、自分達の為に利用する様になるのです。これは如何なる宗教組織でも起きる事です。

大事な事は信徒がそんな彼らに惑わされずに、毅然として彼らを「監視する事」であり、必要ならば「糾弾出来る強さ」を持つことなんですが、宗教という性質上、そんな事は難しいのかもしれません。

創価学会は組織を肥大させる事を目的の一つとしていますが、そんな組織の専従職員なんて大々的に削減し、ボランティアを中心とすべきではありませんかね?
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【20170623】火宅から出るのは無理か

こんにちは( *・ω・)ノ

さて皆さん「三車火宅の譬え」というのは覚えてますか?
恐らく昔なら青年三級だか二級あたりで勉強した内容だと思いますが。

これは法華経の比喩品第三で語られた譬話で、語ったのは舎利弗となってますよね。(まあ実際の歴史では法華経が説かれたと云われる頃には舎利弗は故人でしたけど)

内容は、その昔ある長者がいて、彼は大きな邸宅を持ち、財宝も沢山持ち、召し使いも沢山いたと言います。
ある時、その長者の家が火事になり、中にいた人達は逃げましたが、長者の子供達は燃え盛る家の中で遊ぶことに必死で、自分達が如何に危険な状況か理解できず、燃え盛る家も遊園地の中に居るように錯覚して遊び回っていたと言います。このままで行けば子供達は丸焼けになり死んでしまう。
外から父親である長者が「危ないから出てきなさい」と呼び掛けても遊びを止めず、子供達は火宅の中から出てこようとしません。
そこで長者は一計を案じ、子供達に呼び掛けます。
「ほら、お前たちの欲しがっていた大きく宝物で飾られた牛車をあげるから、はやくこちらに来なさい」
すると遊び回っていた子供達は、牛車欲しさに火宅から飛び出して来ました。
そこで長者は彼ら子供達に、より大きな大白牛車を与えたという話です。

この説話、よく読むと突っ込み処が満載なのですが、それについては置いといて、これは火宅の中にいる子供達を凡夫に譬え、火宅で遊び回っていたいるのは、苦悩の多いこの娑婆世界で生きていることを指し、長者は仏で誘い出す大きな牛車とは声聞・縁覚・菩薩の三乗を指すそうです。

そして出てきた子供達に与えた大白牛車は仏乗(成仏)と言うのです。

開三顕一(声聞・縁覚・菩薩の三乗を得る目的は仏乗―成仏にある)という法門を示す比喩であると言いますが、この説話で巧みなのは、この娑婆世界を火宅と比喩したという所でしょう。

この世界には様々な苦悩が渦巻いています。物欲・色欲・無色欲。この様々な欲から物事に執着が生まれ、そこに苦悩が生じてくる。

だから小乗の教えでは、そんな欲(煩悩)を否定して、灰身滅智の先に成仏する事を目指したんだと僕は教えられて来ました。そして日蓮仏法とは「煩悩即菩提」と云い、その煩悩を薪の様に燃やして行きながら、それをエネルギーとして菩提(覚り)を目指すのであり、欲望は否定しないとも聞きました。

まあ仏教の真偽は一先ず置いておいて、今の世界は本当に欲望が渦巻き、そこに様々な策謀があって、人間社会は蠢いてます。

世の中の多くの問題の根底にはこの「欲望」があって、人々はこの欲望に日々焼かれていると言っても過言ではありません。

創価学会が東京都議会議員選挙に必死に動けるのも、また無条件に公明党の票をかき集めるのも、根底にはこの「欲望」があるからですね。

んな事いうと、活動家は云うでしょう。
「我々には池田先生が指し示してくれた、世界広宣流布という目的がある、お前にはそれが理解できないのか?」

いやいや、でもその根底には「欲」があるじゃあないですか。「宿命転換」「人間革命」「境涯革命」「絶対的幸福』。
それらも云わば「欲望」に変わりありません。ある意味で創価学会とは欲望を肯定しながら、それを昇華する事ではなく、会員の欲望をうまく組織権益に利用する仕組みを構築しているわけです。

この世界は確かに欲望が渦巻き、僕を含めてその欲望に踊らされているというのが、現実ですよね。

大事な事は、その踊らされているという認識を持つことであり、その根底にある自分自身の欲望。これには物欲(即物的な欲求)、色欲(肉体的な欲求)、無色欲(精神的な欲求)があるという事を理解すべき事ですよね。

これら欲求とは生きるためには必要な事ですから、それらを切り離すということは、生きることを止める事にも通じてしまうの思います。

だから本当はこの欲求という自身の中にある動きを理解する事で、そこからその自分の中にあるものと如何に付き合うべきなのか。そこが「煩悩即菩提」の始まる立ち位置であり、単にそれらを無条件に肯定する事ではないと思ったりします。

創価学会の様に無条件に肯定するから、その会員達は信濃町界隈にコントロールされ易くなってますから。

そしてこれは何も創価学会に限ったことではなく、この日本社会や、延いては人類社会の仕組みその物も、その構造になってませんか?

果たして人々は火宅から抜け出せるのか、いやいや、そもそも火宅に居ることを認識出来る様になるんですかね?

そんな事を考えています。

【20170614】信仰の目的とは

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

梅雨らしい陽気になってきた様に思えますが、気を付けなければならないのが体調管理ですね。
まあ有り難い事ですが、今の職場で仕事はひっきりなしにあって、日常仕事では多忙に過ごしています。その昔、牧口会長の言葉で組織には三種類の人が居るというのを聞いた事があります。

 ①組織に居て貰いたい人
 ②組織に居ても居なくても良い人
 ③組織に居てもらっては困る人

職場を見ると②とか③は社員が多く居るように思えます。僕の同じグループの主任なんて、ほぼ毎朝遅刻で居眠りですからね。
社員で①の人は少ないように思えます。

一方のパートナーと呼ばれる契約社員等で、長期に渡っている人はほぼ①ですね。
これは有期雇用という側面から、容易に切られる反面、切られないと云うのはそれだけ必要に他ならないからです。

しかしそんなパートナーに、企業と云うのはドライなんですよ。逆にね。
何か大きな矛盾を感じてしまいます。

さて今日のお題、昨日に続いて功徳(ご利益)に引っ掻けた話をします。

日蓮の人生観とはどの様なものであったのか、これは門徒の四条金吾に与えた御書にある以下の言葉に現れてます。

「一切衆生南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり経に云く「衆生所遊楽」云云、此の文あに自受法楽にあらずや」

「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや」


先日僕の処を訪れた壮年部はどの様に考えているのでしょうか。「功徳が欲しいでしょ?」「良い生活を送りたいでしょ?」と僕に問いかけましたが、そんな言葉は僕には響かないんですよ。

考えてみれば日蓮の人生とは迫害の連続で、恐らく安穏とはほど遠いものでした。そんな状況にも関わらず、この日蓮は「喜悦はかりなし」と生きていました。

そんな日蓮が説く仏法が、なぜご利益信仰になるのか、僕はよく解りません。確かに宗教として多くの人に受けやすいのは「祈って叶わざるなし」というキャッチフレーズでしょう。しかし長年にわたりその信仰を続けた人間が、ご利益ばかり語るというのはいかがなものかと思っています。

人生には苦楽はつきものです。
この苦楽に一喜一憂するのではなく、その苦楽を通じて自分自身、何を学ぶ事が出来るのか、そこにこそ人生の目的があると僕は常々考えています。

逆に苦悩から目を背けて楽を求め、その為に人生を生きていく。
そこには自分自身で人生を生きていく事を放棄する事に通じてしまうものがあると思うのです。

「創価学会の言う功徳などいらぬわ」

僕は先日来た壮年部に言いましたが、それはそういう事を想っての言葉なんですが、相手はどれだけ理解しているのか。恐らく理解すらしていないでしょう。

人生の目的について、法華経では「衆生所遊楽」とある事から人生楽しむ事が目的だという話はよく聞きます。しかしそれは安穏で自分の希望通り生きられるという意味ではありません。
「苦をば苦と”さとり”」。これは苦しい事からめをそむけずに見据える事を言い。
「楽を楽と”ひらき”」。楽しい事は周囲と感情を共有しながら。
「苦楽ともに思い合せて」。それらの一つひとつを享受しながら、自分自身を見つめる「御題目」を唱え行く事、これを日蓮は「自受法楽」なんだと言っているではありませんか。

そういう事だと思っています。

創価学会が初代会長としている牧口会長は、特高尋問調書の中で以下の様に述べてました。
「私の創価教育学会は、此の秘法の本尊と、我々人間の生活と関係があるか無いかを認識させる手段として、人間生活には此の本尊に帰依する事に依ってのみ安定が得られ、幸福が招来し価値を現実に実証し得ると言ふ事を感得せしむるにあるのであります。」
ここでは御本尊と自分の生活の関係を認識する手段として、価値(信仰体験)があると述べています。創価学会でいう「現世利益(功徳)」が全面に出る要因は、この価値論を中心とした信仰が原点だったからであり、その延長で戸田会長は御本尊を「幸福製造機」と呼んでいたのでしょう。

牧口会長の時代の明治は、「人権は極めて軽く、国権は極めて重い」という時代で、社会の中は今では想像もできない貧困格差がありました。また戸田会長の時代である戦後の昭和は敗戦の中で日本社会は貧困に喘いでいました。

しかし時代は変わっています。牧口会長は「学会は発迹顕本しなければならぬ」と語っていたとありますが、創価学会は大きく変革をしなければならない時代になっているのではありませんか?

いつまでも「ご利益」を語る信仰ではいかんと思いますよ。

【20170613】ご利益信心の原点

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

「運ちゃんも良い生活は送りたいですよね」とは先日我が家に来た壮年部の言葉。

そりゃー人間ですから、また家族も抱えていれば良い生活は送りたいでしょ。でもその場合には信仰よりも仕事に精を出すのが道理であって、なぜそこに東京都議会議員選挙が絡んだりするのか、摩訶不思議な論理ですよね。

創価学会では「功徳」と呼びますが、仏教でいう功徳とは六根清浄などを言いますから、正式には功徳ではなく「ご利益」と呼んだ方が良いでしょう。

僕が青年部時代には、功徳を求めるのは「コジキ信心」なんて呼ばれたりもしたんですが、今の組織では「今回の選挙で皆がしっかりと体験をつかんで下さい。何故なら私たちは選挙屋ではないんですから」なんて言ってます。

でもそもそも投票依頼や選挙応援で功徳(ご利益)というのもどうなのか。

所謂「信仰体験」というのは信心のオカラとも呼ばれていて、自身が信仰を深める一過程だと思っていたりもしたんですが、ふと考えてみると、この原点は牧口会長にあったんですね。

牧口会長は大石寺に伝わる戒檀大本尊を中心とした教えを「唯一絶対の正法」と考えてましたが、それを実践するのは自身の考える「価値論」を用いなければならないと考えていました。

「私の価値論は日蓮正宗の本尊に帰依すること、具体的には創価教育学会に入会する事に依って、本会の信仰が人生生活と如何に関係が大きいか、価値が大きいかを判定認識せしむるのが指導理念でありまして、人生生活の全体主義的目的観を確然と把握せしめ、本尊の信仰に依る異体同心、共存共栄の生活を体得実証せしむるにあるのであります。」
(特高尋問調書抜粋)


ここで牧口会長が力説していたのが、簡単に言えば自分の生活の中で体験をつむことくが大事であり、その指導原理が価値論だと述べています。

なんの事はなく、信仰体験をつんで良い生活を送ろうという事であって、価値とはそれを指し示しているわけですね。

「故に本会に入会するに非らざれば、個々の生活の幸福安定は勿論得られませんし、延いては国家社会の安定性も得られないと私は確信して居ります。」
(特高尋問調書)


考えてみれば牧口会長が生きた時代、日本は欧米列強に追い付け追い越せでやっていた時代、司馬遼太郎氏によれば「人権は極めて軽く、国権は極めて重い時代」でした。人々は重税に喘ぐなかで、必死に生きていたのですから、創価(価値を創る)と銘打って、生活の向上を目指すということもあったのでしょう。

「創価学会は発迹顕本しなければならぬ」

この様に牧口会長は常々言っていたと言いますよね。でもまあ戸田会長が生きた時代も戦後の焼け野はらでしたから、やはりご利益信心を前面に出さなければならなかったのかも知れませんが、この平成の世の中、そろそろこの創価の二字に含まれた「ご利益信心」は卒業した方が良いように思えます。

選挙でご利益、新聞啓蒙でご利益、折伏でご利益、財務でご利益。まあご利益とは言わずに「功徳」と言っていますが、そんな信仰体験の有無が宗教としての正しさや力の大きさと語る時代は終わっても良いのではないか。

そんな風に思いますよ。

【20170612】エセ師弟ばかりの創価学会

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

この週末も地元組織では「主戦場東京に!」という掛け声と共に多くの活動家たちが東京都に繰り出していたようです。

本当に政治の事も理解せずに何が主戦場なんだか。

だいたい東京都議会の公明党議員が無能者の集まりだから、毎回毎回周辺地域の創価学会活動家ばかりか、日本全国の組織に動員掛けて支援をしないと勝てないのでしょ?

政治家を生業に選んだならば、しっかりと四年の任期の内に、支援者を自身の弁舌で作ってみろと言いたい。そしてそれが出来ないのであれば、議員になんて成らなければ良いだけだ。

「いや、池田先生の尖兵として立候補したんだ!」なんて阿呆な議員もいますが、そもそも議員とは選挙民の人々から政治に関する権利を付託される立場であって、それを単なる一宗教団体の論理で語るなと思うんですが、どうなんでしょうかね?

公明党が政権与党に入ってからこのかた、選挙活動に割く割合の多くなった創価学会の活動について、そろそろ創価学会活動家幹部たちは疑問を呈しても良いのではないでしょうか?

さて今回のお題。
先日、ある壮年部が僕の家を訪ねてきました。まあ良くも毎回、僕の質問に答えられないのに通ってくるものだと感心します。

いつも思うのですが、創価学会では活動の根拠の一つに「池田先生と自分の関係」というのがあります。所謂、創価学会で言うところの「師弟」という奴ですね。

今回も来たので最近話題となっている「共謀罪」に関する事について質問を投げ掛けてみました。

「池田先生が書かれている人間革命等でも、戦前の治安維持法というのは希代の悪法だとあるが、共謀罪は同質の法案でしょ?なぜそんな法案成立を推進する公明党を無条件に支持して応援するのか?」

この僕の質問に対して、壮年部が云うには以下の理由でした。

◆共謀罪と呼ばれている法律は、国際的にテロが劇化するなかで、必要な法律である。
◆問題は運用という側面で、運用する側がしっかりと間違いなく運用すれば全然問題ない。

この回答に僕は更に質問を続けました。

「運用で問題なく出来るというが、創価学会の活動家の多く、特に婦人部がこの事について何ら理解していないのは問題ではないのか?誰が実際に監視できるというのか?」

この質問には以下の答えが帰ってきたのです。

「その為に公明党が政権与党に入っている。池田先生が作られた公明党が居れば、何も問題ない。あと婦人部は日常生活の中では聡明に活動に励んでいるし、無知な集団ではない!」

もう既にこの段階で論点なずれ始めているので、論点を直そうと思いましたが、そのあとは池田先生は素晴らしい指導者で、公明党の議員は命がけでやっていて、実力も備えた議員ばかりと、要は自分の信じている事について滔々と語りだし始めました。

そこには何ら具体的な例示はなく、やたは自分自身が如何に信じているのかを情緒豊かに語るんですよ。

これってまともなんですかね?
この壮年部、僕の少し上の先輩なんですが、社会でも管理職にいてけしてバカではないのですが、こと創価学会に関係したことになると、論理が通じなくなってしまいます。

「私は何時も思ってたんですが、運ちゃんは常に広宣部の様に論理立てて詰めてくるけど、信心の世界とはそんなものではないでしょう?」

この言葉を聞いたときには、もう開いた口も塞がらなくなってしまいました。
日蓮は御書の随所に経典や釈・論をなぜ多用したのか。そこには自説を論理立てして証明しなければならないという思いがあったからであり、それこそが「理証」という事にも繋がるものだと僕は教わってきました。

しかし今の創価学会では、この理証という考え方は既に破綻してしまっていることを、あらためて知り、とても残念な気持ちで一杯、もう語るのも疲れてしまったんですね。

僕は青年部時代に池田会長からの指針で「21世紀の哲人たれ!」という言葉を今でも大事に心のなかに持っています。そういう意味では僕も池田門下の端くれだと考えています。

しかしそんな事を言っても、実際に組織から距離をおいているという事で、地元組織では「恩知らず」とも言われています。これは21世紀の創価学会を背負うという、師匠・池田先生の期待を裏切った姿をしているからに他なりません。

しかし考えてみたら、師匠の実態に関心も持たず、信濃町界隈の垂れ流す情報を信じて、その信濃町界隈が打ち出す活動に唯々諾々と励むのが師弟なんですかね?

僕の地元の会合でも、ちょっとした規模の会合には「メッセージ」が届きます。だから担当幹部なんかは黒盆に恭しく乗せられているコピー用紙を「慎んで拝読させて頂きます」なんてやってるんですよ。そして「お元気な池田先生・奥さまの元で云々」という言葉で毎回締めてたりします。

おいおいあんたら「池田先生、池田先生」と口ではいうが、実際にここ数年間、人前にも出てこない師匠に対して、本当に「お元気」とか思っているのかよ!と、そんな姿を見て毎回思うわけなんですね。

師匠とか言うならば、何故に本気で心配すらしないのか、僕には不思議てなりません。

僕が活動から身を引いて、一番最初に知りたかったのは池田大作という人間の事でした。だから時間を使っては様々な人と合い、話を聞いて調べました。

僕は何も池田大作という人物だけが師匠とは考えてません。しかし自分の人生に影響を与えた人に対しては、それなりに敬意をはらい、僕なりの思いをもって行動しています。

しかし今の創価学会の活動家幹部の中に、師匠と連呼するわりに、そういう実態を求める人は皆無であり、師匠と自分の間には信濃町界隈という組織と書籍というフィルターを平気で仲介させ、その上に浮かぶ「山本伸一としての池田大作」しか無いようですね。

日蓮は師匠の道善房に対して、阿弥陀佛を七体彫ったから七度地獄へ堕ちるだろうと言いながら、最後まで師匠として恩を忘れずに接していました。

僕は池田大作という人物が師匠だと考えるからこそ、広宣部で薫董をうけた様に、自身のなかでは良く良く思慮することを課してきました。

では今の地元の圏幹部や分県幹部はどうなのか、そこにどの様な師弟感を持っているのか、問い直して見たい気もしますが、そこに返ってくる言葉は容易に想像つくので、あえて問うことは致しません。

似非者ばかりの創価学会には、なんら期待なんてしてませんからね。

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