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想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   

【20170710】余経も法華経も詮なし

こんにちは( *・ω・)ノ

最近になって考える事なのですが、昨日まで常識となっている事が、明日も果たして同じように常識足り得るのか。今日の朝も日常の様に迎えましたが、果たして明日の朝も同じように迎えられるのか。

人は昨日までの日々が当たり前の様に、今日も明日も続くと考えてしまいますが、それを当然と考えてはいけない様に思うのです。

最近、無量義経から法華経へと、読み進めていたりしますが、無量義経の中で大荘厳菩薩という人が釈尊に「どの様な法を修行すれば良いのか?」という質問に対して、釈尊が答えたのは「無量義経を修行すべきである」と答えたのですが、その際に「一切の現象は自ら過去、現在、未来に渡り現れる姿や性質は空であり、それが調和したものであり、大小、生滅、住動、進退というものではなく、虚空の様に二つは無く一つの真理であると観察する事である」と述べています。

ここで「空」とありますが、これは物事は縁起により生じ、確定した実体が有るものはないという「空観」について述べたもので、それが「寂」、つまり調和を保ち落ち着いた状態にある事を言います。そして無量義経ではこれが真理であると観察することを述べていました。

創価学会では「永遠普遍の大法」とか「永遠の指導者」という事を教えられ、やもすると「常住不変」という事を刷り込まれたりしますが、そういう事を法華経を含めて教えては居ないんですよね。

そういえば日蓮は門徒の上野殿に与えた御書の中で、以下の様に語ってました。

「今末法に入りぬりば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」

これは末法に入ったのであれば、他の経典を含めて法華経ですら、意味ないものであるという言葉です。末法になったなら、ただ御題目しか無いのだという言葉ですね。
婦人部あたりはこの言葉を聞くと「だから御題目しか無いのよ!」と言って祈祷師に早変わりしそうですが、この解釈も少し難しいと思います。

今いま法華経の事を調べてみると、改めて法華経は釈迦の直説ではないと実感を深めたりしますが、これは当時の人達が仏教本来はこうあるべきという中から紡ぎだされたものだと思います。要は当時の仏教指導者の不甲斐なさから派生したと言っても良いでしょう。

日蓮が仏教を学んだのは、釈迦滅後二千二百年経過した時代でした。そして日蓮が学んだ中では、既に法華経を学ぶといっても形骸化著しく、そこで御題目という七字の中に、そのエッセンスが凝縮されているとして、他の経典はすでに意味ないという考えを述べたのかと思うのです。

物事で永遠不変のものは無い。
そこには「空観」という概念も関係しての言葉なのではないかと思います。

翻り今の時代。
天台教学も既にかなりの時間が経過しており、例えば一念三千という教理にしても、そのままでは現代にそぐわない内容かもしれませんし、九識論にしても、その内容はユングの心理学やシュタイナーの心理学の方がより進んだ部分があるかも知れないのです。

つまりこういう時代になってきたからこそ、様々な事を観察しながら、形式とか過去の理屈にのみ囚われる事なく、新たな思考というか考え方が必要になっているのではありませんかね?

聞くところによれば、人工知能はかなりの進歩をしているようですし、医学の進歩も著しく進んでます。

時代は刻一刻と動き、変化しているのですから、そこには何が求められているのか等、考えることがとても大事だと思ったりしました。
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【20170708】組織の諌め方

こんにちは( *・ω・)ノ

昨日は職場の知人と呑んでました。
面白いもので職場関係の知人と接する方が、何かと触発を受けたりするし、社会の中で知り合った人の方が、何かと良い付き合いができたりしますね。

僕が分県青年部長をしていた時、携帯電話の電話帳には300件を越える連絡先が入ってました。今では精々十数件。当時は殆んどか創価学会の人間でした。

でも創価学会の中の付き合いの方が、表面的な付き合いだったと思いますよ。

さて今日のお題。
件三名のブログを見ましたが、彼らは沖縄に行ってたんですね。まあマスコミに露出する機会も増えて、さぞかし多くの人が集まったのかと思いきや、それほどでも無いように見受けられました。

彼らもそうですが、今の創価学会の姿を諌め、極悪幹部を糾弾し、責めまくることで創価学会を正常化したいと考えている人も多いのでしょう。

でも果たしてそうなんですかね。
日蓮はこの国に正法を打ち立てて、国を安寧にする事を目指してましたよね。確かに当時の仏教界悪侶を舌鋒鋭く責めて、それにより悪侶が正面からでは太刀打ち出来ないという事で、幕府の身内に泣きついて、日蓮に様々な迫害を加えました。

この姿は、いま創価学会を立て直そうという人達に近いものがありますよね。

でもよーく考えて見て下さい。
日蓮は悪侶を責める、それ以前に法華経と御題目という法門を打ち立てました。つまり「法の確立」という事を初めに行ったのです。

いま創価学会を諌め、立て直そうという人達の中で、こういった観点で考える人は皆無だと思うのですが、どうでしょうね。

創価学会は確かにおかしくなりました。
それはここ十年から十五年というタイムスパンの中で顕現してきたことですが、その前に思想的なオカシサが実はあったのではありませんか?

思想的な狂いというのは、そう簡単に表の姿には出てきません。これについては日蓮も語書の中で述べている通りです。

「五逆と謗法とを病に対すれば五逆は霍乱の如くして急に事を切る、謗法は白癩病の如し始は緩に後漸漸に大事なり」
(呵責謗法滅罪抄)


五逆罪とは大逆の事であり、これは仏法以前に大問題の犯罪行為です。

一方の謗法とは法の理解を間違え、とる行動を間違えた事を指しますね。つまり今の創価学会のオカシさとは逆罪では無く謗法に当たります、それはつまり「最初は緩くあり、時が経つことにその問題が顕現化して大事になると言うのです。

今の創価学会の姿は、まさしくこれではありませんか?なぜ気付かないんですかね?

謗法であると言うなら、極端な話、牧口会長の考え方とて問題を内在していたという事ではないでしょうか。まあそもそも牧口会長が信じた大石寺の歴史や教義が日蓮のモノとは異なることが、最近になって創価学会でも理解してきたので、教義改正なんてのもやり始めたんですよね、組織の裏でコソコソと。

こういう事を組織の中であからさまに語れない事も問題なのです。

仏法の言葉に「無懴」という言葉がありますが、間違えたならばそれを堂々と組織内で語れること、それが一番大事な事なのですが、そういう姿勢を組織として取れない、また取ることが出来ない事が大きな問題でしょう。

確かに信濃町界隈の行動、知れば知るほど怒りを覚えますし、許せないという気持ちになります。しかし日蓮は言いました。

「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには。」
(立正安国論)


原田氏や谷川氏、責められるべき幹部は山ほどいるでしょう。しかし彼らは所詮、枝葉でしか無いことを理解すべきで、彼らを生み出した組織文化やその組織文化を作り出した思想を責めるべきなのです。

何故なら創価学会の「思想」こそが一凶なのですから、そこを「禁ぜんには」という視点に立たねば本来の「諌める」事にはなり得ません。

件三名の様に元々信濃町界隈にいて、その界隈から追い出された人間。しかも元幹部でありながら、そういう事すら認識できず、稚拙な教義の事や創価学会の歴史を語れない人間が、職場復帰して「組織を建て直す」と云う言葉を信じて、その元に集まって「懐古主義」の様に語り合ったとて、そこにどれだけ意味がありますか?

創価学会への諫言というのであれば、単に信濃町界隈の幹部を「極悪」として徹底的に責め抜くだけでは出来やしない事を理解すべきです。

なぜその様な組織を信じてしまったのか、それはどんな組織でどんな歴史を持つ組織だったのか。そしてそこはどんな思想を持っていたのか。

責める前にその事に思いを馳せ、見つめ直さなければならないのです。

僕はそう思いますよ。

【20170707】信心とは何ぞね?

こんにちは( *・ω・)ノ

北九州各地は甚大な被害状況となってますね。お住まいの方々のご無事を祈るばかりですが。

日蓮が立正安国論を著した契機は正嘉の大地震でした。当時、日蓮は鎌倉に居てこの震災の惨状を目の当たりにしたときに、痛切に感じたのは、彼の文章の冒頭の客人の言葉だったのでしょう。

「観れば夫れ二離璧を合せ五緯珠を連ぬ三宝も世に在し百王未だ窮まらざるに此の世早く衰え其の法何ぞ廃れたる是れ何なる禍に依り是れ何なる誤りに由るや。」

太陽の運行も星の運行も正しくあり、過去に応神天皇は百代守るとも言われていたのに、この世界の衰え方や法の荒み方はどういった事に依るのか。

日蓮には心の中に、仏教僧としての疑問とその原因に対しての確信が有ったのでしょう。それを確かめる為に駿河の実相寺で一切経典を閲覧し、立正安国論としてまとめ、時の幕府の実権者である最明寺入道(北条時頼)に上呈したのでしょう。

この日蓮の著した立正安国論が金科玉条と僕は考えてませんが、信仰者として社会とどう向き合うのか、そこに対しての手本だと思ってます。

信仰する人は、個人的にも様々な問題を抱え、それを信仰で乗り越えようとしている人も多く、また信仰とは個人の内面の事なので、やもすると社会と隔絶したものになりがちです。
しかし日蓮は自身の考え方を表明し、それを理立てで述べました。しかも論というのに、敢えて対話の形式を用いてです。

「今の世の中はここがおかしい」

そういう視点を持つ事は極めて大事なことかと思います。

翻り創価学会ではどうか。
どうやら「都議選大勝利」で組織内は一息入れた感じの様です。昔の様に人がいませんから、やはり「本陣東京に!」なんてのも、活動家幹部には大きな負担だったのでしょう。

創価学会の世界ではよく有ることですが、選挙期間中には地元議員からの受け売り言葉で政治を語り、公明新聞などの内容や、議員の実績ビデオを見て、それなりに語りますが、選挙が終わった途端に政治には一斉に無関心になります。

要は僕がいつも言うことですが、票集めが創価学会にとっての信仰活動であり、投票日はその信仰活動の結果を確認するだけ。そして選挙が終わったら政治はもう信仰活動では無くなる(票集めが終わる)ので、一気に関心が無くなるんです。

先の日蓮と今の創価学会、どれだけ解離しているのか、ここだけ見ても解りますよね。

もう数年経過しましたが、東日本大震災の傷はまだ癒えてません。福島第一原発の事故も終息してません。熊本地震でも復興途上にも関わらず、今の日本は2020年に東京オリンピックへ向けてお祭り気分。
北朝鮮もやばいけど、今の日本の政治の動きもとてもヤバイのに、そんな事を「人間主義」という創価学会は、何らメッセージすら発信してませんし、活動家幹部もそんな意識すら持ってません。

「極悪への祈りは極善に通じる」

かつて永遠の御大はそんな事を言ってましたが、創価学会に取っての極悪とは、安保法制に反対し、共謀罪に反対し、そんな事を進める自民党の下駄の雪の様な公明党を批判し、私腹を肥やす信濃町界隈を批判する会員が極悪になっているようです。

「信心」なんて言葉を使いますが、信心とは信仰をする心の事であり、今の創価学会に着いていっては、この心はどこに向かされるんでしょうね?

「今回の都議選は信心で勝利しましょう!」

こんな言葉は国内の組織末端で語られていたのですが、今の創価学会の「信心」とは何ですか?

単に票をかき集める事を言いますか?それとも功徳と呼んでいるご利益ですか?

その「心」が何処へ向いているのか、確認をして欲しいモノですね。

【20170706】法華経雑感

こんにちは( *・ω・)ノ

福岡県の朝倉では記録的な豪雨だったとか、被災者が無事であることを祈るばかりですが、最近、この季節になると必ずどこかで記録的な豪雨があって、災害となりますね。
「雨土塊を砕かず世は義農の世となりて」と日蓮は法華経流布した国の姿を語ってましたが、今の自称「日蓮直系の組織」が与党に入り、閣僚として国土交通省の大臣が信徒で居ますが、まったく酷い状況ですよね。
まあ例え経典が多くの人から信じられたとして、国や地域は何ら変わらないという事なのでしょう。

さて最近、法華経の歴史を調べ始めてます。理由は文字曼荼羅を語るにも法華経を知らんと語れないと思い、調べ始めているのですが、中々興味深いものですね。

法華経は大乗仏教の最高経典ですが、大乗仏教とはジャータカ伝説という、雪山童子等の所謂釈迦の過去世の話がまとめられた伝説を元に、誰でも仏になれるという、謂わば仏教の中で起きた思想運動から起きました。

これは西暦100年前後の事です。

そして法華経が成立したのは西暦200年前後と云われてますが、実は誰が纏めたのかという事が明確には判ってないのです。ひとつの仮説として興味深いのでは、当時の仏教徒の中では釈迦を恋慕して瞑想することが流行っていて、その瞑想の中で釈迦に会い、そこで聞いたことを散文的にまとめ上げられ、それが経典として成立したという話がありました。

法華経非仏説論は、ある意味で正鵠を得ていた訳ですが、法華経はそういった釈迦を求める人達の間で語られ、経典となったんですね。

そしてこれを中国語に漢訳したのは三名いたのですが、有名なのは竺法護という西域出身の僧と鳩摩羅什という僧でした。
竺法護が訳したのは「正法華経」と言われ、鳩摩羅什が訳したのは「妙法蓮華経」ですが、この二つは構成が異なります。

一つは提婆達多品が竺法護の正法華経にないこと、また嘱累品が正法華経では最後になってること。

これについて最近の研究では、恐らく訳経元(梵語)が竺法護が新しく、鳩摩羅什のものが古かったという事があり、その過程の差ではないかと云われています。あと鳩摩羅什版は師の死後にも追加補填が行われていた様で、けして全て鳩摩羅什が記したわけではない様ですね。

この「正法華経」と「妙法蓮華経」ですが、理解しやすかったのは妙法蓮華経の方で、その事から過去の人達は妙法蓮華経を参照し、そこで解らないことの補完として正法華経を参考にしていたとのことでした。

この法華経が実経として釈迦の本意だと説明するのに「無量義経」が法華経の開経としてあって、そこで「四十余年・未顕真実」とある事からだと言われてますが、実はこの無量義経と法華経は訳者が違いますし、元々は別の経典だったのです。しかし中国の天台大師と妙楽大師などが無量義経こそ法華経の開経であると定義して、今に至るわけです。

だから法華経が歴史的に存在した釈迦の本意であったのかどうか、そこは定かではありません。

しかし法華経がなぜここまでして多くの人達の間で賛嘆され、大事にされてきたのか。そこにはやはり「仏性は万人に備わる」という事と、「人は修行をすることで成仏することが出来る」というメッセージが有ったからではないでしょうか。

日蓮はこの法華経こそが仏教の真髄であり、それを中心とした仏教の再構築を指向したのではないかと思います。
日蓮の居た時代、世の中には念仏の哀唄が蔓延してました。あまりの悲惨な世の中に、人々は早くこの世を去って西方極楽浄土へ旅たつことを夢見ていたのでしょう。
一方、時の幕府は、そういった庶民の心とは裏腹に、自分達の権益のみ求めて争いを繰り返し、宗教家の僧はそこで私腹を肥やしていた。

「お前らが信じている仏教とは、そんなモノではない」

という思いが、日蓮をして苛烈な戦いへと駆り立て、あの様な舌鋒鋭い言葉を以て行動したのでは無いでしょうか。

日蓮は何も形としての経典に実は拘りを持っておらず、だから「文低秘沈の下種仏法」と語らせたのかもしれません。

文上とは経典の上に書かれた話、文低とはその書かれた話が指し示す本義。つまり経典そのものが大事なのではなく、経典がそこまでして語ろうとした物事が大事で、その事を一人ひとりに種を下すように教えていこうという事が下種仏法と呼ばれた理由では無いでしょうかね?

「末法に入ぬれば余経も法華経も詮無し」

日蓮のこの言葉にその様な思いを感じました。

さて日蓮の直系を自称する創価学会や宗門は、この事についてどこまで理解しているんでしょうね。

理解する人が居て、始めて広宣流布は始まると思いますので、道のりはまだまだ長そうですね。

【20170705】人間の感受性と宗教

こんにちは( *・ω・)ノ

台風が来ましたが、これで関東の水瓶は大丈夫なのでしょうか?
なんでも関東近縁のダムでは水位が低く、このままで行けば取水制限も有りうるという話を聞きました。

あとこの間の東京都議選の結果、さすがは公明党ですね。「自公連立」が前面に出ると、今の自民党の有り様から煽りを食うところ、手のひら返しで「都民ファースト」に与することで、そのリスクを回避、議席を確保しましたよね。
一方の自民党は己の撒いた事から歴史的な大敗を喫してしまいました。

公明党は「国政と都政は別」とシレッとした態度で今後も自民党と国政では協力関係を取ると言ってますが、考えてみれば自民が今回の歴史的な大敗の影に、国政における自民党の不甲斐なさが有るわけで、その自民党とも今後も仲良くとかいう姿勢で、果たして今後も自民党と上手くやれるのか、またそれは国民を裏切る行為にならないのか等、様々な事を考えてしまいます。

でもまあ創価学会・公明党としては「得意絶頂」の時期なんでしょう。歴史を考えたとき、これからの公明党・創価学会が実は見物なのかもしれませんね。

さて今回の都議選において、元青年部幹部だった人の苦言がマスコミに取り上げられました。これに対して内部のある筋では「有名」な御仁がTwitterで呟いてましたね。

後閑由治
「ダメ人間の断末魔。
現在61歳ということは35歳位で青年部を卒業していた年代なのに、肩書きは「青年部元幹部」つまり「壮年部での役職が無かった」のか。
2年前に会社を倒産させ、今は病気で自宅療養。要するに「安保法制の頃に学会批判を始めたら会社は潰れ病気になった」ということか。 https://t.co/gFAvSTQK7p


そもそも政治信条とは、個人に与えられた権利であり、その信条に基づいて意見を発した人を、その信条ではなく現在の状況についてあげつらい「ダメ人間の断末魔」等という事、これはどうなんでしょうかね?

信仰者としてもそうですが、そもそも人間の資質としてどうなのか、大いに疑ってしまう言動です。

会社の倒産や病気というのは、これは何人にも有りうる事であり、けして他人事ではありません。
何せ新たに百社立ち上げても、十年後には二~三社しか残らないというこの社会。しかも会社の倒産とは経営者の心と体、そしてその人への経済的なダメージや社会的なダメージは、語りきれないものがあります。

僕が青年部の頃、創価学会幹部の会社が倒産し、借金踏み倒して夜逃げしたという話を度々聞いたことがありますが、それについてもこの御仁は同じ様に「ダメ人間の断末魔」と言うのでしょうか?

ましてや「安保法制反対」と会社の倒産に、一体なんの関係が在るというのか。

要は創価学会や公明党に従順ならば「殉難者」といい、少しでも反論する人間は「ダメ人間の断末魔」と言うわけですよね。

それって人間としてどうなんでしょうか?

こういう傾向、何も創価学会に限った事では無いかもしれませんが、創価学会を始め富士門流には強く出てくる人間としての傾向で、やはりその淵源には日蓮の言動や、創価学会に於いては永遠の指導者である池田会長の言動にあるのでしょう。

ただ日蓮にしても池田会長(はどうだか知りませんが一応挙げておくとして)も、弱り目の人に対して畳み掛ける様な心を持っていたのかといえば、違うと思います。しかし人が亡くなれば、残した言葉がその人となりを作り出すので、その誤解を当たり前として、こんな無惨な言葉を投げ掛ける「後継者」が出てくるのでしょう。

信仰とは自身を見つめ、他者を見つめる行為でもあるのですが、こういう言動を吐き出す勘違い人間を大量生産してしまうという事も在るんですよね。

それは「人間」を見ずに組織を見て、教えを教条的に理解する人間ほど、その傾向が強くなってしまいます。

要は人間やその心、そして生命に対する想像力が欠如しているという事なのです。

この傾向は何も特別な事ではなく、信仰者ならば誰でも陥りやすい事なので、僕はこの「後閑由治」という人物を他山の石とはせずに、自分自身を律して行きたいと思いましたね。

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