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想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   

【20170909】人を救うという事

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

最近ふと思うことがあります。
僕が青年部の時、御本尊授与した人達はどうしているのか、という事です。

考えてみたら、悲しいかな組織には一人残っているだけで、後は組織には着いてません。病気で入退院を繰り返している人もいますし、家族の中で一人入会した人は、僕の地元から引っ越した後、引っ越し先の婦人部が、その家族の未入会の奥さんの対応が悪い事から「こんな人は面倒見切れない、選挙戦では邪魔」とばかりに統監を僕の地元組織に戻してきました。そして僕も遠隔地なので対応できず、恐らく宙ぶらりんの状態でしょう。

また組織の中でも、男子部で当初、共に頑張っていたメンバーも身体障害者になってたり、あとは活動を止めて組織から離れてしまったメンバーも多くいますし、いまだに五十代過ぎてもニートのままのメンバーも居たりします。

思うに昔、御本尊授与で友人に対して躊躇したとき、先輩が言っていた「お前は人を救う気が無いのか!無慈悲な奴だ!」という叱咤は、何の意味があったんでしょうね。

やもすると創価学会の中で「彼を救ってやりたい」とか「知人に御本尊を持たせて救いたい」と言いますが、人を救うなんてのはそう簡単に出来るものでは無いんですよね。

組織から離れたのは十年以上前ですが、学会活動は止めても僕は知人で悩みを持っている人がいた場合には様々な事をしてきました。それこそ仕事をクビになってしまったメンバーに仕事を紹介したり、個人的な悩みを持っている人が居たら深夜でも知人に会いに行ったりして相談に乗ったりもしました。しかし、それによって事態が一時好転したとしても、また深みにはまり込んだりと、なかなか人生の辛苦というのは一朝一夕に解決はしない事ばかりでした。

そのたびに自身の無力さを実感したものです。

しかし今になって振り返ってみると、そうやって関わりを持った人の多くは、何とか自分自身で道を見つけて生きていくものなんですね。その中ではいまでは地方で会社を立ち上げた人もいて、上京のおりには連絡をもらい交流を続けている人も居たりします。

ここから理解したのは、人の悩みとはおそらく本人が正面から向かい合う事が出来れば、乗り越えられないものはないんだなという事であって、知人として出来る事は、その悩み苦しむ過程で寄り添う事くらいなのかもしれません。

「御本尊を持たせて友人を救ってやらなくてどうするんだ!」

この言葉というのは、そこから考えれば傲慢であり浅はかな事なのかもしれません。
友人に日蓮の文字曼荼羅を与えたとしても、その友人にどれだけ寄り添う事が出来るのか。悩み苦しむ人に出来るという事は、そこだけでしかないのですが、創価学会では文字曼荼羅を授与して入会させたら、ほぼそれで事は終わってしまっていますよね。

「人を救う」というのは言葉でいうほど簡単なものではなく、それなりに覚悟が必要な事。
だからそう簡単に言うべき言葉ではないのですが、創価学会で折伏という新規会員獲得の活動では、この言葉を乱発していますよね。

だったらとことん友人知人に付き合うべきであり、組織としてもそういう事を理解しなければいけません。

そんな事をふと考えてしまいました。

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【20170908】幸福製造機とは

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

たまには教学的な事も書かないといかんかなーと思い、ちょっと今回の記事にしました。

かつて日蓮の文字曼荼羅を、第二代会長の戸田城聖氏は「幸福製造機」と呼びました。
これは日寛師の言葉にあった「祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなし」という言葉に基づいての事なのかと考えています。

日蓮の御書を拝読すると、確かに御本尊に強盛に祈る事で叶わないことは無いとか、それは信心によると書かれていますので、やもすると日蓮は戸田会長の言うような「幸福製造機」として人々の所願満足の為に著したと思うのでしょうが、そもそも僕は文字曼荼羅をその様な物だと思えないのです。

文字曼荼羅とは何か。
そういえば今回の会憲で「教師」や「準教師」を置くそうなんで、是非ともこの事を「教師」や「準教師」に語って貰いたいものですが、簡単に言えば日蓮の感得した法華経の世界観を曼荼羅として現した物だと思います。

それは本門の虚空会の儀式の姿です。

またこの文字曼荼羅に向かってお題目を唱えるというのは、意義的には法華経の虚空会に自身も参加するという事であり、この虚空会の姿が自身の中にあるという意味から、自身の心を観じるという「観心」にもつながるのでしょう。

天台大師は「摩訶止観」の中でこの「観心」の取り組みを語ってますが、日蓮は文字曼荼羅にお題目を唱えるという形でそれを行えるとしたのです。

だからこの文字曼荼羅を「幸福製造機」と理解させたのは意義が異なるわけで、まあ戦後の混乱する日本社会の中で、人々に仏法を縁させる為の方便でしかないでしょう。

「創価学会は発迹顕本しなければならない」

この様に述べるのであれば、そろそろ活動家幹部に対してご利益信仰からの脱却させるべきだと思いますが、どうでしょうか。

さて、話は変わりますが人の心というのは敏感かつ複雑なものであり、この心の世界から全ての現実が創造されるというのが、仏法の考え方だと思いますが、そこから考えるのであれば、人の幸福も不幸も、すべてはその本人の心の動きの為せる業です。

だからもし「幸福製造機」というのであれば、それは自分自身の心を指すわけであり、単に対境としてある文字曼荼羅を「幸福製造機」と呼ばせ、理解をさせたとしたならば、自身の外にこの心の動きがあると認識をさせてしまい、結果としてその信仰というのは「外道=心以外に実相がある」という理解をさせるものとなります。

今までに幾人からか「御本尊に祈っても叶わない」という相談も受けましたし、その結果、人生にあがき苦しんでいる人にもお会いしたことがあります。

そもそもなのですが、仏教への信仰とは「自身の所願満足」ではなく、自分自身を理解することであり、その為にも自分という存在の本質を観じる事が目的ではないでしょうか。
しかし第二代戸田会長の残した「御本尊様は幸福製造製造機」という指導はそれを誤解させてはいませんか?

以前にある婦人部の大幹部が「御本尊ちゃま!お願いー!」と祈る事で全ての祈りが叶うなんて指導をかましてましたが、それなんて最たるものです。

まあ会合に参加していた婦人部のお歴々の顔は、その話を聞いてキラキラ瞳を輝かせていましたが、考えてみれば無闇やたらな公明党支持や聖教新聞の多部数購読の原動力も、そのご利益信仰なので、信濃町界隈からすれば、それを煽ることで自分達のビジネス収入が上がるわけですから、煽るという行為も彼らのビジネスなのでしょう。

もし「幸福製造機」というのであれば、それは対境の文字曼荼羅ではなく、そこへ向かう自身の心がそれであり、また幸福というのも単純な所願満足によるのではない。

そこへの理解を深めてほしいものですね。

昭和二十年代から四十年代あたりは、ご利益信仰を語れば組織拡大できたのかも知れませんが、いまの時代は違います。

ネットで未だに日蓮の文字曼荼羅を「幸福製造機」と呼んで「お題目をあげなくっちゃ」なんて会員に認識させているようでは、創価学会もたかが知れていると言うものですね。

【20170907】死後の生や霊魂について

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

今回のお題、おもいっくそオカルト臭がぷんぷんしますが、やはり僕自身の思考の枠内にこういった項目もあるんで、お付き合いして頂ける方だけお付き合い下さい。

さてこの夏なんですが、夏と言えば「怪談」という事で、YouTubeに上がっていた怪談を暇があると聞いてました。僕が好きなのは北野誠とか西浦和也なんかですね。稲川淳二の話はガチ過ぎて長くは聞けません。

かくいう僕も人間五十年以上やっているので、理屈では説明できない不思議な事は幾つか経験していたりしますし、それこそ学生時代には肝試しなんて言って、夜中にドライブがてら彼方此方に行きました。

こうやって怪談などを見ると、この世界には霊魂なるモノが存在し、それが場合によって祟りをなし、不幸になっていくという事もまんざら嘘とは思えないのですが、その一方で釈迦は霊魂の存在を否定していますし、輪廻転生というのも原始仏教では否定しているとか。

でも日本にいる霊媒師とか霊能者という人の中には仏教関係の人も多く、その辺りの整合性はどうなんだろうと考えたりもします。

釈迦は在家信者への比喩の意味もあって、輪廻転生とかを説いたという説もありますが、それは人それぞれの解釈の問題であると僕は考えています。
また釈迦が死後の事や霊魂を否定したのも、そんな訳のわからんこと議論するより、いまある生を真剣に捉え、生きるための事を考えろという事だったのかも知れませんし、日蓮も同様だったと思うのです。

最近、欧米では臨死体験学(Near Deth Experience)というものがあり、これは単にオカルトという事ではなく臨床例の中から得られた臨死体験をもとに研究する学問で、なかなか興味深い事が多くまとめられています。

これは以前にも書きましたが、故キュブラー・ロス女史やレイモンド・ムーディ氏といった医学者が様々に研究し本を著作、日本に於いても京都大学のカール・ベッカー教授がいます。
カール・ベッカー教授に於いては日本の臨死体験の文献の多さを取り上げてますが、これらの多くは過去の念仏宗の僧侶の体験を筆記したものを言ってまして、それを聞くと日蓮を信じる人には特に拒否反応を示すかもしれません。

世界各地には「前世記憶」を持つ子供の記録も多数あり、またこの臨死体験学においても死後の体験、またそこから転生に至るまでの症例も多数あり、そこから察するに単純に否定する事も困難ではないかと思います。

しかし一方で、霊魂とかの話のなかで地縛霊だ浮遊霊だ生き霊だという話もありますが、それは一体どうなのでしょうか?

人は所謂死ぬときに「死有」を通過して「中有」に入ると仏教の中では説いています。これはチベット仏教でも同じですよね。しかし先の霊能者などは、人が死んだ時に強い執着をもっている為のこの世界に縛られる霊がいるという話を真しやかに語ってたりします。

ましてや生き霊なんて、生きている本人とは別に霊として現れるというもので、これは論理的に理解するのは大変に困難です。
だって生霊飛ばしの本人は、そんな事を意識もしていないケースがほとんどですから、そもそも生霊と言われる存在の意思と、その飛ばしている本人の意思はどの様に理解したら良いのでしょう。

ここからは僕の私見なのですが、霊として存在する意思や、恐らく自我というものは生死を問わず存続するものではないかと思いますし、その自我が経験した事も記憶として継承されるのではないかと思います。

ただ厄介なのはこの個別にあるという自我というモノが絶対的な存在なのかと言うことは疑問がありますね、何故ならこの世界に絶対的な立て分けというのが、実は存在しないからです。

男性や女性の境目、これもアナログ的であり、緩やかな立て分けであり中間的な性も存在します。また有機と無機の間にもウィルスという、どちらにも分けられない存在があります。

これと同様に自我と他者という存在も、実は明確に立て分ける事ができない存在なのてはありませんかね?
昨今の深層心理学でも個人個人は意識の置く深くで共通な基盤を持っているという話があります。

だから霊魂とか生き霊とかも、そういった心理学上の考え方にあった存在なのかと思ったりします。まあ具体的な事で言えば「念」という、人々の意識の間を行き来する波の様なものかもしれませんね。

そしてそれがあたかも生き物の様な意識をもっている様な働きは、その念を受け取る人の意識というか、自我というか、そういう事が関係しているのかもしれません。

実はこういった事についても、何かしたの「理屈としての整理」が出来ないものかなと考えたりしています。まあ答えがあるという事では無いのでしょうけどね。
でも恐らくそういった思考の整理というか構築は、今言われている仏教の枠内だけでは難しいでしょうし、それこそもしかしたら欧米の神学という分野の内容も参照しなければならないだろうし、心理学という世界や、当然の事NDE(臨死体験学)という分野にも踏み込まなければならないテーマであって、一朝一夕に理解出来たりするものでは無いでしょう。

という事で、またこの件について何か考え着いたら書き連ねていきたいと思います。
それについて、興味のある方はお付き合い下さい。

【20170906】四刧と輪廻

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

北朝鮮の水爆開発による騒ぎ、もう報道番組はそれ一色の様な感じになってますね。
確かに北朝鮮の核開発は、日本にとっても大きな脅威でしょう。核保有国でいうとロシアや中国も居ますが、北朝鮮は戦時国家であり、今までにも多くのテロ事件を起こしていますので、この中国やロシアと同列に論じることは出来ません。

しかしこの日本で騒いでいる問題の一番の根っこに、日本としての自国に対する安全保障という概念が無いことが問題なんですけどね。それは無理なのかな。

さて本題です。
仏教には「刧」という考え方がありますが、実はこれ、仏教というよりもバラモン教に縁源があるようで、長大な時間の単位をのべた言葉なのです。
ただし仏教において、その長さというのは曖昧で、明確に今でいう何年とかという概念は無いようですね。

「刧」とは時の長さを言いますが、時間そのものという意味もあります。
この言葉の使われた言葉に「四刧」というのがあります。これは世界がたどる時の流れと言っても言いかもしれません。確かこのブログでも過去に書いた事があると思いますが簡単におさらいをしてみます。

「四刧」とは「成刧」「住刧」「壊刧」「空刧」という四種類のプロセスとして語られてます。

成刧とは、世界が出来上がるプロセスであり、生成・発展の段階と言っても良いでしょう。住刧とは、生成された世界に様々な生物等が発生し、まさに「住む時」の事を言います。壊刧とは作られた世界が壊れる時であり、壊れたあとに無くなる事を空刧と呼んでいます。

仏教ではこの宇宙や地球など、世界というのはこのブロセスを成→住→壊→空→成という感じで繰り返しながら成り立っていると説いてます。

これは何も世界だけの話ではなく、組織や家庭、また一人の人間についても、このプロセスを逃れるものではありません。

人についても、母親のお腹の中で成長し(成刧)、二十歳前には体と心は出来上がり、様々な生きる為の活動をします(住刧)。やがて年齢が上がり体のあちらこちらが痛みだし、病を得ることもあるでしょう。そして老化が進み、亡くなっていきます(壊刧)。亡くなると個人という存在は、この世界から消えますが、その無の状態にあって生命は次への待機をしています(空刧)。

つまりこのサイクルを繰り返し、繰り返し生命は続いているという事であり、大きく見て「生死を繰り返す」という事で、仏教では「輪廻」とも説いています。

しかしこの輪廻という思想も実は仏教の独自の考え方ではなく、バラモン教に既にあった思想であり、この輪廻の生死を抜け出ることを「解脱」と呼んでいました。

「人はこの現実世界に生まれでて、様々な苦しみを受ける。解脱とはその生死を抜けて、この苦悩渦巻く現実世界に二度と生まれて来ない事」と言う事なんでしょう。

初期仏教の解脱も、これに近い思想があった様ですし、チベット仏教に於いては、死の時に悟りを得れば二度とこの世界に生まれてこなくなると言います。しかし法華経に於いてはこの苦悩渦巻く現実世界が仏の本当の住処であると説かれているのです。

いま皆さんの目の前にある世界、これはやもすると「明日もあるし、来年もある。いやいや、十年後や二十年後にもこの世界はある」と錯覚し、それこそ「常住不変に何時までもこの世界は続く」と錯覚をしてしまいますが、どんなに長くても百年以内には、殆どの人達はこの世界から離れなければなりません。

それは自身の肉体が壊れていくからです。

いまある体、つまり肉体ですがこれも老いていき、何れは死を迎え現代であれば火葬にされ無くなってしまいます。
またそればかりではなく親兄弟、家族や友人とも離れなくてはならないのです。

最近の僕は、こういった事が自身の身にここから三十年以内には降りかかるという事を考えるのですが、その時には常に慄然とした感覚に襲われます。

若い頃には「恐怖」でもありながら、まだまだ先の事と思ってましたが、年増える事に時の流れを速く感じ、親の死を経験して現実味を得ました。
若い頃の「恐怖」という感覚は既に無いのですが、慄然とした感覚は拭いきれません。

日蓮は「されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべしと思いて」と述べてましたが、この歳になって漸くこの言葉を理解し始めた感じです。

創価学会はロクでもない組織に成り下がり、その宗教貴族達の行状には、いつもあきれ返るばかりですが、それに裂く人生の時間は不毛です。

僕はこの人生の根元的な問題について、思索する時間をもう少し取りたいと思っています。

【20170905】臨終の事

こんにちは(  ̄ー ̄)ノ

最近個人的に思うのは、創価学会が会憲を制定しようが、何に大勝利しようが、永遠の御大が亡くなろうが、僕の人生にはあまり関係ないかなと言う事です。

会憲の有無に関わらず、嫁やその身内は学会活動を続け、創価学会を無擬曰信で信じて活動を続けますし、公明党へも支援を続ける事でしょう。
本人たちが、この先疑問を感じれば、僕の話にも耳を傾ける事があるかもしれません。

一度信じたモノを覆す事は至難の技であり、人は自分が信じて人生をかけていることを、容易く否定する事は出来ないものです。

しかしそれは兎も角。
日蓮の御書を少しここで引用します。これは有名な部分です。

「夫以みれば日蓮幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく人の寿命は無常なり、出る気は入る気を待つ事なし風の前の露尚譬えにあらず、かしこきもはかなきも老いたるも若きも定め無き習いなり、されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべしと思いて、一代聖教の論師人師の書釈あらあらかんがへあつめて此を明鏡として、一切の諸人の死する時と並に臨終の後とに引き向えてみ候へばすこしもくもりなし」
(妙法尼御前御返事)


これは日蓮が仏法を学び始めた動機について述べたものです。ここで日蓮が述べているように、どの様な人であっても「臨終=死」というのを免れる事は出来ません。だから臨終の事を何よりも先に学ぶべきであると、この様に言っているわけです。
しかしその一方で日蓮の御書と呼ばれるモノの中には、臨終とはどの様な事なのか、それについて言及されたものはありません。臨終は大変な事だから、今をしっかりと生きる、その様な事に重点が置かれた内容となってます。

さて少し話を変えて、僕の片親は既に鬼籍に入っていますが、この親が死んだ事を通して、「死」についてはリアルに感じるようになりました。

数時間前まで生きていた親が息を引き取る。では逝った親は今どこにいるのか?何を感じ何を見ているのか?

考えますが、想像することしか出来ません。

死は全てを無くします。親子の繋がり、社会との繋がり。またこの世界で築いた地位や財産も何もかも、死の前には関係ありません。そこから先に持っていく事は出来ないのです。自分の体でさえ持っていく事は出来ません。

こういう事が自身の身の上にも確実に訪れる。そういう事の実感を、親の死は僕に与えてくれました。

日々現実と実感しながら家族と過ごし、仕事場の同僚と過ごす。この現実が自分自身から切り離され、一人乗り越えていかなければならないイベントが死であり、これを逃れる事は出来ません。

それに対峙したとき、果して僕は何を感じ、何を見るのでしょうか。そしてその死の先には一体何があるのか。

こういった事に思いを馳せていくと、いまの創価学会の事なんてのは、ある意味でどうでもよく感じてきます。それよりもこの問題を自分自身の中でどの様に消化し、生きている内に理解していけるのか、そちらの方が大事に思えてくるのです。

結論はありませんが、ちょっと考えた事を今回は書かせてもらいました。

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