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想学談林-管理者の部屋

想学談林の管理人が、たまにぼやく言葉の部屋です。 お時間があれば、お付き合い下さい。 想学談林:https://sougakusalon.wixsite.com/sougaku-danrin/home

   

【20170630】政治を監視できない

こんにちは( *・ω・)ノ

雨でジメジメ気温も高く、とても不快な陽気です。しかし天気予報を見ると関東近縁は降水量が少なく、このままいけば大渇水になるかもしれません。

やばいよね、大渇水は。
出来れば「雨土塊を砕かず」という陽気でこの梅雨があってほしいものですが、どうなんでしょうかね?

さて最近の日本の政治、こりゃ末期的な様相を呈してきていると感じます。
政治というのはマスコミにどの様な姿を露出するのか、そこも大事な事なのですが、露出するのが余りにお粗末な姿ばかり。

豊田劇場「どうちたんでちゅか~」暴言発言とそれに類する二回当選組の業態、森友学園アッキーナとか、加計学園関係とか、稲田大臣の不用意な発言等々。

考えてみたら短期これだけマスコミに「話題」を提供する政権は今まで無かった様な気がします。

本来ならばこれに対抗しなければならない野党も、元々やってる事がテンでんばらばらで、国民から見向きもされてません。
安倍政権がなぜ安泰なのかの1つは、この野党としての不甲斐なさと、旧五十五年体制を彷彿とさせる姿でしょう。

でも最近思うのは、やはり今の自民は一回下野すべきですね。

ああそうそう、公明党は個人的には無くなって欲しいものですが、そういう事は無いでしょう。何せ七百万という票をいまだ創価学会は握ってますから。

本来、七百万票を持っているのであれば、公明党が日本の政治のキャスティングボードを握れる筈なんですが、今の公明党・創価学会にはそんな意識は微塵も無いようです。ひたすら権力側に「下駄の雪」としてついて行くのが関の山。しかも過去から共産党や民進党なんかを「仏敵」の様に扱っているから、そんな野党と協力できる組織では無くなっています。

かつて戸田第二代会長は、当時の青年部への遺訓として「青年は心して政治を監視せよ!」と述べたと言います。

これは創価教育学会として経験した事からきた言葉だと思います。

昭和初期まで創価教育学会は日本の権力側とは上手くやってました。それは何度も書きますが、長野赤化教員オルグの行動でも解ることだし、大日本皇道立教会に牧口会長が参加していた事からも類推できます。

しかし政治の潮目が変わり、思想統制が始まったときに、いままで良好であった権力側との関係に歪みが出来て、結果、一気に壊滅させれたのですから、それを経験した戸田会長としては、当然の遺訓です。

当時の青年部とは今の信濃町界隈の御老公達。まあダニ川やピロシは違いますが、それ以外の老害幹部は、みな当時の青年部でした。

そして彼らが舵切ったのは、政治を監視するではなく、政治とお付き合いすること、しかも権力側と良好な関係でいる事でした。

表向きは「創価学会を守る」とか言うのでしょうが、内実は創価学会及び関係団体、またそれらに寄生する権益を守る為であり、けして理念があって執っている行動ではありません。

おそらく権力側に「重要な事」でも握られているのかと邪推しますが、それも結構当たっていたりして。

戸田会長は広宣流布の展開として、政治の分野も避けてとおれないと考えていたと言いますが、そうであれば政治に関してもしっかりと人材育成して、その彼らの自由意思により政治活動をさせれば良かっただけではないかと思います。

何も公明党なんて作らなくても良かったのでは、と思われますが、考えた見たら公明党を作ったのは第三代でしたね。

戸田会長は政党に拘らない、特定の政党に与しないなど、数々の公式発言をしてましたが、それを守らず公明党として創価学会会員達の政治活動をスポイルしたわけです、信仰にかこつけて。

恐らく戸田会長の考えていた政治との関わり方と、池田会長の考えていた政治との関わり方が違ったんですね。

日蓮という人は、鎌倉時代の僧侶にあっては珍しく幕府に意見を述べ、自律的に意見を表明するのみならず、その考え方を広くあまねく述べました。それが結果として幕府に睨まれ数多くの迫害にあったわけですね。

だから昭和初期には国柱会とか、北一輝といった国粋主義者からも、この日蓮は信じられたのかもしれません。

創価学会がもしフリーハンドで組織内で政治論議を進めたらどうだったのか。恐らく今のような異様な一致団結した政治行動は無かったと思いますし、場合によっては組織としては分裂していたかもしれません。

いや、、、分裂しないで、もしかしたら良い意味で日本の政治への活性剤になれたかもしれませんね。

歴史には「もし」は無いと言いますが、ただ日本の政治をいま一歩語る人達が増えたかも知れませんよ。

しかしその場合には、信濃町界隈に「美味しい話」が今ほど転がり込んだりもしないでしょうけどね。

とにもかくにも、池田会長が作った公明党により、今の創価学会の中では、政治の話を語る風潮はなくなり、政治の話がご利益信仰の上で語られる様になってしまいました。

これで政治を監視するなんて、こりゃ無理ですね。だって考える政治的な頭が無いのですから。
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【20170629】幹部の資質について

こんにちは( *・ω・)ノ

昨日何気にTwitterで以下のツイートを見て思ったことを今日は記事にしてみます。

「人々は、役職ではなく、誠実さ、明快さ、責任感をもった人格的魅力のある人についていくものです。いわゆる人気のある幹部は、会員から慕われ、会合にも要請されています。戸田会長は、幹部を任命するときは、会員が「この人ならば」と思う人を任命するようにすべきだと厳しくいわれていた。」

僕も昔はそれなりに幹部をしてましたし、今も地区幹事とはいえ、一応幹部の端くれに該当します。
そこから考えると、創価学会の幹部の資質とはどうなのか、様々な事を考えてしまいますね。

創価学会の幹部には、これは僕の経験上からの話ですが、大きく三つに分類されると思います。

一つ目は末端組織の幹部。
組織のレベルで言えば地区幹部まではこの分類に入ると思われます。
創価学会の人事委員会という、まあ表だっては出てきませんが、そこに関わらない幹部の事で、概ね区や圏の判断で任用される幹部です。
当然「辞令」も出なければ、実際に末端で走り回る幹部はこのレベルで、決済事を判断する権限は、ほぼ持ち合わせていません。

一番コキ使われる立場ですね。

二つ目は支部幹部以上で、在家の幹部。
非職員ですが、実際の末端組織の旗振り役であり、またそれを補佐するスタッフ的な幹部も含みます。この立場から人事委員会という名前のついたところから「辞令」が出され、所謂「幹部コード」という創価学会の中では一生ついて回るであろう背番号が振られます。

中間管理職的なところで、且つ末端組織の中ではそれなりの幹部として見られるのは、この立ち位置にいる人達でしょう。

三つ目は職員幹部ですね。
彼らは本部または外郭団体で仕事をしていて、いわば創価学会の信仰活動を仕事にしている幹部です。ここには新聞販売店の店主も入ります。
ここらへんに来ると多くは分県幹部位の人が多くいて、例えば組織換え(青年部から壮年部など)の時には区・圏長という立場でスタートする人も多く、例えば支部長で始まったとしても、兼任で圏副書記長なんて役職を持ち、トントン拍子に上がっていきます。

極めて大ザっばですが、こんな感じに分類も出来るかと思いますが、一方で担当する組織の広さと、その人物像がマッチしているかと云うと、大概これはアンマッチしてますね。

例えば地区幹部やブロック幹部であっても、人格ある人、社会で信頼されている人もいますが、一方で総県幹部であっても鼻持ちならない御仁もいます。

昔は例えば末端組織の幹部の場合では、支部幹部以上は必ず折伏を一世帯以上やってなければならないとかいう規定もありましたが、最近ではこの様な規定もなく、そもそもそんな事をしていたら、幹部の成手がないとの事で、活動に前向きならばすぐ当用して責任をもたせ、組織に絡めとるようです。

だから以前にも増して幹部の質が劣化しているのではないかと思われます。

本来、これだけ大きな組織なんですから、幹部当用の規定くらい明文化されてても良いように思うのですが、実態からしたら、当に「人脈人事」という事が罷り通り、上に上がるのは、やはり上の人に覚え愛でたく知られた人が引き上げられていきます。

そこには「見識」とか「人格」、ましてや「信仰観」という事は、ある意味関係ありません。

要は上に気に入られている、知られている人ほど上に上がるという構造があるのです。

さて、先のツイートでは
「責任感をもった人格的魅力のある人についていくものです。」と幹部が本来持たなければならない資質の一端が述べられてますが、こういう人はほとんど見ないですね。

僕が青年部時代、この人は凄い人だと感じる人が居ましたが、そういう人に共通していたのは、やはり社会等で苦労をした人であり、自分自身をしっかりと持った人達でした。

いま壮年部になり、幹部を見てみると、本当に地道にやってきて、人間的に出来た人
は組織の表舞台には居ないですね。

特に職業幹部の人格の薄さ、ボキャブラリーの狭さにはあきれ返ってしまいます。

上に行けば行くほど、本当に録な人物が居なくなったと実感しますし、創価学会に何故、人が集まらなくなったのかも、この幹部像から理解できます。

特に分県や総県、総々県幹部の職業幹部なんかは、でかい会合で、壇上でふんぞり返り、「幹部指導!」なんて言って、如何にも聖人君主のような、人格者の様な振る舞いをしてたりしますが、僕が青年部時代に見てきた限り、その表と裏の解離の酷さに辟易しました。

「鯛は頭から腐る」

昔の人は良く言いましたが、今の創価学会の退潮傾向の要因の大きなものに、この幹部達の資質もあるのでしょう。

【20170627】これからの日本、二題

こんにちは( *・ω・)ノ

梅雨梅雨梅雨梅雨。
ジトジトしていて嫌になりますね。
しかし朝のニュース番組を見てたら、この週末は猛暑になるとか。梅雨は嫌ですがここで雨が降らないと水不足が心配になってしまいます。
今年はどんな夏になるんでしょうか。

さて今日のお題は政治関係の事で二題書かせてもらいます。
以前に知人の飲み屋のマスターからは、「政治と宗教と野球の話題は、やってはいけない」と聞いたことがあります。それは必ず喧嘩になるからという事だそうです。

自身の信条の話なので、人は感情的になってしまうんですよね、これらの話題は。

それはともかく、まず始めに加計学園に関する事。これは「特区」に纏わる事が根本にあり、要は従来の官僚主導を「壊すこと」を目的とした政治主導の動きで、要は「規制改革」の動きであったはずですね。従来では文科省の専任領域(今回は獣医科大学の新設)に内閣府が切り込んで行ったという事。

しかし今回の問題は、この制度を時の政権の権力者が、仲間内に便宜を働くために制度を利用したという事ですね。これはどうなんでしょう。そこには官僚制よりもたち悪い事が生じてきます。

日本の官僚制は問題もありますが、優秀な処もあり、規制でがんじがらめの杓子定規な処はありますが、特定の人達に対しての利益誘導が難しいという事もあるでしょう。しかし一方で「お役所仕事」と揶揄される様に、新しい動きが取りづらくなってしまいます。

そこに対して政治主導で切り込みを入れる構想が「特区構想」というものであり、それは良いのですが、それが例えば総理大臣のお友達の為に利用されたのであれば本末転倒、ここでミソがついてしまい、政治主導という動きが「身内への利益誘導」となり、胡散臭く見られてしまい、引いてはこの政治主導というのが今後執りずらくなり、結果として官僚主導が強くなるのではありませんか?

そこには「政治主導の規制改革」という事を頓挫させるリスクがあると思うのです。

個人的にはこの国の政治主導という事に、この先大きなキズを与える出来事の様に思うのですが、どうなんでしょうね。もう政治主導という言葉はダメなんですかね?

もう一つは憲法改正について。
最近の報道を見る限り「加憲」という事に倒れていく様に見えていて、これには公明党・創価学会への権力側の配慮ではと穿った見方をしてしまいます。

憲法に自衛隊の事を明記する事で、自衛隊を今後違憲議論に上がらない様にすると、安倍総理は言ってましたが、僕はこの自衛隊に関する事、国防に関する事は、国民の大きな意識改革が必要であり、それなくして進めるのは危険だと思うのです。

安保法制もしかりですが、日本が国家として軍隊を保持する事は、僕は反対ではありません。何故なら人類社会では外交の先に軍事があるわけて、そこのカード無しにやはり真の独立国家というのはあり得ないと思うからです。

彼のインドの阿育大王の時代でも、軍隊は存在しました。軍とは国の機関であれば、その存在を議論するのではなく、その立ち位置や扱いについてもっと議論すべきと考えます。

今の日本はこの自国の軍事を完全にアメリカ依存していて、そこのリスクを国民は認識すらしていません。認識していないにも関わらず、それを見ないで自国の安全保障を語るのはあまりにおかしいと思いませんか?

沖縄の問題や尖閣諸島の問題、また北方領土や竹島の問題がなぜ拗れるのか。そこには日本人が自国の安全保障という国の根幹に対しての認識の無さがあると僕は考えています。

自衛隊は国内法に縛られてますが、本来の軍というのは国際法による立場を持つ組織であり、制限も軍法という国内法とは異なる法で縛られるべきでしょう。またそうでなければ軍事行動に足枷がなされ、従軍した人達は下手すれば国防に関する行動を取ったことで、国内で犯罪者として裁かれる事にもなってしまいます。

簡単に言えばいくら自軍防衛の為といえ、相手国の人間を射殺したら、その人は国内で殺人犯となってしまう可能性があるという、歪な事になるのです。

安倍総理は憲法改正の自民党案を年内に纏めると云いますが、そもそも今の日本人の中に、この国家安全保障と国防、そして軍を語るだけの素地が無いと思いますし、その段階で憲法改正の議論、特に九条議論は危険な事だと考えています。

因みに創価学会は東京都議選で集票活動に忙しいようですが、活動家幹部にこの事を話しても通じないんですよね。

議論が何故か「創価学会は素晴らしい組織」「池田先生は偉大な指導者」という話にずれてしまいますから。

せめて会内でこんな議論が出来たら、少しは日本のためになると思うんですけどね。

【20170626】専従職員は必要なのか

こんにちは( *・ω・)ノ

昨日も僕の地元の婦人部あたりで、朝から晩まで都内に行っていた人達が居たようです。
その真面目な行動は組織内では称賛されるのかも知れませんが、休みの日に嫁が一日外出して集票活動に励むというのは、その家庭にとってどうなんでしょうか。

それぞれの家庭の事なので、僕は嫁からそんな話を聞いたときに、コメントは特にしませんでしたが、様々な事を考えてしまいます。

さて今回、AERAの以下の記事を読んで、専従職員の事について考えた事を書かせてもらいます。

寺の収入年3万円! “モグリの坊主”にもなった住職の過酷な生活〈週刊朝日〉

以前にある北陸の正宗寺院の法華講幹部からメールがあり、聞いたところでは宗門の寺の中にも地方の寺院なんかでは、それこそ住職も慎ましい生活を強いられるという事で、金満生活できる坊さんは宗門の方でも都市部にある一部の寺院だけだと聞きました。

もともと「僧侶」とは「出家者」の事であり、それこそ家も家族も捨て去って、ひたすら仏道を求め精進する人をいうのですが、今の日本では職業の一つとなって、その「僧侶」という仕事により収入を得て家族を養っています。僕が小学生や中学生の時には、地元の古刹寺院の子供の友人が何人か居ましたからね。

この出家というスタイルですが、今の日本の社会の中で、本来の意義に忠実な姿では出来ない事だと思いますが、どうなんでしょうね。

インドや東南アジアあたりの地域では、未だに僧侶に供養を施し、それにより功徳を得るという習慣がありますし、インドにおいても出家して道を修める人達を社会で許容するという考え方が根付いていますが、極端に言えば今の日本ではホームレスになる覚悟が無ければ、本来の意義の出家なんて出来ない事かもしれません。

さてさて、この僧侶とか出家の事についてはこの位にして、次は専従について。

創価学会には多くの専従職員が居ます。

創価学会の本部職員や中心会館には専従職員も居るでしょう。聖教新聞社なんて呼ばせてますが、あれも創価学会の出版事業を行う部局であり、そこに勤務しているのも基本的には専従職員ですよね。

そして創価学会は多くの事をやってますが、例えば聖教新聞の配送とか、書籍の輸送なんかは「日本図書輸送」という創価学会の関連会社がやってますし、本部や関連施設の警備は「日光警備」という会社がやってます。また本部周辺のレストランや小物、書籍を販売しているのは「東西書院」という会社ですし、創価学会関連書籍の出版社として「潮出版」や「第三文明社」がありますね。また映像メディア系は「シナノ企画」という会社もあります。
あと有名処で忘れてはいけないのが、「創価大学」や「創価学園」。あと「公明党」もありますよね。

まあその他細かいモノを挙げれば切りがない感じもしますが、要は創価学会の「宗教」の周辺には、それによって収益を得ている企業も多くあって、そこにはそれを生業として生計を立てている人間が多くいると言うことです。

僕は本来、収入を得るという事は、社会に対して何らかの付加価値を提供し、その見返りが収入という形で得られ、それにより生活を営むものと考えてますが、専従職員は何か付加価値を社会に提供して居るのでしょうか?

恐らく会員の信仰行為のおこぼれで収入を得るのが彼ら専従職員であって、要は言葉は悪いのですが、会員の信仰に寄生しているだけであって、その立ち位置は社会の中でも扱いとしては最下層にいても良いくらいだと思うのです。

だって社会に何ら付加価値を提供していないですから。要は信仰に寄生してお金を得てるんですよね?

しかしまあ大きな宗教組織であれば、どうして専従職員というのは必要になるのかもしれませんが、そんな彼らが高給を貪るのみならず、あまつさえ特権意識を持つなんて、本来はトンでもない事だと僕は思うのです。

しかも近年に至っては、この本部職員や外郭団体職員が「家業化」して「代々職員」が発生している状況に至っては、あるべき事では無いと僕は思ってます。

だいたい社会の中で仕事をしている会員と、その会員の信仰心に寄生して録を得ている職員のどちらが社会人としてマトモだと思いますか?

そりゃ社会の中で付加価値を作り出している「在家」に決まっているではありませんか。

しかし昨今の組織では総県幹部以上は原則「職員もしくは外郭団体職員でなくてはならない」なんてやりはじめてますよね、その理由も「いざという時には職員でなければ信頼できない」とかいう理由だと云います。

大きな組織になれば、そこに時間が経過するなかで特権意識も芽生え、そこから宗教貴族の様な人間も出てくるでしょう。そんな彼らは必ず自分達が寄生している「在家」の信徒を見下し始め、自分達の為に利用する様になるのです。これは如何なる宗教組織でも起きる事です。

大事な事は信徒がそんな彼らに惑わされずに、毅然として彼らを「監視する事」であり、必要ならば「糾弾出来る強さ」を持つことなんですが、宗教という性質上、そんな事は難しいのかもしれません。

創価学会は組織を肥大させる事を目的の一つとしていますが、そんな組織の専従職員なんて大々的に削減し、ボランティアを中心とすべきではありませんかね?

【20170623】火宅から出るのは無理か

こんにちは( *・ω・)ノ

さて皆さん「三車火宅の譬え」というのは覚えてますか?
恐らく昔なら青年三級だか二級あたりで勉強した内容だと思いますが。

これは法華経の比喩品第三で語られた譬話で、語ったのは舎利弗となってますよね。(まあ実際の歴史では法華経が説かれたと云われる頃には舎利弗は故人でしたけど)

内容は、その昔ある長者がいて、彼は大きな邸宅を持ち、財宝も沢山持ち、召し使いも沢山いたと言います。
ある時、その長者の家が火事になり、中にいた人達は逃げましたが、長者の子供達は燃え盛る家の中で遊ぶことに必死で、自分達が如何に危険な状況か理解できず、燃え盛る家も遊園地の中に居るように錯覚して遊び回っていたと言います。このままで行けば子供達は丸焼けになり死んでしまう。
外から父親である長者が「危ないから出てきなさい」と呼び掛けても遊びを止めず、子供達は火宅の中から出てこようとしません。
そこで長者は一計を案じ、子供達に呼び掛けます。
「ほら、お前たちの欲しがっていた大きく宝物で飾られた牛車をあげるから、はやくこちらに来なさい」
すると遊び回っていた子供達は、牛車欲しさに火宅から飛び出して来ました。
そこで長者は彼ら子供達に、より大きな大白牛車を与えたという話です。

この説話、よく読むと突っ込み処が満載なのですが、それについては置いといて、これは火宅の中にいる子供達を凡夫に譬え、火宅で遊び回っていたいるのは、苦悩の多いこの娑婆世界で生きていることを指し、長者は仏で誘い出す大きな牛車とは声聞・縁覚・菩薩の三乗を指すそうです。

そして出てきた子供達に与えた大白牛車は仏乗(成仏)と言うのです。

開三顕一(声聞・縁覚・菩薩の三乗を得る目的は仏乗―成仏にある)という法門を示す比喩であると言いますが、この説話で巧みなのは、この娑婆世界を火宅と比喩したという所でしょう。

この世界には様々な苦悩が渦巻いています。物欲・色欲・無色欲。この様々な欲から物事に執着が生まれ、そこに苦悩が生じてくる。

だから小乗の教えでは、そんな欲(煩悩)を否定して、灰身滅智の先に成仏する事を目指したんだと僕は教えられて来ました。そして日蓮仏法とは「煩悩即菩提」と云い、その煩悩を薪の様に燃やして行きながら、それをエネルギーとして菩提(覚り)を目指すのであり、欲望は否定しないとも聞きました。

まあ仏教の真偽は一先ず置いておいて、今の世界は本当に欲望が渦巻き、そこに様々な策謀があって、人間社会は蠢いてます。

世の中の多くの問題の根底にはこの「欲望」があって、人々はこの欲望に日々焼かれていると言っても過言ではありません。

創価学会が東京都議会議員選挙に必死に動けるのも、また無条件に公明党の票をかき集めるのも、根底にはこの「欲望」があるからですね。

んな事いうと、活動家は云うでしょう。
「我々には池田先生が指し示してくれた、世界広宣流布という目的がある、お前にはそれが理解できないのか?」

いやいや、でもその根底には「欲」があるじゃあないですか。「宿命転換」「人間革命」「境涯革命」「絶対的幸福』。
それらも云わば「欲望」に変わりありません。ある意味で創価学会とは欲望を肯定しながら、それを昇華する事ではなく、会員の欲望をうまく組織権益に利用する仕組みを構築しているわけです。

この世界は確かに欲望が渦巻き、僕を含めてその欲望に踊らされているというのが、現実ですよね。

大事な事は、その踊らされているという認識を持つことであり、その根底にある自分自身の欲望。これには物欲(即物的な欲求)、色欲(肉体的な欲求)、無色欲(精神的な欲求)があるという事を理解すべき事ですよね。

これら欲求とは生きるためには必要な事ですから、それらを切り離すということは、生きることを止める事にも通じてしまうの思います。

だから本当はこの欲求という自身の中にある動きを理解する事で、そこからその自分の中にあるものと如何に付き合うべきなのか。そこが「煩悩即菩提」の始まる立ち位置であり、単にそれらを無条件に肯定する事ではないと思ったりします。

創価学会の様に無条件に肯定するから、その会員達は信濃町界隈にコントロールされ易くなってますから。

そしてこれは何も創価学会に限ったことではなく、この日本社会や、延いては人類社会の仕組みその物も、その構造になってませんか?

果たして人々は火宅から抜け出せるのか、いやいや、そもそも火宅に居ることを認識出来る様になるんですかね?

そんな事を考えています。

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